■ 臨死体験・死生観
『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス(角川書店、1998年)
◆『魂の帰郷』藤崎ちえこ(ビジネス社、2004年)
◆『臨死・天国からの電話』 ネッド・ドハティ (ヴォイス、2003年)

◆『知られざる自己への旅』 エドワード・クライン(大和書房、1999年)
『前世への冒険』 森下典子 (知恵の森文庫、2000年)
◆『臨死体験〈上・下〉』立花隆 (文春文庫 2000年)
『死にゆく者からの言葉』 鈴木秀子、 (文芸春秋、1993年)
◆『「死ぬ瞬間」と臨死体験』、E. キューブラー・ロス(読売新聞社、1997年)
『かいまみた死後の世界』 レイモンド・A. Jr. (評論社,1989年)
『もう一度会えたら』  ジェームズ・ヴァン・プラグ(光文社)
『天国との対話』 ジェームズ・ヴァン・プラグ
(光文社)

■『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証☆石井登(アルファポリス、2002年)



◆『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス(角川書店、1998年)

この本で私は、エリザベス・キューブラー・ロスを再発見した。彼女の何冊かの本は読 んできたが、これほど心に響いたことはなかった。まちがいなく絶筆となるだろうと言われたキューブラー・ロスの自伝である。ただし、奇跡的に体力を回復した彼女が、そ の後、弟子であり友人でもある人物と協力してまとめた本に『ライフ・レッスン』があ り、こちらはすでにこのメルマガで取り上げ、何人かの方から素晴らしかったとのメー ルをいただいた。

この自伝はさらに、たちまちのうちに人の心をとらえてしまう魅力を 放っている。 ひとつは、死の問題をめぐってだ。死は人間にとって最大の学びの機会であり、そうした死の意味に真正面から取り組んだのがキューブラー・ロスだった。この本ではとくに彼女がその問題に導かれて行く運命的なプロセスが、幼児期からつぶさに語られている。 死、そして癒しと愛が彼女の人生の中心に横たわるテーマだった。そのテーマに立ち向 かっていく彼女の姿勢に、まぎれもない真実さを感じる。

すべての人に必ずもたらされる絶対的ないのちの限界、死。死を意識し、死に直面する ことがいのちの意味をきわだたせる。キューブラー・ロスは多くの患者に寄り添うこと で、死から逆に照らし出されたいのちの意味を見据えていった。それが、一人二人の人間のエピソードとして語られただけではなく(そういうことならこれまでにも数多く あっただろう)、死に直面させられる多くの患者に共通する意識変化として語られた。 死がタブー視されることなく、死の過程にどのように寄り添うかが、死という深淵の意味を見失わぬままに語られた。そこに計り知れない重要な意味がある。

さらにこの本で印象が強かったのは、幼少のころから若き日にかけての、次から次へと 起こる印象深い出来事だ。苦しむ人々を助けようとする意志と、待ち受ける困難。それを持ち前の行動力と偶然とは思えぬ運命の力によって克服していく過程。読み物としても瞬く間に心を奪われて、一気に読ませてしまう展開だ。それを通してキューブラー・ ロスという女性のたましいの純粋さがじかに心に響いてくる。

第二次世界大戦終了後のポーランドで、国際平和義勇軍の一員として働く若き日のエリザベスの姿。彼女をつき動かす根源的な動機の高貴さ、その力強い生き方、強い意志、 愛‥‥、それらすべてに圧倒される。ページをめくるごとに、その純粋なエネルギーに心の底から洗われていくような感じだ。

『死ぬ瞬間』を発表し、またその取り組みが『ライフ』誌に取り上げられた後の彼女に ついては、ある程度のイメージがあった。臨死体験者との交流やモンロー研究所での 「宇宙意識」体験などはよく知っていた。もちろん知らない部分もあり、彼女がチャネ リングや霊的存在との交流にこれほどかかわり、そこから生きる指針を得ていたことなどはほとんど知らなかった。

「死とその過程」をテーマとするまでの前半生と、「死後 の世界」の探求をテーマとする後半生とを比べれば、これまでの私にとっては後半生の彼女になじみがあった。しかしこの本では、前半生の彼女にはるかに引き付けられた。 ほとんどの医師たちが、死に臨む患者の意識に直面することを避け、むしろ死をタブー 視する中で、真正面からそういう患者に接し、患者とともに苦しみ悩み、寄り添ってい く。多くの患者たちとともに死に直面する中で、患者たちの意識にどのような変化が起 こるかが明らかになっていく。その過程で人間にとっての死の意味が明らかになってい く。そのことがどれほどに画期的で重大な意味をもっていたかが、この自伝を読むこと でよく分かった。 (05/11)


◆『魂の帰郷―あなたはなぜ生まれ、どこへ帰っていくのか』藤崎ちえこ(ビジネス社、2004年)

『臨死体験研究読本』では、体験者の体外離脱体験が脳の見た幻覚だったのかどう かを検証することが、ひとつのテーマであった。にもかかわらず私は、臨死体験と は独立で体験される体外離脱には、ほとんど興味をもてなかった。本当は本を書く にあたって、ロバート・A・モンローの『究極の旅』や『魂の体外旅行』などは読んでおくべきだったのかも知れない。いや、読んだことはあった。しかし、興味がも てず途中でやめた。最近話題になった坂本政道著『「臨死体験」を超える死後体験』 もほとんど読んだのだが、やはり後半は少し残して止めてしまった。

『魂の帰郷』は出版社から贈られたものだが、気軽に読める本だったためもあり、 すぐに読了した。著者は、精神神経免疫学を専攻し、大学でカウンセリングやヒー リングなどの活動をしていたという。子どもの頃から霊的な能力も持っていた人のようで、体外離脱には強い関心をもち、それがきっかけとなって米国モンロー研究所のワークに参加、研究所公認の最初の日本人トレーナーとして日本でワークをスタートした。

彼女自身は、体外離脱へのあこがれからへミシンク・プログラムに参加したようだが、本書は、体外離脱そのものを強調しているわけではない。その点がいいなと思っ た。確かにプログラムで体外離脱する人もいるというが、「それはあくまでも意識 の拡張、覚醒、それによる深い人生への気づき」という真のテーマの副産物だとい う。

モンローの本でも坂本政道の本でも、各フォーカス(プログラムで探求する各レベ ル)の描写があまりに細かくてついて行けなかった記憶があるが、本書はそういう部分に深入りせず、意識の覚醒という、より広い視野から語っているので、読むのに抵抗を感じなかった。

私は最近、輪廻説をどう理解するかに関心があり、その視点からも興味深かった。 ヘミシンクのセッションを受けていると、自分の肉体にいるという感覚を持ちながら、別の意識で外にいて様々な経験をしていると感じたり、意識が複数となり、複数空間で別々の体験をしたりすることがあるという。そこから、わたしたちの魂は一つではなく、いくつにも分散したり、結合したりするエネルギー体だとも考えら れるようだ。

魂が個別的という概念は、三次元での幻想にすぎず、ユングの「集合的無意識」のように、深いレベルではつながっているとも理解できる。魂を唯一個別の実体とは していない自由な発想から魂と輪廻をとらえることも必要だろう。 ヘミシンク・プログラムを受けた日本人の女性で、臨死体験とそっくりの体験をしたという例が紹介されていたのも面白かった。集中力を高めたり、リラックスする ための市販のヘミシンクのCDを1・2枚買ってみようかな、という関心は出てき た。 (05/05/01記入)


◆『臨死―天国からの電話』ネッド・ドハティ(ヴォイス、2003年)

  370ページもある本だが、かなり面白く一気に読める。臨死体験者自身が書いたこれまで読んだ本のなかでは、いちばん描写が詳細だ。ガイドによる招き、トンネル、光の存在との出会い、人生回顧と続く典型的な臨死体験だが、これまでになく細部にわたる具体的な記述が、新鮮だ。

  人生回顧のなかで臨死体験にいたるまでの半生を振り返るのだが、これがまた非常に印象深い。臨死体験での人生回顧の描写が、そのまま臨死体験までに彼が歩んだ道の詳細な記述となっている。彼の父はアル中で妻に暴力を振るうようになる。耐え切れなくなった母は、五歳のネッドとともに夫の元を去る。ネッドのなかの、何とかして父に認められたい、愛されたいという思いが、その後の彼の物質的な成功へのあくなき情熱につながっていく。ナイトクラブ経営での信じられないような成功、女と麻薬、マフィアの謀略に巻き込まれての挫折、その波乱の中での臨死体験。この前半部分だけでも読み物としてかなり興味深い。

   著者が臨死体験したのが1984年。ムーディの臨死体験の本が出たのが1975年、リングの臨死体験研究が発表されたのが1980年だったが、物質的な成功の中で突っ走っていた彼は「臨死体験」という言葉すら知らなかった。自分のような体験をしたものは、他に誰もいないだろうと思っていた。それだけに、この奇妙な経験を自分のなかに統合するまでに、かなりの混乱と苦しみを経なければならなかった。

  彼が、とまどいながらも徐々に自分の体験を受容し、スピリチュアルな使命を自覚していく過程は、心に響いてくるものがある。いまでこそ臨死体験はかなり知られた現象になりつつある。しかし、唯物的な考え方しかもたなかった人間が、いきなり臨死体験をし、一人でそれに立ち向かおうとすると、これほどに内面的な葛藤に苦しまなければならないのか。しかしだからこそ、そのプロセスを経てスピリチュアルな世界を受け入れていく姿が胸を打つのだ。そのあまりにも大きな変化。

  彼が見た光の存在は、レディ・オブ・ライトと名づけられ、聖母マリアと同一視されている。彼がアイルランド系のカトリックの家族と文化のなかで育ったので、体験をカトリック的な文脈のなかに位置づけて語る傾向があり、それが少し気になる。というより、私の「臨死体験」観の中に位置づけにくい。特定宗教の枠への回帰というよりは普遍的宗教観の方向へというのが、体験者の一般的な傾向だからだ。彼の場合はこうした傾向に当てはまらない。

   しかし、だからといってこの本の魅力が減じるわけではない。確かに彼は、特別の使命を帯びてこの世に送り返されている。体験後の彼の変化と自覚を見ると、そこに何かしら高次の精神的な存在の意図があると仮定せざるをえない。ちょうど、フィンドホーンに導かれたピーター・キャディやアイリーン・キャディたちのように。

  この本から受けた刺激は、まだ他にもある。いずれ『精神世界の旅』でさらに詳しく取り上げて、この本が臨死体験を探究する上で私に何を語りかけ、どんな刺激を与えたという視点から扱ってみたいと思った。 (2004/5/3 追加)


◆『知られざる自己への旅―私の中の私を探して』 エドワード・クライン(大和書房、1999年)

   前世療法を行う精神科医と女性ジャーナリストとの共著だ。この女性ジャーナリ スト自身が前世療法を受け、いくつかの前世を体験する。そして高所恐怖症が消え、 これまで成功したためしのなかったダイエットに成功し、自己主張が自由にできる ようになるなど、前世でのトラウマを追体験するごとに、彼女自身が変化していく。

 Amazonの売り上げランキングを見ると2003/11/24現在で100万位台だから、 あまり読まれなかった本のようだ。タイトルからもサブタイトル(「私の中の私を 探して」)からも前世療法を扱った本だとはわかりにくい。それも読まれなかった理由のひとつかも知れない。

 しかし本書は、前世療法を体験して癒された側から書かれたレポートとして貴重 だ。もっとも構成は、前世療法を施した精神科医の視点からの記述と前世療法を受 けた側からの記述とが交互に並べられており、これはこれで面白い試みだと思った。

 共著者の女性ジャーナリスト・キャロルは、自分が体験した14の前世を振り返 っている。その中で圧巻なのは、古代ローマに生きたカドレシーと呼ばれる男としての人生だ。彼は、地位や権力がほしいばかりに、自分を使う主人の要求を受け入 れ、去勢された上で望みもしない同性愛的な関係を強いられた。にもかかわらず、 最後には主人に裏切られる。主人は、死んだら彼に財産を残すと約束していたのに、 結局は自分の息子に譲ってしまったのだ。

 地位や権力を得たいばかりに去勢に応じたにもかかわらず、カドレシーは望みを かなえられなかった。自分の人生に何も残っていないと感じた彼は、性的にも欲求 不満になり、残された唯一の楽しみである、食べることに集中していった。彼は生来、血が止まらない体質だったにもかかわらず、暴飲暴食で命を削っていった。そ んなに太らなければもっと長く生きられたのに。

 こうしてカドレシーは、主人の息子ルキオに看取られながら死んでいく。父親の ことは憎んでも憎みきれなかったが、息子ルキオのことは深く愛した。カドレシー は、ルキオとの交流のなかに愛の美しさを見出した。そして、愛は憎しみを超え、 愛がすべてを解決することを学んだ。そして「もっと愛する人々と長く一緒にいた いなら、自分の肉体をもっと大切にしなければならない」ことをも学んだ。

 キャロルは語る、「死の直前、ルキオに対して感じた愛のぬくもりに、私は驚き ました。私は彼を置いていきたくなかった――でも、あの愛を体験したことで、自 分があの人生に入った目的を達成したことを、突如として、しかも余すところなく 理解することが出来ました‥‥‥だから、次に移るべき時が来たのがわかったので す」。

 キャロルにとって、このセッションのインパクトは強烈だった。過去からのメッ セージがついに彼女の重い腰をあげ、やっとダイエットに本気で取り組むことにな った。これまで何度挑戦しても成功しなかったダイエットにやっと成功したのであ る。そして、彼女のほかの人生でも何度も繰り返されたテーマがこの人生でも繰り返されていることを知った。それは、人に弄ばれ利用されながら、自己主張できない、自分のために立ち上がれないという問題であった。自己主張というテーマは、 彼女が受けた前世療法のプロセス全体の中で解決されていったようだ。

 エドワード・クラインは、精神科医として前世療法を行ってきた豊かな経験から 「私たちは前世で未解決のままにしてきた問題を今回の人生で解決するよう仕向け られているのだ」と信じるに至ったという。私自身はそこまで確信できないし、読後に若干の不満が残る。それはこれまでに読んだ前世療法関係の本全体に言える感 想かもしれないが、この本で特に強く感じた。

 不満は、一つ一つ人生がかなり手軽に追体験され、ごくかんたんに要所のいくつ かが振り返られて終わり、次々と別の人生に移っていくことだ。もしかしたら治療 的な効果としてはそれで充分なのかもしれない。しかし読む側には個々の人生の重 みが充分に伝わってこない。ひとつの人生をあたかも長編小説のようにじっくりと 詳細に記述したレポートなら、その人生の具体的な有様とともに真実さが伝わり、 信憑性が増すのではないか。逆に、無意識的な創作であるならどこかにぼろが出や すいということだが。過去に生きたと思われるひとつの人生を、すぐれた自伝のよ うにその心の成長の軌跡も含めて詳述するような前世療法体験記は出ないものだろ うか。もしチャンスがあるなら自分がレポートしたいくらいだが。

 『輪廻転生―驚くべき現代の神話』などのJ・L・ホイットン、『前世療法―米国 精神科医が体験した輪廻転生の神秘 』などのブライアン・L. ワイス、本メルマガ でも取り上げた『生きる意味の探求・退行催眠が解明した人生の仕組み』のグレン・ ウィリストン、日本では『生きがいの催眠療法―光との対話が人生を変える』の奥 山輝実(飯田史彦との共著) など、この分野での実践の蓄積、その報告もかなりの 量になっている。それらの研究から何が言えて、何が言えないのか。いずれにせよ 私自身は、こうしたテーマにつねに心をオープンにして接していきたいと思う。   (2004/4/3 追加)


◆『前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って (知恵の森文庫)』 森下典子

 前世を言い当てられるという女性に「あなたはイタリア、ルネサンス期に活躍し夭折した美貌の彫刻家デジデリオの生まれ変わりだ」と伝えられたルポ作家が、その真偽を確認しようと徹底的に調べ上げ、ついには、イタリア、ポルトガルまで飛んで その謎に迫るという内容の本だ。日本人が自分の前世についてこれほど徹底的に追求したノンフィクションがあったのとは迂闊にも知らなかった。読み出すと結局最後まで止まらなくなる。わくわくするような謎解きの面白さだ。私も、他の仕事そ っちのけで一気に読んだ。

 京都在住の霊能者である主婦が語った著者・森下氏の前世、つまりデジデリオの人生は、その生まれ、同性愛者としての数奇な人生、残された作品の秘密にいたる まで細部にわたり、専門的な知識も欧米語の知識もない主婦が文献で調べあげられるような内容ではない。日本語の文献で必死になって調べても、分かるのはせいぜ い、百科事典的な生涯の記述などごく限られた情報でしかない。欧米の文献でも事情はそれほど変らないらしい。

 しかし、イタリアに飛んだ森下氏が、徹底的に調べれば調べるほど、京都の女性 が見たデジデリオの人生のビジョンの正確さが裏付けられていく。そのスリリング な調査のプロセスにこの作品の面白さがある。一例を挙げると、通説では、デジデ リオの友人ロッセリーノの作とされる彫刻があった。実はその顔の部分がデジデリオの作であった決定的な証拠が、偶然に見つけたポルトガル語の文献から確かめられる。京都の女性が語っていたことが正しかったのだ。こうしたいくつかの例から、 京都の女性が見たビジョンはかなり信憑性があると、誰もが思う。

 一方で読後に若干の物足りなさを感じる。確かに京都の女性が見たビジョンは、 現地でかなり確かめられていく。しかし、それが森下氏の前世だと主張しうる根拠 は何もない。森下氏が愛用するベネチアグラスの小さなガラス瓶を手に持ちながら 京都の女性が見たのは、たまたま浮かんできたデジデリオの生涯であり、森下氏の人生とは何も関係ないかも知れない。それは、ただ京都の女性の透視力が確認されたに過ぎないのではないか。そういわれても反論できない。森下氏とデジデリオに 説得力のある共通点があるわけでもなく、デジデリオゆかりの場所で、彼女が何か強烈なインパクトを受けるわけでもないのだ。

 それにしても、これまで精神世界とは無縁の仕事をしてきたルポルタージュ作家が、懐疑を捨てきれぬままに霊能者の見たビジョンにしたがって徹底的に調べ上げ、 ついに通説を超えたデジデリオの真実に迫ったという事実は、高く評価されていい。

 この作品は、ぜひともその続編が書かれるべきだと思った。霊能者の女性によれ ば、デジデリオと変らぬ愛を誓いあった同性愛の相手が、今日本に生まれ変わって、 彼女と同じライターの仕事をしているという。その人物については、もちろん何も 手がかりがないのだが、もしその人物との出会いが語られるならば、この作品は見事に完結するだろう。デジデリオを調査する過程で起こった数々のシンクロニシテ ィを思えば、そういう結末があっても不思議ではない。  ( 2004/4/3 追加)


◆『臨死体験〈上〉 (文春文庫)』立花隆 (2000年)

 私は、『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』を書くにあたって立花隆 氏のこの本から、とくにその豊富なデータから多くを学んだ。その意味で、この本 が出版されていなければ、私自身が自分の研究をまとめることができたかどうか疑 わしいと思うほどだ。

 臨死体験の本については、以前このメルマガでムーディの『かいまみた死後の世 界』を取り上げた。私は、この本で臨死体験者の意識変容に興味をもち関連の本を 読んでまとめはじめたが、一度途中で挫折している。自分の説を展開するのにまだ データが充分でなかったからだ。そんな折、1991年から立花氏の本のもととなる連 載が雑誌『文芸春秋』で始まった。毎回私はむさぼるようにして読んだ。1994年に 単行本化されてからも2度読んだ。彼の本や、ブラックモアの 『生と死の境界』 (読売新聞社、1996年)が、さらに研究をまとめるきっかけとなった。

 立花氏の本を読んで何よりも感銘を受けたのは、「脳内現象」説にも「死後生命」 説にも偏らず、ジャーナリストの目で両者の説をあくまでも公平に、事実に即して 徹底的に追っていく姿勢だった。多くの研究者は、どちらかの説に傾いて、その立場に有利な事実や理論を集めて、不利な事実や理論は無視したり歪めたりする。こ れは人間の性(さが)だろう。  

 しかし立花氏のこの本にはそれがないのだ。その強靭な精神で事実を歪めずに、 両方の説の可能性をとことん見据えようとする。それがこの本の最大の魅力だ。そ のためか読者は、どちらの立場に立つにせよ最後まで興味深く読める。

 にもかかわらず彼は、最後の最後には「脳内現象」説に傾いていく。私は、自著 の中で立花氏の説のいくつかを批判したが、もっとも大きな疑問は、なぜ立花氏は、 多くの臨死体験者が体験後に生き方をプラスの方向に変えてしまうという事実に注 目しなかったのかということだ。データしてはいくつかの箇所で触れていながら、 この問題を問題としてほとんど論じていないのだ。いや、否定的に触れた箇所が一 箇所ある。臨死体験者が、体験から何かを学んだからといって、それが体験の事実 性を語る証拠にはならないと論じているのだ。(この点は自著の最終章で批判した。)

  かつて立花氏は『宇宙からの帰還 (中公文庫)』(中央公論社刊)によって宇宙飛行士の宇宙 体験後の精神変容をテーマにしている(私のサイトの覚醒・至高体験事例集にエド・ ミッチェルの事例を取り上げた)。そうした関心を持ちながらなぜ臨死体験では、 体験者の精神変容の意味を追求しなかったのだろうか。

  おそらく立花氏に欠けているのは、宗教的なものの最も深いところにある魂のあ り方への関心や共感ではないだろうか。もし彼にそうした関心や共感があったなら、 臨死体験者の魂の変容のなかに、宗教的なものの核心に通じるものを嗅ぎ取り、そ こに積極的な意味を見出すことができたはずだ。

 もう一つは、立花氏が「脳内現象」説か「死後生命」説か、精神か物質かという 二元論的な問題設定をほとんど何の疑問もなく前提としているということである。 私には、もしかしたら臨死体験者は、精神か物質かという二元論が無意味になるよ うな世界を語っているのかも知れないと思える。そうした視点から見ないと臨死体 験が暗示する深い世界は捉えきれないと思う。(もっともこの問題を展開するのは 非常に難しく、私自身も自著のなかでは触れられなかった。)

  いずれにせよ、彼のこの労作は、今では文庫本で気軽に読むことができ、あの時 点での臨死体験研究の総覧として、その価値は失われないだろう。またこの本から、 新たに魂に呼びかける何かを発見する人も多いに違いない。

(03.5.31 追加)


◆『死にゆく者からの言葉 (文春文庫)』 鈴木秀子、 (文芸春秋、1993年)

   鈴木秀子の本の中から一冊を言われれば、やはりこの本を挙げたい。死を前にし た人たちが、最後の瞬間にまわりの人と和解したり、心の思いを告げて死んでゆく という事実を感動的に綴ったこの本は、多くの人々に受け入れられた。

  最初に著者の印象的な臨死体験が語られる。その体験によって彼女は不思議な癒 しの力を得る。それに感動したあるシスターは、彼女をつれて病院めぐりをはじめ た。医者も匙を投げた患者や死を目の前にした患者たちを訪ね、彼女が黙って手を 当てる。奇跡的に治る人もいれば、死んでゆく人もいた。どちらにせよ皆、手を当 てられることをとても喜び、見知らぬ他人である彼女に不思議と心を許したという。 こうして死にゆく人々との出会いが始まった。多くの末期患者と接するようにな った経験から彼女は、ある確信をもつようになる。それは、「死にゆく人たちが、 死の迫っていることを知っている」という確信だった。また彼らは、残された日々に「自分の人生を振り返って自分の人生の意味を見つけ、あるいは未解決のものを 解決し、不和を和解へ変え、より豊かな愛の結びつきにすることを望んでいるのだ」 という確信だった。死にゆく人々とのそんな交流の数々から、この感動的な書物が 生まれた。

  死の迫っている人々が、その死の直前に急に元気を取り戻し、あたかも回復した かと思われるような不思議な"時"。それは、燃え尽きようとする蝋燭(ろうそく) が、その最後の瞬間に輝きを増すのに似ている。中国では、この大切な時間のこと を「回光反照」と呼ぶという。その残された僅かな輝きの間に、死に逝く人々は、 この世を去る準備として人生最後の仕事をするのだ。自分自身との和解、他者との 仲直り、自然との一致といった大仕事を。

   癌に犯されたある大会社の社長は、すっかり忘却していた3才の頃の夢を病床で見た。はずみで囲炉裏(いろり)に落ち、煮えたぎったみそ汁をかぶってしまった ──その時の夢である。母による発見が僅かに遅れた。「母さん、母さん」と泣き 叫びながら、助けに来てくれない母への不信感が幼い心にふくらんだ。そして、幼 いながら一人で必死に這い上がろうとしたその気力が、その後の彼のなかにずっと 生き続け、少しでも業績を上げようとするがむしゃらな性格をつくった。 一方「母すら来てくれない、まして他人が助けてくれるはずはない」という苦い 思いが、この時以来、彼の心に空洞をつくった、人間不信という肌寒い風の吹く空洞を。

  しかし、死ぬ間際の病床で見た幼き日の夢が彼の心の揺るがせた。野良仕事の最 中で発見が遅れた母のやむを得ない事情もくみ取れて、彼女へのわだかまりも消え た。同時に他者に閉ざしていた心の壁も崩れていった。妻にも優しい言葉をかけ、 深く心を通わせ合えるようになった。こうして、心の「大仕事」を終えた彼は、人 生の「宿題」をやり終えたかのように静かにこの世を去っていったという。

  死の間際に深い「学び」の"時"をもつ人々の存在は、私達を何かしら厳粛な思い にかりたてる。そして、そんな"時"が存在するからこそ、逆に日々の生活や仕事の なかで「学ぶ」ことを大切にしていきたいと思う。

   なお著者の「臨死体験」については、拙著『臨死体験研究読本』の冒頭で取り上 げ、以下の考察のための踏み台とさせていただいた。私が知りえた中でも感動的な 「臨死体験」の一つであった。

(03.5.25 追加)



◆『「「死ぬ瞬間」と臨死体験』、E. キューブラー・ロス(読売新聞社、1997年)

 今や、死の問題や終末期医療に関心を寄せる人でE・キューブラー・ロスの名を 知らない人はいないだろう。一方で彼女は、レイモンド・ムーディと並んで「臨死 体験」を世に知らしめた立役者だ。『死ぬ瞬間』等で世界的に著名な彼女は、その 講演の中で自分が見聞きした「臨死体験」について多く語っていた。そんな講演を 集めたのがこの本だ。

  出版された当時に読んだとき多くの箇所にマークをつけた。そこを中心に読み返 してみて、自分がこの人の考え方に大きな影響を受けていることをあらためて実感 した。そんなところを中心にいくつかの言葉を紹介する。

  「すべての苦難は、あなたにあたえられた成長のための機会です。成長こそ、地球 というこの惑星に生きることの唯一の目的です。‥‥もし病気だったり、どこかが 痛かったり、喪失を体験したりしたときに、それに立ち向かえば、あなたはかなら ず成長するでしょう。痛みを、呪いとか罰としてではなく、とても特別な目的をも った贈り物として受け入れることが大切です。」

  「私たちがしなければならないことは、正直になって、自分のなかのヒットラーを 直視し、それをおもてに出して、裁くのではなく無条件の愛と同情を、哀れみでは なく共感を学ぶこと、そして、肉体をもったこの人生は自分の存在全体のほんの一 部にすぎないということをしることだ。人生は学校であり、誰が年長で誰が年少か は自分たちで決めるのだし、自分の先生は自分で選ぶのであり、試験や試練をくぐ り抜けなければならない。」 

  「人は誰でも人の心を癒すことができます。誰だって、高次の意識のどんな段階に でもたどり着けます。難しいことをする必要はありません。ただ自分の持っている ものに感謝すること、そして心からの感謝の気持ちをさまたげるものを取り除くこ と、これだけです。」

  「自分自身を癒さないかぎり、世の中を癒すことはできません。誰かをぶったり、 非難したり、見下したりしているかぎり、ヒロシマ、ナガサキ、ベトナム、マイダ ネク、そしてアウシュビッツで起こったことの責任はあなたにあるのです。このこ とははっきり申し上げます。」     

  「手遅れになる前に、この世界を癒さなくてはなりません。そして世界を癒すため には、まず自分自身を癒さなくてはなあないのです。どうかこのことを胸に刻んで ください。」

  とりわけ、成長こそ生きることの唯一の目的だという考え方は、私の心の深いと ころでの確信になっている。  なお、この本で語られているキューブラー・ロスの神秘体験については『臨死体 験・気功・瞑想』の覚醒・至高体験の事例集に収録してあるので、お読みいただけ れば幸いである。  

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1702/case/nobunrui/ross.htm

(03・5・24 追加)


■『かいまみた死後の世界』 レイモンド・A. Jr. (評論社,1989年)

  手許にあるのは、1977年(昭和52年)に出版された初版本だ。父の書棚にこれを見つけて 読み、深く動かされて、私は臨死体験の研究にのめり込んでいった。その時の印象をどう表 わしたらいいだろか。久しく忘れていて思い出しもしなかった魂の故郷に出会ったような感 じとでもいおうか。月並みだが、そんな懐かしさのようなものが広がり、喜びをかみしめた。

  体験者が語る表現しようのない心の安らぎと静けさ、暗いトンネルを通って光へと向かう プロセス、肉体を離れて上から自分の体や嘆く肉親を見る体験、自分の一生をパノラマのよ うに振りかえる体験‥‥。 とくに、言いようもなく大きな愛で体験者をつつむという「光の生命」との遭遇の話は、 強く訴えてくるものがあった。そしてこの物質的な世界を超えた、奥深い精神的な世界があ るという確信が、私のなかに静かに根をおろしていった。

 それ以降、臨死体験の本は何冊も読み、自分自身もそこにさらに一冊を加えることになっ たが、人に「臨死体験の本でまず何を読んだらいいか」と聞かれれば、迷わずムーディのこ の一冊を挙げるだろう。

 臨死体験が社会に広く認められるようになったのは、二人の研究者、エリザベス・キュブ ラー=ロスとレイモンド・ムーディの功績によるところが大きい。とくに1975年にレイモ ンド・ムーディのこの本(原題:LIFE AFTER LIFE)が出版されたことによって臨死体験 (Near-Death Experience)という言葉が定着した。彼のこの先駆的な本は世界的ベストセ ラーとなった。アメリカ国内で四百万部、国外では32ヶ国で出版され一千万部が売れたと いう。世界中の人々を魅了し、その関心をひきつけたのである。そして、この現象がひとつ の研究分野として認められるに至る。

  この本のなかでムーディは、彼が集めた150の臨死体験の事例から50人を選び出し、 その人たちの話を詳しく聞いたといっている。その結果、死に瀕したときの状況や、体験者 自身のタイプや個人的背景がさまざまであるにもかかわらず、体験の内容にはおどろくほど の共通点があるのを発見した。多くの事例に繰り返し登場する共通の核のような要素がはっ きりと浮かび上がるのだ。その10の核が、その後の様々な研究のベースとなり、基本的に 追認されていく。

 ムーディの研究は、「数十名の臨死体験の"物語"を収集し、それからいくつかのパターン を見つけ出しただけのもの」にすぎず、たんなる事例集、逸話集の域を出ていないという批 判が当初からあった。

 こうした欠点を補う本格的な研究が、1980年に出版されたケネス・リング作『いまわ のきわに見る死の世界』(講談社)や1982年出版されたマイクル・セイボムによる 『「あの世」からの生還』(日本教文社)だったのである。

 ともあれムーディの本は、すでに臨死体験研究の古典といってもいいが、いまなお臨死体 験の不思議な魅力を能弁に語り、人々の魂に強く訴えかけ続けている。                                   (読 0208)



ジェームズ・ヴァン・プラグの『もういちど会えたら―最愛の人 天国からのメッセージ』(光文社)
 
と『天国との会話―生と死をつなぐ心の旅』(同)

◆いずれも非常に有能な霊媒であるプラグの感動的なリーディングの記録が主な内容になっている。彼を通して語る霊たちからの情報が、その霊と深い縁のあった人々にとってあまりに具体的で正確、彼らの間だけでしか知りえないような個人的なものが多いので、まずその事実に驚かされる。 深いところでかなり影響を受けた感じがしている。

◆リーディングのエピソードの寄せ集めなので、これが学問的に何かを証明したなどということは、もちろん何もいえない。 しかしプラグが再現する死者やその遺族との会話を読む限り、死者と遺族にしか知りえないあまりに細々とした情報が次々に飛び出す。遺族たちはそれを聞いて驚嘆し、語るのが死んだ「誰々」であることを確信するようになる。そういう印象的な事例が豊富に収録されている。  

 しかも死者たちからのメッセージが、遺族を慰め、救いを与え、生きる勇気を与えていくさまを読むのは感動的だ。 たとえば遺族が、息子をしなせたのは自分たちのせいだと自責の念に駆られているときに、あれはお父さんのせいじゃない、事故だったのだから、と死者からの言葉が届く。子供の親への愛が伝えられる。親はそれを聞いて泣き崩れ、しかしやがて晴れ晴れとした気持ちで、プラグの元を去る。等々。

◆何よりもプラグという素晴らしい霊媒を通して死者と遺族とが生き生きとした交流をする、多くの事例に圧倒された。 死者たちは、遺族を思いやり、生前の相互の誤解を何とかして解こうとしたり、今は恨んだり憎んだりしていないということを何とかして伝えようとする。そういう死者のなまなましいメッセージを多く読み、さらに生前には分からなかったような視野を死んだ後に獲得しているらしい言葉を聞くと、死後の魂のあり方の一端を覗き見たようで、死後の世界の存在への確信が深まる。  

 本当に身近なところに死者たちの世界があると言う感じ。もちろん細部については確かなことは何もわからないのだが。  また、現世を超えて生と死の遥かに広い視野と流れの中で今の人生の生き方を理解する視点が、ますます確かなものになっているという感じ。 彼の本から受けた影響は、まだ充分には表現し切れていない感じがするのだが、とりあえずこんなところだろうか。 (読:0202)

 

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