■ 宗 教 

◆『人類は「宗教」に勝てるか――神教文明の終焉 (NHKブックス)』町田宗鳳(2007年)NEW
◆『禅への鍵』ティク・ナット・ハン(春秋社、2001年)
◆『心理療法としての仏教、禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ』 安藤治  (法蔵館、2003年)
◆『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす』  ティク・ナット・ハン (中公文庫、1999年)

◆『生けるブッダ、生けるキリスト』 ティク・ナット・ハン (春秋社、1996年)
◆『一神教vs多神教』 岸田秀 (新書館、2002年)
◆『禅と日本文化』 鈴木大拙著 北川桃雄訳 (岩波新書、1964年)
◆『悟りと解脱』  ☆玉城康四郎 (法蔵館 )

◆『ダンマの顕現』  ☆玉城康四郎 (大蔵出版)
◆『瞑想の心理学:大乗起信論の理論と実践』可藤豊文 (法蔵館) 2000年


◆『人類は「宗教」に勝てるか――神教文明の終焉 (NHKブックス)』町田宗鳳(2007年)

興味深く、強く共感できる本であった。著者・町田宗鳳の本を読むのは初めてだが、今後彼の他の本も読みたい。この本で強烈に批判されるのは、自分以外の神や真理を赦さない排他的な宗教としての一神教だ。

「宗教は愛と赦しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが私の長い宗教遍歴の結論である。」(P9)と著者はいう。 世界史を少しでも学べば、宗教の名において人類が犯してきた戦争、残虐の数々に誰もが唖然とする。とすれば、この本のタイトルも、著者の結論もまさに真実をついているだろう。「組織宗教」「教義宗教」は、自己の教えを唯一正しいものとするかぎり、他の信仰を排除し、憎むのである。いくら愛と赦しを説こうとも宗教戦争が繰り返され、無数の人々が死んでいった所以である。

本の前半では、宗教の名の下に、とくにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の名のもとにどのような愚行が繰りさえてきたかを具体的に書き連ねている。この本の素晴らしいところは、抽象的になり勝ちなテーマを、あくまでも具体的な事例に即して論じているところだ。それによって「宗教は人を幸せにしない」というテーマが、説得力をもって裏づけられる。 たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。

一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。 いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。

著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。 アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。

「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)

ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。 この本のどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。


◆『禅への鍵 』ティク・ナット・ハン(春秋社、2001年)

マインドフルネスの実践という面からも、その理論的な裏づけという面からも、たいへん分かりやすくエッセンスがまとめられている。禅を語りながら、日本の従来の禅書とは一味違う切り口で禅の真髄に迫っている。にもかかわらずここに語られているのはまぎれもない禅そのものだ。と同時に中観や唯識との関係が明確にされ、 さらに気づきの瞑想を実践するものにとっても大いに参考になる。

もともと欧米の 読者のために書かれた本なので、現代の若者にも読みやすいだろう。その理論的な 説明はきわめて明快だ。禅を中国から日本へという伝統的な視点から解きはなって、ヴェトナムでの発展、欧米での展開、気づきの瞑想として実践という広い視野から見直す新鮮さに溢れる本だ。

実践的には、ティク・ナット・ハンはマインドフルネスを強調する。マインドフル ネスは、サティの英訳である(漢訳は念)。仏教においては、マインドフルネス (気づき)があるかどうかが最も大事なことだ。

「いまここ、現在の瞬間に起きて いることにはっきりと気づいていること」。 「私たちが歩くときには、自分が歩いていることにはっきり気づいています。自分 たちが食べているときには、食べていることにはっきり気づいています。‥‥他の 人たちは、自分たちが歩いたり、食べたり、洗ったり、据わったりするとき、大抵 は、自分のしていることに気づいてはいません。」(釈尊と当時思想家の問答より)

何事も心を専一にして行う、はっきりと目覚めて生きる態度から深い気づき生まれ、 存在の真理があらわになる。日常の生活や仕事は、そういう気づきの課題を遂行する場である。目覚めるとは、統制のきかない思考という習慣病から、明晰で純粋なこころの状態に戻ることだ。 なぜマインドフルネスが大切なのかを禅の伝統や仏教の理論的な側面から簡潔に説得力をもって語るのが本書だ。


◆『心理療法としての仏教―禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ』安藤治 (法蔵館、2003年)

仏教および瞑想、禅などを心理学や心理療法の観点から捉えなおすという試みは、 欧米諸国では盛んになされ、私自身も深い関心をもってそうした視点から人間性心理学やトランスパーソナル心理学を学んできた。この本は、理論面で新たな貢献がある分けではないが、日本の研究者による数少ない取り組みとして貴重であり、後半部で瞑想と心理療法を実践的な視点から比較し、両者の実践上の問題を議論する部分から学ぶところが多かった。  

瞑想、とく洞察型の瞑想がさまざまな角度から心理療法と比較される。それによ って洞察型の瞑想がどのようなものであり、現代人にとってどんな意味があるのかが自ずと浮かび上がる。そうした視点から語られる瞑想の説明は分かりやすく実践上の示唆にも富む。  

たとえば「集中型」と「洞察型」という二つの瞑想の違いは以下のように表現さ れる。   

「集中型」の瞑想とは、たとえば炎やマントラなどの対象に注意を固定するタイ プで、ヨーガなどで広く行われる。日常的な精神機能が抑えられ、注意が固定され ることで、ある種の深い精神の集中状態がもたらされる。  

「洞察型」の瞑想では、集中よりも内面の精神機能の性質を洞察することに重点がおかれる。その代表であるヴィパッサナー瞑想は、近年のアメリカでは、「マイ ンドフルネス・メディテイション」として心理学用語としても定着してきた。ヴィ パッサナー瞑想では、痛みなどの身体感覚でも、感情や思考などの精神内容でも、 意識にのぼってきたものは何であれ無視しない。それらに判断を下したり、選択し たり、注意を固定したりせずに、ただ生起するまま、過ぎゆくままに観察する。そ して自身の精神プロセスをより明晰に知り、瞬間ごとへの気づきを培い、ある種の洞察を得ることに重点が向けられる。  

瞑想と心理療法との比較の一例を紹介しよう。瞑想においては、意識に上る内容 に意味を感じ取ろうとしたり、それを理解しようとしたりする観察側の意図が極力退けられる。つまりこの過程は、体験内容や考えや感情にしがみつこうとする自我 の傾向、すなわち、絶えず何かに無意識的に同一化(執着)しようとする動きを緩 める。この「目撃的反省」の治療的意義に触れたのが、イタリアの精神科医アサジ ョーリが提唱した「脱同一化」である。  

瞑想では、自分が行っているさまざまな「同一化」に気づき、それに距離をもっ て接する過程が促進される。自動的に沸き起こっている知覚や反応のパターンを観察することによって、そこからの解放がなされる。つまり、「同一化」した症状や 「古い自分」に対して、それらを相対的に捉える視点が生み出されるという、すぐ れた治療的意義が瞑想にはあると言える。

もちろん著者は、瞑想が通常の心理的な治療を超えた深さをもつゆえに適用を間 違えば深刻な問題を引き起こす場合もあることを指摘する。その上で「瞑想的実践 や現代心理療法に現代人の強い関心が集まっているのは、私たちが集合的規模でこ この内面の探求を行い、それをただ自身の治癒に役立てようとするだでけではなく、 訪れてきた大きな時代の波を乗り切り、その先の時代を歩むために心を成長させる 必要性を強く感じているかからではないだろうか」というような広い視野からの考 察も行っている。


■『一神教vs多神教 』 岸田秀 (新書館、2002年)

  この本の主張は、すこぶる面白く、二重の意味で刺激的だった。  ひとつは、一神教は、差別され迫害されて恨みを持つ人々宗教であり、その被害 者意識が外に向かう攻撃性になるという、この本のテーマそのものによる。これを ユダヤ教、キリスト教の成立過程などから興味深く論じている。

  もう一つは、自我は幻想だが、必要悪であり、人間は自我という病から抜け出す ことはできないという岸田の基本となる説による。この、自我=幻想論が随所にで てくる。かつて、この説に反論を加える小論を書いたが、この本でもやはり彼の限 界になっており、もう一度批判を加えたいと感じた。  (かつての小論は、以下を参照のこと→真の「自己」の幸福論

   しかし、この本のテーマそのものについては、ユダヤ教、キリスト教と西洋文明 の関係を鋭い洞察力で論じた本だと思った。対話だから、肉付けや裏付けは不十分 だが、骨子は一貫性があって、説得力をもっている。これが学問的な肉付けをとも なうなら、かなり衝撃的な理論ということになるのだろうが。  

 一神教は、迫害され恨みを抱いた人々の宗教である。一神教の元祖であるユダヤ 教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教だった ために恨みがこもっている。ユダヤ民族は、出身がばらばらの奴隷たちがモーゼに 率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」で、同じくユダヤ教自 体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へ と形成されていった。

  一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い 者に移譲しようとする。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補 償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を 慰める。  多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し 付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者 のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き 込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではない か。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型 的に現われている。

  ずいぶん乱暴な議論と感じられるかも知れないが、実際は聖書や他の様々な文献 への言及も含めて語られ、かなり説得力があると感じた。

  岸田は、一神教を人類の癌だとまでいうが、それは一神教の唯一絶対神を後ろ盾 にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしたからだ。 さらに一神教は、世界を一元的に見る世界観であり、その世界観がヨーロッパの世 界制覇を可能にした。まずは、キリスト教化されたローマ帝国が、キリスト教を不 可欠の道具としてヨーロッパを植民地化した。そのキリスト教によって征服された ヨーロッパが、それを足場にして世界制覇に乗り出したのだという。

 岸田は、自我というのは本能が崩れた人類にとっての必要悪であり、病気である という。強い自我というのは、その病気の進行が進んでいるというである。だとす れば、必要悪である自我を、あまり強くせず、いい加減な自我を持ったほうがいい、 つねに自我を相対化し、ゆとりのある多面的な(多神教的な)自我のほうがいいと いう。

 私が批判したいのは、ゆとりのある柔軟な自我の行き着く先に自我を超えたあり 方(たとえばクルシュナムルティのような)があることを岸田が認めないことだ。 このあたりの批判は、『精神世界の旅』のほうでじっくりやりたいと思う。 (02・11)


◆『生けるブッダ、生けるキリスト 』 ティク・ナット・ハン (春秋社、1996年)

ヴェトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンは、ヴェトナム戦争中に事務所に手榴 弾を投げこまれなどしながら、反戦と和平のために奔走、アメリカで行った率直な 和平提案を理由にヴェトナムへの帰国を拒否されて亡命した。南フランスに仏教者 の共同体を開設し、「行動する仏教(エンゲイジド・ブディズム)」を提唱して活 躍する。  

本書は、おもわず夢中になって読み進み知的な興奮を覚えるという種類の本では ない。しかし、翻訳の文章であっても、その平易な言葉から澄んだ慈しみと力に満 ちた魂の響きが伝わってきて、読みながらかなり影響を受けた。  

なによりもまずキリスト教と対話する姿勢が印象的だ。キリスト教の宣教師たち がヴェトナムの植民地化に加担し、仏教徒にいかに横暴な態度をとったか、その生 々しい体験を超えて、なおかつキリスト教のもっとも真実なものに深く共感する姿。 キリスト教との対話を踏まえて、以下のように語る。

「対話とは一方の側が自己拡張して、相手方を自分たちが主張する『自我』にとりこんでゆくという意味での、一方による他方の吸収同化手段ではありません。対 話には自他の区別を超えた『無我』という視点が必要です。相手が基盤としている伝統が持っているよいもの、美しいもの、そして味わい深いものに心を開いて、そ れを自分が変わってゆく力としてゆかねばなりません。 ‥‥たとえば、もしも両親や家族、社会、あるいは自分の宗派と教会とのあいだ に争いが起こったときには、おそらく自分の心のなかに波風がたっているはずです。 したがって、最も大切な平和の仕事は、まず自分に戻って、自分の心のなかで起こ っているさまざまな現象、すなわち感受作用、認識・判断作用などの心の状態をじ っと見つめてみることです。自分の内部を深く見つめる瞑想の練習が大切なのはこのためです。」  

おそろしく気の長い話かだが、これまでの人類の歴史を見るかぎり、そして現代 の世界を見るかぎり、「自分の内部を深く見つめる瞑想」は計り知れず大切なのだ と思う。瞑想によってもたらされる「うちなる平和」こそが「行動する仏教」を支 えている。  

また、日常生活のなかでの気づきの瞑想が大切にされているにも強い共感を覚える。ヴェトナム戦争のさなかに僧院にこもって周囲の苦しみを回避するのではなく、 空襲にあえぐ人々の苦しみを少しでも軽減しようと、ともに働きながら、気づきの瞑想を維持していく姿。  

「‥‥瞑想的雰囲気のなかで日常の仕事をこなしてゆく方法があるでしょうか。 答えはイエスです。気づきの料理、気づきの片づけ、気づきの掃除、気づきの洗濯 の練習です。気づきをもって日々の仕事に関わるとき、私たちは究極の実在に触れるのです。」  

仏教の瞑想経典中もっとも基本的な『サティパッターナ・スッタ(四念処経、四 念住経)』(パーリ語経典)の中に、どのような状況下でも、どんな仕事をしてい ても一日中気づき(サティ)の練習をせよと書かれているという。座禅時だけでな く、食器を洗っていても水を運ぶときも気づきの練習をする。この教えに基づいて ヴェトナム戦争中、修行を捨てずに「行動する仏教」の改革運動を推進していった という。

つまり彼は禅僧でありながらヴィパッサナー瞑想をも重視している。『四念処経』 のコメンタリー『TRANSFORMATION&HEALING』(Parallax Press)という著作もある。


◆『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす 』  ティク・ナット・ハン (中公文庫、1999年)

著者は、瞑想の実践と非実践の間の垣根を取り除くような仕方で、瞑想を実践し ようと提唱する。日常の中で、マーケットで、空港で実践する仏教、それが「行動 する仏教」だという。社会的政治的問題に仏教を役立たせたり、爆弾に抗議したり するだけではなく、まず仏教を日常生活のなかにもたらす。夕食のとき、遊びのと き、眠るときに応用することによって、仏教は日常生活において行動するものにな るという。  

『ビーイング・ピース』という書名は、「行動する仏教」が内なる平和のもとに あること、自らが平和であることから始まることを示唆する。最も大切な平和の仕 事は、まず自分に戻って、自分の内部を深く見つめる瞑想なのである。しかもそれ を日常生活と切り離さずに行うのだ。  

また、「どのような教条、理論、イデオロギーであっても、たとえそれが仏教の ものであっても、それを盲目的に崇拝し、あるいは、それに縛られてはならない。 すべての思想体系は、人を導くための手段であって、絶対的真理ではない」という 教えは、自分のサイトの冒頭の言葉からも察していただけるように、まさに私自身 が貫き通したい姿勢である。  

言葉使いはあくまで平易で、しかも詩人でもある著者の印象的な詩がちりばめら れている。様々な意味で日本の伝統的な仏教に新しい息吹を吹き込んでくれる。こ の著者からさらに学んでいきたいと思う。


■『禅と日本文化 (岩波新書) 』 鈴木大拙著 北川桃雄訳 (1964年)

若き日に読んでかなり影響を受け、その後仏教への共感を深めていくきっかけになった一冊だ。鈴木大拙の著作の中で、世界でそして日本で最もよく読まれた本であろう。欧米に禅ブームを引き起こすのに一役も二役も買った。 禅は日本の文化にどんな影響を与えてきたか、そして禅とは何か。もともと欧米人のために英文で書かれた。そのためか随所に心理学的な用語が用いられている。かえってそれが、現代の日本人にも新鮮な禅との出会いを可能にする。

私が「心理療法の考え方に通じる」と 「発見」したのも、そんな表現法によるところが多い。 私はその頃、ロジャーズを中心とした心理療法に関 心をもち初めており、禅の主張が心理療法の考え方に深く通ずることを「発見」し、たいへん感動した。それ以来、仏教と心理療法、人間性心理学、トランスパーソナル心理学等とは、一方の理解が他方の理解を深めるという形で、私にとっての主要な関心であり続けた。 その意味でも思い出深い本だ。 その後、特にトランスパーソナル心理学は、仏教に代表される東洋思想に深く影響されながら発展していったのである。その代表的な論客、ケン・ウィルバーは、禅からも深い影響を受け、深い座禅体験ももつ。

いかに心理学的な記述が多いか、一文だけ引いてみよう。 「偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を捨て去って、『無意識』の働きにまかせるとき成就せられる。神秘的な力が何人(なんぴと)の内にも隠されている。それを目ざましてその創造力を現すのが参禅の目的である。」こんな調子だ。

この本は、禅を、美術・武士・剣道・儒教・茶道・俳句など日本の伝統文化のあり方に即して具体的に語るので、その意味でも禅への入門書としてすぐれている。禅が、日本の伝統文化の一面にいかに深い影響を与えたかが、説得力をもって語られる。   梅原猛は、この本が日本文化の禅的な一面だけを強調しすぎることを批判したが、にもかかわらず、この書が古典的な名著であることにかわりはない。

☆なお、「覚醒・至高体験事例集」の「スポーツ選手の場合」には、本書から引いた闘牛士の至高体験を掲載しているので、併せご覧ください。 (02・10)


玉城康四郎 『悟りと解脱』 (法蔵館 )

◆1999年に83歳で亡くなった著者の最後の著作で、遺稿を含む。著者の晩年の著作に共通する清澄な空気と真実そのものから発するような力にみなぎっている。  

◆形なき<いのち>そのものであるダンマが、全人格体に顕わになり、浸透して全宇宙に充足するという事実を、ブッダだけでなく、イエスに、ソクラテスに、孔子に、親鸞に確認していく。

◆特に聖書のプネウマ(従来は聖霊と訳されるが)を仏教のダンマと重なり合うものとして考察する論はなるほどと思わせる。イエスはブッダと同じいのち(プネウマ)に開示されていたのだ。筆者はいう、

 ブッダにおける「いのちの開示は、たしかにその後の仏教の展開の根拠にはなっている。しかし開示そのものは、仏教の枠組みを超えている。一個の人間に<いのち>が開かれたのである。開かれてみれば、<いのち>そのものが動いてきたことが明白である。<いのち>からいえばおのずからなる流れである。」<>内は元は傍点  

◆この捉えかたそのものは、臨死体験者が特定の宗教的な枠組みを超えたところで根源的な体験をし、無限のいのちに開かれていく、そして実際に特定の宗教に囚われない深い精神性を自覚していく、という事実に共通するものを感じさせる。

◆孔子もまた、ブッダと同じ形なき、<いのち>に開かれていたということを説得力をもって論じる部分は感動する。ごたぶんににもれず私も『論語』をじっくり読んだことはない。しかし<いのち>の開示という観点から孔子を読み直すと、通徹する<いのち>を生きていた孔子という像が鮮やかに蘇る。 (読 :0205)


◆『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』 玉城康四郎 (大蔵出版)

 著者の仏道にかける並々ならぬ思いが伝わる。何かが直接に響いてくる。形なき「いのち」が、著者の全人格体に充溢し、大漠流となって吹き抜けるという。その「いのち」のほんのひとかけが、私にも働きかけて来ているような感覚にとらわれる。 著者に顕現した「いのち」、それへと向かい行く著者の姿勢のすべてが、それに触れる私のたましいをなにがしか浄化してくれるような気がする。

 「ダンマというのはダンマとしか言いようのない、実は言葉では著すことの出来ない、形のない「いのち」そのものです。今日の言葉で言うと、宇宙を貫いている「いのち」そのものです。私も今生きておりますら、命に基づいて生きている。その私の今生きている命そのものに、宇宙を貫いているいのちが通じてくる。だから当然フーッと開かれていく。‥‥その形のない「いのち」そのものが、熱心に禅定に入っている私自身にあらわになる。これが解脱の瞑想です。」

 こんなにも高齢になるまで、没する直前まで、かくも真摯に仏道を求めた人を知り得ただけでも幸せであった。 「男一匹、生涯をかけた仏道は、ついにこの世では成就しないのであろうか、私はいくたび、絶望の淵に突き落とされたことであろう」とまえがきで語る。その仏道にかける情熱がひしひしと伝わり、心を動かされた。 座禅へ取り組む姿勢だけでなく、学問的な研究の情熱にも刺激された。

 仏道を、こんなにも真摯に求め、しかも学問的な研究でも大きな成果を残したとは。本の最後の論文を読むと、道元の研究と、道元からの学びの姿勢が一体化しているのが良くわかる。(読了:0107)



◆『瞑想の心理学:大乗起信論の理論と実践』 可藤豊文 (法蔵館) 2000年

 私は、 大乗起信論という仏典に興味が深いのだが、これはその単なる解説書・注釈書ではなく、この仏典を手掛かりとして現代に生きる人間の根本問題を解明し、再検証しようとしたとのこと。ときに現代心理学や物理学の知見も参照され、わかりやすい。著者の熱気や真摯な語り口が伝わり、自分自身に覚りへの道を強く呼びかけられたような読後感が残る。0008

 

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