■ 心 理 学
◆『ものぐさ社会論―岸田秀対談集』(青土社、2002年)
◆『人の心はどこまでわかるか』河合隼雄(講談社、2000年)
◆『日本がアメリカを赦す日』岸田秀(文芸春秋、2004年)
◆『日韓いがみあいの精神分析』岸田秀・金両基(中央公論新社、2002年)
◆『影の現象学』河合隼雄(講談社学術文庫、1987年)
◆『サブリミナル・マインド』下條信輔(中央公論新社、1996年)
◆『カール・ロジャーズ入門、自分が"自分"になるということ』、諸富祥彦、 (コスモライブラリー、1997年)
『完全なる人間・魂のめざすもの』 アブラハム・H・ マスロー著 上田吉一訳 (誠心書房、1998年)
『生きる自信の心理学』 岡野守也 (PHP新書、2002年)
『生と死の接点』  河合隼雄 (岩波書店) 1989年
『「ケータイ・ネット人間」の精神分析』 小此木啓吾 (飛鳥新社) 2000年
『これからの日本』 河合隼雄 (潮出版社)
『自我と無我』 岡野守也 (PHP新書)



◆『ものぐさ社会論―岸田秀対談集』(青土社、2002年)

岸田秀の、とくに歴史や社会を精神分析の方法で分析する議論には、読むたびに刺激され る。したがって、この対談集のなかでも、アメリカとの関係から日本人を語る『日本人に とっての「会社」と「アメリカ」』(対談者:田中滋)や、北朝鮮を大日本帝国の継承者として 精神分析する『北朝鮮とは何か』(対談者:三浦雅士)が示唆に満ちていた。特に後者の分析は、北朝鮮をこれまでとは違った視点から一望させてもらった。

岸田は、人間が自我というものを持っているかぎり、個人のアイデンティティが必要であり、 アイデンティティには根拠が必要であるという。個人のアイデンティティは、つねに集団的なアイデンティティに支えられることが必要で、今のところその根拠としては、国家や民族に代わる適当なものがない。

私自身の中にも「日本人としての私」というアイデンティティから発する感情、劣等感や優越感が根深く存在している。そして自我からの開放、その過程としての心理的成長は、個人のアイデンティティの基盤としての、国家意識や民族意識から開放とも深く関係しているはずだ。私自身の最大の関心事である心理的成長とその理論からしても、個人のアイデンティ ティとその根拠としての集団的アイデンティティとの関係は、無視できない大きな問いなのである。

現在、世界にうずまく国家相互の軋轢、戦争、民族紛争などの現実的な問題も、かなり大き く個人と集団のアイデンティティの問題にからんでいるのではないか。だからこそ、個人の心理の問題と国家相互の関係という問題が、たんなる比喩以上の類似性をもって語ること ができ、またもっと声高に語るべきなのだ。

ヒトラーのナチス・ドイツについての優れた研究は、マルクス主義とフロイディズムの双方に影響を受けた人々のものが多いという。アドルノ、ホルクハイマー、フロム、マルクーゼらで、 彼らは精神構造にまで踏み込んで、フロイド的な分析方法をとっている。つまり、フロイド的 な方法は、社会心理の分析においてもきわめて有効なのである。その意味でもわれわれは、 岸田秀の仕事をもっと評価して、それを深めるなり、実証的に基礎付けるなりして、発展させていくことが必要と思われる。

劣等感を感じる人間は、権威をほしがる。ユダヤ人は、エジプトなどで奴隷として差別されたがゆえに、一神教をつくり、その神に支えられた絶大な権威をもつ家父長制を作った。岸田によれば、大日本帝国も朝鮮民主主義人民共和国も、根深い劣等感から、家父長制的 な超国家主義の体制を作り上げたのである。

集団として体験した劣等感は、個人の劣等感に色濃く反映される。たとえば、アメリカによ り強制的に開国を迫られたことの集団としての劣等感は、個々人の劣等感に反映され、私たち日本人一人一人のなかに欧米コンプレックスが巣食うことになる。それを跳ね返すため に個々人が、依拠すべき権威を欲し、その心理に乗じて超国家主義的な体制が出来上がる。大雑把にいって、そんな相互関係がはたらいているのだろう。 劣等感を感じた人間が権威を欲するように、国家もそれを欲するだろう。

今、北朝鮮は権威 や誇りのために現実を直視できなくなっている。そこには、北朝鮮の指導者たちの自国に対 する劣等感が強く働いているだろう。と同時に指導者を暗黙のうちに支持する、国民たちの 劣等感もそこに共鳴しているだろう。劣等感を感じた人間が権威を欲するように、国家もそれを欲するだろう。今、北朝鮮は権威や誇りのために現実を直視できなくなっており、そこにこ の国の困難な病弊のひとつが隠れている。 (05/11)


◆『人の心はどこまでわかるか』河合隼雄(講談社、2000年)

久しぶりに河合隼雄の本を読んだ。現場で活躍する心理療法家たちのさまざまな質 問に答えるかたちで出来上がった本である。気軽には読めるが、読むほどに人と人 のかかわりについて胸にしみるような言葉が多かった。 現場で苦労する心理療法家たちの真剣な質問に、著者も熱心に語り、小冊子ながら 奥行きと幅のある、良質な本になっている。

著者が、来談者にかかわる姿勢が、じ かに感じられる。 人は、悲しみや苦しみのどん底にあっても、ほんとうにそれと無きあうことができ るならば、必ず立ち上がることができる。カウンセラーは、引き上げようともせず、 逃げもせずに、ただ「そこにいる」ことが大切だ。深い苦しみを抱えた人と、心も 体も一緒にいるということは、苦しいことだが、「何もしないことに全力をあげる」 ことこそに意味がある。こっちが逃げたり、こわがたったりすれば、食らいついて くることもある。心理療法家の訓練は、ライオンが来ても逃げない修行のようなも のだ。

この基本的な主張がどれほどに大切かということが、ずしりと伝わる。深いところ にどんと安定して来談者にどこまでも付き添っていく限りない包容性。それでいて ちょっとした言葉の端はしに、こちらがハッとするような細やかな指摘があったり して、じつに参考になる。 心理療法について語りながら、人間と人間との関係についてのもっとも深いところ に平易な言葉で触れていく、魅力的な本だ。 (05/06)


◆『日本がアメリカを赦す日 (文春文庫) 』 岸田秀 (文芸春秋、2004年)

著者は、精神分析を国家のあり方に応用し、日本をペリー・ショックによる精神分 裂病患者、アメリカをインディアン虐殺に起因する強迫神経症患者として実に興味 深く分析している。このテーマは、著者がK・D・バトラーと対談した『黒船幻想』 でも語られたが、本書ではさらに詳しく展開される。

現在までの日米関係における様々な軋轢は、ペリー来航による開国の強要に始まった。 この軍事的威圧による開国を著者は、アメリカによる日本の〈強姦〉と表現する。 それ以来、日本はこの屈辱を内に秘める。 一方、アメリカは日本人をインディアンと無意識的にも同一視しており、アメリカ にとって日本との関係は、インディアン征服の延長線上にあった。日本を開国させ、アメリカ文化を受け入れさせ、アメリカの世界に引き入れることは、インディアン虐殺を正当化することを意味した。

つまり、アメリカがかつてインディアンをアメ リカの世界に引き入れることに失敗し、虐殺せざるを得なかったのは、インディア ンがその野蛮な文化に執着し、優れたアメリカ文化を拒否する愚を犯したからであ る。悪いのはインディアンであり、アメリカではない。それを証明し、「日本を見よ」と言えるためには、日本をアメリカ世界に引き入れる必要があった。そのため アメリカは、開国以来の日本を好意的に援助してきた。 日本は、それに応えて友好的態度を示し、アメリカに感謝しているようだった(日本の外的自己=表面の顔)。

ところが日露戦争に勝っていささか自信をつけた日本 は、〈強姦〉された恐ろしいアメリカに迎合するためにこれまで無理して見せていた外的自己を少し引っ込めた。そして、アメリカに〈強姦〉され、傷付けられた誇 りを回復しようとして、内的自己を表明し始める。アメリカの脅迫に屈した屈辱と恨みは、無意識的にせよ、日本人の心の底流にくすぶっていたのだ。それが日露戦争後から徐々に表面化し始め、そしてついに噴出したのが真珠湾奇襲だった。

それに対してアメリカは、そういう日本人の反応にインディアンの亡霊を見て、過激な反応と的外れな言動を繰り返してきた。日本は、隠された内的自己でアメリカ を恨みながら、外的自己で愛想笑いをしてアメリカに屈従してきたのである。

この屈折した両者の関係はどうすれば終焉するのか。著者は言う、アメリカが無意識へと抑圧しているインディアン・コンプレックスを意識化し、分析し、克服した上で、日本に謝罪する。日本は、内的自己と外的自己の分裂を克服し、アメリカに謝罪する。その時はじめて相互理解にもとづいた、真の意味での友好的な日米関係が始まるだろう、と。

フロイトの理論を国家のあり方や国家間の摩擦に応用して精神分析するという手法 は、それ自体たいへん興味深いが、元来個人の無意識に適用されるべき精神分析の手法が、集団や民族や国家に適用できるのだろうか。それは、オリンピックで自国選手の活躍を我ことのように喜んだ今年の夏を思い出すだけで充分だろう。私たち個々のアイデンティティに国家が、それほどに深く組み込まれているのだ。そうい う集団が作る国家意識を、個人の精神分析と類比的に扱えないはずはない。

岸田の分析をすべて受け入れる必要はないだろうが、少なくともこうした視点から 日米関係を振り返るための重要な素材が提供されたと言うべきだろう。また、国家 としての集団の精神構造を自覚的にとらえる作業は、自分自身の精神構造を自覚化する上でも大切だ。

余談だが、トム・クルーズが主演した『ラスト・サムライ』を、私は映画として評 価しないが、インディアンと日本人とをオーバーラップさせるアメリカ人の意識が、 ストーリーや画面に計らずも反映していて興味深い。またそこには、インディアン虐殺に対する罪悪意識を浄化しようとする、たぶんに独善的なひとつの形が暗示さ れているとも言えよう。 (05/06)



◆『日韓いがみあいの精神分析 (中公文庫) 』岸田秀・金両基(中央公論新社、2002年)

『日本がアメリカを赦す日』にしても、この本にしても、私が興味をもって読むのは、心理学や心理療法への関心の延長上で歴史や社会を読み解くことができるからだ。こういう視点からズバリと社会現象をえぐる著者は、あまりいないし、その分 析力も鋭く興味深い。

日本列島にひろく縄文人が分布していたところへ、稲作技術をもった弥生人が大陸 から九州へ、そして徐々に東進して関東地方にまでいたった。そして大和朝廷が成立する。私たちはみな多かれ少なかれ縄文人と弥生人の混血であり、日本国家成立 の基盤において朝鮮半島から渡来した人々と文化が密接にからんでいるであろう。 にもかかわらずそれを打ち消そうした無理が、日本人の心理にゆがみを与えている、 とくに韓国人に対する心理に。

日本人の差別意識についての岸田の分析をまとめよう。 キリスト教は、ユダヤ教の一分派だが、キリスト教徒はユダヤ人を長く憎み続けている。誰しも自分の本当の起源が嫌いなのである。自分の独自性を損なうからである。日本人は、建国の時以来、朝鮮とのつながりを否認し、純粋な日本人という幻想をもつことで、日本を建国した。そのような幻想と否認によって、自己のアイデ ンティティを保とうとするとき、否認する相手への差別意識が必要となる。

しかし、差別意識には時代によって強弱の波があり、外圧のなかった江戸時代には、 外に向かってアイデンティティを強調する必要もないから、差別意識が強まったと は考えにくい。韓国人への差別意識が強まったのは、明治以後ではないか。ペリーに開国を責められて屈したために、ヨーロッパ人への劣等感が生まれ、その補償と して自分より劣等と思える存在が必要となった。それが韓国人やアジア人全体への差別意識につながったというのだ。

かなり納得のいく分析だと思う。韓国人への差別意識の根拠が、二つの面から語ら れている。自分の本当の起源は忘れて、自分の独自性を保ちたいという面と、圧倒的な軍事力をもって迫ってきた欧米人への劣等感の裏返し。 とくに後者は、個人の心理としても、きわめて重要であり、個人心理としても、我々 の心のなかには、欧米人への劣等感と、その裏返しとしての、非欧米人への優越意識とが共存する。自分が非欧米人であることも忘れて、経済的な発展などを背景に 優越感に浸る。これは、個人心理が、そのまま集団心理ともなる、きわめて普遍的な心理現象だろう。 韓国人に対しては、自分の起源を否認したいという心理も働き、二重の意味で差別 意識が強くなったのだろう。

岸田の分析は、全体として日韓関係や、日本の対アジ アへの姿勢を考えるうえで大いに参考になると思う。それだけではなく、我々一人 一人のなかにある差別意識を自覚化し、その根元にどんな経験が横たわっているのかを知るうえでも貴重な分析だと思う。 民族差別の問題は、個人の差別意識がそのまま国家レベルの差別意識に連動し、歴 史の流れに影響していると考えて間違いない。いや、国家レベルの経験が個人の意識に反映していると言うべきか。

ひとつはっきりしているのは、個人個人が、自分の無意識に根ざす差別意識を自覚 化し、解消していかない限り、国家レベルの問題の解消も困難だろうということだ。 その意味でも、岸田秀の仕事は、もっともっと議論されてよいと思う。 最近の韓流ブームは、もしかしたら私たちが、これまで日韓の間にあった無意識的 なゆがみが解消されていくことの重大な兆しなのかも知れない。 (05/05/01)



影の現象学 (講談社学術文庫) 』河合隼雄(1987年)

私が手元にあるのは1976年に思索社から出版されたものだが、今では講談社学術文 庫で手に入る。数多い河合の著書の中でも代表的なものの一つだろう。ユングの 「影」の概念を中心にしてユング心理学の世界が語られ、「影」という視点からの ユング心理学へのよき案内ともなっている。

自我は、まとまりのある統一体として自らを把握している。しかし、まとまりをも つためには、それと相容れない傾向は抑圧される。その生きられなかった半面が、 その人の影である。ただ、影の概念は多義的であり、狭義には、夢に現れてくる人物像で、夢を見た人と同性のものを影、異性のものをアニマ(男性の夢の中の女性像)、アニムス(女性の夢の中の男性像)と区別しることもある。

影は、もちろんすべての人間が背負い、その大きさや濃淡、影響力を変化されなが ら人生の歩みに付き添ってくる。それは、しばしば意識を裏切り、自我の意図とは 逆の方向に作用する。自分の影につき動かされて行動し、自らの破滅を防ぎきれな いことすらありうる。

ときに影は、個人だけではなく、人間関係や集団の動向にとってもきわめて大きな力をもつ。 個人に影が存在するように、人々が集団をなし、共通の理想や共通の感情によってとまるとき、そのような自覚的な共同幻想からはみ出す部分は影となるのである。 集団の影を背負う人は、予言者、詩人、神経症、犯罪者になるか、あるいは一挙に影の反逆に成功して独裁者になるか、何らかの異常性を強いられるという。誰が選 ばれるにせよ、そこには運命としか呼びようのない抗しがたい力が働く。

集団の影が、その集団自身に反逆するだけならまだしも、その巨大な影を外部に投影して破壊的な行動をとるとき、どんな悲劇が生まれるか。しかし、現実には、そ のような集団の抑圧された破壊的なエネルギーが、悲惨な結果を積み重ねてきたのが、現実の歴史だろう。ユングは、たとえばナチスの動きをキリスト文明の影の顕現と見ていたという。私は最近、集団にとっての影というテーマにとくに強い関心 をもっている。

影は、自我に受け入れられなかったものであり、元来は悪と同義ではない。しかし、 創造性の次元が深くなるにつれて、それに相応して影も深くなり、普遍的な影に接近すると、悪の様相をおびることもある。自己実現の要請は必然的に影の介入をも たらし、それは社会的な一般通念や規範と反するという意味で、悪といわれるものに近接するのである。その時に、社会的通念に従って片方を抑圧しきるのでもなく、 また、影の力を一方的に噴出せしめるのでもない。あくまでも両者を否定すること なく、そこに調和が到るのを「待つ」ことが大切だという。

影の得体の知れない奥 深さ、不思議さと豊かさ、そして恐ろしさ。この本からは影のそうした多様な姿が伝わってくる。ただ単に抑圧されたものを解放すれば覚りにいたるというほど、こ とは生易しくはないのだろう。 神話や説話、文学作品、河合が接した事例や、報告された夢などの具体例に触れな がら、ユングの元型論をベースに「影」をめぐる考察が豊かに展開される。影の創造性、善と悪の関係、影の存在の無限の広がりが示唆されて、私たちの心の深層の 不思議さを強く印象づける本である。(追記、2005/4)


サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ 』下條信輔(中央公論新社、1996年)

1520年、世界周航をめざすマゼランとその一行が、南米最南端のフエゴ島に 到達 したときのこと。マゼラン一行は上陸のために、自分たちの大型船四隻を島 の湾内 一時停泊させた。何世紀もカヌーだけで生活してきた島民たちは驚きの目で 上陸してきた彼らを見た。  

しかし、マゼラン一行がどのようにしてやって来たのか、島民たちはまったくわ からなかった。なぜなら、フエゴ島の人々の目には湾に錨をおろしている大型のス ペイン帆船の船団が映らなかったからだ。島民の目には、大型船団に視界を遮られ ることなく、いつもと同じように、湾の向こうにのびる水平線が見えていた。 これはその後、何度目かのフエゴ島再訪の際、島民たちがマゼラン一行に語ったことか らわかったという。彼らの頭のなかの枠組に大型帆船のイメージがなかったため、 目には映っていても、その映像を脳が拒否し、見れども見えなかったのである。 (濱野恵一著 『インナー・ブレイン』)

この話は、サイト「臨死体験・気功・瞑想」の中の小論(「覚醒・至高体験とは」) でも紹介した。『サブリミナル・マインド』には、こうしたエピソードを裏付ける ような実験例が載っている。 知覚心理学では、タブー語を瞬間呈示すると、無意識裡に抑制されて、主観的に は「見えない」という実験が報告されているのだ。タブー語とは、観察者本人にと って強い不快感や羞恥心をもたらすことば、たとえば性的なスラングとか、ユダヤ人にとってのハーケンクロイツなどである。無意識的な認知プロセスが働いてタブ ー的な語をあらかじめ選別し、知覚意識に昇るのを抑える「知覚的防衛」が働くら しい。フエゴ島の人々には、まさに同様の「知覚的防衛」が働いたのであろう。  

この本は、こうした様々な「潜在的な認知過程」を豊富なデータに基づいて論じ る。「潜在的な認知過程」というと精神分析学や深層心理学でいう「無意識」を連想するかも知れないが、この本で扱う「潜在的過程」は、それよりもはるかに広い射程をもち、行動・認知・神経科学的な過程を含む。それらの各分野において、フ ロイトの時代よりどれほど多様で豊富で説得力のあるデータが蓄積されているかが、 読み進むにつれていやというほど分かる本だ。  

人は自分で思っているほど自分の行動の動機を分かっていない。自覚がないまま に意志決定をし、自分の行動の本当の理由には気づかない。「認知過程の潜在性・ 自働性」がデータの上でますます強力に実証される。そうした事実は、確かに人間 の意志決定の自由と責任に関する社会の約束ごとさえ脅かす。

しかし、だからから こそ瞑想に関心をもつものは、瞑想的によって深まる「自己覚知」によって、そう した「潜在的認知過程」からどれほど解放されるのか、自ら実践的に問い続けるべ きだと思った。 (追加 2004/7)



◆『カール・ロジャーズ入門―自分が“自分”になるということ 』、諸富祥彦、 (コスモライブラリー、1997年)

  現代日本の心理療法の世界にカール・ロジャーズが与えた影響は大きい。来談者 中心療法というその方法だけでなく、その人間観、人間関係論、教育論など、多く の面で彼の思想から学ぶべきことは、なお多い。この本は、ロジャーズの生き生き とした人間的な側面を伝えるという意味でも、かっこうの入門書だ。

  ロジャーズの著作としては、岩崎学術出版社から『ロージャズ全集』全23巻が 出版されたが、高価ですでに入手しにくい。インターネットで検索すると、ロジャ ーズが書いたもので手に入りやすいのは晩年の主著『人間尊重の心理学―わが人生 と思想を語る』 (1984、創元社)くらいか。その意味でも諸富氏の入門書は貴重だ。

 私自身は、サイコセラピーを専門にするものではないが、ロジャーズから実に大 きな影響を受けてきた。またロジャーズに影響を受けたことが、その後仏教や精神 世界に関心を広げ、それらを学んでいく上での、重要な踏み台となったと感じる。 ロジャーズを学び、またカウンセリングを体験的に学習することが、「自分が"自分" になる」過程であった。まさに自分自身の中の成長しようとする《いのちの働き》 が、ロジャーズに共鳴していた。

  諸富氏のこの本は、私もその虜となったロジャーズの魅力を充分に伝え、さらに ロジャーズ晩年のスピリチュアルな次元への目覚め、トランスパーソナリストとし てのロジャーズにも触れており、学ぶところが多い。

 「自分が"自分"になる」ということの真意は、ロジャーズの次の言葉に端的に示 されている。 「私が自分自身を受け入れて、自分自身にやさしく耳を傾けることができる時、そ して自分自身になることができる時、私はよりよく生きることができるようす。‥ ‥‥言い換えると、私が自分に、あるがままの自分でいさせてあげることができる 時、私は、よりよく生きることができるのです」

  こうして、現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れた時、どのよう な変化が生じるのか。これもロジャーズ自身によって次のように表現されている。

1)自分で自分の進む方向を決めるようになっていく
2)結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
3)変化に伴う複雑さを生きるようになっていく
4)自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気づくようになって いく
5)自分のことをもっと信頼するようになっていく
6)他の人をもっと受け入れるようになっていく  

 こういうあり方自体が、きわめてスピリチュアルな方向を指し示している。しか もロジャーズは、来談者中心のカウンセリングでの、クライエントの変化そのもの から、こうしたあり方を学んでいったのだ。

  諸富氏によるとヨーロッパ諸国では後期ロジャーズの影響が比較的強く、ここ数 年とくに、スピリチャリティーの観点から、ロジャーズの思想と方法を再発見しよ うとする動向が高まっているという。

  そうした動向の中心人物が、英国のブライアン・ソーン教授だという。彼はいう、 「セラピストが、宇宙で働いている本質的に肯定的な力を信じる能力と信念体系を 持つことが、クライエントの癒しに深い貢献をもたらします。」 ロジャーズ自身 が「治療的関係について、その関係はそれ自体を超えて、より大きな何ものかの一 部になる」と述べているから、こうした展開があって不思議ではない。

  ロジャーズの基本的な仮説のひとつに「実現傾向」概念がある。あらゆる生命体 は、自らの可能性を実現していうようにできている。この世におけるすべての《い のち》あるものは、本来、自らに与えられた《いのちの働き》を発揮して、よりよ く、より強くいきるように定められている。ロジャーズは晩年に、この《いのちの 働き》が、宇宙における万物に与えられていると考えるようになった。

  こうした思想は、日本人の感性にきわめて自然に受け入れられやすい。だからこ そ、ロジャーズは日本で何の抵抗もなく受容され吸収されてきたのだろう。しかし、 であるとすれば逆に彼にただ感性で共感するだけでなく、その理論としっかりと向 き合い対話することが必要だと、私は感じる。それが、私たちの思考の暗黙の前提 となっている何ものかに、しっかりとした理論的な表現を与える作業につながって いくだろう。

  ロジャーズの魅力を、たんにカウンセリングやセラピーの世界だけに閉じ込めて おくのは、あまりに惜しい。



■『完全なる人間―魂のめざすもの 』 アブラハム・H・ マスロー著 上田吉一訳 (誠心書房、1998年)

  私はこの本を三度ほど読だが、その度に勇気づけられる思いだった。論文であるにもかか わらず、人間にはこのような精神の可能性があるのかと、読む度に感動させられた。  

  彼はロジャーズと並んで人間性心理学の創始者であるが、この書の中にはすでに後に出現 するトランスパーソナル心理学の萌芽も確認できる。

 マスローによれば、人間は心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的傾向を持っ ている。そうした可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達しうる最高の状態へ達した と思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼んだ。

   彼は、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブーバー、鈴木大拙、 ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現したと思われる人々を研 究した。その結果、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、 大多数の平均的な人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示していることに気づいた。 彼は、そうした自己実現人の認識のあり方をB認識と呼んで、その特徴を列挙する。

  彼はまた、ごく少数の「自己実現した人間」の研究だけでなく、平均人の一時的な自己実 現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行った。 両者を比較して論ずることで研 究全体を学問的に説得力のあるものにしたのである。

  「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験。 それは、ちょっとした日常的交流のなかでも、深い愛情の実感やエクスタシーのなかでも、 芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかでも体験される。一人 の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも深い部分を震撼させ、その 人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験で、予想以上に多くの人がこういう体験 をもっている。   

  至高体験の特徴をもなすB認識のあり方について、マスローの詳細にな論述を追うこと自 体が、人間の精神の最高度の可能性を指し示され、勇気づけられる結果になる。そんな魅力 に満ちた本だ。

  第2版では,「人間の成長や自己実現の研究を深めるため、より高い立場からみた「悪」 の心理学の必要性を強調している」とのこと。  私は、自分のサイトの「覚醒・至高体験事例集」を作るにあたり、マスローの研究に大き な影響をうけている。  その点を最近「覚醒・至高体験とは?」という一文にしてサイトに掲載したので合わせご 覧いただきたい。

  ☆トップのコンテンツ>覚醒・至高体験事例集>覚醒・至高体験とは?  (02/10)

 

■『生きる自信の心理学―コスモス・セラピー入門 』 岡野守也 (PHP新書、2002年)

  この本は、入門的なハウトゥーものかなと購入を少し迷ったが、読んでたいへん面白かっ た。現代日本の教育の根源的な問題について非常に大切なメッセージがこめられた本だ。

  前半は、「身体感覚をとり戻す」「自己能力感を確立する」「自己価値感を確立する」 「認め合う人間関係を作る」等の観点から、シンプルだがなるほどと感じさせるさまざまな ワークが紹介されている。

  後半は、現代科学の宇宙論の視点から、宇宙には自己進化、自己組織化に向かう方向性が あり、その方向性の中にその一部として人間も存在するというコスモロジーを提示する。  近代科学の還元主義的な世界観を暗黙のうちに押し付ける現代日本の教育のあり方に対し、 自分の命の意味を納得できるような新たなコスモロジー教育の妥当なあり方を示したと言え よう。  もちろん今自信をもてない若者が読んで自分でワークをすれば自信が取り戻せるよう工夫 されて書かれており、むしろそのように読まれることを主眼としている。

  著者が大学生に以下三つの質問をすると、
1)人間は死んだらどうなると思うか?  ⇒70〜90%が、死んだら無になる、灰になると答える。
2)自分がいちばん大切と思うか?⇒70〜90%が、ハイと答える。
3)自分に自信があるか?⇒70〜90%が、ないと答える。

  つまり「自分がいちばん大事だ」と思っているが、「その自分は死んだら無になる」と思 っている。とうことは、自信をもちたいと思っても、その自分はやがて死んで無になるから 頼りにできない。これが現代の若者の自信のなさの一般的な構造だと著者はいう。

   死ねば無に帰するという考え方の背景にあるのは、学校教育の暗黙の前提となっている 「物質還元主義科学」、すべてのものは物質的な要素に還元して理解されるという世界像だ。 人間の生命も死ねば、ばらばらな原子に還元されて無となる。これが唯一正しい真理である かのように教えこまれる。  「いちばん大事な自分も、死んで無になる」、つまり「最終的に意味がなくなる」、とい う究極の自信喪失=ニヒリズムが、現代日本の心理の背後にあるというのが著者の推測であ る。

 この分析は、構造的に的確だと感じる。かなり確かな事実だと思う。問題は、しかしどう すればよいのかということだ。近代科学的な世界観に対抗できる世界観=コスモロジーをど こに求めればよいのか。たとえそれがあったとして、宗教的なものにアレルギーをもつ公教 育の現場で、どう教えればいいのか。

  そこで著者が提示するのが、現代科学の最先端の成果をもちいて、ビッグバンから人類の 出現までの宇宙の進化を一貫した流れとして学習することである。そうすることで、コスモ ス・宇宙の進化は偶然の産物ではなく秩序と方向性がある、その方向性の中に私たちひとり ひとりも生きていることを示すことだ。

 ワークとしては、宇宙進化の壮大なドラマをイメージ豊かに感じ取るなどの練習が行われ、 著者は全体としてこれらをコスモ・セラピーと名づける。その成果にはめざましいものがあ るようで、自信がないといっていた参加者たちの90%が自信が湧いて来たと答えるそうだ。

   これは、基本的ないくつかのワークを土台にし、「物質還元主義科学」の世界観をくつが えすような宇宙像を実感してもらうワークで、若者の心の中の構造的な自信喪失が克服され る結果だろう。

 宇宙進化の背後にある大いなる意図のようなものを現代科学の成果をもとにした体系的な 宇宙進化論を通して感じ取ってもらうというのがこの試みだろう。私などは、物質還元主義 世界観を超える世界観の提示としては、今ひとつ物足りない。たとえば「死後」というよう な問題には立ち入らないところなど。

  しかし、教育現場で宗教的なものに足を踏み込まずに、若者がニヒリズムを打ち破るため には、非常に有効な第一歩だと思った。

   現代日本の教育にとってもっとも欠けている面、それゆれに若者の心を蝕んでいる問題を 克服するために、多くの人が受け入れやすい重要なメッセージと素晴らしい方法を提示した 本だと思う。(読 0209)

◆『生と死の接点 』  河合隼雄 (岩波書店) 1989年

  西洋近代の自我は、男女を問わず、男性の英雄像で表される。怪物を退治した英雄が、怪物から奪い返した女性と結婚するという、西欧の昔話に典型的なストーリーは、西欧の自我像を端的に表現している。 それは、母親殺し、父親殺し(自立を阻む無意識的なものを断ち切る)の過程を経て、自らを世界から切り離すことによって自立性を獲得した自我が、一人の女性を仲介として、世界と新しい関係を結ぶことを意味する。西洋近代の自我は、壮年男性の自我をモデルにしていると言ってよい。

 しかし、人間の意識にはいろいろなタイプがあり、ヨーロッパ型に対して、もっと他の、老の意識、女の意識、少年の意識などと名付けられるものがある。日本人の自我像が老若男女いずれの像によって示されるか難しいが、日本人の意識において母性優位は、河合が早くから指摘するところだ。

 いずれにせよ自我は、その統一性を保つために他の可能性を排除する傾向がある。かつて新興国だったアメリカは、フロイトの学説から、壮年男子像を強調する部分を受け取り、それで充分であったが、現在はユングも注目されるようになった。それは「名誉、権力、名声、そして女性の愛」(フロイト)というような、強い自我を確立していく人生前半の課題だけでは解決できない問題に、アメリカを頂点とする近代文明も直面したことを意味する。

 壮年男子像をモデルに頑張って来た自我が、これまで無視してきた半面に気づき、取り組んでいく課題が生まれたのだ。ライフサイクルという考えが重視され、老年も含めた人生の課題が考えられるようになったのは、欧米中心主義が当の欧米でも崩壊しはじめたことと無関係ではない。

  近代科学に代表される、可能性の飽くなき拡大や追求は、どうしても西洋的な自我と結び付いて、進歩発展や拡張の方にばかり進むが、本当の人間的な可能性は、老の意識、女の意識、少年の意識などを受容するところにあるだろう。

 また、科学の知は、自分以外のものを対象化し客観的な因果関係によって見ることで成立しているが、それによって自他、心身、世界と自我などのつながりは失われがちとなる。自分を世界の中に位置付け、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見るためには、われわれは神話の知を必要とする。

 それは、近代科学の発達を逆行させるものではなく、その知の基礎にあるのは「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいとう根源的な欲求」(中村雄二郎)であるという。

 河合は、自分と世界を「宇宙論的に濃密な意味をもったものとして」捉え得る事例として臨死体験に触れているが、それは「そのような不思議な意識状態が存在し、その意識にとっては死後生の如きものが認知されたということであって、死後生そのものの存在については」判断を留保すべきであると慎重である。 (読了:0012)

 

◆『「「ケータイ・ネット人間」の精神分析 (朝日文庫) 』 小此木啓吾, 2000年

 言葉は平易だが、分析は鋭く、現代日本人の顕著な心理的傾向を的確に分析する重要な本。ネットが人間の精神のあり方にどのような影響を与えているかという問にみごとに答えてくれる。

 一言でいうと、愛も憎しみもある1対1の人間関係(これを「2.0」の関係と呼ぶ)が希薄化し、逆に「1.5」のかかわりが現代人の心に深く浸透するようになった。「1.5」のかかわりとは周りから見ると物体にすぎない相手に、あたかも本物のお相手のような思いを託して、それにかかわるあり方だという。
 特に、テレビ、コンピュータ、「ファミコン」の出現は、これらのメディアによる対象との新しい「1.5」のかかわりによる、現代人固有の心的世界を作り出すことになった。自然と身体の直接のかかわりの代わりに、押しボタン一つでの仮想現実とのかかわりが、あたかも現実とのかかわりそのものであるかのような、倒錯した心の暮らしをする時間帯がどんどんふえているというのだ。

 「戦後の数十年間の犯罪・非行統計をきちんと調べてみると、意外なことに他の先進諸国の傾向とは異なり、最近の青少年は昔に比べはるかにおとなしくなっている」「殺人率の低下だけでなく、全体として青少年は決して凶悪化しているわけではない」、そしてごく例外的に起こる重大事件について不必要なものまで微細に報道し、解釈しようとするメディアのあり方が問題だと広田照幸は指摘する。

 これに対し小此木は、たしかにメディアがクローズアップするのは例外的事件ではあるが、やはりそこに現代人の心を先駆的に表現する面があると反論する。 一連の少年犯罪は、いずれも、縁もゆかりもない隣人を、しかも、動機不明のまま、犯人のきわめて主観的な思い込みで殺害してしまうという点に奇矯さがあり、衝撃性がある。しかもその主観的な思いこみの背後には、「引き込もり」がある場合が多いという。

 彼らは、アニメやインターネットの世界で自分の衝動をアニメ化して暮らしていたのだが、ネットと現実との使い分けをやめて、ネットからの引きこもりから脱出するとき、仮想現実の世界だけに許されていたはずの衝動を、そのまま外の現実の世界で発揮してしまった。一連の少年事件の背後に、そのような心理的特質がある。
そして、少年たちの事件が、大人に衝撃を与えるのは、実は大人たちの心の闇を露呈させるからだ。

 近年の日本人は、多かれ少なかれ引きこもり的な人間関係をいごこちよく感じるようになっている。愛も憎しみもある2.0のかかわりではなく、1.5のかかわりにいごごちのよさを感じるようになり、人間関係全体が希薄化している。  
  小此木は、われわれが自然の環境から人工的な環境に引きこもって暮らし、さらに1.5のかかわりを基礎にして、テレビ、ゲーム、携帯、インターネットなどによるヴァーチャルな現実に引きこもる現実が生まれたという。  また、そんな引きこもりと平行して、人と情緒的に深くかかわらない、ある意味での冷たさとか、やさしさとか、おとなしさといわれるような引きこもりが最近の一般的な傾向になっている。激しい自己主張をしあって衝突したり、互いに傷つけあったりする生々しい争いを避けて、みんな表面的にやさしく、おとなしく暮らす。現代の若者の特徴とされる、こんなやさしさは、現代人一般に共通する引きこもりの一種である。

 「やさしさは同時に、それ以上深いかかわりを避ける方法になっている。時にはやさくしないで、喧嘩をしたり、叱ったりするほうが、本人のためだという場合もあるのに、それをしない冷たいやさしさである」というのだ。  攻撃性、自己主張、激しい感情は消失したように見えるが、それだけに非常に未熟で訓練されていない攻撃性がやさしさを突き破って、激しい破壊性となってあらわれることがある。しばしばそれは、マスコミを騒がす種々の破壊的な行動の形をとる。

 現代人は、主張し合い、傷つけあう生々しいかかわりを避け、多かれ少なかれ、冷たいやさしさへと引きこもり、ある種の破壊性を抑圧する傾向にある。だからこそ突然に破壊的な衝動を爆発させる、やさしき少年の事件に衝撃を受る。大人たちは、これらの事件により自分自身の内なる闇に直面させられるのだ、冷たいやさしさの奥の破壊的な衝動に。

 また、 中・高校生だけでなく、大学生、出社拒否のサラリーマン、どの年代の引きこもりの人々にも共通するのは、肥大化した誇大自己=全能感の持ち主であるということ。しかも、その巨大な自己像にかなう現実の自分を社会の中に見出すことに失敗している。一見ひ弱で、小心、傷つきやすく、内気な人物に見えるが、実はその心の中に「自分は特別だ」という巨大な自己像が潜んでいる。

 小此木は、現代日本の社会を多かれ少なかれ自己愛人間の社会だという。衣食住がみたされ、食欲も性欲もみたされているような社会、それでいてお国のためとか革命のためとかいう大義名分も理想も効力を失った社会では、私たちの心に唯一活力を与えるのは自己愛の満足の追求である。そして一方的な自己愛の追求は1.5的なかかわりと呼ばれるのと同じ心性が潜んでいる。( しかも全能感や1.5的なかかわりは、テレビゲームやパソコン、インターネットとのかかわりの中で浸ることのできるものである。その意味で彼らは時代のもっとも深い病を反映している。)

 現代日本の特徴である自己愛人間社会が、異常な全能感や自己愛の満足しか身につけていない少年や若者を生み出している。彼ら少年、若者は私たち大人の自己愛人間の分身である。われわれの内なる自己愛人間の反映である。  (読了:0012)  

◆『これからの日本』 河合隼雄 (潮出版社)

 河合氏の本は大好きで、おそらく20冊以上は読んでいるだろう。平易な文章にとてつもなく深い洞察がちりばめられていて、興味つきない。 
 この本は、講演等を集めたものでとくにやさしい。にもかかわらず、語られている内容は、日本の精神的な深層を深く抉っている。
 彼の本で不思議なのは、これだけ出版しながら、その内容にくりかえしがほとんどなく、いつもいつも、その時々の河合氏の生のいきた語りを聞くような思いがすることだ。 (読了:0011) 

◆『自我と無我―「個と集団」の成熟した関係 』 岡野守也 (PHP新書)

 私自身がトランスパーソナル心理学にも唯識仏教にも関心が深いので、この二分野を基盤に発言する岡野氏の著作はほとんど読んできた。が、この本はとくに興味深い。
 まず戦中の大多数の仏教者が積極的に戦争協力の発言をし、「無我とは滅私奉公である」「無我とは天皇陛下のために死ぬことである」と説いていたという。禅僧も含め、戦前の仏教指導者たちは「自我を滅ぼして国のために尽くすことが無我だ」という混同に陥っていた。
 ほとんどの仏教者がそうだったという事実に驚くと同時に、今はその過ちを認識できる歴史的状況になったが、「私があの時代に仏教界の責任ある地位にいたら、本気で同じことを思い、発言していたかも知れない」という洞察にも、ある種の感動を覚えた。
 自我と無我をめぐる戦前の(そして現代にまで至る)思想的な混乱をトランスパーソナル心理学と唯識仏教の視点から整理し、批判するときに開ける展望の新鮮さ。
 この本の中の印象に残った話に以下のようなものがある。
 戦時中、中国・満州で説法し、兵隊に「国や天皇陛下のために死ぬのが仏教精神だ、思い残すことなく死ね」と説いて回った禅僧が、戦後も宗派の管長として大きな仕事をしていたが、反省して戦後だいぶたってから南方に遺骨拾いに行った。「あの状況下でつい死ねと云ってしまったが、せめて償いにお骨を拾ってお弔いをする」というのだ。
 岡野は、この禅僧に心情的な反省はあっても、どうして戦争協力に至ったかの思想的な反省はないと指摘する。 仏教的な「無我」と「滅私奉公」を安易に混同してしまったところに、戦前・戦中の仏教や禅宗の、思想的未成熟があるのではないかと云うのだ。
 この話を読んで最初に私が思ったのは、禅宗では覚醒、純粋経験など体験的なものが重視されるが、時代状況や歴史のそれぞれの局面で間違いを犯さないためにも、知的・思想的な探求や体験の位置付けが本当に大切なのだなということ。
 いくら体験が大切だと云っても、知的な探求を怠ってはならないこと。知的な探求も同じように大切だということを肝に銘じなければならない。
 と、同時に、本当に覚った人が戦争協力などするのかという疑いもいまだに残っている。 本当に覚った人が、国家エゴがぶつかり合い、それに駆り出されて無数の人々が殺し合い死んでいく戦争を是認することなどありえるのか、それは本当に知的・思想的探求の不十分さだけによるのか。 0010

 

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