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延坪島砲撃事件による朝鮮学校無償化停止の不当

日本政府は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による砲撃事件を理由に朝鮮高級学校の無償化適用手続きの一時停止を表明した。これは日本政府の人権意識の低さを世界にさらけ出すものである。
韓国と北朝鮮の間では2010年11月23日に北方限界線(NLL; Northern Limit Line)で砲撃戦が行われた。北方限界線は韓国側が一方的に設定した黄海(西海)上の南北軍事境界線であり、北朝鮮は同意していない。23日は北朝鮮の中止要請を無視して韓国軍が実弾発射訓練を実施し、その中で砲撃事件が勃発した。韓国は北朝鮮が砲撃してきたと主張するが、北朝鮮は「韓国が先に挑発したため、対応措置を取った」とする。
北朝鮮は韓国海兵隊の基地がある黄海上の離島・大延坪島を砲撃した。被害は島内の市街地にも及び、民間人の死傷者も出た。建物の多くが破壊され、島民も多くが韓国本土へ避難した。北朝鮮側の被害は現在のところ、公表されていない。
市街地を砲撃し、民間人を死傷させた北朝鮮の攻撃を非難する声は大きい。一方で被弾した民間施設の建物には、かつて軍関係施設だったものもあり、北朝鮮が現在でも軍関係施設であると認識して精密照準砲撃したとの指摘もある。これによれば北朝鮮の砲撃は必ずしも無差別攻撃ではなく、米軍によるイラクやアフガニスタンでの爆撃と同レベルの悪である。
米国も中国もロシアも、それぞれニュアンスは大きく異なるものの、安定のために自制を求める点では共通する。米国の北朝鮮問題を担当するボズワース特別代表は11月23日に中国・北京で中国側と会談し、両国が自制した対応を取ることで一致した。
この点で北朝鮮の砲撃を「許し難い蛮行」とし、北朝鮮非難・韓国支持一辺倒の日本は国際社会から浮いている。六カ国協議でも日本は拉致問題に拘泥し、北朝鮮を過度に敵視するために障害になっているとの批判がなされたが、延坪島事件でも同じ論理が該当する。
日本は国内でも砲撃事件を理由に朝鮮学校の無償化適用手続きを停止した。高校無償化は歴史的な政権交代を果たした民主党政権の目玉政策の一つであるが、朝鮮学校の適用問題で味噌を付けた。
騒動の発端は中井洽・拉致問題担当相(当時)である。北朝鮮への経済制裁と整合性がとれないとし、川端達夫文部科学相(当時)に無償化の対象から外すように要請した。結局、朝鮮学校を対象にするかの判断は先送りされた。国連の人種差別撤廃委員会は2010年3月16日に朝鮮学校の除外は人種差別になると指摘し、改善を勧告した。
北朝鮮への制裁は政策(ポリシー)の問題である。無償化の対象から朝鮮学校を除外することは、朝鮮学校に通う生徒を他の高校生から差別することになる。この差別を許すことは、政策を朝鮮学校生徒の平等権よりも上に置くことになる。これでは時の政府の政策によって、どのようにでも人権が制限されてしまう。
人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである(日本国憲法第97条)。政策によって左右できるものではない。それ故に朝鮮学校差別は日本国民にとっても看過できない問題である。心ある日本人から朝鮮学校を対象に含めることを求める声が出ることも当然の成り行きである。
ようやく、高木義明文部科学相が「外交上の問題によって(無償化適用の是非を)判断すべきではない」との考えを示し、朝鮮学校も無償化に向けて進み始めた。その矢先の一時停止である。全国朝鮮高級学校校長会の慎吉雄(シン・ギルン)会長らは11月25日、東京都内で会見を開き、抗議声明を発表した。「朝鮮半島の事態と生徒は関係なく、理不尽極まりない」と主張する。
菅直人首相は24日に「私の方から高木文科相に対してプロセスを停止してほしいと指示を出した」と述べ、無償化停止が首相の指示であったことを認めた。菅首相は市民運動出身で世襲政治家ではない点で好感を抱かれたが、市民運動時代の活動も含めて市民派としての感覚には疑問の声が出ていた。
菅氏は民主党のトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫氏や小沢一郎氏と異なり、対米従属路線に挑戦する姿勢も見せていない。「最低でも県外」と発言していた鳩山氏が米軍普天間基地の辺野古移設に変節したように、鳩山・小沢両氏の対米従属路線見直しの本気度については議論がある。しかし、菅氏からは対米従属路線見直しの意欲すら感じられない。この点で左派が民主党代表選で菅氏ではなく、小沢氏を支持したことには合理性があった(林田力「尖閣弱腰外交が管直人を救う可能性」PJニュース2010年9月29日)。
http://news.livedoor.com/article/detail/5039146/
そして菅氏は朝鮮学校の無償化停止を率先して指示することで、人権面でも市民派として看板倒れであることが露呈した。
政治の場で在日外国人の人権制限が決められてしまうならば、在日外国人にとって日本の政治に参加することは死活問題になる。もともと外国人参政権は必ずしも在日外国人の総意ではなかった。
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は外国人参政権に明確に反対する。朝鮮総連の反対は外国人参政権反対派に都合よく利用される傾向にあるが、実態は複雑である。朝鮮総連は日本社会の差別によって民族的尊厳が損なわれている実態を問題視する。日本国民の延長線上にある参政権よりも、教育や生活・企業活動などで民族的な権利の確立を優先する。
しかし、政治の場において在日コリアンへの差別がまかり通るならば、民族的権利を守るためにも外国人参政権が必要という議論が生じる可能性がある。この点は、在日コリアン弁護士協会『裁判の中の在日コリアン』(現代人文社、2008年)という書籍が象徴的である。
本書は在日コリアンを当事者とした裁判や事件をまとめたものである。在日コリアンは在日韓国・朝鮮人とも呼ばれるが、この記事では本書の呼称にあわせて、在日コリアンで統一する。本書は副題に「中高生の戦後史理解のために」とあるとおり、平易な言葉で分かりやすく説明しており、専門的な法的知識がなくても読み進めることができる。
本書は多くの日本人に読んで欲しいと思える一冊である。在日コリアンの問題は在日コリアンだけの問題ではない。在日コリアンの尊厳が守られていないという状況は、日本で生活する人全てにとっても人権の危機である。本書は日本に暮らす全ての人が尊厳をもって生きていけるような社会を構築するための重要なテキストになる。
本書で紹介された在日コリアンをめぐる裁判や事件は実に多岐に渡る。刑事事件、従軍慰安婦、BC級戦犯、サハリン残留コリアンの帰還問題、日本国籍確認訴訟、就職差別、教育権、ウトロ裁判、入居差別、ゴルフ会員権差別、指紋押捺拒否訴訟、無年金差別、管理職裁判、司法修習生、調停委員・司法委員、地方参政権である。
驚かされるのは本書の裁判や事件が現代日本の法的論点の多くをカバーしていることである。私は大学及び大学院で法律学を専攻したが、本書の判決は大学の講義で紹介されたものも少なくない。私が殊更、在日コリアンの問題に集中していたわけではない。
在日コリアンが当事者となった裁判の判決の多くが、良い内容であれ、問題のある内容であれ、司法の場では先例となっているという現実がある。在日コリアンの問題を掘り下げれば、日本の社会と歴史が見えてくるのである。副題の「戦後史理解のために」は決して誇大広告ではなく、文字どおり、在日コリアンの裁判が戦後史理解の鍵になる。
より驚かされるのは在日コリアンの抱える問題が、一般の日本人にとっても決して他人事ではないことである。在日コリアンは日本社会においてマイノリティーである。同質性の強い日本社会を当然視する日本人が在日コリアンの問題について関心が低い傾向は否めない。
本書は「はしがき」で「在日コリアンと呼ばれる民族的なマイノリティー(少数者)が戦後の日本社会をどのように生きてきたかを知ってもらうこと」を本書の目的の一つとする。ここには、これまで在日コリアンの問題について広く知ってもらいたいという思いがある。日本社会が直視してこなかった在日コリアンの問題に光をあてただけでも本書には意義がある。
しかし、本書を読めば、在日コリアンが抱える問題は在日コリアンであるが故の問題とは言い切れないことが分かる。確かに在日コリアンは在日コリアンであるが故に差別され、非合理な扱いを受けている。しかし民族の相違が根本的な問題ではない。在日コリアンを差別する日本社会は、日本人に対しても同じように牙を向けることを認識する必要がある。
金喜老事件では静岡県警による民族差別が問題になったが、当の警察官は「私には朝鮮人を侮辱したことは身に覚えのないことであるが、万一そういうことがあったら謝罪する」と何ら謝罪になっていない相手の感情を逆撫ででする発言で応じた(本書54頁)。過去の問題を直視しない警察組織の不誠実は、日本人に対する冤罪事件でも見られるものである。
また、在日コリアンは日本国籍を持たないという理由で就職や入居を断られている。これも在日コリアン特有の問題ではない。たとえば老人も同じである。就職したいと思っても年齢制限に引っかかることが多い。独居老人には家を貸してくれないことも多い。
在日コリアンの差別を放置・助長するような政府では日本人の人権を保障してくれるかも疑わしい。日本国憲法が保障した自由や平等や個人の尊厳が、いかに日本社会に定着していないか、愕然とする思いで本書を読んだ。この意味で差別を是正するための在日コリアンの裁判闘争は、日本人の人権状況も向上させるものである。
最終章では「残された課題」と題して在日コリアンの参政権の問題について紙数を割いている。裁判によって権利回復を図ろうとしてきた在日コリアンが参政権に行き着くことは当然の帰結であった。何故ならば多くの判決が、在日コリアンへの配慮が欠いている現状を認めつつも、立法政策の問題として在日コリアンを敗訴させていたためである。
どのような法制度を採用するかは国会が決める問題である。そのため、裁判所は国会の判断を尊重し、法律が存在しないのに、または法律に反してまで在日コリアンを救済することに消極的であった。このような裁判所の姿勢は司法消極主義と呼ばれ、強い批判も存在する。
司法消極主義が正当化できるとしたら、国会が国民の代表者である国会議員によって構成されているためである。国会議員が国民の代表者であるという図式(治者と被治者の自同性)が成立する限りにおいて、国会の議決は国民の意思を反映したものとなる。仮に国会の議決が不当であり、国民の利益を損なうものであるならば国民は次の選挙で国会議員を代え、法律を改廃することができる。故に裁判所としては国会の判断を尊重すべきとの結論が導かれる。
この司法消極主義の論拠に対しては少数派を考慮していないとの批判がある。そして少数派の権利を守ることこそ、司法の務めであると問題提起されている。一方で在日コリアンにとって司法消極主義は不合理である。在日コリアンには選挙権・被選挙権がないためである。在日コリアンには自分たちの代表を選ぶ権利がない。それなのに裁判所は国会で決めるべき問題であるとして門戸を閉ざしてしまった。司法消極主義の傾向が強い日本の裁判所は法律による差別に鈍感であり、法律自体を改廃しなければ権利回復ができない。在日コリアンは参政権を持たなければ救済されない。
高校無償化での朝鮮学校差別は政治の場で人権が軽視されていることを示した。人権意識の低い日本では、在日外国人は政治に参画しなければ自らの権利を守ることができないかもしれない。それは日本の人権状況の改善にもつながることである。

主権回復を目指す会が在特会を批判

京都朝鮮第一初級学校への威力業務妨害事件で依頼された弁護士を巡り、主権回復を目指す会の西村修平代表は2010年8月13日に在日特権を許さない会(在特会)を批判した。この問題は現代日本における右翼的アプローチの行き詰まりを示しているように思われる。
在特会の西村斉容疑者ら4人は2009年12月に京都市南区の京都朝鮮第一初級学校周辺で拡声器などを使って授業を妨害したとして、2010年8月10日に威力業務妨害容疑で逮捕された。彼ら容疑者のために在特会が手配した弁護士の所属する法律事務所について、西村代表は在日コリアンの差別撤廃を掲げる弁護士で構成されていると批判した。
これに対し、在特会側はウェブサイトの掲示板で以下のように説明した。
「今回逮捕された4名と早急に接見する為に関西の在特会会員の有志の方に弁護士を探して頂きました。(接見には弁護士の同席が必要です)
直ぐに連絡の取れた弁護士に今回の同席を依頼しました。お陰さまで、4名との接見、差し入れ等が出来ました。」
その上で今回依頼した弁護士は早急な接見のためであり、裁判となった場合の弁護士は決めていないとする。在特会側の説明は西村代表の批判する事実を否定するものではない。反対に容疑者と早急に接見するための緊急措置であったと読める。緊急に対応できる弁護士を探したところ、人権派だったというところが正直なところであろう。
ここに日本の現実がある。日本では実際に苦しんでいる人々の受け皿になりうるものは左派系の団体や運動ばかりである。年越し派遣村では支援団体の思想的背景を問題視する論調が散見されたが、そのような団体でなければ派遣切りにより困窮する人々を救済しようとしない点が日本の現実である。在特会にとっても幹部の逮捕という窮地において、迅速に対応してくれた存在が人権派弁護士であった。
若年層が右傾化した原因として、格差拡大など日本社会の矛盾がある。ネットカフェ難民や内定取り消し、ニート、派遣切り、ワーキングプアなど矛盾を背負わされた若年層が社会に疑問を抱き、政治意識を高めることは当然である。
しかし、その怒りを在日コリアンや労働組合・左派市民運動に向けることが正しいかは疑問である。日本社会の矛盾は少数派の反日売国勢力が社会を歪めているために生まれたものだろうか。むしろ体制側が矛盾を構造的に作り出しているのではないだろうか。
私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。それ故に虐げられた人々の社会への怒りは大いに共感できる。
一方で東急不動産だまし売り裁判では怒りの矛先を正しい相手に向けることの難しさも実感した。マンション住民同士の対立、管理会社に抱き込められた管理組合役員、地上げブローカーの暗躍など、だまし売り被害者を消耗させ、結果的に東急不動産への責任追及を鈍らせかねない出来事にも遭遇した。
ネット右翼と呼ばれる人々も社会の矛盾によって傷つけられた自尊心を民族的自尊心で穴埋めすることが正しい解決策であるか、それこそが矛盾を作り出す体制の思う壺ではないか、考える必要があるだろう。

若年層右傾化の背景と限界

日本社会、特に若年層の右傾化が大きな問題になっている。ここではネット右翼など若年層の右傾化の背景を分析し、その問題点を論じる。
右傾化の脅威は一時期ほど強調されなくなった。それは行動する保守の行き詰まりが原因である。在日特権を許さない市民の会(在特会)らの幹部は京都朝鮮第一初級学校や徳島県教組への威力業務妨害容疑で逮捕された。主権回復を目指す会では内紛が勃発し、解散会議が開催された。行動する保守は左派市民運動の手法を取り入れて伸張したが、過激化や内ゲバという極左の悪しき習性も伝染してしまった。
一方で尖閣諸島沖での海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件では、幅広い層に嫌中感情と管直人政権の弱腰への反感が見られる。一部の突出した勢力は叩かれたものの、右傾化自体は国民に浸透している。それ故に右傾化の背景を分析することは今日でも意味がある。
若年層が右傾化する背景は格差社会化である。ネットカフェ難民や内定取り消し、ニート、派遣切り、ワーキングプアなど若者を取り巻く環境は厳しい。若者は貯金することも結婚することもできなくなった。ルサンチマンが鬱積した若者を中心とする人々が、自らの卑小な自尊心の代わりに民族的自尊心で代償するようになった。この分析は既に指摘されている内容であるが、実は半分しか回答になっていない。
現代日本の若者が虐げられ、搾取されていること、そして虐げられた人々が政治意識を高めることまでは説明できる。しかし、政治意識に目覚めた結果、右傾化すること、弱者(たとえば差別に苦しむ在日韓国・朝鮮人)に冷酷になれることは当然の帰結ではない。
不当に支配されている人間は、支配者に怒りと憎しみを抱く。戦後日本の支配体制は一貫して右の側であった。社会に不満があるならば左傾化が自然である。また、虐げられた人々が他の弱者の一層の不幸を望むことは、人間の浅ましい側面であるとしても、真面目に問題意識を持つ人の態度ではない。
それにもかかわらず、右傾化してしまう心理状態は以下のように説明できる。本来ならば支配者に反抗するところであるが、自分に自信を持てない人間は反抗できない。ひたすら耐えながら恨みを蓄積させていくしかない。鬱積した怨恨を抱きながら、支配の重圧に甘んじなければならない人間の心は奇妙に変化する。
現状に耐えかねて、支配者に同化しようとする。そして自分が支配者になったと勘違いすることで、支配されている状態を忘れ、自分を慰める。これがマイノリティーである在日韓国・朝鮮人や社会的弱者のために闘う労働組合を攻撃する心理的背景である。
結論として右傾化した人々が社会に不満を抱いた出発点は正しいものの、その後に歪みが生じてしまった。これでは真の問題解決を遠ざけるだけである。その限界が浮き彫りになる論文として、論座2007年1月号に掲載された赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」がある。
賛否は別として、この論文は右傾化した若年層の心理を説明するものとして大きな話題になった。格差社会の日本で貧困から抜け出せないフリーターの著者が「国民全員が苦しむ平等」である戦争にしか希望を見出せないと主張した。
赤木氏は戦時中に徴兵され陸軍二等兵となった丸山眞男が中学にも進学していない一等兵に執拗にイジメられたエピソードを紹介する。そこから以下のように主張した。
「戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。」
この論文は戦前の軍国主義への反省をベースとする言論界には大きな衝撃を与え、強い批判もなされた。しかし、非正規労働者の置かれた悲惨な状況への認識の欠けた批判は、たとえ建前論としては正しくても赤木氏には単なる綺麗事にしか映らない。そして非正規労働者の置かれた状況が改善されていない現在でも本論文は依然として力を持っている。
私も赤木氏と同世代であり、「社会の歪みをポストバブル世代に押しつけ、経済成長世代にのみ都合のいい社会」との不満は直感的に理解できる。私自身も東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされ、社会の矛盾を嫌というほど味わった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。
それ故に虐げられた人々の気持ちには大いに共感する。若年層を中心とするプレカリアートは矛盾が恒常化する絶望的な状況に置かれている。これが認識の出発点である。それ故に戦争にでもならなければ丸山眞男のようなエリートを殴るチャンスはないと考える。そして現状を破壊する出来事の発生に希望を抱く。
問題はインテリを殴る程度の希望で良いのかという点である。現体制に不満を抱いているならば、何故、体制の頂点に君臨する人物を殴りたいとは思わないのか。たとえば「天皇をひっぱたきたい」とは考えないのか。インテリを殴ることは代償行為にしかならない。
そして「天皇をひっぱたきたい」ならば戦争ではなく、革命を希望しなければならない。戦争は日常を破壊するとしても、現体制を守ることが目的である。戦争に組み込まれることは現体制の歯車になることである。
生きる意味すら見出せない悲惨な人生では現体制の歯車になった方が、まだ自尊心を満足させられるかもしれない。しかし、それは現体制に虐げられた者の希望として、あまりに卑小である。国家そのものとまで称されたフランス国王が死刑になったフランス革命のように革命こそが逆転の希望を抱けるものである。
天皇ではなく丸山眞男を殴りたいとする赤木氏自身には論理の一貫性がある。赤木氏の怒りの矛先は権力者ではない。「貧困労働層を足蹴にしながら自身の生活を保持しているにもかかわらず、さも弱者のように権利や金銭を御上に要求する、多数の安定労働層」に向けられている(「けっきょく、「自己責任」ですか 続「『丸山眞男』をひっぱたきたい」「応答」を読んで」論座2007年6月号)。
何故ならば「金持ちや権力者が恵まれているのは、血筋や家柄という固有属性を持っているからであり、彼らが戦争で死んだとしても、その利権は、固有属性を持たない私には絶対に回ってこない」からである。ここには血筋や家柄は覆すことができないという諦めがある。日常を根本的に覆す戦争を望みながらも、格差社会の前提を受け入れてしまっている。
ここにネット右翼の限界がある。体制の根幹に位置する巨悪には目をつぶり、自分達と近い立場を攻撃することで満足する。「自分達はフリーターなのに、在日コリアンが自営業者であるのは許せない」的な発想である。そこにとどまっている限り、ネット右翼は体制に利用されるだけで、社会を変革する真面目な運動にはなりえない。
このように若年層の右傾化は問題であるが、新たな動きも出てきた。それは世代間格差・世代間不公正に目を向け出した点である。
民族差別を助長すると批判されたものの、ネット右翼からは支持された『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)の著者・山野車輪氏が『「若者奴隷」時代』(晋遊舎)を2010年3月15日に慣行した。同書は世代間格差をテーマにしたもので、若者が高齢者に搾取されていると訴える。
多くの若年層が貧困に苦しめられているが、それらは若年層の責任ではない。元凶は異常なまでの高齢者への優遇であると同書は主張する。『マンガ嫌韓流』で韓国・朝鮮人に向けられていた憎悪のターゲットを高齢者に移したような書籍である。
予め断っておくが、私は『マンガ嫌韓流』を支持しない。反対に『マンガ嫌韓流』を支持する層(ネット右翼)が広がっている現状を憂慮している。しかし、『マンガ嫌韓流』の著者が高齢者批判を展開したことは若年層右傾化の方向性を理解する鍵になるため、ここで取り上げる。
私は若年層の右傾化の背景を格差社会化による若年層の貧困と分析した。非正規雇用の拡大など若年層が割りを食っていることは事実である。その意味で若年層が世代間格差に目を向けることは正当である。この点の認識が左派には決定的に欠けていた。これは左派が社会に不満を抱く若年層を取り込めず、若年層が右傾化した外部要因でもある。
私は右派でも左派でもない。私が社会性を強めた契機は東急不動産との新築マンション購入トラブルであった。右派であるか左派であるかは問題外であった。ケ小平氏は「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫」と発言したが、私も東急不動産だまし売り裁判の助けになるならば党派やイデオロギーは問題にならなかった。
しかし、新築マンションだまし売りに苦しむ私に共感してくれた存在は決まって左派であった。日本には実際に苦しんでいる人々の受け皿になりうるものは左派系の団体や運動ばかりという現実がある(林田力「主権回復を目指す会が在特会を批判」PJニュース2010年8月21日)。
http://news.livedoor.com/article/detail/4958954/
私が左派に見えるならば、苦しむ人に冷たい日本の右派の偏狭さが原因である。この偏狭さは、草の根保守が教会を地盤とする米国などと決定的に異なる点である。
そのような私でも左派の体質に疑問を感じることがあった。平等を重視する一方で、世代間差別には無自覚な点である。その一例として私が呼びかけ人に名を連ねるメーリングリスト「CML(市民のML)」で若い女性議員を「ちゃん」付けで呼ばれた件がある。
「ちゃん」付けした当人は「自分の子どもくらいの世代の女性議員に「ちゃん」付けすることは親しみを込めてのもので、差別的意図はない」と主張した。一方で、当人は発言者に差別的意図がなくても差別の構造を生み出す発言は問題であると他者の発言を批判していた。この点の矛盾を指摘したが、問題意識が通じたかは疑わしい。
このような体質がある限り、若者から広汎な支持を得ることは難しい。世代間差別に無自覚な左派の体質への絶望と反感が、社会に不満を持つ若者を右傾化させた側面がある。前述のとおり、私はマンション購入トラブルを出発点にしているため、その助けになる限りにおいて右派とも積極的に情報交換している。彼らは左派に「団塊世代の懐古趣味」というステレオタイプなイメージを抱いている。左派のイデオロギー以前に世代間ギャップへの抵抗感が強かった。その意味で右傾化と世代間差別批判はマッチする。
私も世代間差別について問題意識を有している。それでも私が右傾化しなかった理由は新築マンションをだまし売りした不動産会社という明確な敵を認識していたためである。正しい敵を認識していたために、「在日特権」のような虚構に矛先を向けることもなかった。
世代間差別は韓国・朝鮮人差別に比べれば取り組む価値のある問題である。しかし、十羽一からげな高齢者批判は、世代間差別を生み出した制度的・構造的要因を放置してしまう。また、高齢者の中にも社会的弱者は多数存在するが、そのような層を叩いて卑小な自尊心を満足させるならば、韓国・朝鮮人差別と同じ病理に陥る。
現在日本は多くの矛盾を抱えており、若者は怒って当然である。むしろ大人しすぎるくらいである。しかし、間違った方向に怒ることは矛盾に責任のない他者(在日韓国・朝鮮人など)を傷つけ、本来の矛盾を温存させてしまうことになる。その意味で社会性に目覚めた若年層が右傾化する現状は社会にとって大きな損失である。

ネット右翼は東京都青少年健全育成条例で目を覚ませ

東京都議会の本会議で2010年12月15日に青少年健全育成条例改正案(東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例)が可決された。これはネット右翼など右傾化した若年層に保守の正体を気付かせる機会になる。
改正条例は性犯罪や近親者間の性行為を不当に賛美・誇張するマンガやアニメを規制する。何が不当に賛美・誇張するものか不明確で、行政の恣意的な解釈を招き、表現の自由を萎縮させると批判されている。そのため、出版業界や日本弁護士連合会など各方面から反対表明が相次いだものの、「使命感を持ってやる」という石原慎太郎都知事のゴリ押しが通ってしまった。
石原氏は典型的な保守タカ派の政治家である。一方、ネット右翼の多くはマンガやアニメの愛好家である。これまでネット右翼は石原氏の三国人発言などを「タブー破りの発言」と持ち上げてきたが、しっぺ返しを食らうことになった。これは日本の愚民と保守権力の縮図である。
政治意識の低い日本の民衆は、おこぼれにあずかろうとして、権力者にすり寄る。しかし、権力者にとって民衆は利用するだけの存在である。散々利用された挙句、裏切られる。裏切られたことさえ気付かない愚かな民衆も少なくない。彼らは権力者にすり寄り続ける。これが誰もが問題を認識しつつも、日本で保守政治が永続した一因である。
ネット右翼も同じである。ワーキングプアやネットカフェ難民など若年層を取り巻く現実は厳しい。若年層が社会に不満を抱き、政治意識を高めることは当然である。しかし、右傾化して日本の過去の戦争犯罪を美化し、中国や韓国を貶めることは当然ではない。
そこには日本社会に不満を抱きつつも、「偉大な日本」のおこぼれにあずかりたいという甘えと煮え切らなさが透けて見える。しかし、右傾化しても救われることは絶対にない。どれほどすり寄っても、最後は自己責任などの論理で切り捨てられるだけである。せいぜい焼け野原から経済大国にするような前に進むことしかできない先人を見習って、前向きに頑張れと激励されるだけである。
私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。この問題について私は様々な団体に相談したが、保守系の団体はソフトな対応であっても、結局は泣き寝入りを求めるものに過ぎなかった。そこで保守の論理の本質を認識した。
私は左派が全面的に正しいと主張するつもりはない。むしろ全共闘世代が牛耳る既成の左派に若年層が幻滅することは当然であるとさえ考えている。それでも日本では実際に苦しむ人々の受け皿になりうるものは左派しかないという現実がある(林田力「主権回復を目指す会が在特会を批判」PJニュース2010年8月21日)。
http://news.livedoor.com/article/detail/4958954/
マックス・ウェーバーは『職業としての政治』の末尾で以下のように述べた。
「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」をもつ。」
古い発想が支配し、若年層の思いを受け止められない既成の左派にはウンザリさせられることも多い。それにもかかわらず、苦しむ人々の立場に立つならば敵と味方を取り違えてはならない。ネット右翼も日本の保守の本性を直視し、目を覚ます必要がある。



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