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第一章 大蔵省の支配構造
専修大学経済学部望月宏研究室
第一節 大蔵省の誕生


日本の国家財政を一手に握り、「官庁の中の官庁」として君臨し続ける大蔵省。

その大蔵省が、財政・金融を担当する中央行政機関として創立されたのは明治二(1869)年七月八日のことだ。

昭和四十四(1969)年で百周年を迎えたわけだから、九十七年で満百二十八歳ということになる。

明治維新で生まれた大蔵省は西南の役、日清・日露の両戦争、さらには第1次、第2次の大戦をも凌ぎきり、明治、大正、昭和、平成という四代にわたり日本の財政を手中にしてきた。

余談だが、「大蔵省」という言葉は日本書紀に出てくる。

「朱鳥元年正月十四日・酉の刻、難波の大蔵省失火」という文書である。

朱鳥元年は西暦でいう六八六年である。

ついでながら「大蔵」とは、税として納められたコメの蔵のことで、当時は神に捧げる「斎蔵」、朝廷に納める「内蔵」と並んだ三蔵のひとつである。

いずれにせよ、税たるコメを取り立てる役が主税であり、主計がそれを分配するという機能組織体であることには変わりはない。

大蔵官僚の言う「健全財政」の信念のルーツは、実に千三百年も前に遡るというわけである。

むろん、財政とはたんなる経済政策上の技術的な行政ではなく、時の政府と結びついた「政治」との表裏一体を成していたのだ。

だが大蔵省が絶大な権力を持っていたがゆえに、時の政府と多くのドラマを演じることになり、大戦中には軍部の予算拡大に抵抗したこともある。

しかし結果的には独走を許し、戦時財政に協力して敗戦を迎えたのである。

しかしながら、大蔵省は、敗戦によってその力を失うことはなく、当時、大蔵省を凌ぐ権力を誇っていた内務省、軍部がGHQによって分割・大幅解体されたのに対して、大蔵省は間接統治実施のための「官僚機構温存策」に救われ、敗戦を無傷でしのいだのである。

他方、国家財政を握る主計局の権限については、その分散・縮小を狙って、政治的に多くのアプローチも行われ、戦前は廣田弘毅内閣の時に、軍部が主計局をたんなる事務処理機関とすべく図ったこともあるし、戦後の鳩山一郎内閣時には、党人派の河野一郎行政管理庁長官が「内閣予算局構想」をブチ上げて権限縮小を主張したこともある。

しかしながら、いずれにせよ主計局の地位を脅かすにはいたっておらず、保守本流と直結した官僚機構体制の姿を、ここに垣間見ることができる。

以来、「官庁の中の官庁」としての地位は、現在にいたってもいささかもかわることはないのである。

第二節 主計軍団の超パワー

大蔵官僚が、“官僚の中の官僚”として、日本の官僚機構の頂点に立っていることは、彼ら自身が自らを「われら富士山、ほかは並びの山」と称していることからもよくわかる。

政府行政機関のひとつの省にすぎない大蔵省が、なぜこれほどまでに他を圧倒する権力を持ちうるのか。

それはいうまでもなく、日本の国家予算のすべてを、超エリート軍団といわれる大蔵省の主計局が、一手に握っているからである。

つまり、主計官僚の持つ「予算編成権」こそは国家支配の最大の武器ということである。

政治というものが、つきつめれば“金の分配”にかかっているとするならば、大蔵省は機構的にその最大の権力を持っている省ということだ。

したがって、大蔵省から主計局をとってしまえば、ただの“金庫番”にすぎなくなり、官庁としての権限は下落する。

主計官僚たちもトップにいることを認めているため、省内にあっては「主計官僚にあらずんば大蔵官僚にあらず」と、その“富士山”の頂上部分に位置していることをはばからない。

その事実を示す象徴的な数字がある。

国家財源を牛耳る主計局の首領である主計局長は、他の局長よりも給料が厚遇されているのである。

他の「一般局長」が国家公務員指定職七号棒(平成七年度で棒給月額九十九万二千円)であるのに対し、主計局長だけは同九号棒(同百十五万千円)と“次官級ポスト”といわれる財務官と同額だ。

他省庁をみわたしても、九号棒になりうる局長ポストは総務庁の人事局長だけ。

それも年次の関係で実際には八号棒にとどめられているので、事実上は主計局長のみが“九号棒局長”である。

まさに全省庁を通じての最重要局長であり富士山といえよう。

また、霞ヶ関にいきるエリート官僚達のサークルは、軍隊以上に階級と年次がおもんじられる世界であり、その原則は省庁という枠をこえて貫徹されるが、こと大蔵省、とりわけ主計局と他省庁との関係にあっては、この原則は全く通用しない。

いうまでもなく、主計局が予算編成権という各省庁の生殺与奪の権を握っているからである。

予算折衝においては、課長補佐クラスである主査は各省庁課長と、課長クラスである主計官は各省庁次官を相手にする。

それぞれ、一または二階級上の相手であり、相手をするといっても、もちろん対等ではない。

なぜならば、主計局は査定官庁であり、他省庁は要求官庁であり、要求-査定という関係にあっては、査定する側が圧倒的に強いことはいうまでもない。

主計官僚達が予算折衝において他省庁の先任官僚たちを相手にし、なおかつ圧倒的に優越的な立場に立つ時、彼らは「われら富士山、ほかは並びの山」という意識を体で実感する。

主計局内では「昔陸軍、いま主計局」ともいう。

戦前、戦中は陸軍が強大な軍事力と統帥権の独立によって日本を事実上支配したように、現在は主計局が予算編成権、査定権を行使して、日本の国家全体をコントロールするというのだ。.

現主計局長は、次期の次官といわれる小村 武(昭和三十八年入省・東大法)以下、総勢三百五十名の職員が、日本国家の総予算を編成するために、あたかも軍団組織のように配置

されているのが、主計局の特徴である。

彼らの“敵”は、圧力団体・国会議員をバックに持つ各省庁であり、予算査定合戦は、各省庁の概算要求が締め切られる八月三十一日の翌日から、その火ぶたが切って落とされる。

九月一日、この日をもって、大蔵省と他官庁の血みどろの“予算合戦”が始まるのだが毎年、他官庁の計上する予算は大蔵官僚によって、ことごとくブッタ斬られてしまう。

なぜ、いつも大蔵省の一方的勝利に終わるのか。

“主計軍団”といわれるその布陣ぶりを見ながら、それを探っていきたいと思う。

第三節 三個師団・九連隊

主計軍団の総大将は主計局長であり、その下に師団長格にあたる局次長が三名存在する。

筆頭次長が溝口 善兵衛(昭和四十三年入省・東大経)、次席次長が林 正和(昭和四十三年入省・東大法)、末席次長が細川興一(昭和四十五年入省・東大法)である。

いずれも各年次のエースであり、将来の主計局長、次官候補だ。

ちなみに、一昨年、東京協和・安全の二つの信用組合による不正融資事件に関わった中島義雄は、元主計局次長にまで上りつめ、将来の次官候補だっただけに、本人にすればさぞかし悔やまれたにちがいない。

大蔵省は、大臣官房、主計、主税、関税、理財、証券、銀行、国際金融と一官房七局からなるが、局次長が三名もいるのはこの主計局だけで、理財には二名、国際金融には一名いるが、他の局では次長というポストすらない。

これだけでも、主計局が大蔵省の大黒柱であることがわかる。

この三名の師団長の下で、連隊長として最前線の“敵”と戦うのが九名の主計官であり、いわば、主計軍団の実戦部隊は三個師団九連隊で組織されているとみてよい。

不世出の軍事的天才ナポレオンが、フランス革命やナポレオン戦争の過程で「発明」した師団という単位が、それ自体で完結した戦闘単位であるように、主計軍団の各師団もまた、事実上独立した戦闘集団といえる。

もっと極端に言えば、日本国民一億二千万人が納めた税金、つまり日本の国家予算は、たった九名の主計官によって動かされているのである。

九名の主計官は各係に分かれており、総理府・司法・警察、防衛、地方財政・補助金・大蔵・外務・経済協力・通産、文部・科学技術・文化、厚生・労働、農林水産、運輸・郵政、建設・公共事業の各係だ。

各係の名称を見れば分かるように、各主計官はおおむね一または二省庁を担当しており、このうち総理府・司法・警察担当は皇室をはじめとして国会、内閣官房、総理府本府、同外局のうち防衛庁・科学技術庁をのぞく各庁、裁判所、法務省・検察庁、警視庁と、カバーする範囲は極めて広いが、予算額そのものは少なく、関わる問題もそれほど複雑ではない。

重みのある主計官ポストは建設・公共事業、厚生・労働といわれる。

建設・公共事業係は、多額の公共事業費をかかえ、建設省だけでなく公共事業関連官庁や地方自治体に強い影響力を発揮できるからだ。

厚生・労働係は、一般歳出の中では最大の二十兆円余の社会保障費を担当しており、来るべき高齢化社会に向けて、職務内容はますます重要になってくる。

農林水産係は額としてはそれほどでもないが、国家の食料政策全般にかかわり、チェックすべき項目が多く、重要なポストとされる。

つまり、政治家との接触が強い部門の担当官こそが、仕事も難しいだけに認められる率も高いのだ。

事実、歴代の事務次官は主査・主計官時代に、公共事業、農水、厚生といった担当官を歩いている者が多い。

第四節 参謀本部・主計局総務課

強大なパワーを誇る主計軍団の三個師団は、予算編成作業という戦闘の第一線に立つ。

どのような軍隊にも前線部隊(ライン)とともに、それを背後、側面から支える参謀本部(スタッフ)があるように、主計軍団にも参謀本部が存在する。

それが総務、司計、法規、給与、共済、調査の六課である。

さらに、予算の現場ではなく参謀本部を担当する主計官が三名いて、うち二人は総務課に、一人は法規課に属している。

総務課は参謀本部の中枢であり、主計官僚たちが参謀本部とよぶ時は総務課だけをさす場合が多い。

国の予算を総括し、財政政策一般に関する事務をつかさどり、総務課長は主計軍団の参謀長である。

そして、参謀本部の二人の主計官のうち企画担当主計官は、財政投融資も含めた国の予算全体の枠組み、性格ずけを企画する作戦本部であり、したがって、企各担当主計官は、ライン九人、スタッフ三人、計十二人の主計官の中で最重要ポストといえる。

前線の主計官を経験してから企画担当主計官をつとめ、総務課長に昇進するのが主計官僚のエリートコースだ。

もう一人の予算総括担当主計官は予算現場の主計官単位でまとまった予算をまとめ、つみあげる作業をおこなう。

かつての、ノンキャリアの星、故石井 直一印刷局長がつとめたポストであり、現在もノンキャリアがつとめている。

司計課は大蔵省組織令によると、実に十八もの所掌事務があるが、最大の仕事は国の決算を総括することだ。

かつてはキャリアのポストであったが、現在はノンキャリアの主計局での最高位ポストであり、ここを最後に、東北、四国などの地方財務局長に栄転する例が多い。

法規課は財政、会計に関する制度の調査、企画、立案をおこない、各省庁が国会に提出する予算関連法案をチェックし、財政法や会計法の解釈、運用も仕事だ。

法規課担当の主計官は、かつてはノンキャリアがつとめたこともあったが、現在はキャリアである。

給与課は国の予算のうち給与に関する部分を総括し、共済課はその名の通り、国家公務員等の共済組合に関する制度の調査、企画、立案を行い、国家公務員等共済組合連合会などを監督する。

調査課は内外の財政制度や運営に関する調査を行い、財政に関する統計を作成、分析して、長期的な財政運営の見通しなどもたてる。

このほか、参謀本部には主計官と主査の中間に位置する主計企画官が2人いて、それぞれ財政計画と調整を担当している。

第五節 団結の秘密・「七夕会」

さらに、前述した主計局の総務課長には、重大な任務がある。

大蔵省は他官庁と比べて“大蔵一家”と呼ばれるように、その団結力には盤石の強さを発揮する。

中でも大蔵省の中枢である主計局は、より強い連帯意識で結ばれた局であり、その団結力の秘密は、キャリアの主計官僚の多くが将来の幹部候補生ということもあるが、その彼らを支えるノンキャリア組の再就職先(天下り先)を、それこそ「死ぬまで」面倒を見てやるという“一家の掟”があるからだ。

その連隊組織が「七夕会」というOB会である。

会員はノンキャリアの退職者と総務課長経験者のみで、主催者は現役の総務課長である。

この「七夕会」を作った発起人は、戦前二度の大蔵大臣をつとめ、戦後においても“大蔵省の主”として力を持っていた故・賀屋興宣。

その賀屋が、予算編成で一番苦労しているのは、キャリアの主計官や主査よりも、その下で日夜地道に働いているノンキャリアの職員たちだ、と発言したことで組織された。

主計局職員たちのモーレツな仕事ぶりは後ほどの章で詳述するが、予算編成時の仕事は驚異に値する。

山積された資料と数字との闘いから、ノイローゼ気味になる職員もあらわれ、大蔵原案が提示される十二月中旬、“ホテル大蔵”と自嘲をこめて呼ばれる仮眠室に連日泊り、平均、三、四時間の睡眠でがんばる。

しかし、ノンキャリアはいくら働いても、キャリアのように大蔵省の幹部になることはなく、多くは課長補佐以下で退官していく。

そんな彼らを慰労するために生まれたのが、このOB会なのである。

第一回のOB会が開かれたのが昭和二十七年七月七日。

ちょうど七夕の日であったことから、発起人の賀屋が「七夕会」となずけた。

全体に一家意識の強い大蔵省でも、普通は定年退職後、七、八年ぐらいまでしか再就職の世話はしないのだが、主計局の場合は死ぬまではもちろん、死んだ後の葬式まで面倒を見てくれるのである。

そのため、「七夕会」はたいてい、一ツ橋にある旧大蔵大臣公邸か、三田にある大蔵省所有の三田会議場で催されるが、毎回、会員の八割以上が集まるらしい。

会では、歴代の大蔵事務次官、主計局長、また、現役の次官、主計局長も出席し、ノンキャリアの労をねぎらう。

これほどの面倒見のよさがあれば、“主計軍団”の強固な忠誠心が生まれるのも当然というべきであろう。

また、そうでなければ、たった四ヶ月間で日本の国家予算を編成することなど出来ない。かくして三十余年の歳月を、主計局のために献じたノンキャリアたちは、「七夕会」の会員となり、退職後の人生を主として公団や公庫の経理部門に“天下り”していくのである。受け皿としての公団公社側も“財布のヒモ”がついてくるとなれば、ポストを用意しないわけにはいかない。

これこそ主計軍団のパワーエネルギーなのである。

第六節 花の主計官僚

ここで少し、前述した最前線部隊の“花の主計官”と呼ばれる主計官についてふれてお

こう。

主計官は、職制でいえば課長職に相当し、彼らの下には部隊長というべき、数人の主計官補佐がついている。

主計官補佐は各省庁の予算査定権をもつ「主査」と、そうでない課長補佐とにわかれ、主査はほとんどがキャリアであり、将来の幹部候補生。

ただの課長補佐は全員がノンキャリアである。

主査の年齢は主計官より十歳ほど若く、三十五歳前後だが、ノンキャリアの場合はこのかぎりではない。

特筆すべきは、常に大蔵省のベストメンバーで組織され、現在十二名の主計官がいるが、その学歴を調べていくと、総務課の児島広喜、総理府・司法・警察担当の松川 忠晴を除いて、全員が、東大(法九名、経一名)出身者なのである。

ちなみに、児島はノンキャリアで、香川商業短大卒、松川は京大・法卒。

もともと、大蔵省に入ってくるのが、東大法卒の数が多いのも事実だが、そのなかでも主計局というところは、大蔵省の中枢部門にあたるところなので、新人採用の段階から“超エリート”しか配属されないようになっている。

毎年、二十数名の新採用のうち、主計局に入ってくるのは三、四名、彼らは東大法のトップ組か、国家一種の最上位の連中ばかりであり、最初から、将来の次官、局長候補が入ってくるので、さらに超エリート集団になるのである。

また、主計局というところは超人的な能力を問われるところであって、例えば、一人の主計官が九月から十二月までに目を通す関係書類は、積み上げると自分の背よりも高くなり、これを読むだけではなく、解釈も加えて理論武装するため、徹夜の連続となり体力も要求される。

このため、主計官僚は常にベストメンバーで組織されるのである。

今度、日銀総裁に就任した松下 康雄(元主計局長・元大蔵次官)は、主査時代から将来の次官と呼ばれた逸材であった。

主査といえば三十代の半ば頃であり、その当時から二十年後が予測されたのである。

とくに、この主計局長のポストは、次期事務次官になる人物が就任するといわれていて、それはこれまでの大蔵省人事を見ても明らかだ。

戦後、主計局長の椅子に就いた者で、そこから次官にならなかったのはたったの二名しかいない。

だが、この二名も主計局長で退官した元総理の福田 赳夫と、橋口 収(現広島銀行相談役)だけである。

しかも、その橋口ですら、当時の“角福代理戦争”にまき込まれ、田中系だった高木文雄(現日本興業銀行監査役)に次官の席を譲った、政争の被害者だったと見られている。

そのためか、橋口は、大蔵省の次官レースでは敗れたが、当時創設された国土庁の初代事務次官に横すべりしている。

主計局長というポストは、いずれにしても“事務次官”前の最重要ポストであることにはかわらない。

要するに、日本の国家財政を牛耳る彼ら主計官僚は、機構そのものが強大な権力を持っていることもあるが、官僚社会に入ってきた時から“超エリート”が集められ、最高の実力集団組織を形成することによって、名実ともに日本の支配権力を一手に握ることになるのである。


福田首相、北京五輪開会式に出席表明
朝日新聞2008年7月6日


福田首相は6日の日米首脳会談後の共同記者会見で、8月8日の北京五輪開会式に出席する意向を正式に表明した。チベット問題をうけ、日本国内では出席に異論もあったが、首相は「五輪にあまり政治を絡める必要はない。問題があっても、中国は改善の努力をしている」と語った。

 首相は正式表明が今になったことについて、開会式翌日にある長崎の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に出席できるメドがたったため、と説明した。

 すでに五輪開会式への出席を明らかにしているブッシュ大統領は「開会式に出席しなければ中国国民は侮辱と受け止め、中国指導部との率直な対話も難しくなる」と理由を語った。

 中国国営新華社通信は6日、福田首相の北京五輪開会式出席を速報した。6日夜の中国中央テレビのニュース番組も、記者会見の映像つきで福田首相の正式表明を報じた。


サルコジ大統領、北京五輪開会式に出席 仏紙報道
朝日新聞 2008年7月4日


フランスのサルコジ大統領が8月8日の北京五輪開会式への出席を決めたと、4日発売の仏ルモンド紙が報じた。サルコジ氏が出席の条件としていた「チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世側と中国との対話再開」が実現したことなどが理由としている。欧州の首脳ではブラウン英首相、メルケル独首相らが不参加を表明しているが、同紙は「外交担当者が欧州各国を回り、サルコジ氏出席への反対がないことを確認した」と伝えた。


日本的倫理構造
現代倫理学概説


簡単に言えば、日本人の倫理観は、その根底において、社会的、共同体的帰属意識のもとで人間関係がうまく確立されることを志向することによって形成されてきており、善悪の倫理基準が「共同体内における他者との調和」であるということ以外に体系化されたり普遍化されたりすることがなかったと言えるのです。

それは、その倫理基準の前提となっている属している共同体が異なれば、その倫理観も異なるのですから、その構造上、普遍化することが本質的にできないのです。

そのためにまた、同じ社会の中でも、「武家倫理」、「商人倫理」、「職人倫理」、「農民倫理」などの属している身分や職業によって異なった倫理観が各々に生み出されたのです。

 こうした倫理観は、今日では、会社組織の維持発展を第一の命題にして多くの犠牲を強いてきた日本の産業社会の倫理観に直結し、個人の存在はただその共同体としての組織の利益のためだけに意義あるものとされたり、各々の都合と状況に応じて善悪の価値基準をくるくると変えていくような倫理的ご都合主義が、何のためらいもなく声高に主張されたりして、悪く働けば、抑圧、差別、いじめなどを生み出してしまいがちになります。

日本において、いまだに、各個人の差異を認め、それを受容していくような成人した個人主義が十分に発達しなかった理由の一端がここにあるのです。


日清戦争

<関係年表> 1860        ロシア、沿海州を領有
  71(明治4)  ロシア、イリ地方をめぐり清と紛争(~81年)
  75(明治8)  江華島事件
  76(明治9)  江華条約(朝鮮を独立国として承認、清との宗属関係を否認)
  82(明治15) 朝鮮で壬午事変
  84(明治17) 朝鮮で甲申事変。清仏戦争。
  85(明治18)④天津条約(日清は将来朝鮮へ出兵するに際し、相互に事前報告することを取り決める)              英、露を牽制、巨文島を占領(~87年)
  89(明治22)②大日本帝国憲法発布
  90(明治23)⑪第1回帝国議会
  91(明治24)露、シベリア鉄道を起工(12年計画)。露仏同盟。
  93(明治26)⑦外相陸奥宗光による条約改正交渉(対英)開始。
  94(明治27)③~⑤東学党の乱 ⑥韓国政府、清に出兵求める            ⑦日英通商航海条約(治外法権撤廃)。豊島沖海戦。 ⑧日清戦争宣戦布告            ⑨黄海海戦 ⑪旅順占領
  95(明治28)②威海衛占領。清の北洋艦隊降伏。 ③清の講和全権李鴻章来日。④下関条約。三国干渉。


日本とフランスは一貫して共謀関係にある。日本の朝鮮半島進出を側面から支援すべくフランスはベトナムを攻撃し、清軍をおびき寄せた。だが清軍は、ベトナムを諦め朝鮮半島に軍を送った。日本のもくろみは頓挫した。

この経緯は、終戦後のインドシナ戦争朝鮮戦争の経緯と日本のもくろみ、フランスの対応に酷似する。この両国は、今でも反米・反英の共通利害で共謀関係にある。うんざりするほどだ。特にフランスは、故意に北ベトナムに敗北し、米国に戦争をバトンタッチする。その一方で、大統領のド・ゴールは米国非難を繰り返した。自国の不始末の尻拭いを米国にさせ、感謝するどころか、平気で困ることばかりする。

第二次大戦では、ドイツに早々降伏し枢軸国に味方しながら、ナチス・ドイツが敗北すると、米国のおかげで救われたことを忘れ、国連の場では戦勝国として常任理事国になり、事あるごとに米国を困らせた。

今日の国連の腐敗と世界の資本主義の行き詰まりは、もっぱらこのフランスと日本に責任があると言ってもいいほどだ。この両国は100年前の植民地時代の国際関係から抜け出ていない。

ちなみに、フランスの軍隊は外国人部隊の傭兵が主流で、しかも、ナポレオン以降フランスは戦争でこれと言った勝利を飾ったことがない。インドシナ戦争でディエンビエンフーが陥落した時、戦場にはナチス・ドイツの軍歌が鳴り響いていた。フランスはベトナムで邪魔になったドイツ兵を処理したのかもしれない。それほど状況が気味悪い。フランスの軍人の士気の低さは、過去のユダヤ人による軍人追及(ドレフュス事件)が原因だと言われる。


イギリスのユダヤ人
マーカス・サミュエルと日本

~ 「ロイヤル・ダッチ・シェル」誕生秘話 ~


イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といって、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業システムにうまく合わなかったからである。

この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいということだった。

この息子は、1871年、18歳でロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。彼は、懐(ふところ)に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。

彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。

やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。

サミュエルは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。

ところで、この時代、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。貝がらの商売で大成功をおさめたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネシアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てることができた。

当時のインドネシアは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗くなってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先はどこか他に求めなければならなかった。そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。この商売もまた非常に成功した。

石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやがったし、運賃がべらぼうに高かった。そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした。そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。

※ サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。(「ミュレックス」は「アッキ貝」の意)。

彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。彼自身、このことについては、次のように書き残している。「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた

1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。

ところで、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったからである。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。

サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。

サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。」

その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。

※ 現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。


EU・リスボン条約を否決=アイルランド国民投票で反対多数
時事通信社 2008/06/14-01:34


【ダブリン13日時事】欧州連合(EU)の新たな基本条約となる「リスボン条約」批准の是非を問うアイルランドの国民投票(12日実施)の開票作業が13日行われ、反対多数で否決された。公式最終結果によると、反対53.4%に対し、賛成は46.6%。投票率は53.1%だった。アハーン司法相は「結果に失望している」と述べた。

 条約発効には27の全加盟国の批准が必要で、目標としていた2009年1月発効は事実上不可能となった。EUは、フランスやオランダが「欧州憲法条約」を否決した3年前と同様、大きな戦略転換を迫られることになる。

 EU議長国スロベニアのヤンシャ首相はリスボン条約が否決されたことについて、「深い遺憾の意」を表明した。


医科大学や医学部の裏口入学は存在するの?
医者になる方法


医科大学や医学部への入試と聞いて、連想させられるものの一つに「裏口入学」の存在があります。かつては奈良県立医科大学の大規模な裏口入学発覚の事件がありましたよね。今でも「謝礼の相場は平均で3000万円」だの「○×大学は7割が裏口入学だ」だの、きな臭い噂は絶えませんね。本当に裏口入学は実在するのでしょうか?

公には公表されていませんが、各種取材記事などを総合すると、現在でもかなりの数の医科大学・医学部で裏口入学が存在すると見られています。

倍率は高いのに一次試験でほとんどの学生が通っているような学校・学部は、裏口入学が行われている可能性があります。二次試験を面接試験にしておけば、合否の理由をどうとでも言い訳できるからです。また特定の学校(あまり学力が高くない)から多くの入学者を出している医学部などは、学校側にパイプ役となる教師がいて、裏口入学を斡旋しているという噂もよく聞かれます。

また2世医者(親も息子も医者)というのが多いのも、父親の姿に憧れたのではなく、親が医者だと裕福だから裏金を用意できる、という理由の方が大きいとも言われます。

残念ながら、医師の世界は極めてカネに汚く、日本の医療現場は「人助けの精神」よりも「どれだけカネがあるか」によって支配されています。大ヒットドラマ『白い巨塔』で描かれていた、医学界のドロドロしたカネと権力の構図は、実話の世界なのです。

厚生族議員によって医師の裏側は守られている・・・

そしてこのような汚いシステムが浄化されることも、当分はありません。政治家の中に「医療族議員(厚生族議員)」がはびこっている以上、医師界に改革のメスが入ることはありえないのです。今後も、カネに汚い医師と政治家によって、裏口入学をはじめとする裏金の世界が蔓延し続けることでしょう・・・。

何だか夢も希望も無い事を言ってしまいましたが、これが医者の世界の現実です。しかし勿論「Drコトー」のような、人助けだけを考えた正義感あふれる医者も世の中には沢山おられます。このページを読んでくださった皆さんは、決して裏口入学などに手を染めることの無いよう、正々堂々と己の学力で「正しい医師」を目指してください。


「宴会サミット」のぜいたく批判続く・英国紙
NIKKEI NET 2000/7/23


【ロンドン23日共同】英国の各紙は、主要国首脳会議(沖縄サミット)の成果についてはほとんど無視し、総費用5億ポンド(約800億円)といわれる「宴会サミット」のぜいたくぶりを辛らつに批判する報道が中心。  22日の各紙報道に続き、23日付のサンデータイムズも社説で「カニやキャビアを最高級ワインで楽しんだ」首脳たちが、債務軽減問題を真剣に考えなければ「何100万という人々が国内での圧制と外国の無理解に苦しみ続けるだろう」と論じた。

 各紙は、ブレア首相が求めた重債務貧困国に対する債務軽減の促進に、サミットが合意しなかったことも集中的に取り上げ「ブレアの訴えは無視された」(デーリー・テレグラフ紙)などと伝えた。

 日曜紙オブザーバーは、太った相撲取りと、債務という重りに鎖でつながれたやせた黒人がしこを踏んでいる漫画を掲載。十分な資金と力を持つ日本が、アフリカ諸国などの債務軽減に消極的なことを印象づけようとしている。


杉原千畝
ウィキペディア


なぜ私がこんなことをしたのか知りたいのでしょう? そうですね、実際に難民が目に大粒の涙をうかべて懇願してくるのを実際に見れば、誰でも憐れみを感じるでしょう。それは同情せずにはおれないようなものです。かれら難民の中には、お年寄りや女の人もいるんです。彼らは必死のあまり、私の靴にキスさえしていました。ええ、そういう人を実際にこの目で見ましたよ。それに、当時の日本政府は(この件について)まとまった見解がないように感じていました。軍部はナチスの圧力を恐れていましたし、ほかの内務省の役人は単に態度を決めかねているだけでした。

日本の人々は統一した見解をもっていないようだったので、彼らとやりあうのは馬鹿らしいと思いました。それで、彼らの返事を待たずに事を進めることに決めたんです。あとで確実に誰かから叱られるだろうとは思っていましたが、自分ではこれが正しいことだろうと思いました。人々の命を救うのに悪い事は何もないはずですからね…。それは人間愛、慈愛、そして隣人愛といったようなものです。こういったものにより私はこの最も困難な状況にあって、自分のしたことを思い切ったわけです。そしてこうした理由により、私はさらに勇気づけられて先へ進みました。

(コメント)これは杉原氏が人生の最後に語った言葉で、話した内容は真実だと思う。これが外交官の本音を話す最大の努力の結果の表現だった。日本の官僚は死ぬまで官僚なのだ。これを「立派」と言うのか。


首相、夏休みに歌舞伎満喫 元禄忠臣蔵で涙も
共同通信 2004/08/16


「いつ見ても(忠臣蔵には)泣かされるね」。小泉純一郎首相は16日、東京・銀座の歌舞伎座で、「元禄忠臣蔵」の中で最も人気があるとされる「御浜御殿綱豊卿(おはまごてんつなとよきょう)」などを鑑賞し、夏休みを満喫した。  「綱豊卿」は、主君のあだ討ちを期す赤穂浪士の1人と、将軍徳川綱吉のおいの綱豊(後の第六代将軍家宣)が腹の探り合いをする筋書き。宿敵・吉良上野介を不意打ちしようとした浪士を綱豊がいさめるクライマックスのシーンで首相は涙をこぼしながら盛んに拍手。観劇後も記者団に「良かっただろ」とほおを紅潮させ、興奮冷めやらない様子だった。  夏休み前に「頭を空っぽにしたい」と語っていた首相。最近はアテネ五輪や高校野球のテレビ観戦も楽しんでいるという。9月に迫る郵政民営化案の取りまとめや内閣改造といった「大仕事」の前に、まずはリラックスして英気を養っているようだ。


生をつぐこと
『世界思想:特集<生と永遠>』(2003年春、 30号)


鶴見俊輔の人的ネットワークをたどっていると、たくさんの興味ぶかい人物に出会う。社会科学で出会う人物の「生」はいつも時代と社会の限界のなかにあるから、そこに「永遠」という哲学的テーマを発見することはむつかしいけれど、時代と社会のなかにあるからこそ、かえってつがれていく生というものもある。興味ぶかく思う人物のひとりに、東郷(本城)文彦がいる。かれの義父は東郷茂徳、息子は東郷和彦。この親子三代はともに外交官だった。

 鶴見はハーバード大学で、外務省から派遣された留学生本城文彦に出会う。やがてかれらは下宿をともにし、ボストンの日本人学生会では本城が会長、鶴見が書記をつとめる間柄になる。しかし、かれらの留学生活は日米開戦でおわった。ともに昭和十七年に帰国するのだが、本城が東郷茂徳とはじめて出会うのは、八月二十二日、当時外相だった東郷茂徳が帰国邦人をねぎらうために外相官邸で催したパーティの席上だった。

 およそ官僚組織においては、上司は愛する娘を優秀な部下に嫁がせようとするものであり、この伝統は武家社会から変わらない。東郷茂徳にはドイツ人の夫人エディとの間に生まれた一人娘いせがいたが、どうやら本城は東郷の目にかなう部下であったらしい。こうして昭和十八年、本城文彦は東郷文彦となった。

 しかし、太平洋戦争の開戦時、さらに終戦時にも外相をつとめた東郷茂徳と女婿文彦との間にはもともと奇妙な因縁があった。東郷茂徳の幼いときの姓は、朴という。これは茂徳が、秀吉の朝鮮出兵の際、島津義弘が朝鮮から虜囚として連れかえった(いわば拉致された)人びとの末裔にあたるからである。茂徳の出身地鹿児島県苗代川は、明治の中頃になっても朝鮮の文化と伝統をまもる陶工たちの村だった。他方、文彦の母方(本城家)の祖先は鳥取池田藩の御殿医や家老職につながる家系で、その中には加藤清正旗下の武将として慶長の役に参加した者がいる。四百年の時をへて、侵略者と被侵略者の子孫がこうして交錯することになった(萩原延壽『東郷茂徳:伝説と解説』、原書房、また東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』、文芸春秋)。

 もちろんこれは、いわば因縁話に属するエピソードにすぎない。茂徳と文彦をむすぶものは、なによりも外交官としての仕事である。二十世紀中盤の日本外交史において、この親子ほど困難な情況のなかで仕事をした外交官はなかったかもしれない。

 東郷茂徳が軍部の圧力に抗しながら太平洋戦争を終戦にみちびいた様子は、かれの『時代の一面』(原書房)にくわしい。広島・長崎への原爆投下、あくまで戦争継続をとなえる軍部強硬派、そしてクーデターの動き・・・・、茂徳には暗殺の危険がせまっていた。このとき文彦は外相秘書官として義父をまもるために奔走する。他方、文彦はその十数年後、アメリカ局安全保障課長として日米安保条約改定にかかわり、さらに十年後、北米局長として沖縄返還交渉にかかわることになる(東郷文彦『日米外交三十年』、中公文庫)。これらの交渉を実質的に積み上げていたのは文彦だった。しかしこの外交戦略は六十年安保闘争という戦後最大の社会運動と出会うことになり、この流れはその後のベトナム戦争反対運動、沖縄返還闘争へとうけつがれる。したがって、この親子が外交官として直面し、ともに苦悩したのは、対外交渉というよりもむしろ対内交渉の方だった。

 考えてみれば、外交官の仕事とは、ふたつの矛盾する交渉をやり遂げなければならない仕事である。まず「国益」を第一に考えて外交交渉にのぞむ。しかし、交渉相手もまた「国益」を第一に考えているのだから、合意に達しようとすればどこかに妥協点を見いださなければならない。とはいえ、この妥協点は当初の「国益」からみればかならず譲歩をふくむものであり、したがって外交官は対外交渉の合意点を発見したとたん、この譲歩を国民に納得させるという、新たな交渉をはじめなければならない。この国内交渉は政府内での合意形成、有力政治家との折衝、議会対策から世論形成までさまざまなレベルにおよぶわけだが、しかしこの交渉がどれほど難しいものであるか、それは日露戦争後の日比谷焼き討ち事件以来、さまざまな歴史的事件がしめしているとおりである。「国益」が重大なものであればあるほど、また人びとの関心が高い外交交渉であればあるほど、外交官の仕事にはいつも「軟弱」「追従」「弱腰」という批判がつきまとってきた。まさに、「軟論を主張することこそ難しい」(伊藤博文)。

 しかし、これらの批判に耐えなければ外交官の仕事はつとまらない。茂徳とともに、第二次大戦中の日本外交をになった有田八郎(広田、近衛、平沼、米内各内閣の外相)は、当時聯合通信上海支局長だった松本重治にこう語ったという。

 「外交官というものは自国の大衆を喜ばせ賞賛を得ようなどと考えることは、絶対に禁物である。まあ縁の下の力持と覚悟しておればよい。外交官が自国から賞賛を博すようでは、その交渉の結果に対して、相手国の国民に不満を抱かせることになり、相手方が不満を抱けば、折角の交渉の結果はうまく実行され難い。それでは外交はうまく行かない。だから外交官はかえって自国民から非難され、非難されつつ自己の使命を果たさねばならない割の悪い役を引き受けているのだ。」(松本重治『上海時代』、中央公論) とすれば、文彦が茂徳からついだものは、この「非難されつつ使命を果たす」という「割の悪い役」だったと言えるかもしれない。

 ただ、この「割の悪い役」は時として外交官の生命をうしなわせることにもなる。文彦の息子和彦の場合がそれにあたる。東郷和彦は文彦・いせの双子の次男として昭和二十年に生まれた。東京大学から外務省にはいり、欧亜局ソ連課長、駐ロシア日本大使館公使などを歴任し、一貫してソ連(ロシア)担当の外交官としてキャリアをつんだ。一九九九年には欧亜局長(省庁再編により欧州局長)となり、かれの将来は明るいように見えた。その和彦の躓きの石は、鈴木宗男という政治家との癒着だった。「二島先行返還論」を押し進めようと考えた和彦は、政治家対策・議会対策として「実力者」鈴木に接近する。その経緯については、すでに報道等で明らかになったとおりである。二〇〇二年二月、和彦は赴任わずか八ヶ月でオランダ大使を更迭された。

 この和彦の事件が示すとおり、外交官の仕事はたえず時の政権と不離の関係にあり、したがって政治的視点に立てば、かれらの仕事への評価はさまざまなものが可能になる。じじつ、六〇年代に政治に目覚めた世代にとっては、文彦の対米外交戦略には疑問を感じる点もおおいだろう。しかし、外と内に正反対の交渉相手をもちながら仕事をしなければならない外交官の職業的苦労という点は理解できる。茂徳-文彦-和彦という東郷家三代の歴史が、この困難な生をついで生きた、ということも理解できる。

 ただ、それにしても興味ぶかく思われるのは、外交官という能力主義の職場でこのような血族関係が連続するという事実である。文彦は養子だったからともかくとして、三代も外交官がつづくという事実にはおどろく。しかし、じつはこの国の外交官にはこのような例はきわめておおい。いくつか例をあげてみれば、文彦が生涯もっとも親しくなった外交官有田圭輔は、先にふれた外相有田八郎の息子であるし、文彦と同期に外務省に入省した重光晶は、茂徳の好敵手といわれた外相重光葵の甥である。このような例はいくらでもある。よく知られているところでは、皇太子妃もまた二代目外交官であった。その上、かれらの人間関係は錯綜しており、紙幅の関係からひとつだけ例をあげると、後藤新平の秘書官をつとめた小森雄介は茂徳の親しい郷党であり、したがってその娘澄子はもともと茂徳の娘(文彦の妻)いせの幼友達であったのだが、重光晶夫人となるのがこの小森澄子なのである。

 このようなことが起こるのは、おそらく外交官が生きている世界が特殊な社会空間だからだろう。世界を飛びまわるかれらは、一方で異なる文化と社交関係に開かれながら、他方で自国の社交関係については閉じられた世界を生きざるをえない。東郷いせの伝記(『色無花火』、六興出版)を読むと、そのことがよく伝わってくる。彼女はドイツ語と英語は自由に使いこなしたが、日本語には苦労した。だから、幼友達(駐米大使松平恒雄の次男二郎など)との会話も英語をつかった。しかし逆にこのことが、わずか十四歳のいせが外国の社交界にデビューすることを可能にしたし、また茂徳がいせを小さな外交情報の蒐集につかうことさえ可能にした。

 このような環境で育った外交官の子どもたちは、当然のことながら特殊なハビトゥスを身につけて成長するのだろう。そのハビトゥスはかれらが外交官を志すときには、きわめて有利に働くにちがいない。能力主義の外交官の世界に血族関係がつよく存在している理由のひとつは、おそらくここにある。そしてこのことは、この国の社会のなかに、ぽっかりと遊離して浮かぶ島のような外交官の社会空間が存在していることをしめしてもいる。茂徳-文彦-和彦三代の外交官は、この島のような社会空間のなかで特殊な生をついで生きた人たちだった。その継承作業は「永遠」につながるわけではないけれども、この国の近代化百年のなかで数おおく再生産された「生」のひとつであったことは間違いない。


なぜ、香港を捨ててパリに行ったのか
Electronic Journal 2005年07月01日


 「歌で中国人の心をひとつにしたい」――こう考えるテレサ・テンの希望は、天安門事件によって無残にも踏みにじられることになります。ショックが大き過ぎて、1989年6月24日から予定されていた日本でのキャンペーンは中止せざるをえなくなったのです。しかし、21日に予定されていたテレビ朝日の「郷ひろみ宴ターテイメント」への参加は中止するわけにはいかず、香港からの中継で参加しています。

 そのときテレサ・テンは黒いチャイナドレスに真珠のネックレ スをしていましたが、これは明らかに天安門事件の犠牲者に対する喪装だったと思われます。歌った歌は「香港」――この歌の二番の歌詞「心だけが帰るところはきっとこの街」のところで涙声になり、あとは泣きながら歌っているのです。

 天安門事件のあと、テレサ・テンは香港の自宅を紫一色に塗り変えています。気分の一新ということもあるでしょうが、1997年に香港が中国に返還されると、人民解放軍がやってくることを非常に恐れており、それを防ぐという意味もあっての改装ともいわれています。紫という色は運がついてきて、自分を守ってくれる――これはつねづねテレサ・テンがいっていた言葉です。

 そのため、テレサ・テンの邸宅は「紫の館」と香港の人々にいわれるようになったのです。しかし、テレサ・テンは、内心ひそかに恐れていた1997年の香港返還まで残念ながら生きることはできなかったのです。

 1989年11月20日――テレサ・テンは香港をあとにしてパリに旅立ちます。それは単なる旅ではなく、生活と音楽活動の拠点をパリに移すための決意の旅立ちだったのです。

 彼女はこの突然のパリ行きについては母親にも相談せず、一人で決断しているのです。とりあえずのパリでの生活の拠点は、凱旋門から10分くらいの距離にあるフォブール・サン・トノレ通り230番地の家具付きワンルームだったのです。そして一年後にモンテニュー大通りのアパルトマンを購入しています。本気で長く住むつもりであったことがこれでわかります。

 なぜ、気に入っていた香港での生活を捨てて、パリに移ったのかについて、有田芳生氏はテレサ・テンに何回も尋ねていますが彼女は次のように答えています。
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 政府は全然信用できないですからね。もし、わたしが無視して 自分のいい生活をそのままして(いたら)、多分そのあと大きな 災難(が)来ると思います。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
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 このテレサ・テンのことばを聞くと、やはり彼女はやがて中国政府が自分に対して、何らかの関与をしてくるのではないかと考えていたことがわかります。確かに中国政府から見ると、大陸と台湾の両岸で高い人気を持つ有名な歌手テレサ・テンは、政治的に一番有効に利用できる存在であるからです。

 「香港にいては危ない」――テレサ・テンがそう考えたのは間違いないとしても、それではなぜ、フランスなのでしょうか。テレサ・テンはフランス語がまったく話せないのです。

 有田氏の本を読んでわかったことですが、天安門事件が起こっ た1989年という年は、フランス革命から200周年に当る年なのです。フランス政府は、パスポートや身分証明書を持たない者であっても積極的に中国からの政治亡命者を受け入れる方針を明らかにしていたのです。

 これによって、パリは中国からの政治亡命者を大量に受け入れ「民主中国陣線」(FDC)が結成されたのです。海外から中国の民主化を推進する――それが目的だったのです。

 この組織のリーダーとしては、学生リーダーのウアルカイシやチヤイ・リン(柴玲)、経済学者のイエン・チアー・チー(厳家其)などが就任し、活発に活動を始めたのです。

 テレサ・テンのパリ移住がこのことと無関係であるとは思えないのです。彼女としては、自分もパリに住まいを移し、「民主中国陣線」を何らかのかたちでバックアップしたかったのではないか――そう思われるのです。

 彼らはフランスのマスコミと連携して声明を出したり、「人民日報」の海賊版をFAXで送りつけるなど、さまざまな活動をはじめたのです。実際にパリに居を構えたテレサ・テンは、彼らと食事をしたり、集会に参加したりしてお互いに中国の情報を交換しています。

 さらに具体的にテレサ・テンは「民主化支援コンサート」を開こうと提案しています。「民主中国陣線」では、野外でやるか、劇場でやるかが話し合われ、劇場でやる方がベターであるということになったのです。会場はブローニュの森の北東角にあるパレ・デ・コングレでやろうということになったのです。

 実際にコストが計算され、全部で120万フラン(約2640万円)かかることがわかったのですが、それを支援してくれる新聞社や団体はどこもなかったのです。

 しかし、「お金の心配はいらない」といっていた頼みの綱のテレサ・テンは最終的に「民主中国陣線」のコンサートプランには乗らず、天安門事件に抗議するコンサート構想は幻に終わってしまったのです。

 テレサ・テン自身が話していないので、本当の理由は推測するしかないのですが、次の2つの理由からであると考えられます。
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 1.テレサ・テンは屋外の無料コンサートを考えていたのに、民主中国陣線は劇場で有料開催にこだわったこと
 2.多数の死者が出た事件に対して、歌うという行為で抗議することに最終的に疑問を感じてしまっていたこと
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 民主中国陣線は組織としてうまくいっておらず、資金不足で焦りがあり、そこがテレサ・テンと折り合えなかったのです。

果たせなかった4回目の紅白出場

「民主中国陣線」――テレサ・テンが自分の生活の拠点をパリに移してまで支援しようとしていた団体ですが、時間の経過と共に彼女は次第に彼らと距離をおくようになっていったのです。

 それは「民主中国陣線」内部の度重なる内紛、腐敗などにあるのです。テレサ・テンをはじめ当初は大量に寄せられた資金を無駄なことに費やしたり、持ち逃げする者まで現れ、メンバーは激減してしまったのです。

 それにフランス政府自体が中国寄りの姿勢をとるに及んで、民主中国を実現する運動は一層やりにくくなってきたのも事実なのです。そもそも自らは海外の安全な場所にいて、そこから民主中国を実現する運動をすること自体に無理があったのです。

 まして周りは中国の環境とはまるで違う自由の国フランス――若者の中にはそれに目を奪われ、自分を見失ってしまう者も少なからず出てきたのです。組織が衰退するのは時間の問題だったといえます。そして、こんなことがいわれるようになったのです。
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 共産党は40年かかって腐敗したが、パリの民主化運動組織は  たったの4ヶ月で腐敗してしまった・・・と。
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 どうやらテレサ・テンは、パリに生活の拠点を構えて、資金は日本で稼ぐことによって、民主中国化運動を支える計画を持っていたようです。その時点でのテレサ・テンの音楽活動は、香港や台湾でも年に1回程度しか歌っていないのですが、日本では年に2曲程度の新曲を出しており、CM――金鳥の蚊取り線香/何日君再来、メナード化粧品/あなたと共に生きてゆく――などにも積極的に出るようになっていたのです。しかし、往時の勢いは既になくなっていたのです。

 1993年10月24日――テレサ・テンはフランスを離れて香港に戻ります。そのときパリで出会った14歳年下のステファン・ピュエールなる恋人と一緒だったのです。そして、二度とフランスの自宅に戻ることはなかったのです。

 このステファン・ピュエール――たいした人物ではなく、非常に疑惑の多い男なのです。テレサ・テンはこの人物と出会ってから、急速に運が傾き、生活自体が乱れていったのです。この頃のテレサ・テンはしばしば体調を崩し、かなり痩せていたのです。そして、ステファンとしばしばチェンマイに現れる頃には容貌が一変し、相当老け込んでしまっています。

 有田氏の本によると、テレサ・テンはステファンと何度も別れようとしたようです。本に次の一節があります。テレサ・テンとステファンの関係がよくわかります。
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  香港の自宅でのことだ。ある日の夜中、大喧嘩をした二人が二階から降りてきた。テレサは泣きながら「出ていけ」と叫んだ。ステファンは家を出たが、十分ほどあとでチャイムが鳴った。外は大雨だったので、全身はすぶ濡れだ。その姿を見たテレサはそれ以上怒ることはできなかった。激しい喧嘩が繰り返 されるようになっても別れなかったのは、テレサが優しすぎた からである。   ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
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 この時期になってもテレサ・テンは台湾に戻ると、軍への慰問を無報酬できちんと続けていたのです。台湾政府はこの献身的なテレサ・テンの軍への協力に非常に感謝していたのです。そのため、テレサ・テンスパイ説などが彼女の死後出てくる原因のひとつとなるのです。

 テレサ・テンは寒さに弱いのです。そのため冬になると通常はタイのプーケットで過ごすことが多かったのです。しかし、ここは雨が多く不満を持っており、代わりに見つけたのが北部のチェンマイなのです。

 テレサ・テンが最初にチェンマイを訪れたのは、1994年8月のことです。常用していたホテルは、インペリアル・メービンホテルであり、1995年までに3回利用しています。そして、このチェンマイがテレサ・テンの最後の地になるのです。

 同じ1994年10月23日――テレサ・テンは日本に来ています。24日に仙台市で行われるNHKの「歌謡チャリティコンサート」に出演するためです。その目的は、その年の暮れに行われる紅白歌合戦への出場を確実にするためといわれています。

 ここまでテレサ・テンは、1985年、1986年、1991年と3回の紅白出場を果たしていますが、1994年の紅白にも出場を狙っていたのです。この時点での日本におけるテレサ・テンの人気には陰りが出ており、紅白出場で何とか劣勢を挽回したいと考えていたのです。

 しかし、このときのテレサ・テンの体調は最悪であり、いつもは決してわがままをいわないテレサ・テンは、この来日のときだけは決まっていたスケジュールを大幅に修正させたり、飛行機に乗り遅れたりと、失敗の連続だったようです。後でわかったことですが、テレサ・テンはステファンと大喧嘩して、日本に来ていたのです。終始不機嫌だったのはそれが原因なのです。

 本番でテレサ・テンは「夜来香」と「時の流れに身をまかせ」を歌ったのですが、いつもなら滑らかに出る声に張りはなく、明らかに不調だったのです。そして、今考えると、これがテレサ・テンの日本での最後の歌になってしまったのです。

 この最後の来日のとき、成田空港でラジオ番組用の収録が行われています。このときの声は元気がなく、最後に「日本にまた来たいです。テレサ・テンでした」としめくくっています。

 飛行機の出発時間がきたとき、トーラス・レコードの鈴木章代さんは「身体に気をつけて。香港の空港にはステファンが迎えにきているからね」と呼びかけています。

 これに対してテレサ・テンは、「ありがとう。行ってきます」と言葉を返しています。これがテレサの見納めとなったのです。

テレサ・テン/メービンホテルで客死

1994年12月31日――テレサ・テンはチェンマイのメービン・ホテルにステファンと一緒に宿泊していたのです。結局、この年の紅白歌合戦にテレサ・テンは選ばれなかったのです。

 この日ホテルの中庭には新年のカウントダウン用の会場が設けられており、約300人ほどの宿泊客がカウントダウンを待っていたのです。テレサ・テンとステファンも宿泊客と一緒にカウントダウンを見ていたといいます。

 午前0時に花火が上がり新年が告げられると、ホテルの総支配人がテレサ・テンに一曲歌って欲しいといってきたのです。そこでテレサ・テンが歌ったのは、『梅花(メイフア)』という歌なのです。この『梅花』という歌には台湾の悲しい歴史が秘められているのです。

 1972年2月21日、米大統領ニクソンは訪中して毛沢東主席と会談、カーター政権時代の1979年に米中の間に国交が樹立されたのです。それと同時に米国は台湾との国交を断絶し、台湾は国際的に孤立してしまうのです。

 台湾では意気消沈した国民を励まそうと、いろいろな歌が作られています。そのひとつが『梅花』なのです。この歌は中国でも流行したのですが、中国政府はこの歌を放送禁止処分にしているのです。
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    梅の花、梅の花
    それはこの世に満ち溢れ 寒ければ寒いほど花開く・・・・・・・・・
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 歌い終わると、会場から盛大な拍手と歓声がわきあがったのです。そして、この小さな舞台での歌が、アジアの歌姫テレサ・テンの最後の舞台になったのです。

 実は、テレサ・テンは12月30日の午前9時に喘息の発作を起こし、ホテルに医師を呼んでいます。医師が部屋に入ると、寒いほどエアコンがきいており、部屋にはタバコの煙が充満していたといいます。ステファンはヘビー・スモーカーで冷房を強くするのがつねであったからです。しかし、これは喘息患者には最悪の環境なのです。

 医師は直ちにステファンにタバコをやめさせ、テレサ・テンをチェンマイの市内で一番設備の整っているラム病院に入院させたのです。医師の治療の結果、翌31日の大晦日になると、喘息の発作は収まったので、退院したいと願うテレサ・テンの要望を受け入れて、退院させています。その数時間後にテレサ・テンはホテル側の要請によって『梅花』を歌ったのです。

 いったん香港に帰ったテレサ・テンは4月に再びチェンマイにやってきます。もちろん、ステファンも一緒です。この頃のテレサ・テンの身体の調子は一段と悪化しており、かなり咳が出てとまらない状況だったといいます。このとき、テレサ・テンは、前回発作を起こしたとき診てもらった医師のクリニックを訪ね、診察を受けて薬を調合してもらっているのです。

 1995年5月8日――いつも通りにルームサービスで朝食をとったテレサ・テンは、どこにも出かけず、一日中部屋に閉じこもっていたといいます。しかし、ステファンは夕方になってひとりで外出しているのです。このときは、部屋に閉じこもってほとんど外に出ないテレサ・テンと対照的にステファンはよく外に出かけています。一体何をしに出かけたのでしょうか。

 そのあと、異変が起こったのです。午後5時15分頃になってテレサ・テンは部屋のドアを開け、よろよろと少し歩いたところで突然倒れたのです。これを15階のカウンターの女子従業員が見ており、責任者に通報します。

 テレサ・テンはすぐチェンマイラム病院に運ばれたのですが、道路が渋滞しており、通常であれば10分で着く病院に30分もかかってやっと到着したのです。直ちに緊急治療室に入れられたのですが、テレサ・テンはそのときは既に死亡していたのです。

 病院長による手書きの死亡通知書には、次のように記述されていたのです。
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 1995年5月8日 関係各位殿――テン・リー・ユン夫人は午後5時30分頃、病院到着前に死亡、病院ではすでに心臓停止、瞳孔は開いたままで、脳死の状態であった。一定の時間蘇生措置が試みられたが、生還せず。享年42歳。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
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 そのとき、ステファンは外出中でしたが、彼は非常に不審な行動をとっているのです。

 ステファンはこの日の夕方に外出しています。正確な時刻は不明ですが、テレサ・テンが部屋から出てくる午後5時15分よりも前であることは確かです。

 ステファンがホテルに戻ってきたのは、午後6時30分頃ということです。その時点でテレサ・テンは既に死亡していたのですが、ホテルのマネージャーは本当のことがいえず、ステファンにすぐに病院に行くよう求めたのです。それからステファンは部屋に入り、1時間経過しても出てこなかったのです。

 マネージャーが電話して「危篤ですから、すぐ行くように」と重ねていったのですが、それでも出てこないのです。仕方がないので、マネージャーは部屋を訪ね、すぐに行くよう求め、やっと病院に行かせたのです。そのため、ステファンが病院に着いたのは午後8時を回っていたといいます。午後6時30分から8時過ぎまでの2時間近い空白の時間――ステファンはホテルの部屋で一体何をしていたのでしょうか。

 しかも、ステファンは遺体解剖同意書には「解剖するな」と書き入れています。そして、ホテルに戻ったステファンはテレサの家族と連絡をとったのです。

テレサ・テン/国をあげての盛大な葬儀

テレサ・テンが亡くなってから、彼女の突然死に関連していくつかの疑惑が報道されています。エイズ死亡説、毒殺説、大麻疑惑、スパイ疑惑など・・・です。死因に不審な点があるとされたのは、チェンマイのテレビ局がテレサ・テンの遺体の上半身を無神経にも放送したからです。それを英国のロイター通信社がそれを世界に配信したのです。とくに左の耳の下の赤い斑点があることは大きな話題となったのです。それに関して、ステファンについても数多い疑惑が出ています。

 そのほとんどは根拠のないものであり、改めて取り上げるまでもないことですが、納得できない人も一部いることは確かです。テレサ・テンのテーマはあと2回で終了する予定ですが、残りの2回で、これらの疑惑について述べたいと思います。

ステファンにまつわる大麻疑惑

テレサ・テンの足跡をたどると、ステファンと交際をはじめる前と後とでは大きく運命が変わっていることがわかります。ステファンと会う前は運気が非常に強く、多少の障害があっても跳ね返して伸びる力があったのです。実際にテレサ・テンはステファンに会う時点では世界的な歌手になっていたのです。

 しかし、ステファンと会ってからはしだいに運気が弱くなり、仕事も少なくなっていったのです。持病の喘息もひどくなり、体調は必ずしも万全ではなくなっています。さらに、テレサ・テンにまつわる疑惑というものもこのステファンと無関係ではないのです。

 1990年1月16日――あの勝新太郎が大麻不法所持で逮捕されています。それからしばらく経って、トーラスレコードにとんでもない情報が飛び込んできたのです。「テレサ・テンが大麻を吸っている」というウワサです。

 この件についてトーラスレコードの舟木社長は、即座にパリに飛んでテレサ・テンに会い、その疑惑について聞いています。しかし、テレサ・テンはこれについて「絶対にやっていない」と強く否定しているのです。

 ところが、ステファンには強い疑惑があるのです。それは、テレサ・テンが亡くなった年のチェンマイのメービンホテルにおけるステファンの不審な行動がそれを物語っています。

 テレサ・テンとステファンは、1994年の年末から1995年にかけてチェンマイのメービンホテルに宿泊しています。既に述べたように、そのときのテレサ・テンの体調は思わしくありませんでした。事実、1994年の年末にテレサ・テンは喘息の発作を起こし、チェンマイラム病院に入院しています。

 実はそのときステファンは不思議な行動をとっているのです。1994年8月に2人でチェンマイに行ったとき、テレサ・テンはつねにステファンと行動をともにしており、どちらかが1人で出かけることはなかったのです。

 しかし、1994年の暮れに行ったとき、テレサ・テンはほとんどホテルに閉じこもっていたのに対し、ステファンは夕方になると、1人でよく外に出かけていたのです。  1995年4月にチェンマイに行ったときは、外に出かけるのはステファンだけであり、それも出かけるのは夕方以降に限られていたのです。ステファンは一体何のために、どこに行っていたのでしょうか。

 既出の『テレサ・テンの真実』(徳間書店刊)の著者は、4回にわたりチェンマイに取材をかけ、そのときのステファンの行動を追跡しています。同書によると、ステファンが夜になると行っていたのは、メービンホテルの近くのナイトバザールに店を出す屋台だというのです。この屋台は、30代の女性と20代の小柄な男性がやっていたといいます。

 屋台を見張っていると、外国人のツーリストたちがよくその屋台に立ち寄っており、外国人が何かを話すと小柄な男がバイクでどこかに出かけて、20分ほど経つと戻ってきてタバコのようなものを渡すのを目撃したというのです。

 屋台の男女にステファンの写真を見せると、ステファンが屋台によく来ることは認めたのです。それに彼らは、テレサ・テンも一緒に来たことがあり、青物の野菜炒めをよく食べていたといっています。

 この屋台について同書には、次のように書かれています。
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  あの客に渡したタバコ(?)は、本当は何だったのか。調査を進めた。チェンマイの麻薬捜査局によれば、この屋台は麻薬組織の末端の販売ルートの一つになっており、とくに外国人観光客が利用しているという。屋台には常備しておらず、注文があるとバイク便で指定の時間、場所に届ける。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
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 実はステファンが大麻を吸っていたことをホテル側は知っていたと思われるのです。かつてメービンホテルに勤務していたというスタッフの一人は次のように証言しています。
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 昨年(1994年)15階のルームボーイとして働いていました。テレサさんの部屋のクリーンアップをしながら、ああ、この臭いは大麻だと直感しました。ほかの場所から臭ってきたなんてことはありません。とっても強い臭いですから。
                      ――前掲書より
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 ホテル側はステファンが大麻を吸っていた事実について従業員に厳重に口止めしています。それでいて、従業員に次の命令を出しています。これはテレサ・テンの死亡当日の作業記録です。
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   REMARK (テレサ)の夫の動静を注意して観察すること
                    ――前掲書より
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 これで、ステファンがホテルに戻ってきて、なかなか病院に行かなかった謎が少し解けるのです。それは、部屋にあったと見られる大麻の処分と部屋にこもる大麻の臭いを何とかするため、時間がかかったのではないかと考えられるのです。

 推測ですが、この件に関してはホテル側も関与している疑いがあります。ホテルとしては、テレサ・テンはホテルの部屋で死亡したのではなく、病院への移送中に死亡したことにしたかったのです。それは、警察側の捜査が15階1502室に及ぶのを何としても避けたかったからです。

 それにホテル側はステファンの帰国を助けています。とにかくステファンには一刻も早く、ホテルをチェックアウトしてもらいたかったわけです。

テレサ・テンの死因についての小説

 テレサ・テンにまつわる疑惑のなかで一番大きな疑惑は、やはり、その死因ということになると思います。テレサ・テンの死因は「喘息の悪化による呼吸不全」となっていますが、42歳の若さであり、それがあまりにも突然なことであったために疑惑がふくらんだのです。

 ここに一冊の本があります。発刊されたのは、2004年12月30日です。明らかにテレサ・テンの死後10周年を意識しての発刊と思われます。
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    『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』
     ―いつの日きみ帰る/ある大スターの死-
      平路【著】 池上貞子【訳】 風涛社刊
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 このタイトルを見ると、誰でもこれがテレサ・テンのことを書いていることはわかります。確かに本に書かれていることは、テレサ・テンのことそのものであり、それも彼女の死の原因に絞られているのです。しかし、本のなかには「テレサ・テン」とは一語も書かれていないのです。

 平路(ピン・ルー)は、1953年に台湾の高雄で生まれた女性作家です。父親は山東省出身の外省人であり、境遇はテレサ・テンと似ています。一応この本は「小説」というスタイルをとっています。もう少し正確にいえば、テレサ・テンという大歌手の死を題材とするミステリータッチの小説というべきでしょう。

 しかし、私の読んだ限りでは、小説というかたちをとっているドキュメンタリーという感じです。この本の訳者の池上貞子氏は本書の構成について次のように述べています。
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  本書『何日君再来』は、テレサ・テンの死のなぞについて、彼女についていた監視(スパイ)が、親しい上司へ推測を入れて報告するという設定で、所々に真偽の不確かなテレサ本人の手記と称する文章が入っているという設定だ。これは、男と女の言葉(文章)が入り乱れて放たれているという点では前作の『行道天涯』(邦題『天の涯までも――小説・孫文と宋慶齢』)と同じ手法であり、着眼点も表向きは華やかさや権威に包まれ、スポットライトを浴びた人の、活躍の場を失った後の女性としての孤独や寂しさなどにある。   ――池上貞子氏のあとがき
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 ちなみに「彼女についていた監視(スパイ)」というのは、本を読む限り台湾当局の監視員であるようです。本当にテレサ・テンはこのようにつねに国から監視されていたのでしょうか。

 この本の著者である平路は、その冒頭でテレサ・テンの死には次の3つの疑問点があるといっています。
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  第1の疑問点:フランス人の男のアリバイが疑わしいこと
  第2の疑問点:遺体の首には、小さな針の穴があったこと
  第3の疑問点:テレサ・テンのパスポートについての疑惑
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 「フランス人」というのは、もちろんステファンのことです。彼の本名はステファン・ピュエールというのですが、本書のなかでは「ピュエル」と本名が使われています。著者は、暗に「ステファンがテレサ・テンの死にかかわっている」ことを強調しているような感じです。

 これらの3つの疑問点については、ここで改めて繰り返すことはしませんが、この本を読んでわかることは、テレサ・テンとステファンの人間関係は相当ひどい状態になっていたことが鮮明にわかるのです。もちろん、本の内容が真実であるという保証はありませんが、他の情報源と照らしてみてもそういう状態になっていても不思議ではないのです。



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