■ ケン・ウィルバー
◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
◆『意識のスペクトル』 ケン・ウィルバー(春秋社、1994年
◆『構造としての神』 ケン・ウィルバー (青土社、1993年

◆『グレース&グリット―愛と魂の軌跡 (上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)

ケン・ウィルバーが出会うべくして出会ったとしか思えない理想の女性トレヤ。ケンをして「二人は、何度も生まれ変わりながらお互いを捜し求めていた」と言わしめた出会い。ケンの記述にも、トレヤの日記にも、互いにとっての出会いの衝撃が、その意味の大きさが、繰り返し語られている。

そして、結婚直前にトレヤの癌の発見。結婚式の10日後には、ステージ2の乳ガンだと診断され、ハネムーンを病院で過ごすことになる。その後のトレヤの闘病、自分の執筆活動を一切投げ打ってのケンの献身的な介護。トレヤの癌の発見は、もちろん二人を打ちのめす。にもかかわらず二人は互いの愛を確認していく。そしていくぶんか希望が見えたかに見える。しかし、それを打ち砕くような転移の事実。そんなことが何度も繰り返されていく。

結婚後、5年の間にトレヤは、二回の局部再発を体験し、正統医学と代替療法のあらゆる治療を試していく。しかし、やがてガンは脳や肺にまで転移していることが知らされる。余命は、2ヶ月から4ヶ月だと宣告されるのである。

その過程で二人は絶望的な危機に陥ったが、やがてそれを克服して成長していく。まるで二人が出会ったのも、トレヤが癌になったのも、二人の魂の成長のために、はじめから計画されていたかのように。しかし、それにしてはあまりに過酷な試練。トレヤにとってもケンにとっても。

第9章(上巻)は、「ナルキッソス、あるいは自己収縮」と題され、ガンに苦しむトレヤとその介護に消耗しきったケンが、破局の寸前にまでいたる様が如実に描かれている。ケン・ウィルバーにもこのような絶望の日々があったのかと、驚き、かつ胸を痛めながら読む。

しかし、やがて二人は苦しみのどん底で互いに学んで、立ち直っていく。ケンは言う、 「‥‥自我が他人を許そうとしないのは、他人を許すことが自我そのものの存在を蝕むことだからだ。‥‥他人からの侮辱を許すということは、自分と他人との境界線を曖昧にし、主体と客体という分離した感覚を溶かしてしまう。そして、許しによって、意識は自我やそれにたいして加えられた侮辱を手放し、そのかわりに主体と客体を平等に眺める〈観照者〉、あるいは〈自己〉すなわち真我に立ち返っていく。‥‥ぼくの自我はかなり打撃を受け、傷ついていた‥‥だから許し以外には、自己収縮からくる苦痛を解きほぐす方法はなかったのだ。」(下巻P284)

トレヤは、ガンの転移についての知らせを受ける度に、泣き、怒り、打ちのめされた。しかし、そのつど立ち直り、次のように語るようになる。 「困難に立ち向かい、肉体的な健康を手に入れることや、社会で確固とした成果をあげることを、わたしは成功とみなしてきました。けれども今、わたしは、ものの見方の変化、つまり、より高い基盤からの選択とは、内的変化であり、内的選択であること、すなわちわたしたちの存在における内的な変容なのだと感じています。世間的な行為について語り、それを称讃するのは簡単なことですが、わたしが興味をそそられるのは、日々の霊的な修行によって自分自身が内的に変化し、肉体よりもずっと高いレベルまでますます健康になっていくことなのです。」

この本の最後の部分、トレヤの死の前後についてのケンの描写は、読むものの心を何がしか浄化する。ガンの極限の苦しみと眼前の死をこのように生き、このように死んだ人がいたということが、私たちを勇気付ける。

「恩寵(グレース)と勇気(グリット)。「あること」と「すること」。‥‥完全な受容と猛烈な決意。こうした魂の二つの側面、彼女が全人生をかけて闘い取り、そしてついにひとつの調和した全体性に統合することができた、二つの側面――これが、彼女が後に遺そうしたメッセージだった。‥‥彼女の唯一にして第一の、そしてすべてを凌ぐ人生の目的、それを彼女は成就したのだ。その成就は、彼女が達した理解以下ではとても太刀打ちできない苛酷な状況において、冷酷なまでに試された。彼女はそれを成し遂げ、‥‥そして彼女は、今、死を望んでいた。」(下巻P326)

そしてケンは、「彼女との最後の半年は、まるで可能なかぎり互いに奉仕し合うことを通じて、スピリチュアルなハイウェイを一緒に高速でドライブしていたかのようだった」という。この彼の生き方にも心打たれる。本当に大切なことが何であるかを教えてくれる。求道の根源がここにある。

「ぼくは最後になってようやく、不平や不満を言わなくなった。ことに、彼女につかえるために五年もの間、自分の仕事を顧みられなかったことに対する不満を(‥‥)。そうした不満をぼくは完全に手放してしまったのだ。全然後悔などしていなかった。ただ、彼女の存在そのものと、彼女につかえることの、途方もない恵みに感謝していた。‥‥ぼくたちはシンプルかつ直接的な方法で互いを助け合い、互いの自己を交換しあった。だからこそ、自分や他者、「わたし」とか「わたしのもの」といった観念を超越した、永遠の〈スピリット〉をかいま見たのだった。」(下巻P342-343)

トレヤとケンの生き方を読んでいると、この限りあるいのちを限りあるいのちとして自覚したうえで、それをどう生きるか、がもっとも大切だということ、一瞬一瞬その問いを自覚して生きることが大切だということが、強く心に迫って来る。限りあるいのちと自覚した上で、そこで何を学ぶのか、何が大切なのかを問い、それを生きるということ。この問いの根源性を思い起こすために、私はこの本の最後の部分を何度も読み返していくことになるだろう。


◆『意識のスペクトル 』 ケン・ウィルバー (春秋社) 1994年

ウィルバーの『意識のスペクトル』の第1巻は、意識のスペクトル論の全体像の骨格を論じ、それにまつわる問題点を指摘しているのに対し、第2巻は、影のレベルから「心」のレベルへと向かってアイデンティティーを広げる、「治癒と進化の道を論じた方法論」という形をとるという。

ウィルバーの6段階の意識のスペクトルがどのようなものか、簡単にまとめておく。
 @「仮面(影)のレベル」/自分だと信じられた部分〈仮面=ペルソナ〉が本来自分のものである衝動や欲求や思考〈影=シャドー〉を抑圧している。
 A「自我のレベル」/影を統合しているが、身体とは分離している。からだは自分の所有物や道具であって、自分自身ではないと感じられ、そのアイデンティティは、身体を統合せず、排除している。
 B「生物社会的帯域」/自我のレベルから実存のレベルへと統合が進む途中にあり、社会的なプログラム、つまり言語、習慣、教育、文化の習得などが含まれる帯域。
 C「実存のレベル」/アイデンティティが、自我を超えて身体にまで広がっている。統合された心身=有機体が「自己」と感じられている。しかし、この心身一如の有機体は、環境とは分離している。
 D「超個の帯域」/実存のレベルと、心と呼ばれるまったく対立のない領域との間にあり、トランスパーソナルな帯域、超個の帯域と呼ばれる。そこでは環境との分裂はあってもその境界はあいまいで、実際にはESPや共時性、超常現象さえも起こりかねない帯域。
 E「心のレベル」/人間は本来、心(Mind)と呼ばれる非常に幅広く、いかなる分離分裂も二元対立もない状態、世界ないし宇宙と一体化している状態を深層にもっている。東西の神秘思想が、たとえばブラフマン、永遠、無限、空、無、宇宙意識など、さまざまな言葉で表現した、人間と全者が一つとなった究極のレベル。  意識のスペクトルは、電磁波のスペクトルと同じように、ある一貫した連続性をもって展開する。
 

 第2巻は「治癒と進化の道を論じた方法論」という形をとるせいか、読んでいて今自分自身がどのような状態にいるのかとか、ウィルバーのいうセラピー論にしたがって、自分の問題に対してみたいとか、自分への問いかけをしながら読めるのが面白い。

 たとえば第7章「影の統合」では、フロイトからパールズまでの理論を踏まえてわかりやすい事例を引きながら、自我と影の関係を論じ、影を再び自分のものにする実践的方法を探求している。  「われわれの中の否定的性向(影の一面)は、それらに目をつむろうとしても、しっかりわれわれのものとしてとどまり、恐怖、抑圧、不安といった神経症的な症候となってわれわれを悩ませるのである。意識から切り離された否定的性向は、自然に備わった均衡を失い、脅威的な様相をされけ出す。悪というものは、それと友達になることによってのみおとなしくさせることができるのであって、疎外すると、火に油をそそぐようなものである。統合されると、悪は穏やかなものとなり、投影されると非常に悪意に満ちたものになる。」

 これ考え方自体は、目新しい考え方ではないが、否定的な感情を抑圧するのではなく、意識的・自覚的に味わい尽くすというのは、いつでもひとりでも出来ること。ある人物への否定的な感情を、ひとりで徹底的に表現しきって味わってみると、それが自分に統合されていく。 シンプルだが、その通りだと思う。実は、ある人物にこれをやったら、確かにその通りだと実感できた。(読了:0103)


◆『構造としての神―超越的社会学入門 』 ケン・ウィルバー (青土社) 1993年

この本は、トランスパーソナル心理学(超個人心理学)の成果を宗教社会学の分野に注入して、宗教社会学の視野を拡大することを目的とする。それは人類の歴史と社会を、超個人的な次元へと向かう一種の目的論的な視点からとらえ直し新たな意味付けをする壮大な試みでもある。

 ここでは第2章の内容にのみ簡単にふれる。
 第2章「構造的組織体の階層秩序」では、ピアジェなどの正統的発達心理学の階層秩序に超個人的な次元を加えている。発達心理学は、古層レベル、呪術的レベル(アニミズム、ピアジェの前操作的思考)、神話的レベル(具体操作的思考)、合理的レベル(形式操作的思考)という階層秩序を想定する。また、このような発達心理学的・個体発生的な階層秩序は、原始旧石器時代の呪術、古典的な宗教的神話、現代の合理科学という、歴史的(系統発生的)な階層に、それぞれ深層構造において対応すると思われる。  この対応を踏まえてウィルバーの次の印象深い言葉を読んでほしい。

「現在までの進化のコースをみるがよい。アメーバから人類までの道のりを! それならば、このアメーバから人間への進化率を未来の進化に適用したらどうであろうか。つまりアメーバが人間に対する関係は、人間がXに対する関係に等しいのである。Xとは何か? この「X」が、本当にオメガ点、ガイスト、超越心(スーパーマインド)、霊であるかもしれないと言ったら嘲笑されるだろうか。下意識が自己意識に対するのは、自己意識が超意識に対する関係に等しいのではないか。前個人的なそれは個人的なそれに道をゆずり、個人的なそれは超個人的なそれに道をゆずるのではないであろうか。あのブラフマンはたんに進化の根拠であるだけではなく、その目標でもあるのではないであろうか。」

 つまりウィルバーは、合理的思考よりさらに高いレベルがあることを示す。それは、発達心理学的に個人が、さらに高度な意識レベルに至ることを意味するが、同時に、人間の文化全体が、さらに高度なレベルへと進化する可能性をも示唆する。  


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