■ 精神世界全般

◆『神話の力』ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ(早川書房、1992年)NEW
◆『コスモロジーの創造』 岡野守也 (法蔵館、2000年)
◆『光を放つ子どもたち』 トーマス・アームストロング (日本教文社、1996年)
『ワン・テイスト(上)』ケン・ウィルバー(コスモス・ライブラリー、2002年)
『精神世界のゆくえ、現代世界と新霊性運動』(島薗進、東京堂出版、1996年)
◆『私の遺言』佐藤愛子(新潮社、2002年)
『魂のロゴス』菅原浩(アルテ、2003年)
◆『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』 トニー・オーツセン/編 近藤千雄/訳(ハート出版、2002年)
◆『シュタイナー入門』小杉英了 (ちくま新書、2000年)
◆『癒されて生きる―女性生命科学者の心の旅路』 柳澤桂子 (岩波書店、1998年)
『ライフ・レッスン』 エリザベス・キュブラー・ロス&デーヴィッド・ケストラー (角川書店、2001年)
◆『カルトのかしこい脱け方、はまり方』 青山あゆみ(第三書館) 1995年
◆『こころの生態系』河合隼雄、小林康夫他 (講談社)
◆『裸のサイババ』パンタ笛吹 (ヴォイス社) 2000年




◆『神話の力 』ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ(早川書房、1992年)

神話学者、ジョーゼフ・キャンベルが、様々な神話に隠された意味を対話形式でわかりやすく語っている。小説や映画に登場するモチーフなどと比較しながら、神話がもっている深い精神性を明らかにする。

神話が、時代と地域を越えて共通の要素をもっているのはなぜか。人間のこころは、 基本的には世界中どこでも同じだからだ。みんな同じ器官を持ち、同じ本能を持ち、 同じ衝動を持ち、同じ葛藤を経験し、同じ不安や恐怖を抱くのだ。この共通の基盤 からユングいう元型が出現した。これが神話の共通地盤である。 元型は生物学的な根拠をもっているが、フロイトの無意識は個人的な外傷経験を抑圧したものの集合だ。ユングのいう無意識の元型は生物学的であり、自伝的な要素 は二の次である。人類史上のそれぞれの時代に、こういう元型がさまざまな衣装を まとって出現したのである。キャンベルは「神話は公衆の夢であり、夢は個人の神 話です」という。

神話の共通基盤が、人類の生物学的な条件に基づいているという見解は納得できる。 とくに同じ不安や恐怖を抱くその根底には、人間が死すべき存在だという絶対的な事実がある。だからこそ、もっとも深い根源から共通の元型が生まれてくるのであろう。そこには人間の条件についての人類共通の問いが横たわっており、その問い に対する答えを抽象的な思考によってではなく、物語とイメージによって語るのが 神話なのだ。 神話は、人が生きるということの最深の層に触れているのだ。

キャンベルが、神話 に関心を寄せる視点は、「生きる」ということに対して私が関心を寄せる視点とぴっ たりと重なるので、共感し、啓発されながら読んだ。 たとえば情欲と恐怖、この二つの感情が、この世のすべてを支配している。情欲が「えさ」で、死が釣り針だ。そこに神話と宗教がかかわる共通の根がある。それは、物質的な欲望と肉体の恐怖とを、肉体を支える精神性のために犠牲にすることである。

肉体の奥に秘められた〈大いなるいのち〉を知り、時間の場においてそれを表現す ることを学ぶ。この限りある生において、人間性を養い育て開花させるもののため に自己を捧げる。 悟りとは、万物を貫いている永遠の輝きを認めることだ。時間の幻のなかで善と見 なされるものだけでなく、悪とみなされるものも含めすべてに。

そこに至るために は、現世の利益を願い、それらを失うことを恐れる心(情欲と恐怖)から完全に脱 却しなければならない。 こうした思考が、神話の構造に即して語られることで普遍性を帯び、同時に神話が生まれてくる次元の深さを指し示す。(たとえばガウェイン卿と緑の騎士の物語な ど。)

神話を通して、これほどに深い真実が語られるとは。 キャンベルは、神話学を「ひとつの偉大な物語」の研究だという。私たちはみな、 存在のひとつの基盤から生まれて、時間という場に現れている。時間という場は、 超時間的な基盤の上で演じられる一種の影絵芝居だ。私たちは影の場で芝居を演じ る。「ひとつの偉大な物語」とは、そのドラマにおいて自分の位置を見出す努力のことだ。

誰でも、自分でそう思い込んでいる〈自分〉以上の存在であり、自分についての観念には含まれない次元と自己実現の可能性がある。生は、いま自分で見ているより はるかに深く、はるかに広い。いま生きている生は、それに深さを与えているもののうち、ほんのわずかな影に過ぎない。わたしたちは、その深みのおかげで生きられるのだ。あらゆる宗教は、その深みについて語っている。神話もまたその深みに 触れている。この世界という偉大な交響曲に対して、それと調和し、肉体のハーモ ニーを世界のハーモニーに同調させるためにこそ、神話が生まれたのだ。

神話の深さと魅力に目を開かれる一冊であった。   05/06/06


◆『コスモロジーの創造』 岡野守也 (法蔵館、2000年)

著者は、行き詰まった時代の精神が進みうるのは「宗教でもなく近代主義でもな く霊性へ」という方向しかないという。ここでいう宗教とは、みずからの教祖、教 義、教団を絶対視し、信仰と服従を不可欠の条件とするシステムとグループをさす。

こうした宗教集団の自己絶対視は、かならず敵と敵意を生み出す。宗教集団にと って他者は改心させる対象ではあっても、そのまま認め得る存在ではない。布教に 反対するものは呪われた存在になる。呪われた存在は、神にかわって殺してもよい とさえ結論される。

一方近代主義の特徴は、個人主義的な人間主義、民主主義、合理主義、物質科学主義、産業主義、進歩主義、現世主義、無神論などである。これらの傾向を推し進 めたとき、個人のレベルでは、ニヒリズムとエゴイズムに陥る危険性が高い。  

自己絶対視から敵意を生む宗教と、エゴイズムとニヒリズムを克服できない近代主義をともに超えて人類の未来を切り開く道があるのか。それが霊性の立場である という。  

霊性とは、様々な宗教の根源にあって宗教に命を与えるおおいなる命の体験である。すべのものがみなそれに包まれることによって目覚めるような人間の心の奥底の領域を霊性と呼ぶ。  

戦後の学校教育は、近代科学的世界観を否応なく生徒におしつけている。子供たちは結局、生命に物のかけら以上の意味を見いだせなくなっている。だからといっ て神話的、宗教的な世界観をいまさら生徒に教えることもできない。    

残された道は、さまざまな宗教の根底をなす体験、霊性の体験の意味を探求する ことだ。このあたりは、私もまったく共感する。広い意味でのニューエイジ、ある いは新霊性運動も、こうした方向への運動としてとらえるべきだろう。

私は、臨死体験の研究もまた、豊富な具体例と実証的な研究によって、やはり霊性の方向を指し示していると思う。臨死体験研究の成果をもっともっと世に広めるべきだろう。 もっとも著者の立場は、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」ということで、死後の問題にはあえて深入りをしない方針のようだが。 


◆『光を放つ子どもたち』 トーマス・アームストロング (日本教文社、1996年)

子どもはただ「肉体から上昇して」育つという方向からのみ理解されるべきでは ない。同時に「スピリットから下降して」この世界にやってきたのだ。そうした一 面を無視すれば、子どもについての大切な真実が完全に見落とされてしまう。この本は、従来振り見られなかった、子どものトランスパーソナルな次元に初めて光を当てたという意味では重要な本である。  

子どもの成長は、基本的に生物学的・生理学的な概念を用いて記述することができる。こうした方向は、現代の発達心理学によって詳しく研究され、実証もされて きた。著者は、この方向を「肉体から上昇する」発達と呼ぶ。  

これに対し、子どもの発達には第二の方向がある。それは第一の成長過程とならんで存在し、それに影響をおよぼし、究極的にはそれを支えてさえいる。この隠れた過程を著者は、「スピリットから下降する」と呼ぶ。それは、広く深く包括的な高次の非物質的レベルから、狭く限定された物質的・肉体的レベルへと下降するプ ロセスである。  

これら二つの発達の方向は、どちらも不可欠である。「肉体から上昇する」部分を欠くなら、子どもはもはや「子ども」とは呼べない。一方、「スピリットから下 降する」部分がなければ、子どもから心の深遠な次元が抜け落ちてしまう。人生に方向性と一貫性をもたらすのは、この次元である。それによって子どもは、人生の 目的、使命、方向感覚などを得る。

 「スピリットから下降する」方向をこのような比較によって明確に語られると、 あらためていろいろと気づかされる。私自身、この物質的次元、肉体的な次元だけでは、生きるということの不思議を何も説明できないと強く感じる。それは、まさ に「スピリットから下降する」方向の存在を信じるということだ。「スピリット」 は、仏性と言い換えてもよい。もちろん、子どものなかにもそれは隠されている。 だからこそ時に子どもは、光輝く高次の神秘体験をすることがある。この本にはそ のような体験の事例がいくつも収集されている。  

ところでウィルバーは、こうした理解を「前/超の虚偽」として批判するであろう。「前/超の虚偽」とは、大人の真に超個的(トランスパーソナル)な体験を誤って幼児的起源へ引き降ろしたり、あるいは逆に幼児的な前個(プレパーソナル)レベルの合一体験を超個的地位へ格上げすることである。たとえば、宗教感情のすべ てを幼児的退行状態へと還元するフロイトは、前者の間違いを犯した。後者の間違 いは、ワーズワース、ユング、ベルグソンなどに見られるという。  

著者は、人間の発達のなかに含まれる「前」レベルと「超」レベルを正しく区別 する必要を認める。しかしウィルバーは、スピリチュアルな世界が子どもの意識の なかへ下降してくる可能性をあまり深く考慮していないと批判する。母親との一体感のような原始的で前意識的な体験がスピリチュアルな意識と混同されるべきでは なく、また大人の真の神秘体験が前個的な位置に還元されるべきではない。しかし、 同様に重要なのは、幼児や子どもの体験する真に神秘的な体験を、何か低い次元に還元してはならないということだ。  

私は、基本的に著者の主張に賛成である。子どもの臨死体験や子ども時代の至高 体験の報告に数多く接すれば、「スピリットから下降する」方向が厳然と存在することを認めざるを得ない。たとえば、サイト「臨死体験・気功・瞑想」の「覚醒・ 至高体験の事例集」に収めた

デイビッド・シュパングラーの事例

を参照してほしい。 わずか七歳のときの「覚醒の体験」である。

「スピリットから下降する」方向をも無視しない理論はまた、子どもたちが生まれ る以前の魂の記憶を時に保持していたり、甦らせたりする可能性も説明しうる考え 方である。アカデミックな立場の人々は、容易に認めないだろうが、子どもに秘め られた高次の精神性を正しく捉えるためには是非ともこうした前提に立たざるを得 ない。こうした側面を視野に含まない発達心理学も、またトランスパーソナル心理 学も、真理の反面を見失うだろう。 (追加 2004/8)


◆『ワン・テイスト(上)』ケン・ウィルバー(コスモス・ライブラリー、2002年)

1997年1月から7月までのウィルバーの日記という形の本だが、ウィルバー 自身によるウィルバーの世界への良き入門書になっている。彼の基本的な思想が、 日常の活動や瞑想実践への言及のなかに散りばめられ、それほどの努力なしに興味 をもって読み進むことができる。すでに彼の本を何冊か読んだ人には、それらとは 少し違う文脈のなかで、またウィルバー自身の平易な言葉によって、その壮大なヴィ ジョンの要所を復習できる。そして彼が私たちにもたらした成果の意味を「再発見」 させてくれる。  

読者は、日記を読み進むうちにウィルバーの統合的アプローチの意味を再確認す るだろう。ウィルバーは言う、「私は人間の知性が100%の間違いを犯すことを 信じない。だから、どのアプローチが正しく、どれが間違っているかを問う代わりに、すべてのアプローチが部分的には正しいと仮定する。そして、ある一つを選択 し、他を排除するのではなく、そうした部分的な真実をどうしたら一つにできるか、 どうしたら統合できるかを明らかにしようとするのである」   

ある評者は、ウィルバーのヴィジョンが「歴史上のいかなる他の体系よりも多く の真実をもたらし、それらを統合するもの」と語る。ウィルバー自身は自分の仕事 が「純粋に東と西、北と南を包含する最初の信用できる世界的哲学の一つ」たらんことを願うという。少なくとも私たちは、そういう可能性を担う思想家として、彼 を真摯に読む必要がある。  

ウィルバーの他書にない、この本の魅力の一つは、彼自身の瞑想体験が、かなり詳細に語られていることだ。瞑想に関心をもつものとして、この部分からもかなり影響を受けた。さらにウィルバーの思想を、彼の瞑想体験と関連付けて再認識する ことができる。    

さらに興味深い点の一つは、アメリカの精神状況へのラディカルな批判が随所に 見られることだろう。「これまでは純粋な霊的(スピリチュアル)研究にとっての 真の脅威は還元主義者たちであったが、より大きな脅威がニューエイジ運動、いわ ゆる引き上げ主義者たちから表面化した。これらの人々は、善良かつ慎み深い意図 をもっているにもかかわらず、幼児的、幼稚的、自己中心的な状態を取り上げ、単 にそれらが『非合理的』であるという理由で、『神聖なもの(セイクレッド)』あるいは『霊的なもの(スピリチュアル)』とラベルを張り替えする。これは明らかに問題である。」  

もちろんここではニューエイジ運動における「前/超の虚偽」が指摘されており、 これがウィルバーによる批判の基本的な構図である。具体的にはたとえば「ダイヤ モンド・アプローチ」がどのように「前/超の虚偽」を犯しているかを論じている。  

ダイヤモンド・アプローチは心理療法のひとつで、「誰もが生まれたときには、 そもそも霊的(スピリチュアル)なエッセンスと接触しており、しかし成長する過 程において、そのエッセンスが抑圧され、締め出される」と主張するという。ウィ ルバーはこれを、「前―自我的な衝動と超―自我的なエッセンスを混同している」 と批判する。たとえば子どもが無邪気に遊んでいるのを霊的な喜びと混同してはな らないという。

しかし、そう言い切ってしまってよいのか。次に書評で取り上げる『光を放つ子 どもたち』などを読むと、このあたりがいちばん議論を呼ぶところと感じる。少な くともすべてを「前/超の虚偽」で整理しようとすると「輪廻転生」などは視野に 入りにくくなるのではないか。  

ともあれこの本は、ウィルバーを取り巻く交友関係や内面世界に触れつつ、しか も彼の統合的ヴィジョンがコンパクトに語られており、興味尽きない。


◆『精神世界のゆくえ、現代世界と新霊性運動』(島薗進、東京堂出版、1996年)

ニューエイジ運動や、もっと広く新霊性運動が、大きな歴史的な展望の中でどん な位置を占めていくのかという関心がある人にとっては、必読の本だ。私自身、こ うした潮流の中に身をおき、ネットを通して何らかの発言をしているので、現代の 社会や広い歴史的な視野のなかでそれがどんな意味をもつのか、できる限り正確に その位置づけをしていきたい。そこにどんな問題が内包されるのか、あるいは運動 として何か限界があるのか、できるかぎり冷静に検討していきたい。そうした関心からは、きわめて参考になる本だ。  

また、曖昧なまま使われがちな「ニューエイジ」という言葉を、「新しい意識の時代の到来」を強調する運動として限定的にとらえ、そのような要素を必ずしも強 調しないもっと広範な「新霊性運動」と区別する。その上で、新霊性運動を、世界 各地で多発的に発生したグローバルな運動と理解する。こうした用語の使分けや各々の理解にも共感する。  

新霊性運動と呼ばれる広範な運動群、ないし新しい宗教文化の特徴のひとつは、 自らが伝統的な「宗教」の後に来たものであると自覚することである。そして「宗教」に対する用語として「霊性」(スピリチュアリティ)が用いられる。つまり、 新霊性運動は、自らを文明史的な視点から自己理解するという特徴をもっている。 私自身がこうした運動の末端にいて、確かに同様の自覚をもつから、この点にも共 感する。  

著者が試みているのは「新霊性運動の具体的な現象形態に触れ、言説や実践の事 実をできるだけ正確に確認していき、彼らの考えるポストモダンへの明るい希望が、 どの程度妥当なものかを検討していくという作業」である。「このような作業の積 み重ねを経てこそ、新しい霊性やそれに基づく文明の希望がどこまで空想的な幻影 でなく、現実味のあるものか吟味できるだろう」と著者はいう。  

ただし著者は、時代の流れや現代社会の中で「新霊性運動」がどのような位置を占めるかを、宗教社会学、ないし社会心理学的な視点から論じているのであり、 「精神世界」的な世界観そのものへの深い考察といったものはない。しかし、「精神世界」的な世界観をどこまで深く理解するかによって、それを現代社会の潮流のなかにどう位置づけるかにも大きな違いが生じるはずだ。「精神世界」的な世界観 そのものについての踏み込んだ考察や検討がないのが、この本の物足りなさである。 しかしそれは、この本の意図からしても望むべきではないのか。  

いずれにせよ新霊性運動にとって、こうした真に「批判的」で学問的な検討は、 きわめて大切なのだと強く思った。その意味で非常に価値のある本だし、こうした 批判的な作業は、これからも絶えず行っていく必要があるだろう。 章によってはそれほど関心を引かない部分もあったが、精神世界を見渡すその広 い視野ゆえに、私にとってはよき読書案内にもなった。この本から知った本で読みたくなった本が何冊もある。


◆『私の遺言』佐藤愛子(新潮社、2002年)

  読んでいて胸を打つものがあった。佐藤愛子氏がこれを書き上げたのが、2002 年6月、78歳のときである。このお年でこの健筆ぶり、さすが作家だ。しかしも ちろん、胸を打ったのはそのためだけではない。 

   この本に心打たれる理由のひとつは、全体を貫くその誠実で真剣な筆致のためだ。 作家の、テンポのよいこなれた文章であるが、その中に自分が体験したことを正確 に包み隠さず伝えようとする「遺言」としての気迫がこもっているのだ。

 日本で、ラップ音や電気器具の故障、物質の移動などの霊的な現象が、これほど しつこく長年に渡ってひとりの人間に(正確には著者とその娘の二人に)繰り返さ れたのも珍しい。またそれが著名な作家によってこれほど誠実に、そして詳細に記 録されたこともなかっただろう。

  彼女が北海道の浦河という町の山の中腹に山荘を建てたいきさつから始まり、そ の後その山荘や東京の住まいで見舞われた執拗な超常現象とのあくなき戦いの話が、 本の中心となる。何と26年間の戦いである。この凄まじい霊現象とのかかわりを、 これだけの年月にわたってよくぞ続けてこられたと感嘆する。

  心霊現象など信じなかった著者が、恐怖におののきながらも、信頼できる霊能者 に助けられつつ、正面からかかわっていく様が、読むものの心を動かす。毎夜のよ うに続く鋭いラップ音、ミシミシと天井を歩く音、理解できない消滅紛失や物の移 動等々。こんな得体の知れない現象が続いたら、ほとんどの人はその家を捨てて逃 げ出すだろう。彼女が逃げ出さなかったのは、逆境になればなれほどそれに立ち向 かって克服していこうとする持ち前の強さのためか。恐らくそれもあるのだろう。

  逆にそういう彼女だったからこそ「見込まれた」のかもしれない。佐藤家一族の 魂を浄化し、佐藤家もかかわりがあったアイヌ民族の怨念を浄化し、彼女が体験し た霊的な世界についての事実を今の日本に「遺言」として伝えるというような使命 が彼女自身に課せられたからかもしれない。さらにもうひとつ、アイヌ民族の怒り や悲しみがどれほど深いものだったかを日本人に伝えるという使命もこれに加わる かもしれない。

  それまで縁もなかった北海道のその地に、突如、魅せられたかのように山荘を建 て、どんなに気味の悪い現象に出会ってもそこを捨てる気になれなかったという。 そこには彼女にこの本を書かせた背後の「はからい」のようなものが感じられ、不 思議の感に打たれる。

  インターネットの検索エンジンで「私の遺言」and「佐藤愛子」で検索すると、い くつかの論評が見つかる。こうした現象を信じなかった人がこの本にどんな反応を 示すかという観点からも興味深く読める。それらを引用しながらこの本への反応を 論じるのも面白いと思った。  それだけ「画期的」だといってもよく、社会へのインパクトの強い本だと信じる。 その意味でも、この本への反響はもっともっとあって然るべきだ。 (読0306)


◆『魂のロゴス』菅原浩(アルテ、2003年)

  菅原浩氏の名は、精神世界に関心を持つ人々にとってインターネット上ですでに かなり著名である。その菅原氏の待望の処女作だ。期待にたがわず読み応えのある 内容である。  現在、精神世界やニューエイジという名の下に様々な現象が取り上げられ、語ら れ、読まれ、時には儲けのいい商品として売られたり、消費されたりしている。物 質主義的な科学は、こうした世界を頭から否定する、というより、こうした世界を 受け入れるための説明原理をはじめから持っていない。

  しかし、臨死体験にせよ、悟りにせよ、気功やヒーリングにせよ、あるいは輪廻 転生にせよ、科学的な世界観という先入見から自由に虚心に接するならば、そこに 否定することのできない一定の真実性があることを認めざるを得ない。

  問題は、「近代科学的な世界観」に替わって、こうした現象を説明しうる世界観 を現代人が見失っているということだ。菅原氏のこの本は、現代人が見失ってしま った「それ」を取り戻そうとする果敢な試みだ。

  この試みが成功しているかどうかは、臨死体験はもちろん、最近私自身が関心を 強めている輪廻問題、古今の聖者と呼ばれる人々の語るところ等々「近代科学的な 世界観」では説明できない様々な現象をどれだけ包括的に説得力をもって説明して いるかどうかだ。私には、菅原氏の語る世界像の基本的な部分は、非常に納得のい くものと感じられた。

  この本から得たものは大きかったが、要約したり引用したりして紹介するという のが、しづらい。あとがきで著者が「私は、正しいことを書いたわけではない。世 界の美しさを描こうとしたのである」と言っているように、この本は論証よりも表 現を意図しているからかも知れない。

  にもかかわらず、近代科学的な世界観に収まり切れない様々な現象を説明する包 括的な世界観モデルを提示しているという意味で貴重だ。もちろん著者は、このモ デルが古来多く語られて来たそれに対して、特に新しいものではないと断っている。 それは、たとえば本の中でもしばしば触れられたプロティノスを思い起こすだけで も分かるであろう。

  意味があるのは、それを現代の私たちに納得しやすい言葉で、古今の哲学や現代 思想、仏教の唯識思想などと比較しながら、広い視野のもとに語っているという点 だ。

 現代で言えば、西田幾多郎、ユング、ミンデル、ハイデッガーその他、多くの思 想家を参照しつつ、それらと関連付けたり、それらの限界を明らかにしたりしなが ら、著者の世界観モデルを提示している。こうした比較のなかでこのモデルの根源 性が自ずと明らかになるような構成になっている。それぞれの思想家も、このモデ ルと比較されることでその特徴が明らかとなる。

 私たちが「魂」や輪廻転生や、そのほか精神世界とう言葉に関連するような様々 な現象や問題を語るときに、その基盤となり、かつ現代人の批判的な吟味に耐えう るような統合的な世界観はほとんど語られてこなかった。菅原氏のこの本は、科学 的世界観や多くの現代思想と比較して論じるに足るだけの視野と見識をかね備えて いる。

 インターネット上ではよく見られることだが、精神世界を語ったり、論じたり、 実践したりするにあたって、様々な見解が飛び交い、混乱し、収拾がつかなくなる ことが多い。この本は、そんなときに一度は参照してみる価値があると思う。その 見解に賛同するにしても反対するにしても、ひとつの「地図」として貴重だ。 (読0306)


◆『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』 トニー・オーツセン/編 近藤千雄/訳(ハート出版、2002年)

 いわゆるチャネリングにも様々あるようだが、『シルバーバーチの霊訓』は、内容 の深さ、崇高さ、分かりやすさなどの点から、印象の深いものの一つだ。1920 年から60年もの間、イギリスの霊媒モーリス・バーバネルを通して語られた霊言 だ。かつてこの霊訓の10冊を超えるシリーズの何冊かを熱心に読んだことがある。 久しぶりにシルバーバーチを読み直して、そのメッセージの気高さにあらためて心 打たれた。本書は、シルバーバーチの膨大な霊言の中から、バーバネルの愛弟子オ ーツセンが選んで編集したもので、93年刊「古代霊シルバーバーチ不滅の真理」 の新装版とのこと。

  臨死体験の研究をまとめた今、シルバーバーチを読むと、どうしても臨死体験者か らのメッセージと比較して読んでしまう。そして両者のメッセージに共通点が多い ことを新鮮な驚きをもって確認した。 まず霊的な世界が、本質的に思念の世界、思念が実在である世界だとされること。 思念が生活と活動の表現すべてに形態を与える。他界直後の世界は、思念の表現も きわめて物質的、地表的だという。たとえば、霊的世界など思いもよらない人の場合は、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま思念によって残っていて、機能し続けるという。 これは、臨死体験者の体験中の報告のなかに自分の肉体があったと報告する事例となかったと報告する事例が混在していることを説明しうる考え方だろう。また臨死 体験者の報告する「あの世」がきわめて地上的である場合が多いことの説明にもな るだろう。

   また、霊的な世界には「時間」がないという。地球の自転によって昼と夜が生じる ことがないから、昨日の今日の区別ができない。ただしまわりで生じる変化との関連において成長と進化を意識することはある。霊的な成長と、それに伴う環境の変 化があるのみで、時間は、そうした変化との関連における尺度にすぎないという。 この点は分かりにくいが、少なくとも臨死体験者が、体験中「時間」の感覚がなかったと報告する例がきわめて多いことと対応する。

   臨死体験者は、概して広い意味でスピリチュアルなもの、普遍的な精神性への関心 や共感を深めるが、既成の個々の宗教の組織や教義、儀式などには批判的になる傾 向が見られる。この点もシルバーバーチのメッセージと呼応し合う。 シルバーバーチは言う、「過去の宗教はすべて――例外なしに――今日こうして届 けられつつあるものと同じ啓示の一部であり、一かけらなのです。一つの真理の側面にすぎないのです。」 にもかかわらず、「まわりに世俗的信仰や神学的ドグマ、 宗教的慣習、伝承的習俗などが付加され、玉石混交の状態となってしまいました。」 「真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も、きらびやかな装飾も、豪華な衣装も 式服も不要です。宗教とは自分を役立てることなのです。」

  こうした言葉は、そのまま臨死体験者の言葉と言っていいほどに多くの体験者からの メッセージと共通している。(詳しくは、拙著『臨死体験研究読本』を参照されたい)

  シルバーバーチの言葉のなかに次のようなものを見つけた。「いずれにせよ、死んだ 時、1人ぼっちの人は1人もいません。かならず、例外なく、まわりに幾人かの縁故 のある人がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい 第二の人生を始めるための指導に当たります。」 ここでいう「暗い谷間」は、臨死体験でのトンネル体験を思い出させる。また、縁故 のある誰かしらが出迎えるというのも多くの臨死体験者が報告することである。

  シル バーバーチは別の箇所で次のようにもいう。昔から、高級霊界からやってきた霊は、 「光輝く存在」と述べられ、姿かたちが描写されない。それは外形がなくなり、形に よる表現が少なくなっているからだと。これは、もちとん臨死体験者の言う「光の存 在」「光の生命」を思い起こさせる。

  他にも臨死体験者の報告との共通点はあるが、主だったものはこんなところか。もち ろんシルバーバーチの語るところをすべて盲信する必要はないだろう。私自身は、そ のメッセージの基本的な部分は、共感をもって受け入れている。 その基本的な部分とは、「人間も、根本的には霊であり、それが肉体を使用している のであって、付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属 しているのです。地上生活の全目的は、その内在する霊に修行の場を与え、さまざま な体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて、 身支度をさせることにあります」というようなところだ。

  最後に、全体を読み終わったあとに残る、ある印象、あえていえば、一貫して気高 い調べをもった言葉に触れたという印象は、多くの人が感じるものだろう。 (読 0305)


■『シュタイナー入門』 小杉英了 (ちくま新書、2000年)

  私は、ルドルフ・シュタイナーの本を数冊、入門書などの関係書を数冊しか読んでいない が、これまでに読んだ何冊かの入門書の中ではこれがいちばん興味深かった。  シュタイナーの思想と行動を彼の時代の歴史的背景や西欧2千年の精神史とかかかわりの 中で浮き彫りにしようとする試みだ。

◆「オカルティズム」とキリスト教  
  シュタイナー思想において「オカルト」が意味するものをヨーロッパのキリスト教史との 関係の中で明らかにする第三章はとくに興味深い。
  エジプトで発見され、異端とされたグノーシス思想をまとまった形で示す古写本『ナグ・ ハマディ文書』に触れ、さらに仏教の般若思想、如来蔵思想、金剛乗密教にも言及しながら、 キリスト教の陰の部分の意味とその弾圧の歴史を語る。  
 
オカルトの語源は「隠された、見えなくされた」ものという意味だ。西暦869〜70にコン スタンティノープルで開催された宗教会議で、個々人と霊的なものとの直接的な結びつきが 否定され、個人はただ教会を通してのみ霊的なものと結びつくという教義が確立した。これ により教会外で霊的な体験が可能とする説は、悪しき異端とされた。  
   それ以来正統キリスト教の勝利と栄光の歴史は、オカルト的なるもの(霊的なものに直接 参与しようとするグノーシス的教説)を徹底的に抑圧する。オカルトとは、正等キリスト教 から身を隠さなければ生き残れない教えの法統であった。  
   シュタイナーは、抑圧を強いられたオカルト的伝承を近代的な思考のもとに露呈し、歪め られた西欧の霊性の歴史に終止符を打とうした。彼は、抑圧された霊性の公開者だった。  
  
日本の密教の伝統には、西欧の正統キリスト教会のような非寛容な禁圧勢力が支配すると いう歴史がなかったから、徹底的に「密」教である必要はなかった。つまり日本には、西洋 的な意味のオカルティズムはなかった。  
 
その日本に生きる我々が、シュタイナーを学ぼうとするとき、上に述べたような西洋の屈 折した霊性の歴史、昼と夜のコントラストへの理解を欠いていれば、その理解はおそろしく 上っ面だけもものになってしまうだろうというのが、著者の主張だ。  
  シュタイナーの「オカルティズム」と西欧キリスト教との関係が、歴史的な視野のなかで 明らかにされる点で学ぶところが多かった。

◆ブラヴァツキー  
  ブラヴァツキーは、神智学協会の設立社だ。シュタイナーと神智学との交わりと訣別のい きさつは、多くの入門書にかかれている。面白かったのは著者が描くブラヴァツキーの姿と、 彼女へのシュタイナーの評価だった。    
  ロシア人女性・ブラヴァツキーは、19世紀後半のアジアに勃興しつつあった反植民地闘 争の流れの中に身を置いた。イギリスの植民地支配の中で伝統的霊性を復興しようとするイ ンドの運動体と結びついてその活動を開始したのだ。「伝統的諸宗教の霊性を正当に評価す る精神作業を通して、欧米列強諸国による精神的支配からの解放運動をおこそうとした」と いう彼女の姿は驚きだ。  
  白人の人種差別主義者らは、彼女を敵とみなし、彼女はいかさま霊媒師であり、その著作 は剽窃と妄言によるつぎはぎだと、誹謗中傷を繰り返す。こうしてブラヴァツキーと神智学 協会は、いかがわしさの代名詞となって、そのイメージが定着していく。私自身その種のイ メージで語られる書物に何冊かふれている。  
 
シュタイナーはブラヴァツキーの著作に本格的に接し、その存在の大きさに圧倒される。 彼は、そこに心を震撼させられる先駆者の姿を見たという。もし、シュタイナーの評価が正 しいのだとすれば、われわれの時代はまだ、ブラヴァツキーを正当に評価しえていないのか も知れない。 (読 0208)



■『癒されて生きる―女性生命科学者の心の旅路』 柳澤桂子 (岩波書店、1998年)

 著者は、著名なサイエンスライターで私も名前は知っていたが、このような「病気」 に苦しんだ人とは知らなかった。症状は、めまい、吐き気などから四肢の麻痺などにお よび非常に重いが、どんな医者も検査もその原因を突き止められず、そのため心因性の 病ではないかとされ、病気と認めてもらえない。30年におよぶ歳月をそのような状態の 中で過ごす。やがて起きることもできなくなるが、その苦しみの中で得たものを記した のがこの本だ。

 症状の苦しみと、それにも増して病気と認められないという精神的な苦痛や孤独に耐 えて、著者の魂は余計なものを削ぎ落として美しく輝いていったようだ。抑制のきいた 文章に、彼女の魂の清澄さがにじみ出ている。

 前回とりあげた『ライフ・レッスン』の中で、人生に避けがたい喪失の体験によって かけがえのない学びを得るという喪失のレッスンに触れたが、著者の人生はまさにその ようなものだろう。

 「人間であることの悲しみ、人間であることの限界を知る悲しみ」「涙も出ないほど の悲しみ」「存在の深淵からにじみ出る悲しみ」の中で著者は、宗教に救いを求めず、 さまざまな本の中に何かを得ようとした。

 「宗教書、哲学書、文学書などを乱読するうちに、次第に何かが見えてくるように思 えた。何かから解き放たれていく自分を感じた。‥‥‥  それらの感銘深い本の著者たちは、みんなその悲しみを知っていた。その悲しみを受 け入れて、しかも立派に生き抜いたひとたちである。私はもはや孤独ではなかった。た とえ書物を通してでも共感できるひとびとにめぐりあえたのである。  ユダに裏切られて、不当な罪状によって十字架にかけられたキリストの心のなかにあ ったものは、怒りでも悔しさでもなく、深い悲しみであったはずである。」

 存在の深淵からにじみ出る悲しい運命を背負っている自分の姿は、宇宙のなかの小さ な小さな自分の存在への気づきに連なっていた。それに気づくと自分が宇宙に抱きかか えられているように感じられ、それが著者の神秘体験につながった。(この神秘体験に ついては、私のサイトの「覚醒・至高体験の事例集」に近日中に収録する予定。)

 こうした経験のなかで彼女は、次第に何かを成し遂げることを最高とする価値観から 解放され、苦しみや悲しみを作り出す自分の心に縛られない、安らかさを得るようにな ったという。  本書は他に、自己超越や生きがいについての心理学、生命科学などの視点からの多角 的な考察や、安楽死、尊厳死、在宅医療、ホスピスなどについての発言を含む。  (読 0207)


■『ライフ・レッスン』エリザベス・キュブラー・ロス&デーヴィッド・ケストラー  (角川書店、2001年)

 一生のあいだには、学ぶべきさまざまなレッスンがあり、とりわけ死に直面した人た ちとともにいるとき、それを実感すると、著者たちはいう。人生がわれわれに習得せよ と要求するレッスンを15にまとめている。

 すなわち、「ほんものの自己」のレッスン、愛のレッスン、人間関係のレッスン、喪 失のレッスン、力のレッスン、罪悪感のレッスン、時間のレッスン、恐れのレッスン、 怒りのレッスン、遊びのレッスン、忍耐のレッスン、明渡しのレッスン、許しのレッス ン、幸福のレッスンである。

 たとえば、病気とたたかっている人を見ていると、自分とはなにかを知るためには、 「ほんものの自己」でないものをすべて脱ぎすてなければならないということが分か ってくる。生の終局にあって、人は以前よりずっと純粋に、正直に‥‥まるで赤ん坊 のように‥‥その人自身になっていくからだ。「どんな人でも偉大さの萌芽をもって いる。『偉大な』人物が、ほかの人たちのもっていないものをもっているというわけ ではない。『偉大な』人物はただ、最良の自己のまえに立ちはだかる余分なものを脱 ぎすてているだけなのだ。」

 結局は、「ほんものの自己」のレッスンが、愛のレッスン、人間関係のレッスン、 喪失のレッスン等々のレッスンの根底にあるように思われる。

 人間関係のレッスンでいえば、だれかとくべつな人がいなければ自分は無価値な存在 だと感じている人は、その人との関係のなかでも、いずれは無価値性が外にあらわれて しまう。求めている全体性や完全性は、自身の内部にあって発見されるのを待っている のだ。つまり「ほんものの自己」の発見なのだ。

 喪失のレッスンについても同じことが言える。死という絶対的な限界状況に直面してはじめて人は、余分なものを削りとって≪いのち≫のして輝き出す。自己の内部に、失われることのないなにものかを見出す。死を前に徹底的な喪失を味わい、すべてに「さようなら」をいうこと によって、それによってもあせることのない何かをつかむ。 人生に 避けがたい喪失の体験によってわれわれは、かけがえのない学びを得るのだ。

  『余分なものを削りとる』作業さえすれば、だれであれなんらかなの場で輝きを放つ ことができる。「あなたの本質はもっとも純粋な愛であり、壮大ともいえる完全性であ る。あなたは自己を癒し、自己がだれであるかをおもいだすために、地上にうまれてき た。おもいだすべきあなたの本質こそが、闇夜を行くときのみちびきの光である。」

 これが一生のあいだに学ぶべきレッスンのうちもっとも核心的な部分だろう。著者た ちは、これらのレッスンがいかに深い真実であるかを、印象的な事例や説得力のある言 葉で語る。その言葉の一つ一つからゆるぎない真実がにじみ出る。真実から発せられた 言葉のみが持つ強さに満ち、じんわりと心に沁みこむような感じの本だ。

 本書は、まちがいなく絶筆となるだろうと言われたキュブラー・ロスの自伝『人生は 廻る輪のように』(角川書店、1997年)のあと、奇跡的に体力を回復した彼女が、その 弟子であり友人であるホスピス・ワーカー、デーヴィッド・ケストラーとの協力によっ てまとめたものである。(読 0207)



◆『カルトのかしこい脱け方、はまり方』 青山あゆみ (第三書館)  1995年

 ことばやさしいが内容は深い。題名から連想しがちな安易な、きわもの的な本ではない。ニューエイジの中にひそむカルト性を超え、しかも霊的な成長や目覚めを失わない生き方とは何かを、平易な語り口の中に絶妙なたとえ話をちりばめながら語っている。

 そして、合理的思考と悟りの関係、現実肯定と批判精神の関係、世界の一切は幻であるという言葉の意味など、精神世界やニューエイジ的な思考の根本にかかわる問題について、やさしくさりげない言葉の中にひとつの方向を示している。

いくつか引いてみる。
<しっかりと合理的に考えることを手放してはいけません。現代人の心の病いにみられるように、“考える自己”がさまざまな問題を抱えているとしても、また、合理的な自己だけが人間の正常な精神状態だと決めつけてきた西洋近代的な人間像が片手落ちだっととしても、健康な個の確立をはしょったり、それを否定し前個的状態へ退行したりして、超個へのショートカットすることはできません。むし、合理的な思考と、思考という心のレベルより深い魂のレベルの経験とを組み合わせることが、本当の意味の「超我」に達する道でしょう。>

< ‥‥宇宙のなかのこの地球という惑星で起こっている「現実」という名の現在進行形の奇跡をさておいて、人間の浅知恵で作為をはたらかせる必要をあまり感じなくなります。‥‥なにもかも現状のままで放っておいていいという無責任な現実肯定ではなく、いまある世界に限りない神秘と感謝を感じながら、しかも未来へ向けてのその創作に等身大にコミットしていこうとする積極的な現実肯定です。>(読了:0103)

◆『こころの生態系』 河合隼雄、小林康夫他 (講談社)

 日本総合研究所が1999年に開催したシンポジウム「21世紀の知のパラダイム―こころの生態系をみつめて」での討議と、それを元に、河合隼雄、小林康夫、中沢新一のそれぞれと田坂広志氏との対談を収録したもの。

 たとえばビジネスの現場では、強烈なリーダーシップを発揮し、ひとつの価値体系で組織をひぱっていけば、とりあえず短期的には組織は強さを得る。しかし、一方で組織における価値の多様性を育てないと、長期的には組織自身の強さが失われる。環境の変化に対応して変化する力が弱まるからだ。  逆に自らの弱さを自覚して、多様性を受け入れて変化して行く企業は「パワー・オブ・パワーレス」の主体として成長するという。「パワー・オブ・パワーレス」は「他力」の思想に通じる。

 人間は往々にして、あまりに自分の意識のレベルだけで生ようとするが、「他力」は、向こう側の何者か、阿弥陀さまとかその他、超越的なものに自らをささげる形をとるようでいて、実はそういう仕掛けを通じて、自分のこころが持っている潜在的な無数の可能性が働くままにすることだという。それは自分でない他者に問題を解決してもらおうというエゴではない。それでは、世界を思うままに操りたいという「操作主義」のエゴと同じ、単なるその裏返しになってしまう。裏返しの「自力」。

 自力に対する、他力の主体があるとすれば、それは「自分を含んだすべての世界」という意味だろう。しかも、自分を含んだすべての世界は、中心も持たない、非常に微妙な構造不安定のバランスの上に築かれ、形成されつつ、次の瞬間にはかたちが消えてしまう、そういう流動的なものだろう。だから、自分の外の場に頼るべき主体を設定するは不可能だし、他力の本意ではない。

 意識的で自己集中的な自力の生き方に対して、自分を含めたすべて世界の流動性に身を任せるようなあり方が他力であり、そこに「こころの生態系」という視野が開けてくるのかも知れない。  (読了:0106)

◆『裸のサイババ』 パンタ笛吹 (ヴォイス社) 2000年

  サイババを信奉し、敬愛している人々にとってはもちろんのこと、ひろく精神世界に関心をよせる私たちにとっても、かなり衝撃的な本だ。 日本の精神世界への関心をリードする人々のなかにもサイババを信奉する人は多い。サイババ詣での感激を、その著作のなかにつづっている著名人も数多い。 

 しかし、7歳の少年を含む、こんなにも多くの男性たちがサイババによる性的な虐待の対象となったことを告白しているのであれは、これは恐らく真実なのだ。パンタ笛吹さんが、被害者に直接会って、詳細なインタビューしているので信頼性が高い。 

 また、物質化のトリックの目撃証言。 しかも「物質化」を演じる他愛もないトリックを見破るビデオさえ出てきてしまってたらしい。

 サイババは、「神の化身」どころか、とんでもないインチキ詐欺師。純粋に彼を信じる数千の少年や青年たちに、自分の立場を利用して性的ないたずらを強い、虐待を繰り返す邪悪な老人に過ぎなかったのか。さらに、サイババの悪事を告発しようとする人々が、彼を中心とする組織によって抹殺されたといううわさや、実際にやっとの思いで抹殺を逃れた人々の証言。サイババの性的虐待に耐え切れず、サイババを暗殺しようとした4人の少年たちが、殺害されたという話も出ていた。

 サイババを「神の化身」と信じ切り、その人生をサイババに捧げて生ていたような家族が裏切られ傷づく話には胸を打たれる。自分が性的ないたずらの対象とされただけでなく、愛する息子までがその餌食となったとことを知った父親の怒りと悲しみ。母親の混乱と悲痛。それでも父親は、サイババの性的な悪癖を聖なる行為として正当化しようとしたという。
 子供は、両親がサイババへの帰依を選び、自分を捨てるのではないかと恐れ、サイババの虐待を打ち明けられなかたという。打ちあけて両親が自分を捨てないと知ったときの悦び。それまで自殺を考えるほどに思い悩んだという。

 『裸のサイババ』に報告されたサイババの姿は、 聖者として疑問どころか、卑劣、醜悪なペテン師以外の 何者でもないのです。 しかも自分の性的な悪癖でどれほど多くの若者、信者が傷ついているか、 省みようともしない。 そんな男を神に祭り上げてしまった私たちの心は、 いったい何を見たがっていたのか。 どんな内面の弱さが、そんな虚像を作り出してしまったのか。
 人は、特別の能力があると言われ、「神の化身」と言われる人間を こんなにも信じやすいのか。 この本の副題は「僕たちの外側に『神』を見る時代は終わった」である。 外なる神を信じないでもすむほどに、内なる命に目覚めていくしか、 私たちの道はないのだろう。(読了:0012)



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