■ 悟り・覚醒 

『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている』ガンガジ(徳間書店)
◆『なまけ者のさとり方 PHP文庫 (PHP文庫)』タデウス・ゴラス(PHP研究所)
『自己の変容』 クリシュナムルティ著 松本恵一訳 (めるくまーる、1992年)
◆『恐怖なしに生きる』 クリシュナムルティ著 (平河出版社、1997年)
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』  エックハルト・トール (徳間書店、2002年)
◆『宇宙につながった日』  山本佳人(金花舎) 1993年
『自己喪失の体験』  バーナデット・ロバーツ (紀伊国屋書店) 1989年


 

 


■『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている』ガンガジ(徳間書店)

ガンガジは、アメリカ人女性だが、ラマナ・マハルシの弟子パパジによって覚醒を得たという。そのため、ラマナ・マハルシの教えに共通しながら、それでいて彼女独自の新鮮で平易で説得力のある言葉によって覚醒の真髄を語っている。覚醒についてこのような語り方もあったのかという驚きをを感じた。

この本の冒頭に、彼女がパパジと出会って覚醒に至るまでが語られている。その部分を読んで印象深いのは、彼女の人生が、「一般的なものさしで測れば素晴らしいもの」だったということ。夫を愛し、経済力はほとんどの人のそれを上回わり、仕事を愛し、その価値を信じていた。にもかかわらず彼女は、それ以上のものを探し続け、自分が持っているものを失うのを恐れ、将来に希望を馳せたり、将来を恐れたり、を繰り返していたという。

そんな中で、これまで瞑想や修業の様々な取組みをしてきた彼女は、パパジに「何もしないでいなさい」と言われる。それがきっかけとなって、これまで彼女が欲しがっていたすべてが「すでにここに、純粋で永遠なる存在の基盤として存在している」ことに気づく。

「このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。」

私は、ガンガジのいう「物語」という言葉が好きだ。結局、私が思考によって織り成す一切は、ひとつの「物語」にすぎない。自分が自分の都合にあわせて作り上げた「物語」。でありながらその「物語」こそ、この世でいちばん大切なものと思い込んで、それに執着し、苦しみを生み出している。しかし、所詮それは「物語」に過ぎない。 「物語」は、いずれは消え去る。一夜で消え去る夢まぼろしと変わらない。しかし「物語」の底には、消え去らない無限の存在の基盤がある。「物語」が飛び散るように消えてしまうことで、かえって開ける無限の地平がある。子供の頃、母が読んでくれた恐ろしい物語が終わってほっとしたように、私が今、夢中で織り上げている「物語」も、そこから解放されてしまえば、まったく別の、思考を超えた限りなく静かな世界が開けるのだろう。「物語」という言葉は、そんなことまで予感させる言葉だ。

彼女の言葉を読んでいると、瞑想や修行一般によって自分の意識状態を「より高次」の状態に変えようとするような試みが、いかに「自我」の強化につながってしまうかが、強く意識される。彼女は言う、

「焦点が定まっていようと拡散していようと、どんな特定の意識状態にも到達しようとするのを止め、またどんな状態を避けることも止めてごらんなさい。代わりにいつでもそこにあるものは何かについて気づいてください。」p103 「今、この一瞬、すべてを止めてごらんなさい――探し求めることも、否定することも、拒否することも、すがりつくことも、それら全部を手放し、今この一瞬だけ、あなたの存在の真の姿の中に身を委ねてごらんなさい。」p109

確かに、私が日常のサティ(気づき、ヴィパッサナー瞑想のかなめ)に一生懸命になっていた心の中には、自分の意識状態をより高次の特定の意識状態に到達させようという「野心」が存在していた。何かになろうとする「野心」が今を見失わせてしまうのだ。しかし一方でサティは、過去を悔いたり未来を心配したりする「思考」に気づき、今に立ち返らせる働きがある。問題は、何かになろうとする「野心」そのものであり、サティ自体ではない。

この本は、私の瞑想への「野心」に打撃を与えたが、一方で、サティの意味を改めて確認できた。強い目的志向によってサティを始めたにしても、サティそのものが、そうした意識のあり方さえも自覚化させていく力を持っている。常に今ここで起っている心の現象に気づいていくのがサティだからだ。

最後に、この本のタイトルにつながる言葉を読んで欲しい。「もしもあなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。これは非常に重要な瞬間です。なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。この対峙こそ真実の自己探求によってもたらせれる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。見つかったダイヤモンド、それはあなたです。」


なまけ者のさとり方 PHP文庫 (PHP文庫)』タデウス・ゴラス(PHP研究所)

題名からしてもっと軽い本かと思っていたが、実際は深く優れた本であった。ラマナ・マハルシ、クリシュナムルティ、エックハルト・トール、ガンガジ等々と根底に広がる世界は同じである。ただ表現が違う。表現が違うということは、いろいろな仕方で、いろいろな角度から、私の魂を揺さぶってくれるということである。あるいは、この本の中の言葉が、変容へ向けての強力な引き金になるのかも知れない。

「一つひとつの生きものの基本的な営みは、拡張することと収縮することです。広がることと縮むことと、言ってもよいでしょう。拡張した生き物は『スペース』となって四方に浸透してゆきます。」

「地獄さえも愛することができるようになれば、あなたはもう、天国に住んでいるのです。」


■『自己の変容』 クリシュナムルティ著 松本恵一訳 (めるくまーる、1992年)

 気づき、葛藤、道徳、自殺、組織、愛と性、苦しみ、依存、自己表現、個人と社 会など、さまざまな問題をめぐる33の対話。アラン・ノーデという質問者が、彼 自身の抱える問題を真摯に素朴に問いかけ、クリシュナムルティもそれにひとつひ とつ真正面から答えている。問いは、多方面に渡るが、クリシュナムルティは、そ れら一切の問題の根底にあるひとつの問題をつねに明らかにする。彼の教えが濃縮 されて浮き彫りにされているという意味でも最適な入門書といえよう。

 一切の問題の根底にあるものとは、何か。たとえば次のような表現に端的に示さ れている。  「世界は、記憶である〈私〉とのさまざまな関係において見られ、ありのままに 見られることはありません。この分離が生活であり、『心理作用』と呼ばれるもの の繁盛であり、ここから矛盾と分裂のすべてが起こるのです。」

  過去によって条件づけられた〈私〉というフィルターを通して現実を歪めてしま う。ここに分離があり、問題の根源がある。この矛盾と分離が、あらゆる苦しみ、 悲しみ、怒り、葛藤などの根源であるというのだ。

  「すべての条件づけの根源は思考であり、それが〈私〉にほかなりません。〈私〉 こそまさに過去の本質であり、〈私〉が時間であり、〈私〉が悲しみです。〈私〉 は〈私〉をなくそうとしてもがき、〈私〉は到達したり、否定したり、何かになろ うとして努力と苦闘をくり返します。」

たとえば、怒りについてはこういう。

  「あなたは全体で怒りに気づきます。そのとき、怒りはあるでしょうか。不注意 が怒りであり、注意深さは怒りではありません。ですから、あなたの全存在による 注意深さが全体を見ることであり、不注意とは特定のものを見ることなのです。全 体に気づき、特定のものに気づき、そして両者の関係に気づく――これが問題のす べてです。」

  もっと一般的に一切の問題に当てはまる表現すれば、こうなるだろう。 「あなたは過去である思考の運動なしに、過去である自分自身を見つめることがで きますか。考えることなく、なんの評価もなく、好き嫌いもなく、なんの判断もな く見ることができれば――そのときあなたは、過去によって汚されていない目で、 ものを見ているのです。それが静寂のなかで見ること、思考の騒音なしに見ること です。この静寂のなかには観察者はなく、また観察者が過去として見ていたものも ありません。」  思考とは、自分の過去、民族の過去、文化の過去、言葉という過去で、現実を歪 めて捉え、あるがままの姿から分離させることである。自分の全存在による注意深 さによって全体を見るとき、この分離はないという。

  信念は、思考の中でももっとも硬直化した過去への囚われだろう。だからこそ、 クリシュナムルティはこういう。  「信念というのは、恐怖から生じるもっとも破壊的なものです。人間は恐怖と信 念をなくさなければなりません。信念が人々を分離させ、無慈悲にし、互いに憎し み合わせ、戦争を培養するのです。」

   クリシュナムルティを読むと、その魂の高潔さ、気高さに打たれ、「自己の変容」 の限りなき可能性を指し示されて感動する。この気高さから来る波動を浴び続ける こと自体、私たちの魂にとって意味あることだろう。(02・11)


■『恐怖なしに生きる』 クリシュナムルティ著 (平河出版社、1997年)

 インドに生まれたクリシュナムルティは、13歳のとき神智学協会の指導者に見いだされ、 後に〈星の教団〉の指導者となったが、やがて真理の組織的追求に否定的となり、同教団を 解散。以後、人間の解放をテーマに広範な講話と著作を通して人々の覚醒を促し続けた。

 本書は、その膨大な教えの中からテーマ別のシリーズとして編纂された一冊。さまざまな時、さまざまな場所で語られた恐怖についての教えを通読すると、恐怖についてだけではな く、クリシュナムルティの教えのエッセンスがおのずと理解できる構成になっている。そし てクリシュナムルティという孤高の透明な精神の魅力が心に深い印象を残す。

「思考が恐怖の原因なのです。また思考は快楽の原因でもありあます。幸せな体験をしたと します。思考はそのことを思い起こし、それを永続させたいと願います。しかしそれが不可 能なときには抵抗や怒り、絶望や恐怖が生じます。こうして思考は、快楽の原因であるよう に恐怖の原因でもあるわけです。」

「要するに快楽があれば、そこには思考によって永続させられる苦痛と恐怖があるというこ とです。快楽は苦痛とともに進みます。両者は分けられません。ということは思考が両方の原因なのです。明日がなければ――つまり恐怖かそれとも快楽か、という観点から見た未来 の時がなければ、恐怖も快楽も存在しないのです。」

 結局クリシュナムルティは、恐怖について語りながら、人間の一切の苦悩の根元である 「思考」(分別意識)について語っている。

 彼はまた、利己心こそが恐怖の原因であるという。私という感覚や私の関心、私の幸せ、 私の成功、私の失敗、私の業績、私はこうである、私はちがう等々、利己心と不可分の思考 こそが、恐怖だけでなく、一切の苦悩、憂鬱、苦痛、不安、熱望、悲しみなどを引き起こす のだ。

 では恐怖をもたない状態はいかにして可能なのか。それは、

「‥‥‥全的な注意力、つ まりすべての思考、すべての言葉、すべてのふるまいへの自覚があるときにかぎって可能な のです。精神は言葉という障碍物がないとき、解釈や正当化や非難がないときに注意深くい られるのです。そのような精神はそれ自身を照らし出す光です。そしてそのような光である 精神だけが恐怖をもたないのです。」

 クリシュナムルティがいう、「光である精神」は、おそらく恐怖だけではなく、人間の一 切の苦悩を一掃するのなのだ。それ(恐怖や苦悩や怒り等々)を抱きつづけ、それから離れよ うとせず、それを抑圧したり超越しようとしたり、ただひたすら見るということ。
(読 0210)


■『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』 エックハルト・トール (徳間書店、2002年)

 原題は、The Power of NOW 。6月30日に出版されたばかりだ。 最初に、著者の覚醒体験が語られている。それも印象的だったが、その後に続く言葉に強 く引きつけられ、夢中で読んだ。読み進むにつれ、ますますずしりと来るものを感じた。本 の帯に「世界10カ国で続々出版」とあるが納得できる。

  さとりについてこれまで多く語られてきた。本書も、言葉にしえないそれを指し示すのだ が、何かが一味違う。とても新鮮に響き、しかも得心がいく言葉の連続だ。ページのほとん どをマーカーで塗りつぶしてしまうほど。この本に出逢えたことの喜びを、読んでいて何度 もかみしめた。

 本書の新鮮さのひとつは、その普遍性、統合性にある。聖書の言葉や仏教、とりわけ禅へ の言及も多いが、序章にあるようにまさしく「普遍的な魂の教え、あらゆる宗教のエッセン スを統合し、現代向けに書き改めた書」といえよう。  「大いなる存在が、自分とともにある」ことがどんなことなのか、どうすればそうなるの か、とても分かりやすい言葉で、説得力をもって語られている。

 これまでいろいろな書物で学んでいた教えが、「なるほど、そうだったんだ」と新しい発 見でもするかのように心のなかで結びついてくる。「時間」と「永遠」という観点から語る 部分にとくにその思いを強くした。 トールは、さまざまな角度やたくみな表現で、「いま、この瞬間に在る」ことが「大いな る存在」につながることだと説いている。

  「いまに在る」には、「いま」から抜け出したがる思考を観察することからはじめること だ。

「自由への第一歩は、自分の思考は、『本当の自分』ではない、と気づくことからはじまり ます。そう気づくと、『思考を客観的にながめる』ことができるようになります。  思考を客観的にながめると、高次の意識が活動しはじめます。思考をはるかに超えた、果 てしない『知性の世界』が存在することや、思考はごく小さな一面にすぎないことも、気づ きはじめます。」

 思考は、未来を楽観的に見て希望や期待をもたらしたり、未来を悲観的に見て、不安や心 配を運んだりしているが、どちらにせよそれは幻にすぎない。
 そういう思考を観察すれば、自動的に「いまに在る」ことができるようになるという。 「しまった、いまに在ない」と気づいた時には、すでに「いまに在る」状態なのだ。思考を 観察することで、思考のわなから逃れることができる。

  私たちは思考のはたらきによって自分のアイデンティティを確立している。個人的・社会 的環境に基づいて「わたしは誰か」という自己イメージ(にせの自分)を形成するのだ。  これがエゴであり、エゴは思考活動があるからこそ、それよってこそ成り立つ。エゴは、 たえず考えることによってのみ生き伸びることができる。

 思考活動は、ふつう80〜90パーセントが、堂堂めぐりか無駄であるばかりか、ネガテ ィブな性質のためにむしろ有害だという。  コントロールできない思考活動は、中毒症状の一種で自分で止めることができない。

  エゴにとっては、過去と未来がすべてで「いま、この瞬間」という時は存在しないに等し い。エゴが一見、現在に注目しているように見えても、実際は過去というメガネを通して歪 曲して現在をながめている。エゴは「現在」をゴールに至る通過点としか見ないから、ほん とうの「いま」を知らない。しかもゴールはいつも頭の中の未来にしかなく、現実ではない。 思考を「ほんとうの自分」だと思い込んでいるエゴは、中毒症状によって「無意識に生き ている」(無明)。その思い込みが「大いなる存在」を経験することを困難にしている。

 思 考を客観的にながめるとき、その行為をしている「ほんとうの自分」の存在に気づくのだ。 「‥‥さとりをひらくための、一番肝心なステップは『思考を「ほんとうの自分」とみな すのを止めること』なんです。たえまなく流れている思考に『すきま』をつくるたびに、 『意識の光』が輝き出します。」

 私自身にとっては、実践しているヴィパッサナー瞑想を、少し別の文脈やニュアンスの違 う表現の中で、また「さとり」についての新鮮で全体的な展望の中で確認できるのがうれし い。

 方法についての具体的な記述が多いのもとても参考になる。たとえば、意識のすべてを 「いま、この瞬間」に向ける方法について。

 「たんなる手段としておこなっている動作に、全意識を集中させるのです。すると『手段』 が『目的』そのものに変わります。たとえば、家や会社で、階段をのぼりおりする時に、呼 吸はもちろん、その一歩一歩に、全意識を集中させるのです。これが『完全に[今]に在る こと』です。
 手を洗う時も、同じ要領でします。行動がどんなことでも、それをする時に、自分が受け る感覚を、ひとつ残らず意識しましょう。水の音を聞き、水が手に触れた時の感触を感じ、 せっけんをあわ立てている時に、その香りをかぐ、という具合です。」

 いまのところ、大多数を占める無意識に(無明の状態で)生きる人たちの場合は、「十字 架の道」(強烈な苦しみによって精神的に追いつめられて、やむを得ず「手放し」の状態に なる)が、さとりをひらく唯一の方法だろう。  しかしトールは、いま意識のレベルが高まった人間の数が着実に増えていると指摘する。 「十字架の道」ではなく、過去や未来へのしがみつきをやめ、「いま」を人生の中心にすえ、 自らさとりをひらくことを選ぶ人も増えているといのだ。  ひじょうに興味深い指摘だった。   (読 0208)


◆『宇宙につながった日』山本佳人(金花舎) 1993年 / 精神世界

 著者の名前は以前から知っていたが、本を読むのははじめて。一読、非常に面白いと思った。こんなにも深い覚醒を得ている人がいるということに驚いた。しかも覚醒に至る経緯や、覚醒そのもの、覚醒に関連して目覚める 「超能力」などをこんなにもつぶさに記録しているは。文章もとても格調が高く、この著者は、もっともっと評価されていい人だと思った。難を言えは少し格調が高すぎることかも知れない。自らの覚醒というテーマをこれほど詳しく描写し、深く探求した本は、そう多くない。
 ただ、心に強く訴えてくるものが少ないのは、あまりに素晴らしく、自分とはあまりに掛け離れすぎている感じがするからだろうか。  

印象に残る言葉をいくつか。

「もはや私がなすべきことは一つしかなかった。慣習と自堕落に満ちた生活空間のすぐ上に、本当の世界が実在することに気づいてもらうこと。私の思いはこの一点に尽きていただろう。しかしこのような気づきは勇気なしには得られようもない。そこで私心を放棄しえる決意、慣習的な日常を突破しえる勇気をもってもらうためには、そのような放棄の代償ともいうべき甘露な世界が、誰の目にも明らかなほと確かなものとして実在するという事実を、私は証言しなければならないいと決意していた。」

超能力についての以下の言葉は、その通りだと思う。

「人間の心の深みに宿り、あるいはまた宇宙的自然の高みに偏在しなければならない、意識の超越的な本流の中には、異常とも思えるような超能力現象や、超自然現象といった細流がきわめて正常な形で、自然に存在しているのである。それらの現象はもともと全体から切り離すことでできない、宇宙意識の内的な要素なのである。  ところが多くの人々が、超能力を獲得しようとして躓いている。身体から取り出された内蔵がグロテスクな異物のように見えるように、全体の中から部分を切り離して、それだけを取り上げるなら、たちまち、その部分のトータルな意義や真に個別的な働きは見失われる。本来、素晴らしく人間的で総合的な輝きをもっている超能力や超自然現象が、オカルトのイメージに象徴されるようなグロテスクな姿に形を変えてしまうのは、このような誤った取り組みのためなのである。」 (読了:0102)


『自己喪失の体験』 バーナデット・ロバーツ (紀伊国屋書店) 1989年

 バーナデット・ロバーツは、キリスト教徒だが、あきらかにここには、「自己」超越の体験が語られている。岡野氏のいう霊性の体験。いっぱんに「自己」超越体験は、覚醒・至高体験の事例集からもわかるように、ほとんどは強烈な喜び、歓喜に満ちているが、 ロバーツの歩みは、歓喜と凍りつくような虚無、静寂、苦しみの体験が交差する。

 自己を超えて覚醒へと至る道は、こんなにも大変なことなのか。
 彼女は、自己を失ったあと「それ」に至るには虚無の通路を通らなければならなかったが、それは絶望も狂気も超えた通路だという。狂ったり絶望したりする自己はすでにないからである。

 そんな虚無の通路を通って至りつくのは、

「自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなって、『それ』だけが残るのです。それは時に非常に強烈にもなりますが、何か異常なものではなく、自然で平明なので、どこを見てもあるという意味でむしろ通常なのものなのです。」  

 これは、何かしら禅者の心境に似ている。平常心!  

 彼女の体験は、確かにこれまで読んできた覚醒体験の記録とは、かなり異質だ。が、その歩みの誠実な記録を読むと、体験のおどろくべき徹底性を感じる。根源的なところにたどり着いた人。  
  ときに凍りつくような虚無を感じさせる歩みににもかかわらず、彼女の言葉には禅の根本に通底するもの、西田幾多郎や久松真一の言葉かと思うような表現が見られる。
 たとえば、

「旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。そのために心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。」  

 これは、禅でいう即今即所、あるいは仏教思想の刹那滅そのものだ。 (読了:0011)


臨死体験・気功・瞑想
index(一覧)
日本の気功家たち

臨死体験研究読本

読書の旅・日誌

作者のダイアリー

ネットワーク 掲示版・リンク

精神世界書店(模擬書店)

読書の旅メルマガ
折々の言葉
精神世界と心理学・用語集
HOME