■ 瞑 想  

◆『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』地橋秀雄(春秋社)NEW
◆『微笑みを生きる―「気づき」の瞑想と実践』 ティク・ナット・ハン(春秋社)
◆『呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ(佼成出版社)
◆『心を開く瞑想レッスン』井上 ウィマラ (大法輪閣)
◆『瞑想とユング心理学』 V・W・オダージンク著(創元社)
『ミャンマーの瞑想』・マハーシ長老 (国際語学社、1995年)

『ブッダのヴィパッサナー瞑想・基本マニュアル』 地橋秀雄 (グリーンヒルWEB会、2002年)
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』   ウィリアム・ハート(春秋社、1999年発行)
『悟りへの道:上座仏教の瞑想体験』  鈴木一生 (春秋社)
『呼吸による癒し ラリー・ローゼンバーク (春秋社) 2001年 
『霊的成長と悟り』 本山博 (宗教心理出版) 1988年
『チベット密教の瞑想法』 ナムカイ・ノルブ (法蔵館) 2000年
『瞑想のススメ』 山田孝男 (総合法令) 1999年
『覚醒への旅:瞑想者のガイドブック』 ラム・ダス (サンマーク文庫) 1998年


◆『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』地橋秀雄(春秋社)

タイ、スリランカなどでヴィパッサナー瞑想の本格的な修行を積んだ著者は、さらに日本で多くの人びとにその指導を重ねてきた。その貴重な経験が随所に活かされている。日本の修行者の疑問や迷いや躓きを知り尽した著者が、それに応えるべく渾身の力を込めて本書を書いた。入門者にも経験者にも座右におくべき本であろう。

とくに「心を見る瞑想法」についても詳しく語られている。この部分は、心理療法に携わる人びとにぜひ読んで欲しい。ヴィパッサナー瞑想が、潜在意識を浮上させていく優れた方法であり、しかも心理療法にない深さと広がりを持っていることが理解してもらえるだろう。 さらにヴィパッサナー瞑想とは何か探り、サマタとヴィパッサナーとの違いを理論的に明らかにする章も充実している。日本へのヴィパッサナー瞑想の導入がまだまだ充分ではない中、本書はその普及に重要な役割を果たすであろう。


◆『微笑みを生きる―「気づき」の瞑想と実践』 ティク・ナット・ハン(春秋社)

ティク・ナット・ハンは現代ベトナムが生んだ代表的な仏教指導者である。戦火のベトナムで反戦と被災者救済活動にも力を尽くした実践家でもある。欧米にも敬愛するものが多いという。 

この本の教えの中心は、意識的な呼吸で、呼吸を意識しつつ、日々の生活のひとつひとつの動作に気づいてゆくこと。「吸う」、「吐く」と言いながら、入息を入息として、出息を出息として気づいてゆく。意識的な呼吸は、瞑想室だけではなく、会社でも、家庭でも、電車の中でも、一日中いつでもできる。意識的な呼吸によって思考が減り、体全体がくつろぐという。

「微笑みながら息の観察をします。何をしていてもちょっと仕事をやめて、呼吸を味わいます」と著者はいう。日常活動のなかで意識的な呼吸に戻れば、そのつど、ある心の静けさへと戻る。


◆『呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ(佼成出版社)

パーリ経典・中部に収められている「呼吸による気づきの教え」の解説書。精神分析や心理学、量子力学などの知識とも比較しながら解説することで、ブッダの教えの可能性を現代に甦らせたいとの意図があるという。随所に、心理療法的な視点も織り交ぜながら解説る。テーラヴァーダ仏教やヴィパッサナー瞑想への入門書が少ないなか、この本は、テーラヴァーダ仏教の初歩的な解説にもなっていて、参考になる。

ただ、随所に精神分析や心理療法の知見を参照しながらの論述は、どこまでがテーラヴァーダ仏教の伝統的な教えで、どこからが著者の見解かが、判断しにくいところもあった。テーラヴァーダ仏教やヴィパッサナー瞑想の正統的な考え方を学びたいのなら、不満が残るかもしれない。


◆『心を開く瞑想レッスン』井上 ウィマラ (大法輪閣)

ヴィパッサナー瞑想と心理療法の融合。ヴィパッサナー瞑想の側から心理療法的な方法との接点を「瞑想レッスン」として実践する本は初めて読んだ。瞑想は、一人で行う瞑想ばかりでなく、二人で、三人で、あるいはグループで、その関係性を気づきの対象として、関係性を鏡のように気づきの反射として、サポートし合ったり、共鳴しあったりして瞑想をすることが可能だという視点は新鮮だ。

ここに紹介されている瞑想(あるいはワーク)の多くは、著者が西洋人に瞑想を指導するなかでサイコセラピーに出会い、それに刺激されながら考案されたという。また、著者がなぜ曹洞禅で出家し、どのようにしてテーラヴァーダ仏教に出会ったのか、ヴィパッサナー瞑想をどのように修行したのか等、体験が具体的に語られたところは、心に触れてくるものがあった。


◆『瞑想とユング心理学』 V・W・オダージンク著(創元社)

 ユング心理学の立場から禅を中心に瞑想を論じた本だ。瞑想について心理学の立場 からこれほど深く追求した本はあまりないだろう。また東洋の瞑想とユング心理学 とをきわめて深いレベルで比較考察しているので、瞑想という視点からのユング心 理学への道案内にもなっている。

 瞑想とは何か、瞑想の深まりの結果導かれる悟り とは何かが、ユング心理学の用語、考え方を通して浮き彫りにされる。 瞑想・悟りをめぐる根源的な問題が、ユング心理学の立場から論じられている。

  たとえば、自我をどう捉えるかという問題。東洋の瞑想は、何の困難もなく自我な しの意識を考えるが、自我があってはじめて心的要素を意識できるのではないかと いう観点からの考察。 また瞑想によって無意識の中心領域に接近すると、時間と空間が相対化されて「広 がりなき偏在」と呼ばれる領域が存在するようになるということが、自己性(セル フ)との関係で論じられる。

 さらに臨死体験や瞑想、死に関する夢のなかでも頻出する「光」の体験についても、 ユング心理学の関係で論じられていて興味深い。それは「心が身体を完全に『非実 体化』する前の‥‥最後の移行現象」と考えられる。

 さらにユングが、「ある種の東洋的瞑想に匹敵する適切な西洋的技法」として能動 的想像の方法を考えていたとし、あまり知られないその方法がある程度詳しく紹介 されている。

  全体に、ユングの東洋とのかかわりがいかに深かったか、また彼の心理学が、東洋 の瞑想法との出会い、葛藤の中でいかに形成されていったがわかり興味深い。

 最後に、元型についてのK・ウィルバーの誤解を指摘し、また彼の理論が「高度に抽象的、構造的で、直線的、階層的思考」という西洋的偏向があると批判しているの も参考になった。 (03.6.14 追加)


■『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』・マハーシ長老 (国際語学社、1995年)

   この読書ノートの「精神世界一般」でとりあげた『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』でエッ クハルト・トールは、「大いなる存在」につながる入口を4つ挙げている。

1)インナーボディのエネルギー(気)を感じること。
2)強烈に「いまに在る」こと。
3)思考を止めること。
4)すべてをあるがままに受け入れること。 

  トール自身もこの4つを実践するための方法をあげてはいるが、しかし、これはなかなか 難しいことだ。どうすれば寸分のすきもない今に在ることができるか、思考を止めることが できるのか、具体的なとっかかりがないと途方にくれてしまう。  上の4つのうちの2)3)4)については、ヴィパッサナー瞑想が初心者にも非常に入り やすいとっかかりを提示していると思う。この瞑想法は、日本でも急速に広がりはじめてい る。

  ヴィパッサナー瞑想は、ブッダ以来続けられた原始仏教の瞑想システムで、その技法は完 成しきったものと言われる。ヴィパッサナーとは、あらゆる現象をありのままに観るという 意味である。細かいテクニックや強調点の違いから、いくつかの流派があるが、著者である ミャンマーのマハーシ長老は、ヴィパッサナー瞑想を学ぶのに初心者に最適といわれるマハ ーシ・システムを世界中に広めた。本書は、このマハーシ・システムへの格好の入門書であ る。

  しかし、入門書であると同時にマハーシ長老自身の体験に基づいて非常に高度なレベルま でも見通せるような構成になっており、ヴィパッサナー瞑想の修行書として貴重である。

  なお、マハーシ・システムのヴィパッサナー瞑想をより分かりやすく、懇切丁寧に解説し たものに地橋秀雄著『ブッダのヴィパッサナー瞑想・基本マニュアル』(グリーンヒルWEB 会)があるが、これは以下のサイトで直接申し込まないと手に入らない。   

「ブッダのヴィパッサナー瞑想」http://www.satisati.jp/

(読 0208)

地橋秀雄 『ブッダのヴィパッサナー瞑想・基本マニュアル』 (グリーンヒルWEB会、2002年) 

◆著者はグリーンヒル瞑想研究所長。 私自身が著者に指導を受けてきたが、日々の実践の中で迷うことも多い。指導を受けた内容を文章で一つ一つを確認できることがうれしい。  

◆ヴィパッサナー瞑想の中のマハーシ・システムでは、一般に「瞑想修行の初期段階では、中心対象に持続的に注意を注ぎながら集中を高め、サマーディを養うことが重視される」という。  
 
一方、「それほど中心に絞り込まず、中心外の対象に心が飛んでいく事実をそのまま直視する方向からは、あるがままの自分の姿が浮上し、自己理解が深まる」という。
 こういう二つの方向があり、どちらも「ヴィパッサナー瞑想として正解」というところが、素晴らしい。この瞑想に引かれる一つの理由が、このような二面を兼ね備えていることにある。
 
集中が高まるなら高まる、散乱するなら散乱する、どちらも自然にしてあるがままに起きた現象なら、それを確認しようとするのがヴィパッサナー瞑想なのだ。それは、来談者中心療法の創始者、ロジャーズの受容ということとピッタリと重なってくる。

◆たとえば、腹や足裏という特定の中心対象に集中することを至上の義務と考えてはならない。ヴィパッサナー瞑想では、中心対象より現在の瞬間をとらえ続ける気づきの連続を重視する。 中心対象から外れても、心がはっきり経験した優勢な現象にはサティを入れる。今、この瞬間に、自分の心と体に何が起きているか、をつねに自覚的に間断なくとらえ続けることが、妄想さらには煩悩を離れる修行になるという。  

◆「ラベリングは認識を確定するための装置です。基本的に簡潔な短い言葉がよいのです。実感に90%、ラベリングに10%の法則を思い出してください。」(P71)
 微妙に変化していく身体感覚にいちいち適切が言葉を捜していたら、それこそ概念思考と同じになってしまう。「腹、足、手」などと認識の場所を確定するだけで、あとは実感を追うほうがよい。

「足」が存在するのではなく「足」は頭の概念にすぎない。本当に存在するのは、一瞬一瞬の身体感覚というセンセーションが生滅変化するだけの世界なのだ、ともあった。 こんな指摘も、私には「うーん、そうか」と唸らざるを得ない。問題は、「足」という概念を通して見ることではなく、一瞬一瞬生滅変化する感覚をじかに捉えることなのだ。そして概念を通さず、知覚をじかに捉えることこそが、瞑想において必要なことなのだ。
 
◆一方で心の状態をサティする時(心随観)では、その心の状態を表現する適切な言葉を探り当てることが大切だ。
 「センセーションに対しては、正確な言語表現が難しいので、あまり神経質に正確な言葉を探すよりも、実際の感覚現象そのものを実感する方に力点をおいた方がよいのです。……  一方、心の現象を随観するときには、厳密で正確なラベリングが貼れるように心がけます。」(P57)
  これは心理療法を学んだ経験からも非常に納得できる。気持ちが適切な言葉で捉えられ表現された時、その感情への囚われから自由になることが心理療法の世界でもしばしば起こる。(読:0205)  


ウィリアム・ハート『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』(春秋社、1999年発行)

◆ヴィパッサナー瞑想が深まることで体験的にどのようなことが起こり、どのようにして解脱に至るのかが、具体的な表現もちりばめて説得力をもって語られている。瞑想をすすめる上で実に参考になる言葉が多かった。何かが腑に落ちた感じ。なぜ、感覚にサティを続けるのか、感覚の観察が、どうして自己の本質を知ることにつながるのか、得心した。

◆瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と智恵(パンニャー)の訓練が含まれる。精神集中は、「平静さの育成」(サマタ瞑想)とも呼ばれ、智恵の訓練は「洞察力の育成」(ヴィパッサナー瞑想)とも呼ばれる。
 興味深かったのは、サマーディによって得られる心の清らかさは、ほとんどが不純物を抑えこむことで得られると指摘していることだ。サマーディを行うと心の表層が澄んでくるが、不純物は無意識の領域にたまっており、この潜在的な不純物を取り除かなければ、真の心の解放はないという。集中は、他の思いや感情を打ち消して何かに集中するのだから、打ち消されたものが押し込まれるのは当然だろう。
 私自身が、精神集中は心の抑圧につながる面があるのではないかと、ずっと疑問をもち続けていた。ヴィパッサナー瞑想は抑圧されたものに気付きをもたらす方法だと知って強い共感を抱いていた。 だからゴエンカ氏のこうしう指摘には、やっぱりという感じで共感する。

◆ 「真理の正体を見きわめるには、感覚の観察を欠くことができない。‥‥感覚は心とからだの交差点である。‥‥もしも感覚に気づくことがなければ、自己の真実を追求しても不完全で浅薄なものになるだろう。‥‥自己の本質を知り、それに正しく対処するためには、ふだんほとんど感じる取れないような微細な感覚にまで気づく必要がある。」(P128)

  感覚への気づきが深まれば深まるほど、その変化の激しさに気づくようになり、それが徹底すると、おそらく現実は日常的な意識で捉えているのとは全く別の様相を示しはじめるのだ。瞑想でなぜ感覚に注意を集中する必要があるのか。

「からだの各部に生じているさまざなな感覚を観察していると、あるとき、全身に非常に微細で均一な感覚が起こり、それが生まれては消えてゆくのに気づくようになる。その感覚の誕生と生滅はあまりにも速く、まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように感じるだろう。からだのどの部分に注意を向けても、均一で微細な感覚がものすごいスピードで生まれては消えてゆく。一つの考えが心のなかに浮かぶと、それにともなう感覚がからだにも起こる。その感覚が連続として生まれては消える。いまや、心とからだの見かけの堅固さは粉々に打ち砕かれ、物と、心と、心の形成物の、究極の真理を体得することになる。究極の真理、それは超高速で去来する波動、微粒子の振動、それ以上のなにものでもない。」(P170)  

 「まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように」という表現は、気の感覚の表現にも似ているが、一切がそう感じられるのだから非常に徹底したものなのだろう。 微粒子が瞬時に生まれては消えるレベルまで感覚を研ぎ澄ませた時、すべてが変化することをまざまざと実感し、それが実感された時、固定化された自我への幻想も消えるのだろう。感覚のサティの先の方にはこういうレベルがあり、そこでは「自我」という幻想にしがみつくことなど、ありえない。感覚へのサティが、どのようにして悟りにつがなるのか、得心がいったのは、この部分を読んでだった。 (読:0203)



◆『さとりへの道―上座仏教の瞑想体験』 鈴木一生 (春秋社) / 瞑想

鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味つきない。

瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。

これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティーの訓練が中心になる。  この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の段階的に非常に体系化された修行法がわかって面白い。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。 (読了:0107)


◆『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』 ラリー・ローゼンバーク (春秋社) 2001年 / 瞑想

著者はハーバード大学などで社会心理学などを教えた博士で、クリシュナムルティ、ヴェーダンタ、禅、そしてヴィパッサナー瞑想を30年修行をしたという。 この本は「出息入息に関する気づきの経」(アーナーパーナサティ・スートラ)に基づいて教えるという形をとっている。

 あれこれ迷いなが瞑想している今の私にとっては、とてもとても参考になる本だ。本当にことこまかに親切に手取り足取り瞑想を教えてくれている。しかも、たんなるノウハウの本ではない。瞑想を説くことがそのまま深い深い求道の精神と説くことにつながっている。あるいは、瞑想の在り方を説くことが、そのまま生き方へ洞察に繋がっている。

その珠玉の言葉をいくつか拾ってみよう。

「私たちは記憶やさまざまな理想から自分自身についての概念を創造し、そのイメージを保持しようとして疲れ果ててしまいます。最後にその理想のイメージを手放すことができたとき、それは大変な救いとなります。そして私たちはこれまでとは別なことをする豊かなエネルギーを得ます。」(P82) 「『……私以外の全員が集中できている。この心さえさ迷い出さなければ、修行できるのになあ』と自分を責め始めます。でも、そのさ迷ってしまった心を見るのが修行なのです。(中略)ですから優雅に戻ってくることを学ぶのがとても大切になります。格闘するのではなくて、舞うように」(P52)

「恐怖、恐怖から自由になりたいという熱望、心と身体、それらを観察している気づき、その気づきを増進させる意識的な呼吸。私たちはそれらのすべてと共に座ります。 恐怖のような強い感情に関しては、まず最初は自分がどうやって逃げ出そうしているかを観察するのがせいぜいでしょう。それも価値あることです。否認したり、抑圧したり、説明したり、逃げ出したり、空想している自分を観察するのです。これらのことを巻き込まれることなく繰り返し見つめているうちに、心の方が疲れてしまいます。やがてある日――無理にそうすることはできませんが――恐怖が生じても、注意がそれをサッと出迎えて、ひとつになり、恐怖がその花を開くに任せられるようになります。それこそが恐怖が長い間ずっと待ち望んでいたことだったのです。」(P106)

 瞑想に迷う時、何回か読むことになるだろう、いや読みたいと思えるような本だ。(読了:0104)

 この本の中の珠玉の言葉のいくつかをさらに抜き書きしました。 ⇒こちらからお入りください。


『霊的成長と悟り』 本山博 (宗教心理出版) 1988年

 玉光神社での著者の教話をまとめたもの。平易だが、瞑想やカルマについて深い体験にもつづい講話は、瞑想や行の大切なこころがまえを示してくれて有益だ。

 「集中するのは自分を無にするためなのだから、集中する自分を持っていたは駄目なんだよ、集中することにガチガチになっていてはね。  やはり、健康になりたい、きれいな心になりたいとか、何かを期待して座る気持ちがどこかに有るから、集中する自分がどうしても残ってしまう。……  そういうものを、一切なくすことがどうしても駄目なら、いっそ、何も集中しないで、禅のように全てを任せて、ただ、座れば良いのだ。そういう事が、自分で自然にわかるようでなければ、まあ、あまり大したものにはなれないね。」

 ある人が癌にかかり、けいれんが激しいので止めてもらえないかと依頼があった。それで祈りによって力をおくって、つながったなと思ったころからけいれんがとまって楽になったという。
  「それなら力を送って、癌も溶かしてしまえはいいじゃないかと思う人もいるでしょうが、病気というのはやはりそうなるカルマがあってなるのだから、信仰によってお祈りをして、神のお力をいただき、カルマがきれいにならなければ、本当には治らないのです。」
 病気は、やはり生き方とかカルマが根にあって起こるものだのだろうか。それらへ根っこの問題が解決しない限り、また何度でも繰り返すものなのだろうか。 (読了:0101)


◆『チベット密教の瞑想法』 ナムカイ・ノルブ (法蔵館) 2000年

  日本語で書かれた最初の本格的なゾクチェンに関する口伝の書だという。ゾクチェンとは、「もともとの始まりから純粋で、清らかで、同時に自然状態で完成している原初の境地」。この境地の中にあることをゾクチェン、すなわち大いなる完成と呼ぶ。

 この根源的な土台は、無限に溢れる知恵の光に満ちている。それは、もともといっさいの意識現象、いっさいの現象によって歪めらも、汚されもしない純粋で空性だが、単なる空っぽの空虚ではない。この原初的な光の場から、外側から何の力を加えられることもなく、あらゆる方向にむかって無限の力が光となって、絶え間なくあふれだし、また一切の精神現象が生まれてくるのだという。

 私自身が強い関心を持つ臨死体験の光の解釈についてもヒントを与えてくれる。死後にあらわれてくる強烈な音や光のヴィジョンは、意識の根源的土台からあらわれてきたものであって、外部の対象ではないという。  心に実体はない。心の本性=明知は空であるが、そこにはすべての現象を映し出すことのできる潜在状態のポテンシャルが内蔵されているという。

 そのもっとも原初的レベルは、純粋波動としての音、そこから派生する「光」、それが5色にすぺスペクトル分光した「光線」の三つのアスペクトを持つ「原初の潜在ポテンシャル」としてあらわれる。  これは、具体的なかたちをもった報身の神々として現出する以前の存在レベルにあたるという。

 臨死体験者や覚醒者が出会う光の根源は、ここにあるのかも知れない。「原初的な光の場から無限の力が光となって、絶え間なくあふれだし、また一切の精神現象が生まれてくる」という光の哲学は、私にはとても魅力的である。 (読了:0012)


◆『瞑想のススメ』 山田孝男 (総合法令) 1999年

 ヨーガの立場からの瞑想のガイドブックと云ってよいだろう。何よりも感服するのは山田氏の体験の深さ。チャクラの観相から体外離脱、そして深い覚醒まで、随所に氏の体験がちりばめられている。

 かなりの部分、私には高度すぎて今は流し読みする他なかったところもあった。しかし、すぐにも実行していきたい修業法も多くあって、その意味でもとても参考になった。
 一番やりたいのは、アージュナー・チャクラへの集中。シュルツの自律訓練法(一種の自己催眠)をベースとしたイメージ訓練など。
 この本はこれから、私の瞑想が深まる過程で何度か参照する必要が出てくると感じた。それぞれの修行や段階で注意すべきことも、深い体験から発せられていて信頼できると感じた。 

 ちなみに、山田孝男氏は、サイ実測研究会で間近に何度かお話を聞いたことがあるが、こんなに深い体験をもっておられる方とはついぞ知らなかった。不覚。 (読了:0011)


◆『覚醒への旅:瞑想者のガイドブック』 ラム・ダス (サンマーク文庫) 1998年

 カウンター・カルチャーのカリスマ的存在と言われたラム・ダス(リチャード・アルパート)によって20年以上前に書かれ、当時の若者の瞑想のバイブルとなった。もちろん瞑想のガイドブックとして示唆に富む表現も多いが、覚醒とは何かを巧みな比喩やウィットで説いている部分が、今でもなお新鮮。0008

 

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