翻訳出版の責任を問う
(藤井
一行 / 中島章利主宰)
ゲストブックを用意しました。感
想・反論
などお寄せいただければ幸いです。
製造物責任が問われかねない現象は、食品業界にあるだけではない。出版業界にも存在する。
これまでもそのことを憂慮する声は多々あった。しかし、出版当事者はそうした声に耳を傾けることはなかった。
だが、つい最近、聞き捨てならない重大な発言が当事者から公然かつ平然となされた。発言者は
光文社の文芸
編集部の駒
井稔編集長である。
産経新聞の報道
によれば、駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとん
どすべて
が
好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いておりま
す。当編集部としましては些末な誤訳論争に与
(くみ)する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論
がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコ
メントしたという。
だが、問題になっているのは、<些末な誤訳論争>などではない。製品(出版物)に欠陥があ
るかないかという
ことである。誤訳があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいというのか? 消費者=読者が歓迎してくれさえ
すれば、欠陥の有無はど
うでもいいというのでは、ミートホープの社長と同じではないか! 出版社には、適正な出
版物を刊行するという責任はないというのか?
光文社の<古典新訳文庫>は創刊時から注目を浴びた。同時に物議も醸している。亀山郁夫氏の『カラマーゾフ
の兄弟』は空前の売れ行きを示しているようだが、氏の訳業には専門家の間できびしい批判にさらされている。
後述の長瀬論文によれば、亀山郁夫訳の『カラマーゾ
フの兄弟』には、明らかな誤訳、もしくは不適切訳が、お
よそ500箇所近くにのぼるという。そして、光文社と
亀山氏は同訳書の20刷(1月30日)から大幅な改訳改定を始め
ており、そのすべては誤訳批判者の指摘を受け入れたものだという。ただし改訳の事実は伏せて。
『赤と黒』についても同じようなことが起きている。下川茂氏が下記の書評の「追補」に記しているところによ
れば、3刷で<誤訳博物館>の改修が始まったらしい。しかし、数百にのぼる誤訳のうち、ごく一部、19箇所が訂
正されたにとどまるという。ほとんどが誤訳として指摘された部分だけのようである。(やはり改訳の事実は伏せ
て。)
<些末な誤訳論争>にはくみしないと言い放つからには、なぜ<古典新訳文庫>編集部は訂正を試みるのか?
誤訳だらけの旧版(刷)が読者に歓迎されたのであれば、改訂などすべきではなかろう。
<古典新訳
文庫>に入ったトロツキーの『レーニン』
や『永続革命論』(森田成也訳)はもっとひどい<誤訳博
物館>である。それどころか、<盗訳>疑惑さえあるものだ。かれは岩波文庫『わが生涯』(上)の訳者でもある。
そこから典型例を一点
あげる。
コースチャという少年とその母親が登場する場面で<母親のコースチナが��>という訳文が出てくる。だが、こ
この原文はÊîñòèí�
ìàìà. Êîñòèí�(コースチナ)は、Êîñòèíという所有形容詞
の女性形で、
Êîñò�
(コースチャ)という人名を形容詞化したものである。だか
ら、正しく
は<コースチャのママ」なのである。
そしてこれは高田爾郎訳『トロツ
キー自伝』(筑
摩書房、1989年)に見られる初歩的な誤訳をそのまま継承したもの
なのである。つまり森田氏は、それが誤訳だと判断できなかったわけである。翻訳家を自称する森田氏の誤訳盗訳
現象である。
所有形容詞の用法も知らない<翻訳家>が
、
トロツキーの『レーニン』
や『永続革命論』の<翻訳>なるもの
を<古典新訳
文庫>に売り込んだのだ。<古典珍訳文庫>にならない
はずがない。その詳しい検証はこちらでご覧いただ
きたい。 (藤井一行)
≪翻訳出版の責任を問う
≫に寄せて
『翻訳の世界』誌で健筆を振るっておられた別宮貞徳氏が著書『翻訳と批評』終章「翻訳の改善へ向けて」で
3つの提言を
しておられる。抜粋、要約して紹介する。
1. 翻訳者に
翻訳には学問とは別の才能を要すること、本を書くというのは、単なる小づかいかせぎや昇進・箔づけに必要な業績では
なく、読者に対するそれなりの責任を伴
うものであることを、肝に銘じてほしい。
2. 出版社に
質の悪い翻訳を排除するチェック機能をそなえてほしい、あるいは高めてほしい。�出版社の方々に、肝に銘じていただ
きたいのは、編集がしっかりしていれ
ば、その段階で欠陥翻訳はほとんど防げるということである。
3. 読者に
誰も何もやらなければーー文句の一つもいわずにありがたく頂戴しているだけでは、よくなるはずがない。いい加減なこ
とをすれば、いつ批判されるかわからな
い、という状況があればいいということである。�
(略)�はっきり言って、悪い
のは、読者の頭ではなく訳者の頭である。読者は、自分の頭が悪いせいだろうというようなつまらぬ卑下はやめて、率直に
抗議を
すればいい。
以上の 3点を総括して別宮氏はこう述べておられる。
「結局のところ、翻訳界の最大のガンは批評の不在だと思う。どんなひどい翻訳を出しても、今は誰も何も言わないし、
言ってもそれほど影響力があるわけでは
ないから、当の出版社も翻訳者も平気でいられる。�
(略)�欠陥翻訳を出した翻訳
者、出版社が社会的、経済的に実害をこうむるような状況ができればいい。そのためには、翻訳批評が活発に行なわれるこ
とが、
なんとしても必要、というよりほかに道はあるまい。」
見事な指摘である。本質はこれに尽きる。
しかし、「よくよくのワルでなければ、わざとインチキをおしつけて金をふんだくるようなことはしない。いや現実にそ
んなワルはいないーーそこが食い物の世界
とちがうところである、ありがたいことに。」
という別宮氏の 1985 年の状況判断は、残念ながら、いささか楽観に過ぎた。
別宮氏の第一の提言ーー出版社へーーは、出版社への信頼の上に成り立っていた。 2008
年、現状は、光文社文芸部編集長
の発言に見られるように出版者サイドでこの信頼を傷つけるような言動が見られるまでに至っている。この世界も食い物の
世界
とあまり違わなくなりつつあるのだ。
本年 3月29 日朝日新聞 be に、亀山郁夫訳カラマーゾフの兄弟などに代表される光文社古典新訳文庫の好調振りを 紹介する
記事が出た。そこに翻訳出版部駒井稔編集長の次の言葉が紹介されている。
「自分自身が読んでいてつらかった部分を排除していったら、作品の純粋なおもしろ さだけが残った」
駒井編集長自身の率直な気分・感情はもとより否定しないし、すべきでもないが、このために、今回検討した森田氏のよ
うな訳がまかり通るとしたらとんでもな
いことである。
これが杞憂ではなかったことは光文社古典新訳文庫がトロツキーの著作だけでなく、『カラマーゾフの兄弟』、『赤と
黒』などであるべからざる誤訳問題を引き
起こしている事実によって証明された。
6月8日付産経新聞はスタンダール『赤と黒』新訳をめぐる「対立」を次のように報じている。下川氏=新訳を批判した立
命館大学教授の下川茂氏。野崎氏=新
訳文庫訳者、東京大学大学院准教授の野崎歓氏である。
産経新聞の取材に下川氏は「野崎氏に会報と絶版を勧告する文書を郵送しました。学者としての良心がおありなら、いっ
たん絶版にしたうえで全面的に改訳すべ
きだと思います」と語った。
一方、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとんどすべてが好意的です
し、読みやすく瑞々しい新訳でスタン
ダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としまし
ては些末な誤訳論争に与(くみ)する気はまったくありません。もし野崎先生
の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をな
さったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコメントした。
解説の必要もない。翻訳の改善のために別宮氏が期待を懸けたような出版社のチェック作用は駒井稔編集長において機能
を自ら停止したのである。
光文社古典新訳文庫というたった一部門において、トロツキー、ドストエーフスキー、スタンダール
3人もの翻訳が問題
になること自体が尋常ならざることだ。まだ出てくる可能性は十分にある。
光文社古典新訳文庫だけではない。サン・テグジュペリ『星の王子さま』の翻訳をめぐっても奇天烈な状況のようであ
る。加藤晴久氏の「憂い顔の『星の
王子さ
ま』」 (書肆心水、 2007 年)を参照していただきたい(書評)。
ではどうすればよいか
? ここでも別宮氏の提言は生きている。周りの者が声を上げるしか道はない。「欠陥翻訳を出した
翻訳者、出版社が社会的、経済的に実害をこうむるような状
況」をつくるしか道はない。翻訳者としての立場から、そし
て読者としての立場から翻訳批評を大いに行い、少しでも欠陥翻訳が減り、翻訳が改善されるような
状況を作り出したいも
のである。
願わくは、これが契機となってロシア語文献だけでなく、広くわが国の翻訳の世界全般での批評、意見交流が進まんこと
を。 (中島章利)