精神世界と心理学 用語


ア行

アーラヤ識  一即多、多即一 オカルティズム


アーラヤ識

 仏教は元来、六つの識をあげる。まずは眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(臭覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)の五感のは働き(前五識)である。つづいて第六識意識は、推理・判断などことばを用いた思考作用あり、感情・意志なども含めたいわゆる「心」の働きである。しかし唯識は、さらにその深層に働く第七識の「マナ識」と第八識の「アーラヤ識」とを発見した。マナ識は潜在的な自己我執着心であり、アーラヤ識は、さらにその深層にあって以上のすべての識を生み出す根源的な識である。

  まずは第八識のアーラヤ識。アーラヤは、何かを「保有する」、「蔵する」という意味をもつので、この識は「蔵識」とも訳される。では何が保有されるのか。我々がこれまでに経験してきた一切である。過去のあらゆる行為(業)が沈殿してアーラヤ識に記憶される。唯識は、このプロセスを「現行は、その種子をアーラヤ識中に熏習する」と説明する。現行すなわち現実の具体的な行為が「種子」というかたちでアーラヤ識中に熏習されるのだ。ちょうど香りが衣服に移り、残り香となるように、行為の記憶が人間の深層意識に植え付けられ蓄積されていく。それを「熏習」という。またアーラヤ識に熏習された行為の記憶は、「種子」と呼ばれる。日常のあらゆる行為は沈殿して「種子」となり、再び新たな行為を生み出して行く。やがて芽が出て成長していく植物の種子のように、「種子」は心の奥底に保たれて、その後の自己形成力となり、ふたたび具体的な行為(現行)をもたらすのである。要するにアーラヤ識は、過去の経験の総体である。そしてこの識を基盤としてのみ現在の「私」や、それに伴うさまざまな心的現象が形作られる。もしアーラヤ識を川の流れにたとえるなら、その他の一切の心理作用は、流れの表面に現れては消える波や泡沫である。唯識説は、このアーラヤ識を根本原理として、内的および外的世界のあらゆる現象を説明する。

 過去の一切の記憶が、何らかの仕方で脳に保存されている点は、現代科学の知見からしても事実だろう。脳外科学者ペンフィールドは、局部麻酔による手術中に、露出した脳の一部にに電気刺激を加えると、長い間忘れられていた出来事が細部までありありと、まるでそのときの音やにおいや光景を目のあたりにしているかのように再現するという。またトランスパーソナル心理学の代表的な研究者スタニスラフ・グロフは、LSDによる心理療法や、呼吸法を中心としたホロトロピック・セラピーの最中に、徹底的な心理的な退行が起こり、出産時の体験がありありとよみがえったりする事例を数多く経験し、しかもそうした出産時の記憶が事実と一致していることを母親や医師が確認した。

 ただし唯識説によると、アーラヤ識中には誕生以来のすべての行為の記憶だけではなく、永遠の過去以来の行為の種子が保有されているという。つまりアーラヤ識は、一個人の生涯をはるかに超えて、遠い過去から絶え間なく相続されて現在に至り、さらに未来に向けて流転していく心的領域である。 (Noboru「唯識仏教における利己心と利他心」より)


一即多、多即一

 『華厳経』のいちばん根底に脈打つ考え方は「一即多、多即一」。すなわち微塵(チリ)のように小さな一つ一つの存在の中に大きな世界のすべてが映し出され、それら一つ一つが全体として一つの大きな世界をなす、しかもそのかぎりなき全体がひとつの珠玉のように光り輝いているという考え方だ。  「一即多」を分かりやすく説明するのは、印(いん)印陀(だ)羅(ら)網(もう)陀羅網(いんだらもう)の譬えだろう。印陀羅網とはインドラの網、すなわち帝釈(たいしゃく)帝釈天宮(てんぐう)天宮にある輝く宝の網のこと。その結び目にあって光彩を放つ珠玉が互いに映じ合い、映じ合った珠がさらにまた映じ合って、それが無限に続いて光明を放っている。

  この無限に映じ合って光る珠玉のイメージが華厳の「重々無尽」を説明している。その印陀羅網の網のA点を持ち上げると他のあらゆる点が無限にからみあって動くのです。B点を持ち上げると他のすべての点が互いに関係しあって無限に動いていく。C点を持ち上げればCを中心にあらゆるものがここに関係してく。このように「一」が「一切」につらなり、互いに無限に関係しあうのが「重々無尽」の関係である。


オカルティズム

 オカルトの語源は「隠された、見えなくされた」ものという意味だ。西欧キリスト教世界では、西暦869〜70にコンスタンティノープルで開催された宗教会議で、個々人と霊的なものとの直接的な結びつきが否定され、個人はただ教会を通してのみ霊的なものと結びつくという教義が確立した。これにより教会外で霊的な体験が可能とする説は、悪しき異端とされた。    

  それ以来正統キリスト教の勝利と栄光の歴史は、オカルト的なるもの(霊的なものに直接 参与しようとするグノーシス的教説)を徹底的に抑圧する。オカルトとは、正等キリスト教 から身を隠さなければ生き残れない教えの法統であった。キリスト教の陰の部分の意味と、その弾圧の歴史を知ることが、すわなちオカルティズムの歴史を知ることなのだ。    

  シュタイナーは、抑圧を強いられたオカルト的伝承を近代的な思考のもとに露呈し、歪め られた西欧の霊性の歴史に終止符を打とうした。彼は、抑圧された霊性の公開者だったと言えよう。    

  日本の密教の伝統には、西欧の正統キリスト教会のような非寛容な禁圧勢力が支配すると いう歴史がなかったから、徹底的に「密」教である必要はなかった。つまり日本には、西洋的な意味のオカルティズムはなかった。西洋の屈 折した霊性の歴史、昼と夜のコントラストへの理解を欠いていれば、西欧の精神史の理解そのものが、おそろしく 上っ面だけもものになってしまうだろう。

『シュタイナー入門』 小杉英了 (ちくま新書、2000年) の書評より


カ行

 


還元主義

 近代科学の方法には、要素還元主義というものが前提として存在する。つまり、生命現象や生理現象は、化学的過程に還元し、化学的過程は物理現象に還元する。そして、還元された要素間の因果関係によってすべての現象を説明するという方法論だ。それは、世界のすべての現象はそのようにして説明できるはずだという世界観(哲学)でもある。

 逆に、そのように現象を化学・物理的な要素に還元して説明できないようならば、それは科学的説明ではないと切り捨てるのである。

 このような要素還元主義は、心や精神さえ、最終的には化学・物理的過程として説明できるはずだと主張する。  つまり、近代科学は、その成立根拠となった方法論の中に、すでにひとつの哲学を隠しもっているのだ。

 本当の意味での「科学的」な態度とは、事実を事実として、現象を現象としてまず認め、それらの現象を全体として説明しうるような仮説、さらには世界観を構築していくことではなか。  そして、現実には、要素還元主義的な方法では説明できないような現象が、この世には無数に存在している。  科学がそのような現象を認めるとすれば、それは科学が、要素還元主義、物質還元主義を捨てるということで、これはとてつもなく大きなパラダイム変換になる。現状からはそれはかなり遠い道程のような気がする 。 00/06/07


権威主義的性格(サド・マゾヒズム的な性格)

 フロムは自由からの逃避の心理を「人間が個人的自我の独立をすてて、その個人にはかけているような力を獲得するために、かれの外がわのなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合させようとする傾向」と説明している。

 劣等感や孤独感、個人の無力感を克服する一つの道は、個人的自己から逃れ、自分を失い、自由の重荷から逃れて、自己の外部のより大きなもの(グル、制度、神、国家など)に没入・服従し、その部分となるという、マゾヒズム的な努力である。一方サディズム的な衝動の根は、他人を完全に支配し、無力な対象にし、その絶対的な支配者、神になることである。

 サディズムとマゾヒズムは、その根底に、孤独や不安や劣等感があり、その弱さから逃れようとする衝動の裏表だとフロムは指摘する。一方にサディズムがあり、他方にマゾヒズムがあるのではなく、両者は一つの傾向の能動的な側面と受動的な側面であり、一人の人間の中でも振り子のように揺れたり隠れたりしているのだ。

 フロムは、サド・マゾヒズム的な性格を「権威主義的性格」と呼びかえている。権威に服従して、自分の不安を打ち消そうとする傾向は、他者を服従させて自分の強さを誇示する傾向と一体であるということだ。 そのどちらにおいても、真実の強さがかけているときに二義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みなのだ。

 こうした逃避のメカニズムは、「形を変え,見えにくい状態で,われわれの心の空白,虚しさを癒してくれるような格好で逆に蔓延してきている」(中村氏)と思われる。そうした傾向が時に、カルト的なグルと弟子の関係において突出的に問題化するのである。 (Noboru「ニューエイジ潮流を考える」より)


科学主義

 


近代主義と宗教

 近代主義の特徴は、個人主義的な人間主義、民主主義、合理主義、物質科学 主義、産業主義、進歩主義、現世主義、無神論などである。これらの傾向を推し進 めたとき、個人のレベルでは、ニヒリズムとエゴイズムに陥る危険性が高い。

 岡野守也は、行き詰まった時代の精神が進みうるのは「宗教でもなく近代主義でもな く霊性へ」という方向しかないという。

 ここでいう宗教とは、みずからの教祖、教義、教団を絶対視し、信仰と服従を不可欠の条件とするシステムとグループをさす。    こうした宗教集団の自己絶対視は、かならず敵と敵意を生み出す。宗教集団にと って他者は改心させる対象ではあっても、そのまま認め得る存在ではない。布教に 反対するものは呪われた存在になる。呪われた存在は、神にかわって殺してもよい とさえ結論される。  

 自己絶対視から敵意を生む宗教と、エゴイズムとニヒリズムを克服できない近代主義をともに超えて人類の未来を切り開く道があるのか。それが霊性の立場である という。

 霊性とは、様々な宗教の根源にあって宗教に命を与えるおおいなる命の体験である。すべのものがみなそれに包まれることによって目覚めるような人間の心の奥底 の領域を霊性と呼ぶ。


コーマワーク(昏睡状態の人との対話)

 ミンデルが創始したプロセス指向心理学は、個人療法、家族療法、集団療法などに 適用されると同時に、コーマワークとしても新たな展開を見せている。コーマとは 昏睡状態、コーマワークとは昏睡状態の人とのワークを意味する。昏睡状態の人と対話などできないという常識にがんじがらめになっていた医師や セラピスト、その他多くの人々を驚愕させる成果の積み重ね。これまで誰もなしえ なかった対話を可能にした驚くべき才能と独創性。その成果を基礎にした説得力。

   しかも、その対話や実践的な成果から自ずと明らかになるのは、肉体を超えた魂 の永遠性や、肉体の死に直面しつつそれを乗り越えて成長する精神の感動的なあり方なのだ。昏睡状態にあった魂が、肉体に閉じ込められた視点から認知する「現実」を超え て、はかり知れない精神の世界へ飛び立とうとする。そのとき、愛、自由、癒しと いった偉大な課題を成し遂げていく様が、ミンデルとの感動的なワークを通して明 らかになってく。昏睡状態は「閉じられたアイデンティティから、より大いなる命 に向けての自由を生み出すための歓喜に満ちた最後のダンスの試みであるかもしれ ない」とミンデルは捉えるのだ。

 彼は、「旅の道のりは、しばしばトランス状態や昏睡状態といった影の部分をさ まよい、通り過ぎる」とも言う。旅とは、もちろん大いなる命へ向けての旅だ。そ の旅の道のりにおいて昏睡状態は、しばしば積極的な意味を持つ。「命に関わる病 気が死のきわで表す症状は、光明につながる道なのだ。身体から発信されるシグナ ルは、それがいつ現われるかに関わりなく、自覚を捜し求める夢なのである。」

 ミンデルは言う、「私が出会った昏睡状態になった人々は脳の構造上深刻なダメージを受けた人以 外は、全員目を覚まし、パワフルな体験を言葉で語ってくれた。脳にひどい外傷的 なダメージをこうむった人ですら、プロセスワークに対して非言語的な合図によっ て肯定的に反応した。一方、脳にひどい損傷を負っていない人々は目を覚まし、未 解決の愛や学ぶべきテーマを完了させた」  

 コーマワークは、「脳死と死の倫理学」に独自の実践体験から、まったく新しいの考察の視点を提供する。昏睡状態での体験を味わい尽くした後 で、自らの決心で息を吹き返す人もいるのだ。持続的な植物状態においてさえ、脳 と精神が同一とはいえないと彼はいう。そのような状態でも患者と対話ができるの であれば、死の判定を、家族や医師にまかせてしまっていいのだろうか。「生と死」 は、瞬間毎に当人によってのみ定義され得る」というのがミンデルの主張である。

『昏睡状態の人と対話する・プロセス指向心理学の新たな試み』 アーノルド・ミンデ ル(日本放送出版協会、2002年)書評より 


サ行

 


「自己実現した人間」 「至高体験」

 マスローによれば、人間は心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的傾向を持っ ている。そうした可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達しうる最高の状態へ達した と思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼んだ。

   彼は、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブーバー、鈴木大拙、 ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現したと思われる人々を研 究した。その結果、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、 大多数の平均的な人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示していることに気づいた。 彼は、そうした自己実現人の認識のあり方をB認識と呼んで、その特徴を列挙する。

  彼はまた、ごく少数の「自己実現した人間」の研究だけでなく、平均人の一時的な自己実 現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行った。 両者を比較して論ずることで研 究全体を学問的に説得力のあるものにしたのである。

  「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験。 それは、ちょっとした日常的交流のなかでも、深い愛情の実感やエクスタシーのなかでも、 芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかでも体験される。一人 の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも深い部分を震撼させ、その 人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験で、予想以上に多くの人がこういう体験 をもっている。   


十分に機能する人間(ロジャーズ)

 「クライエント中心療法を理論的に考えて最大限に経験して生まれてくる人間は、十分に機能している人間のように思われる。彼はあらゆる感情や反応の一つ一つを十分に生きることができる。彼はできるだけ正確に内外の実存的状況を感じとるために、彼のあらゆる能力を使っているのである。彼は神経組織が提供するあらゆるデータを利用しているのであり、それを意識化しているが、彼の全有機体が彼の意識よりも賢明であるかもしれないし、実際に賢明であることを認識している。」(全集12巻、74頁)

 「彼はすべての感情を経験することができるし、どのような感情をも恐れてはいない。彼自身が証拠のふるいわけをするが、しかしあらゆるところからくる証拠に開かれている。彼は自分自身であり、自分自身になろうとするプロセスに完全に没頭しており、かくて自分が健全でかつ現実的な意味で社会的であることを発見する。彼はこの瞬間に十分に生きているが、こうした生き方がいつまでも最も健全な生き方であることを学びとっている。彼は十分に機能している有機体であり、彼の経験を自由に反映する意識によって自由に機能している人間になるのである。」(同上)

 ロジャーズが「十分に機能する人間」という仮説を導き出し得たのは、自己構造の弛緩や崩壊とその再体制化による成長の過程を理論的に究極の姿まで追求することによってであった。つまりそれは、強固に体制化されていた自己構造が、かぎりなく柔軟で流動的な構造へと変化し、新しい経験にかぎりなく開かれていくプロセスの理論上の終着点であった。そのとき彼は、自己自身が「いのち」として経験していることのすべてを意識に受け入れて十分に生きることができるようになり、また瞬間瞬間を新しい状況として生きるようになる。つまりロジャーズの心理療法の実践と理論は、つねに自己のあり方を問い、自己構造が変容する過程に人間の心理的な成長を見たのである。

  「十分に機能する人間」のあり方をさらに整理したかたちで示すと次のようになるだろう。ここでは自己構造との関係がより明確に示されている。

1)彼は自分の経験に開かれている。

2)そのためすべての経験を意識の上で気づく可能性がある。

3)彼の自己構造は経験と一致する。

4)彼の自己構造は流動的なゲシュタルトとなり、新しい経験を同化する過程で柔軟に 変化する。

5)彼はいろいろな状況に出会って、そのときどきの新しさに対する独特の創造的な適 応をしていく。(全集8巻、244頁)

(Noboru「人間性心理学と禅仏教」より)


自分が"自分"になる(ロジャーズ)

 「自分が"自分"になる」ということの真意は、ロジャーズの次の言葉に端的に示 されている。 「私が自分自身を受け入れて、自分自身にやさしく耳を傾けることができる時、そ して自分自身になることができる時、私はよりよく生きることができるようす。‥ ‥‥言い換えると、私が自分に、あるがままの自分でいさせてあげることができる 時、私は、よりよく生きることができるのです」

  こうして、現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れた時、どのよう な変化が生じるのか。これもロジャーズ自身によって次のように表現されている。

1)自分で自分の進む方向を決めるようになっていく
2)結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
3)変化に伴う複雑さを生きるようになっていく
4)自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気づくようになって いく
5)自分のことをもっと信頼するようになっていく
6)他の人をもっと受け入れるようになっていく  

  こういうあり方自体が、きわめてスピリチュアルな方向を指し示している。しか もロジャーズは、来談者中心のカウンセリングでの、クライエントの変化そのもの から、こうしたあり方を学んでいったのだ。


新霊性運動

 「新霊性運動」とでも呼ぶべき潮流を、ニューエイジ運動よりもっと広い歴史的な視野の中で考えることができる。

 近代科学の知は、あらゆるものを対象化し物質的・客観的な因果関係に還元して説明することで成立している。しかし、その世界観にしたがう限り世界と自分との意味に満ちたつながりは考えにくい。それどころか自分の生命すらも、原理的には道端にころがる色あせた一片のプラスチック以上の意味はもたないと見る。

 心の中で何かをごまかさない限り、人間はそういう世界観にがまんできないのではないでしょうか。 だからこそ私たちは、周囲の事物と、それらによって成り立つ世界を「宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいとう根源的な欲求」につき動かされて、さまざまな神話や宗教を形作ってきたといえるでしょう。 しかし科学の洗礼を受た私たちは、伝統的な宗教の教条化した教義を、おいそれとは受け入れがたくなっている。一方で近代科学的な、物質還元主義の世界観にも満たされない。その中で第三の知の在り方が模索されつつある。

 そうした歴史的背景のもとに「新霊性運動」という言葉でくくれるような新たな潮流が生まれてきた。 その特徴を端的に表現すれば、

1)私たち一人ひとりの人間が、魂を向上させ、霊性を開発していくことは、宇宙全体という視点から深い意味がある。

2)一人ひとりが霊性を向上させるのは、各自がそれぞれの責任において行うべきで、そのための組織を作ってそれに依存したり、それを維持拡大することを自己目的化する必要はない。一人ひとりが開かれた態度で霊性の開発に取り組めばよい。

3)宇宙全体の視点から霊性の向上にどんな意味があるかについても、各自がさまざまな人々や宗教や、科学の知見に学びつつ、開かれた態度で探求していけばよい。

 このような特徴は、伝統的な宗教が固定的な教義をもった組織となることで、その教義と組織を守り広めるために他を否定し、攻撃して来たのとは好対照をなします。排他的・攻撃的な組織としての宗教という形をとらず、なおかつ「世界と生の宇宙論的な意味」を求め、霊性の向上を求める、大衆レベルにまで広がった関心・在り方、これは長い人類の歴史のなかでもまったく新しい方向を示しているのではないでしょうか。  たしかに、現実のニューエイジ運動、新霊性運動と呼ばれるものを見る限り、パラトラパ雅さんがつとに指摘するような様々な問題点がある。にもかかわらず、その基本的な方向性は、歴史的な視点から見ても大きな可能性をはらんでいるのではないか。だからこそ逆に、現実のこの潮流が持つ様々な問題については、厳しく批判していく必要があるのかも知れません。  


前−超の虚偽

 この階層構造の基盤には、前個的状態、個的状態(自我のレベル)、超個的状態という三つの段階が想定されています。これまでの神秘主義では、「幼児の、自他を区別できない意識(前個的状態)」と、「成人の自我確立以後の宇宙と一体化した意識(超個的状態)」とが、同じ状態だと見なされがちでした。しかし、だとすれば宗教的な覚醒体験は一種の「幼児退行」になってしまいます。「自己」超越へのプロセスを歩んでいくには、その前にまず個がしっかりと確立されていなければなりません。「だれでもない者になる前に、まずだれかになるということが必要」なのです。前個的状態、個的状態、超個的状態という分類があるのは、そうした意味で個的領域が重要視されるからです。

 正しい捉え方は、プレパーソナル(前個的、自我以前)の段階から、パーソナル(個的、自我確立)へ、そしてトランス・パーソナル(超個的、自我の超越)の段階へという成長段階の把握でしょう。それに対し、まずトランス・パーソナルの状態があって、そこからパーソナルの段階へ、そして再びトランス・パーソナルの状態へのいう捉え方をしてしまえば、それは前個的状態と超個的状態とを安易に混同してしまうことになります。ウィルバーはこれを「前−超の虚偽」として厳しく批判します。

東洋の宗教で「無心になれ、無我になれ」とよくいいますが、我をもっていない人間がどうして無我になれるのか。赤ん坊には自我がないだけですが、覚者は自我に埋没しておらず、それを超えており、しかもそれを使うことができるのです。自我は、人間の発達の流れのうえで必要な一つの基点であり、通過点です。自我を一度健全な形で確立したうえで、そこからさらなる上位の発達段階が可能となるのでしょう。


タ行

 


代替医療

まず、1960年代半ばから1970年代に北アメリカを中心に起こったカウンター・カルチャ ー(対抗文化)から説き起こし、代替医療の成立を解説している。   対抗文化は、大量採取、大量生産、大量消費、大量廃棄に支えられた現代文明を批判し、 よりエコロジカルな文明を提起した。その中でつぎつぎ具体化された各種の代案に共通する 思想が「オルタナティブ」であった。  医療・健康の分野では、還元主義的な現代医学や心理学にたいするオルタナティブとして、 ホリスティック医学運動がさかんになり、代替医療も、ありうべき代替文明の一翼を担うも のとして、その中から生まれてきた。  生体にとってそれなりの理由があって表面に出ている症状(適応プロセス)を、現代医学 は無理やり抑圧し、さらに健康な組織や細胞にもダメージを与えてしまう。これに対し代替 医療の多くは生命エネルギー場の歪みそのものに働きかけ、それを正すことによって結果的 に症状を取り去る。それゆれ代替医療に真剣に取り組むことは、「いのち」そのものに真剣 とりくみ、自己や森羅万象とのつながりに取り組むことになるという。


他力

  人間は往々にして、あまりに自分の意識のレベルだけで生ようとするが、「他力」は、向こう側の何者か、阿弥陀さまとかその他、超越的なものに自らをささげる形をとるようでいて、実はそういう仕掛けを通じて、自分のこころが持っている潜在的な無数の可能性が働くままにすることだ。それは自分でない他者に問題を解決してもらおうというエゴではない。それでは、世界を思うままに操りたいという「操作主義」のエゴと同じ、単なるその裏返しになってしまう。裏返しの「自力」。

   自力に対する、他力の主体があるとすれば、それは「自分を含んだすべての世界」という意味だろう。しかも、自分を含んだすべての世界は、中心も持たない、非常に微妙な構造不安定のバランスの上に築かれ、形成されつつ、次の瞬間にはかたちが消えてしまう、そういう流動的なものだろう。だから、自分の外の場に頼るべき主体を設定するは不可能だし、他力の本意ではない。  意識的で自己集中的な自力の生き方に対して、自分を含めたすべて世界の流動性に身を任せるようなあり方が他力であり、そこに「こころの生態系」という視野が開けてくるのかも知れない。

 たとえばビジネスの現場では、強烈なリーダーシップを発揮し、ひとつの価値体系で組織をひぱっていけば、とりあえず短期的には組織は強さを得る。しかし、一方で組織における価値の多様性を育てないと、長期的には組織自身の強さが失われる。環境の変化に対応して変化する力が弱まるからだ。  逆に自らの弱さを自覚して、多様性を受け入れて変化して行く企業は「パワー・オブ・パワーレス」の主体として成長するという。「パワー・オブ・パワーレス」は「他力」の思想に通じる。

『こころの生態系』 河合隼雄、小林康夫他 (講談社)


『チベットの死者の書』(バルド・トドゥル)

 仏教がチベットにもたらされたのは、八世紀ごろ、インドのナーランダ大学の僧であり密教行者でもあったパドマ・サンバヴァによってである。伝えられたその教えは、大乗仏教のもっとも展開された形態、日本では密教として知られる金剛乗仏教であった。チベットには古くから、チベット人独特の宇宙観を伝えるボン教があった。ボン教は、日本の神道のようにアニミズム(精霊崇拝)的要素が強く、一方ではまた輪廻転生する生命を信じていた。その信仰は仏教がチベットに伝わった後も根強く残り、仏教的な世界観のなかに溶け込んで、チベット仏教の独自な発展をうながしたと言われる。そのためチベット仏教は、ボン教と同じように死や輪廻転生を中心とする宗教として展開したのである。有名な『チベットの死者の書』19は、そのような背景のなかで生まれた。

  チベットでは、『チベットの死者の書』はインドからチベットに仏教をもたらしたパドマ・サンバヴァによって著された経典だとも言われるが、経典の実際の著者については、さまざまな議論があるようだ。いずれにせよ『死者の書』は、数多く存在するチベット仏教の各宗派を超えて広く読まれ、それぞれの宗派の信仰のよりどころになっているという。 ただし、この『チベットの死者の書』と同じ目的をもつ経典は、チベット仏教の他の宗派やボン教にもあり、実際にチベットの葬送儀礼において読み聞かされる「死者の書」には、いくつかの種類があるという。

 欧米で『チベットの死者の書』として知られるこの書のチベット語原名は『バルド・トドゥル』。「バルド」とは、「中間」とか「途中」という意味をもち、ここでは人間の死から再生までの間の霊的な次元(中有、中陰)を指す。「トドゥル」は、「耳で聴いて解脱する」という意味をもつ。だから『バルド・トドゥル』とは、「中有における聴聞による大解脱」という意味になる。そこで語られるのは、「死後まもない死者は、まだ聴覚を失っておらず、そこで死者の耳をとおして語られる真理が、死の意識と生と死をめぐる、高い心理の認識に導いていくことができる」という主題であるという。52

 それゆえ『バルド・トドゥル』は、まさに死者を導く道案内の経典である。チベットでは宗派を問わず、一般に死を迎えようとする人の枕辺にラマ僧が座り、耳元で声に出して「死者の書」が読み聞かせられるのだ。そこには、死者が死後に出会うだろう光景とそれへの対処の仕方が書かれている。それによれば、死者はまず目もくらむばかりのまばゆい光明に出会う。これに勇気を持って飛び込めば、真理に融合し、解脱するという。  しかし、もし非常な畏怖を覚える大光輝に死者の魂が恐れをなして尻込みし、もっと穏やかで色彩をもつ光の方に引き寄せられるなら、七日後にまた別の光に対面して同様の状況にたたされるという。そうしたことが七日毎に、四九日まで繰り返される。その間に光への融化がなければ、その後、死者の生前の行為、心に応じて、何かしら生きているものの胎に入って生まれ変わってしまう。それゆえ『バルド・トドゥル』は、死者が再び生まれ変わってしまう輪廻への道を避けて「根源の光明」へと向かわせるための経典なのである。


トランスパーソナル心理学

 トランスパーソナル心理学は、一九六〇年代に生じてきた心理学の新しい潮流で、行動主義の心理学、精神分析的心理学、人間性心理学に続く第四の心理学として位置付けられます。  トランスパーソナル心理学は、人間性のなかの超越性あるいは霊性の側面を強調するという点で、これまでの心理学と大いな違いをもっています。この心理学の大きな特徴は、東洋思想から強い影響を受けており、仏教的な人間観とも深いところで重なる面をもつことですが、一方で現代欧米の深層心理学・発達心理学などの基礎の上にその主張をなしています。ケン・ウィルバーは、それまで多くの心理学の学派が入り乱れていたところに、ある種の全体的な見取り図を提供しました。


ドリーミング

 プロセス指向心理学の用語。「語りえないタオ」、ブラブマン、 ブッダマインド(仏心)、「大きな自己」等々と呼ばれる真理は、ミンデルによってドリーミングとして捉えなおされる。

   ドリーミングは、すべての日常的現実の基盤であり、人生の中核にあるエネルギーであり、 すべてのスピリチャルな教えの源泉である。しかも、それは微細な体験として日常生活の中 で私たちにたえず働きかけている。明確に捉えることができるあらゆる思考や感覚に先立つ かすかな知覚であり、傾向であり、夜見る夢にさえ先立つ。日常的意識に一瞬の体験として 現れ、非合理的で、夢のようで、ふつうは明確にとらえることはできない。  

 もし、日常的な言葉では明確に捉えることができない、かすかな(センシェントな)傾向 を知覚する注意力を鍛え直すことができれば、驚くべき畏怖の念をだかせる現実が開ける。 日常生活の背景に潜むドリーミングの力を生きることが可能となるのだ。いっさいの出来事 に先立つ傾向、すなわち日常的現実を発生させるドリーミングという背景にいつも気づいて いることが必要だ。

 ミンデルのドリーミングの心理学が、伝統的なスピリチャルな教えに対して新しいのは、 ドリーミングを私たちの日常的な現実に対してたえず働きかけて来るプロセスとして捉えて いる点だ。  身体的な症状とのかかわりのなかで、もつれた人間関係のなかで、飲食物などへの嗜好の なかで、ドリーミングがどのようにその兆しを現し、どのように意識にとらえられるか、具体的なワークも示しながら語る。ほとんど言語化できない漠然とした感覚や直感として立ち現れる(=センシェントな)傾向を意識化する心理療法的な方法(ワーク)として画期的だ。     

  「あなたが明晰さの訓練をすると、目覚めてもドリーミング・プロセスが続くことに気づ くだろう。‥‥あなたが明晰ならば、そして日常生活に展開していくセンシェントな体験を 忍耐強く追いかけるならば、『あなた』のドリーミングがあなたを目覚めさせ、生活の場面 にはいりこんでくることに気づくだろう。」  

 「あなたは一日中目覚めのプロセスが起こっていることを感じることができる。あなたが しなければならないのは、ドリーミングを認識し、センシェントな体験、知覚の神秘に注意 を払い、人生が開示し、展開し、創造されていくプロセスに気づくことである。」

(『24時間の明晰夢』 アーノルド・ミンデル(春秋社,2001年)の書評より)


ドリームボディ

 プロセス指向心理学の考え方で、ミンデルの 基本となる考え方のひとつに「ドリームボディ」がある。 ミンデルは、もし身体の調子が悪ければ、おまえは病気なんだとみなす考えに納得で きなかった。夢分析中心の伝統的なユング派の臨床を続けるうちに、実は体に現れてい る症状も夢と同じように無意識の創造的な発現なのではないかと思うようになる。夢に は意味があるように身体に起こっていることにも恐らく意味がある。それは単に病理的 なものでも、悪いものではない。  

 夢と身体症状は、お互いがお互いの分身であるかのようだ。夢に現れるイメージも、 身体に現れる何らかの症状も根元は同じで、たまたま夢という形を取るか、身体症状と いう形を取るかの違いに過ぎないと考え、その、同じ根元を夢と身体の一体になったも のとして「ドリームボディ」と名づけたのである。

   ドリームボディのメッセージは、やがて夢と身体だけではなく動作、人間関係、共時的な出来事を含めた様々なチャネルを通して現れてくることが発見され、そこで起こっ ている出来事を丁寧に観察してその流れについていくことが重要だという、プロセス指 向心理学へと発展した。無意識は、そのメッセージを伝えるために、様々な感覚器官 (チャンネル)を利用する。それが夢の視覚イメージであっても、身体の体験であって も、人間関係や出来事であっても、メッセージとしての働きは同じだというのだ。(アーノルド&エイミー・ミンデル 『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年) の書評より)


ナ行

 


人間性心理学(humanistic pcychology)

 人間性心理学(humanistic pcychology)は、それ以前にアメリカで主流であった精神分析や行動主義心理学への反論として1950年代後半〜70年代に提唱された。その中心となった提唱者は、マズローやロージャズであった。

 フロイトによって創出された精神分析は、神経症の患者の治療という臨床の中で生まれたが、その無意識の理論は、臨床の範囲をはるかに超えた影響を持つようになった。無意識の発見は、人間理解の革新として文学や芸術など様々な分野に広範な影響を与えた。しかしフロイトは、その理論を「自然科学」の裝いをもって提示しようとしたため、彼が実際に患者に接しながら深めていった柔軟な人間理解と、それを自然科学的な枠組のなかでとらえ返して整理した体系とは、たえず分裂し続けた。いずれにせよアメリカの心理学は、1930年代から精神分析の理論の強い影響をうけることとなる。

 行動主義心理学は、ワトソンやスキナーをその代表とする。その立場は、きわめて客観主義的、機械論的であり、人間の行動をパターン化された「刺激−反応」の組み合わせに還元することで説明しようとした。「客観的」な観察に基づく学問体系を樹立しようとして、客観的に観察し得る人間の行動だけに焦点をあてたのである。その結果、主観的である「意識」は無視され、その心理学は「意識なき心理学」とすらよばれた。しかし、心理学を独立した学問として確立して近代の自然科学のパラダイムに従おうとするのは当時としては当然のことだったのかもしれない。この学派が、大きな勢力をなしたのは事実である。

  人間性心理学は、これら二つの勢力への批判として1950年代の後半から登場し、第三の勢力と呼ばれた。この学派は、いわゆる自然科学的な方法によっては人間の心は理解できないとし、行動主義および精神分析を厳しく批判する運動の中で生じた。

  人間性心理学の第一の特徴は、その全体論的な視点だろう。人間を理解する方法の一つとして、機械論的で還元主義的なアプローチがある。パブロフの条件反射学説や行動主義理論のように対象を観察しうる個々の要素に還元し、それらの関係の集積よって全体を理解しようとする方法である。しかし人間は、機械のような個々の部品の寄せ集めではない。人間性心理学は、ゲシタルト心理学やゴールドシュタインの全体性心理学と同様に、還元主義的な方法では人間を理解することはできないとし、全体論的な人間観を主張した。一般に生命現象をとらえるには、有機体としての全体性に注目しなければならない。有機体においては、まず統合された全体があって、その全体との関係のなかで部分の意味が生じる。個々の現象は全有機体の一表現として理解される。まして人間は、肉体をもつだけでなく、この文化的な世界の中に生理的、心理的、人格的に統合された全体として生きている。まず全体的な視点から把握し、ついで個々の部分がそのなかでどのような意味を担い、役割をなすかを研究する方法は、人間の心理や行動を理解する上で特に必要とされる。

 人間性心理学の第二の特徴は、その個々の実存や主体性を重視する立場にあるといえよう。人間は環境や外部の存在からの刺激に反応して行動するにすぎないという行動主義的立場、あるいはフロイト理論での動物的本能によって人間の行動が決まるという決定論的立場は、いずれも生きた具体的な人間を見失ってきた。人間には、決定論では説明し尽くされない自由があり、自由に自己決定する能力を持っている。個人は「今、ここ」という実存のうちにその基盤を持つ。人間性心理学は、人間の実存的な価値、すなわち個人の主体性、自由、意味、選択、責任などを強調し、また基本的に自由な個人相互の「我−汝」という二人称的な出会いや交わりを重視する。

 人間性心理学の第三の特徴は、人間に内在する成長力や価値志向性を重視する目的論的な立場にある。有機体としての生命は、一般にひとつの生命として自律的に、より統合された状態に向かう傾向をもつ。生命をもった存在である人間もまた、外的条件のみで受動的に動かされるものではなく、一般に内的生命の自然性それ自体にしたがって自律的に成長し自己実現に向かう傾向をもつという。マズローが繰り返し強調したように、従来の心理学は、欠乏動機ばかりをとりあげ、自己実現への欲求などの高次の成長動機をとりあげてこなかった。しかし人間は、自己実現への動因をもち、成長動機をもっている。それは、個体がもつ全体的、自律的な統合への過程のあらわれであり、成長し、自己実現に向かうという、生命に本来そなわった傾向の表現である。こうした生命本来の自己実現傾向は、さらに環境的な制約や社会文化的な制約すらも越えた精神的発展ないしは高次の心的構造化、究極的には「真の自己」の実現(=悟り)にすら至る可能性をも秘めているとされる。 (Noboru「人間性心理学と禅仏教」より)


ニューエイジ・ムーブメント(New Age Movement )

 ニューエイジ・ムーブメントと一言で言っても、それは現代のかなり裾野の広い思想潮流を大ざっぱにくくる言葉だから、そこにはいろいろな考え方が含まれている。  もちろんニューエイジというひとつの言葉でくくる以上、そこに何かしら共通の特徴はあろうが、それも人によって、視点によって、いろいろな把握が可能なのだ。そこに無数の考え方や思想が入り交じりながら、ひとつの大きな潮流・ムーブメントを作っている。 ともあれニューエイジ・ムーブメントという言葉を広義にとらえるなら、とりあえず次のようにいえるだろう。  

 「伝統宗教や組織にしばられない大衆化された霊的・精神的な関心の広がり。とくに19世紀西欧のスピリチュアリズムや東洋の神秘的伝統などの影響を受けながら、組織化された宗教よりも個人の直接的な霊的な覚醒を大切にする、 広く大衆化された運動。」  

 私自身は、こうした関心の広がりや動きそのものは、非常に重要であり、 未来を開く可能性をはらんでいると思っている。 しかし、個々人が自由に自己を探求しようとする特徴があるので、そこに含まれる考え方や修行の形態には様々なものがあり、だからこそ逆に、疑問視せざるを得ない考え方や運動もこの流れの中に混ざってきて、 時に大きな影響を与えることがある。

 なお、これがニュー・エイジと呼ばれるのは、この運動がひろがることで人類の意識進化がなされ、新しいユートピア的な時代、調和と安らぎの時代がおとずれるとされるからだろう。.(Noboru「ニューエイジ潮流を考える」より)


ハ行

ヴィパッサナー瞑想 フォーカシング ホロン(holon)


ヴィパッサナー瞑想

  ヴィパッサナー瞑想は、東南アジアに広まった上座仏教(テーラワーダ (「長老の教え」を意味する)仏教)の瞑想法。ブッダ以来続けられた原始仏教の瞑想システムを忠実に伝える という。その技法は完 成しきったものと言われ、合理的でシンプルでかつシステマティックな方法に驚く。ヴィパッサナーとは、あらゆる現象をありのままに観るという 意味である。細かいテクニックや強調点の違いから、いくつかの流派がある。

 瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と智恵(パンニャー)の訓練が含まれる。精神集中は、「平静さの育成」(サマタ瞑想)とも呼ばれ、智恵の訓練は「洞察力の育成」(ヴィパッサナー瞑想)とも呼ばれる。ゴエンカ氏は、サマーディによって得られる心の清らかさは、ほとんどが不純物を抑えこむことで得られると指摘している。サマーディを行うと心の表層が澄んでくるが、不純物は無意識の領域にたまっており、この潜在的な不純物を取り除かなければ、真の心の解放はないという。集中は、他の思いや感情を打ち消して何かに集中するのだから、打ち消されたものが押し込まれるのは当然だろう。

 ヴィパッサナー瞑想の中のマハーシ・システムでは、一般に「瞑想修行の初期段階では、中心対象に持続的に注意を注ぎながら集中を高め、サマーディを養うことが重視される」という。 一方、「それほど中心に絞り込まず、中心外の対象に心が飛んでいく事実をそのまま直視する方向からは、あるがままの自分の姿が浮上し、自己理解が深まる」という。

  こういう二つの方向があり、どちらも「ヴィパッサナー瞑想として正解」というところが、素晴らしい。 集中が高まるなら高まる、散乱するなら散乱する、どちらも自然にしてあるがままに起きた現象なら、それを確認しようとするのがヴィパッサナー瞑想なのだ。たとえば、腹や足裏という特定の中心対象に集中することを至上の義務と考えてはならない。ヴィパッサナー瞑想では、中心対象より現在の瞬間をとらえ続ける気づきの連続を重視する。 中心対象から外れても、心がはっきり経験した優勢な現象にはサティを入れる。今、この瞬間に、自分の心と体に何が起きているか、をつねに自覚的に間断なくとらえ続けることが、妄想さらには煩悩を離れる修行になるという。



フォーカシング

フォーカシングとは、「からだを使って、自分の気づきを促し、こころを癒していく」現 代心理療法のエッセンスを凝縮した方法だという。 ジェンドリンが、カウンセリングの成功例を研究しているときに、成功事例にはクライエ ントの側にある共通の特徴があることを発見した。それはクライエントが、面接のどこかで 「話し方がゆっくりになって、言葉の歯切れが悪くなり、その時に感じていることを言い表 す言葉を探し始め」るということ。自分の内側の「心とも身体ともつかない曖昧な漠然とし た感じ」を確かめるように話していたのである。 この「内面の曖昧な感じに触れる」という内的な体験のプロセスをジェンドリンは、フォ ーカシングと名づけた。   先に紹介した『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の著者、トールは、 「自分 の感情を知るのが難しいなら、からだの内面にあるエネルギー場に、意識を集中させてみま しょう。からだを内面から感じるのです。これで自分の感情を感じることができるはずです」 といっている。  トールも、からだの内への気づきを重視しているのだが、フォーカシングは、それを誰もが いつでもできる取り組みやすい技法(わざ)として方法を確立。心理療法から生まれでたこ うした細やかに洗練された方法を利用しない手はない。 「フォーカシングは、からだとの信頼関係を結んで、からだの気づきを通して、この自分 自身の豊かな部分が伝えてくれる智恵に耳を傾けられるようにしてくれます。フォーカシン グは、からだが大声で叫び出す前に、ささやいているうちに、そのささやきを聴けるように してくれます。フォーカシングは、内なる正しさの感覚にかなうよう、人生を変えていきま す。」    その変化は、おだやかでゆっくりしたものであるようだ。    ヴィパッサナー瞑想も一瞬一瞬の体内感覚への気づきを重視するが、あわせてフォーカシ ングを学ぶことは、体験を深めるのに役立つのではないかと思う。    自分のからだを観察して、何か感じをつかんだら、その感じをただそのままそこに置いて おく。自分で判断を下したり、自分の感情を回避したり、なぜそう感じるのかを突きとめよ うとしても、結局同じところにとどまるか、もっと嫌な気分になるかだろう。   「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わる のです。変えようとすると、変わらないのです。」    誰がやってもそれを感じ取り、意識の光にもたらす、つまりあるがままに置いておくおく ことができるよう、ひとつひとつステップを踏んで進んでいけるよう、工夫されている。 私も、自分ひとりでいつでもどこでもできるフォーカシングの方法をぜひ学びたいと思っ た。文章はやさしく、説明はかゆいところに手が届くような細やかさだ。


ホロン(holon)

 アーサー・ケストラー(Arthur Otto Koestler 1905-83、ハンガリー生まれ英国の作家)による造語.この言葉はギリシア語のholos (全体)と部分を意味する接尾語のonとを組み合わせたもの。

  ホロンとは、「それ自体で完結した全体でありながら、同時により大きな何かの部分である要素」のこと。たとえば、原子は全体としての分子の部分であり、分子は全体としての細胞の部分であり、さらに細胞は全体としての生命体の部分であり、といったように、宇宙の万物はホロンからなっており、後のものが前のものを「含んで越える」という仕方で進化している。

  それゆえこの宇宙は、ホロンの階層から成り立っている。 物質を含んでこえる形で生命が、生命を含んで越える形で心が、心を含んで越えるかたちで魂や精神が生み出されたのだ。各階層のホロンは、下の階層のホロンを基盤にしているが、 それに還元できない何かをもつから、上の階層たりうる。

  どの領域でもホロンの特性のひとつは独立性、つまり、それ自体を消すかもしれない環境の圧力に対決し、自己の全体性を維持する力である。これは、原子、細胞、生物体、 観念についてもいえることだ。 ところがホロンは独立性を保たなければならない一個の全体であるだけでなく、 他のシステム、他の全体性の一部分でもある。だから一個の全体として 自己の自律性を維持しなければならないことに加え、同時に他のものの一部分として 適応しなければならない。

  全体を構成部分へ分解することは可能であり、それはまったく妥当な努力であろう。 が、そのときにあるのは部分であって、全体ではない。ホロンの全体性は どの部分にも見出されない。細胞は、相対的に独立しつつ生命体という上位のホロンの一部である。そしてひとつのまとまった生命体は、各細胞を単に寄せ集めただけでは説明できない統一性を保っている。

  絶対的な意味での「部分」や「全体」はこの宇宙には存在しない。全体は、亜全体が層をなすマルチレベルのヒエラルキー(階層的な構造)をつくっている。 そしてこのヒエラルキーの構成メンバーの一つ一つの亜全体がホロンである。ホロンはそれぞれ自己規制機構とかなり程度の高い「自立性」を備えており、ヒエラルキーの上部に対しては「部分」としての面を表に出しているが、同時に下部に対しては「全体」としての側面をもっている。 また、このヒエラルキー構造には規則があり、各ホロンはこの規則で縛られていると同時にたえず環境を見ながら自由自在に戦略を駆使する自由さをもっている。

  ガイアとしての地球、地球という一つの生態系は、巨大なホロンであろう。地球を取り巻く薄い大気の構成は、何十億年の生命の進化の過程で地球と生命との相互作用の中で、生命が生きるに適した環境としてつくリあげられてきた。人間もその環境の一部として、 それに守られてのみ生存できる。その意味で人間も地球という巨大なホロンの部分である。

 物質と生命、生命と心、心と魂/精神の間には「相対的な質的差異」、つまり不可逆な 「階層秩序」がある。 トランスパーソナル心理学の理論家ウィルバーは ケストラーの「ホロン」という言葉を援用しつつ、還元主義的世界観や、ダーウィン的、突然変的進化論を批判し、物質から 生命へ、生命から心へと進化してきた万物の歴史を、包括的に説明しうる理論を打ち出している。

  (この文は、一部ウィルバーの『万物の歴史』をもとにしてまとめた。)


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