9.12豪雨災害と学校

ー 「児童の教育の場」と同時に「地域の避難所」として ー

 昭和51年の9.12災害では、島小学校区は8日から13日朝までほぼ冠水状態となりました。4階建て校舎(2階に職員室等の管理室)の小学校も床上42pの浸水、最高時1700人程の避難場所となりました。そんな中、学校はどんな努力・活動をしたのでしょう?

1.「休校」と避難者受入

 9月4日に発生した台風17号は、北違30度付近で足踏みし、停滞していた秋雨前線を刺激しました。このため岐阜県は、長期間にわたり多量の降雨に見舞われました。

(校区に住んでいたA教諭の話)
 6日だったと思うけど、自宅の壁には色々な虫がぎっしりとへばりついていました。また水たまりの中を泳いで行く蛇の姿を見て、私は不気味さと不安を感じました。
 校区状況調査では、屋根まで水に浸いた工場を見て驚きました。長良川では流木が堤防を壊さないように、また堤防内ではガマがないかを調べる水防団の活動も見ました。

○8日(水)15時30分、岐阜県に大雨洪水注意報、23時には大雨洪水警報が発令され、岐阜市北部等では浸水被害が始まりました。
○9日(木)6時20分、島小学校は「自宅待機」を連絡網で指示しました。そして9時頃「休校」が決定され、通学路や校区の冠水状況の調査・写真撮影が行われました。この日から学校職員の宿直勤務が始まりました。


水に浸かった工場(11日)


長良川と水防団(東島)

○10日(金)は、6時10分に洪水警報が注意報に切り替わったことから、PTA会長等と協議しながら授業実施に踏み切りました。保護者の誘導を受け、児童は登校しました。
 前日までの雨により鏡島大橋・両満橋付近・旦島の通学路が冠水しており、西中島・江口・菅生地区は島田方面、旦島地区は国道303号へ迂回して遅れて登校しました。
 校区の冠水状況を把握した9時段階で下校の措置が協議され、「第5時限で授業を打ち切り、集団下校」を決定。午後PTA執行委員会を開き、連絡網等の打合せをしました。 

○11日(土)は、「洪水警報」が出て、「全市的休校」になりました。午前10時頃から島新町地区住民等の学校への避難が始まり、避難所としての受入れ体制づくり(教室片付け等)を開始しました。17時頃には西島や招光町、東島等からの避難者が270人程となりました。この日の宿直員2人は避難所としての勤務に就きました。

○12日(日)には、降り続く大雨と上流から流れて来た水で、浸水家屋が増加していました。朝の3時には長良川の水位が最高となり、4時過ぎには「避難命令」が出されました。また両満川や早田川の水が溢れ、島地区全体に拡がったのです。日曜日にもかかわらず、学校職員10人が登校し、避難所としての勤務に就きました。10時過ぎには、学校の1階(年生教室や保健室・家庭科室・講堂等)の床上浸水が始まりました。玄関付近には真っ黒な水に色々なゴミが浮かび、嫌な臭いがたちこめました。
 各教室のオルガンや机などの備品をできる限り2階へ上げました。刻々と避難者が増加し、最高時には1660人に達しました。

  
   救助船で避難(12日)             校舎2階より南東を望む(12日)

(応援にかけつけたB教諭の話)

 下着等を入れたリュックを頭上に乗せ、ゴミや油等が浮かぶ泥水に胸まで浸かりながら学校に入りました。1階から2階に上る階段には、何匹もの犬が手すりに繋がれていました。床には糞が散らばり、鼻につく臭いがたちこめていました。
 すばやく着替えて職員室での仕事に参加しましたが、家族の安否を確認する電話対応、人数確認と教室配分等、目が回る忙しさでした。
 「狭い。もう少し詰めて下さい。」との声に、先に避難していた人たちは、「あんた等は自宅で荷物を二階に上げ 避難者で満員の教室
ていて避難が遅くなったんやろう。…狭くても仕方がない。」と…。
 避難者同士の喧嘩の仲裁に苦労し、また「トイレが臭い」等の苦情処理に追われました。

(学校へ避難したA教諭の話)
 刻々と水が増え家の中に侵入してくる様子を見て、近くの幼稚園に避難しました。しかしその後、救助船で学校へ避難することになりました。
 指定された教室は先に避難した人たちで一杯で、私たちは廊下で過ごすことになりました。
 その後、私は避難所の学校職員として、食糧・物資の配給、避難者名簿の作成等の仕事に当たりました。
 寝るときも、家族と離れて、職員室のロッカーとロッカーの間で体を横たえました。

 急激に避難者が増加する中で、避難者名簿作成等の事務処理・教室配分等に追われました。
 また情報連絡・食糧や物資配給・病人手当・避難者同士の争い仲裁や苦情処理・避難者の問い合わせや連絡などの電話対応等、学校長や災害対策本部の指示に基づく活動は、多忙を極めました。

2.復旧作業と宿泊所


復旧作業・一年教室

○13日(月)の早朝には、校庭の水が引き始めました。 老人と子供を除く多くの避難者は、各自の家庭の復旧作業に出かけました。 この日は、帰ってきて宿泊する人が531人(昼食希望者は1000人以上)で、学校は「宿泊所・救援物資配給所」となりました。
 連日の避難生活の疲れから病人やけが人が多くなりました。そのため衛生管理に努める一方、市に対して看護体制手配を要求したりしました。
 同時に、学校自体の復旧作業も待ち構えていました。学校職員たちは、水が浸いた1階の教室や保健室・便所等の掃除、復旧・消毒、校内被害調べ・点検等に取りかかりました。


復旧作業・消毒

(学校職員・Cさんの話)
 水が引いた校庭を見て、避難者たちは我先に家の様子を見に行こうとしました。色々な危険が予想され、避難所本部からは、けがや伝染病を防ぐ諸注意を放送で呼びかけました。しかし、やはりけが人や食中毒症状の病人が出て、大変でした。

○14日(火)も、学校職員は南舎・講堂・給食室・一年教室・校務員室・調理員室・便所等の清掃、全校舎内消毒に励みました。また校区及び児童家庭の家庭被災状況調査、通学路状況の調査等に出かけました。
 精華・本荘・明郷中の教員17人、精華中の生徒80人が作業の応援に来校。夜の宿泊者は77人(宿直2人)。

○15日(敬老の日)は祝日でしたが、職員の殆どが出勤し、応援のPTA有志と共に復旧作業に当たりました。理科準備室・便所消毒・掃除、被災職員宅の復旧作業応援等。この日の宿泊者は21人でした。

(被災したA教諭の話)
 帰宅すると異臭でムカムカしました。冷蔵庫や応接セットは横倒しになっていました。床には泥が積もり、壁には浸水の跡がくっきりと残っていました。私は愕然としました。
 職場の仲間たちが片付けの応援に来てくれた時は嬉しかったです。今でも、そんな仲間に感謝しています。

授業開始後の欠席状況     昭和51年9月
  16日 17日 18日 19日
 欠席者数   71 47 37 24

訳 
災害による欠席   61 35 29 21
 病休 10 12 8 3

・欠席者が非常に多いのは、
@校区外へ避難していて通学不可能だったこと、
A水害の被害が大きく、家の片付けに追われて
児童が登校できなかったことによる。
・病休による欠席は、避難生活による下痢、腹痛、
休養不十分のため体力消耗、風邪などの病気が多い。

○16日(木)から児童が登校しました。全児童817人中71人が欠席。(14人は親戚宅等に疎開)各学級では、家族の安否確認や被災調査(教科書や学用品等)を行いました。
 この日も1階を中心に全校内外の消毒に取り組みました。PTA50人、島中生徒30人が来校し、体育倉庫や図書館等の消毒作業を行いました。宿泊者は8人と減少しました。

○17日(金)、校内外はゴミの山となり、悪臭が強い状態でした。この日も学級指導と大掃除、物品等の片付けに追われました。(47人の児童が欠席。うち21人は疎開)宿泊者は2人となりました。        

○18日(土)朝に避難者2人も自宅へ帰り、避難所としての役割を完了しました。児童は登校しましたが、疎開者23人を含む37人が欠席。教科書等の被災再調査、教科書や救援物資等到着・配分作業を行いました。この日も校内消毒や体育倉庫・講堂倉庫・図書館等の片付け・清掃に高学年児童やPTAが頑張りました。




3.「水害に学ぶ」教育活動

○19日以後は平常通りの授業に入りました。しかし、9月中は学用品支給等の事務的な仕事に多くの時間と労力が費やされました。
 一方で、学校職員は「児童一人一人の現状や変化・内面をどう捉えるか」「この水害の痛手からどう立ち直らせるか。何を学ばせるか」と話し合ったりして実践を始めました。

@児童との語らい・学級指導の中で →「命が助かったよかった!」「お父さんはすごい」等
・学級児童41名中床上浸水25名、家屋全部が冠水した子2名。…「よかったな」「どうしとったの」と顔を合わせるとお互いの無事を喜びあっていました。0君の家の水害状況を聞くと、「もう危なくなったので身体だけで逃げた」と言いました。…そして「やっぱり逃げたで良かった。そんで助かったんや。」「0君の場合は、命が一番大切なんや。」「その次に教科書や。」と子ども達…。”最優先に考えなければならないのは命である”ことを、改めて考えることができました。
・「先生、かばんも教科書もみんなだめで使えません。」と訴えたのはA君です。「だって、みるみるうちに水が増えてくるし、お父さんが入院中やでお母さんと一緒に大事な物をタンスの上とか、少しでも高いところに移しとったんや。かばんも上の方へおいたから大丈夫だと思った。」A君の家は、長良川の堤防のすぐしたにあります。今度の水で屋根まですっぽり浸かってしまったのでした。A君は、母を助けて懸命に働きました。教科書やかばんを持ち出す余裕はなかったのでした。水の勢いはそれほど早く、怖ろしかったのです。

A「体験を文に綴らせながら交流し、何を学んだのかを意識化させる」取り組みの中で
・「お父さんにひっぱってもらって船で避難した。」「うちのお父さんもみんなを避難させておいてから、もう一度家の中のたたみやふとんを上げに行ってくれた。」「どうしても兎を連れて行きたいと言ったら、胸まで水に浸かりながら家に帰って連れてきてくれた。」…子ども達は、口々に父親が力強い存在だったことを報告しました。いつもは物言わぬ父親に身近で親しみを覚えたのだと思います。

B復旧活動・清掃活動等の中で →「一生懸命働いた子ほど成長しました。」
・「大人顔負けなほど働いてくれました。」「物はなくなったけど、親子が裸になってくたくたになるまで働き、励まし合えたことは本当に良かった。」と多くの保護者からの報告がありました。
また、真剣に働くわが子の姿を見て「大きくなったな。頼もしいな。」と感じられた人や、「水害の後、子ども達に精神的に落ち着きを感じるようになった。」という人もありました。「家族の一員として、自分が認められた充足感」によるものなのかも知れません。
・学校でも復旧のために、毎日力仕事や清掃の連続でした。でも、子ども達はいやな顔もせずがんばりました。泥だらけの講堂には、水ぶくれしたマットがずしりと重なり、水浸しのストーブの出し入れも大変でした。
 「自分達の力で学校を美しくしよう。早く復旧させよう」と取り組んだ子ほど、その後の生活姿勢にまじめさが見られたり、学習にも意欲が見られるようになりました。また労働に携わる中で生まれた自信や物の大切さ、親や地域の人の偉大さや賢さ、協力の大切さを再認識したようでした。

C「今年の運動会は中止」から「小運動会として実施」に →「例年以上の大運動会」に。
・当初「今年の運動会は中止」の方針を聞いた子らは、児童会を中心に全校児童の希望をまとめながら「小規模でも実施してほしい」と校長に要望。…その結果の小運動会は、「水害をのりこえて…」の気構えがあったためか、「例年以上のすばらしい運動会」になりました。

Dその他 →「水害の体験をふまえた教育活動はどうあるべきか」という実践は?
・郷土歴史クラブは、11月から4ヶ月間かけて「島校区9.12豪雨被害状況調査」を実施。 
・さまざまな領域や教科での実践、作品作りや資料化という点での弱さ。

4.終わりに

(当時の学校長・「水禍」より抜粋)
 校歌の三番で「大水の恐れは、遠い昔の物語」と私たちは歌っていました。その島小に9.12の集中豪雨災害が襲いました。……(中略)…こうした中で、職員はもとより、避難中の児童、PTA、校区役員、学校へ派遣された市職員、避難室ごとの責任者等の協力や、復旧に当たっての市教委をはじめ各機関、各種団体のご支援等、忘れ得ぬ厚情の中で私たちは多くのことを学びました。
・子供たちと「水害に学ぼう」と頑 張ったこと(→耐性と主体性)
・二階に職員室等の管理室があって 良かったこと(→先人の英知)
・困った時の助け合いと協力(→近 隣愛、エゴと協力、労働)
・多くの人々の善意(→見守り、励 まし、人間愛、奉仕活動)
等々、善意に涙することが多く、人間の英知、能力を超えた自然の猛威による教訓とともに忘れえぬことであります。 …… (中略)…
 被災の方々のご自愛と災害復旧の一日も早からんことを祈念します。

 当時は職員室等が二階にあったので、学校が避難所としての役割を十分に果たすことができました。しかし現在は、職員室等の管理室が講堂があった所に移動・新築され、一階になったようです。
 あちこちにあった「9・12災害の浸水状況」の表示も、今は撤去されているようです。
 確かに、昭和63年に両満川排水機場が完成する等、内水対策や堤防改修工事も進みました。そして区画整理も行われ、島地区は住宅地域として整備されています。
 しかし、本当に「9・12豪雨災害」を忘れてしまってよいのでしょうか。

○この文章は、下記の史料・文献などをもとに、後藤征夫がまとめました。
<参考文献>
・『岐阜市史・通史編・現代』
・『岐阜市史・史料編・現代』
・『島郷土史』
・『水禍ー島小校区の水害の記録ー』

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