戦後の岐阜市学校事情

1.校舎・教室の奪い合い

 昭和20年8月20日、文部省から「9月中旬までに授業を再開するよう」との通達が出されました。しかし空襲で校舎を焼失した学校では、授業の再開のしようがありません。
 岐阜県立岐阜第一中学校(現岐阜高)では8月20日以後各学年交替出校、岐高女(現岐阜高)では9月1日始業式。それも校舎の焼け跡整理作業や「二部授業」でした。
 昭和22年1月の時点でさえも1・2年生は隔日登校という状態でした。
 国民学校においても全く同様でした。例えば京町国民学校では、戦災をまぬがれた上宮寺・願誓寺・東別院幼稚園教室などに分かれての分散授業でした。また本荘国民学校では、岐高女の焼け残り教室・三菱レーヨン寮・快楽寺・本荘神社の社務所に分かれての授業再開でした。


ー昭和21年の京町国民学校校舎ー

 戦争で学校が焼けてから、私は学校のかわりにお寺で学習しました。机がなかったので、ミカン箱を置いて畳の上に座ってやりました。男女はもう別々でなく二部授業でした。外ではひさしの下に腰を下ろして、先生の話を聞きました。算数、国語が主な学習で体育などはなく、焼け跡に畑を作り、さつま芋やなすなどを植えました。学習時間は3時間か4時間で、そのうち1時間はたいてい作業でした。
 (『私達のみた京町百年』より)

 こうした状況は戦災学校だけではありませんでした。焼失しなかった学校の校舎や教室は、多くの学校間で奪い合う状況が生じました。
 梅林国民学校では、昭和20年9月、戦災校の白山国民学校に校舎の一部を貸与。21年7月、戦災にあった岐阜地方裁判所に講堂を貸与。さらには22年4月、新制の市立第二中学校に一部教室を貸与、そして梅林校区の生徒が進学する市立第四中学校の分校として一部利用するなど、本当に大変でした。

 昭和25年梅林中学校は華陽小学校校舎を移築して独立校舎としました。また加納中学校は、旧制中学校の岐阜県立岐阜第二中学校(現加納高)を仮校舎として設立されました。 昭和22年度には、新制中学校の第五中学校と、21年度の旧制中学校の1・2年生徒を移籍した併設中学校2・3年生、そして旧制中学校4・5年生(新設高校1・2年生相当)が同じ校舎で学んでいたのです。
   ー小学校校舎を移築した梅林中学校校舎ー              

<岐阜空襲で焼失した学校>
○国民学校→京町国民学校、明徳国民学校、徹明国民学校、白山国民学校、本郷国民学校、
  本荘国民学校、木之本国民学校、、加納第二国民学校(現加納西)、島国民学校、
  合渡国民学校(旧本巣郡)
○中学・高等女学校→県立岐阜第一中学校(現岐阜高)、
  県立岐阜高等女学校(現本荘中の所)県立加納高等女学校(現附属小中)、
  私立富田高等女学校(現八ツ梅公園)
○その他→県立岐阜師範学校女子部(現附属小中)、
  県立岐阜女子医学専門学校 (現盲学校)、市立女子商業学校(現清流中)、
  市立第一工業学校(現岐南工業) 
 <焼失しなかった学校>
○国民学校→金華国民学校、梅林国民学校、華陽国民学校、日野国民学校、加納第一国民学校、
  三里国民学校、鷺山国民学校、則武国民学校、常磐国民学校、長森北国民学校、
  長森南国民学校、木田国民学校、
○中学・高等女学校→県立岐阜第二中学校(現加納高)、市立中学校(現岐阜北高)、
  市立高等女学校(現国際会議場付近)、私立佐々木高等女学校(現鶯谷中高)、
  私立済美女学校(安良田町)
○その他→県立岐阜師範学校男子部(現長良公園)、薬学専門学校(現梅林中)、岐阜聾唖学校、
  岐阜盲学校(現岐阜中央中)、附属国民学校(現附属小中)、市立農業学校(現県岐阜商付近)、
  女子専門学校(現国際会議場付近)

2.新しい教育制度に

 占領軍の教育政策は、「日本から軍国主義的色彩を払拭し、民主主義の旗の下に一挙に近代化しよう」とするものでした。昭和21年12月、文部省から発表された「六・三・三・四」の新学制も、米国教育使節団の勧告によって生まれたものでした。…それは「教育の機会均等」などを徹底させるため「前期3ヶ年(新制中学)は義務教育に、後期3ヶ年の高等学校の部分も希望者全てに開放していく」という方針によるものでした。
 しかし、敗戦直後の混乱の中で、新制中学を発足させるということは大変なことでした。激しいインフレと食糧難の下、一般大衆がタケノコ生活を余儀なくされていた中で、この新制中学を誕生させなければならなかったのです。
 そして、昭和22年3月31日学校教育法が公布され、4月に「新制中学」が発足しました。この昭和22年度は第一学年(昭和10年生まれの人)のみ義務就学で、以後、学年進行によって昭和24年度に全学年の義務制を完成させようとするものでした。

3.岐阜市の新制中学校8校建設

 昭和22年度になって、岐阜市は第一中学校から第八中学校まで、順次開校させました。
 昭和23年8月14日の朝日新聞は、「次から次へ新校舎建つ、岐阜市内新制中学」とのタイトルで、戦災校舎の復旧に加えて、新制中学建設の重荷をになった岐阜市当局と学校現場の様子を伝えています。

 昭和22年5月開校した市立岐阜第一中学校も、当然のことながら校舎がなく、空襲で焼けなかった金華小学校に併設されました。校区は金華と京町でした。
 翌23年、則武新屋敷地内に校舎建築を開始。1・3年は金華小、2年生は則武小で授業をしました。更に9月校区変更で新しく早田と則武新田が加わり、校名も「金華中学校」と変更。この間校舎建築が進められ、2年生が新校舎に入りましたが、1・3年生は金華小と女子商業学校に間借り状態でした。
 24年1月、女子商業の6教室も則武新校舎に移転。そして2月に「伊奈波中学校」と改められました。続いて4月、全ての全校生徒が一つの校舎に集まることができました。

  「通学は、忠節橋を渡って」
 私は昭和30年度から32年度の3年間、伊奈波中に通いました。伊奈波中は川北の則武にあり、自宅から3Km程もあり、とても遠かったです。私ら金華小卒の子供の中には長良橋を渡って通った子もいたそうですが、末広町に住んでいた私はぐるっと忠節橋を渡り、今の県岐商の所に出て、伊奈波中へ行っていました。
 遅刻しそうになると大変でした。そんな時は、今の金華橋の所にあった「上げ門の渡し」で、渡船に乗って長良川を渡ったのです。
 金華橋ができたのは、岐阜国体の前年の昭和39年やったと思います。だからそれまでは、長良橋か忠節橋、それとも渡船に乗るしかなかったのです。…でも渡船に乗るにはお金が必要だし、親にお金を要求するのはやっぱり嫌やし…。がんばって3年間、忠節橋経由で通学しました。 
 同じように京町の子も忠節橋を渡って伊奈波中へ通いました。そして明徳や本郷の子も、忠節橋を渡って明郷中へ行っていました。   (昭和17年生まれのYさんの話)




ー小学校校舎を移築した梅林中学校校舎ー

 昭和25年梅林中学校は華陽小学校校舎を移築して独立校舎としました。また加納中学校は、旧制中学校の岐阜県立岐阜第二中学校(現加納高)を仮校舎として設立されました。 昭和22年度には、新制中学校の第五中学校と、21年度の旧制中学校の1・2年生徒を移籍した併設中学校2・3年生、そして旧制中学校4・5年生(新設高校1・2年生相当)が同じ校舎で学んでいたのです。           

4.男女共学の始まり

 終戦までは男女は別々の学級・学校で勉強していました。「男女7歳にして席を同じゅうせず」と言われ、国民学校(小学校)から中等学校から大学まで、男女は別々でした。 しかし、戦後の昭和21年(1946)10月、文部省が「男女共学」を指令し、高校の男女共学が昭和22年(1947)2月15日に決定しました。国民学校から名前が変わった小学校も新制中学校も、男女共学となりました。

5.新制高等学校の発足と再配置


ー新制高校のフォークダンスー

 昭和23年(1948)4月、旧制中学校を母体にして新制高等学校が誕生しました。そして、発足した新制高校をもう一度統合する再配置が行われました。
 これは、「男女共学・総合制」を目的とするもので、今まで男子校だった旧制の中学校と女子校だった女学校を一つにしたのです。同時にこれは、新制高校の学校数を減らし、廃校となった校地・校舎を新制中学校の校地・校舎に移譲するためでもありました。
 そのため統合に当たっては統合高校や統合場所をめぐって問題が噴出。特に岐阜市加納地区などは卒業生を巻き込み、地元の反対を引き起こしました。
 こうして公立全日制課程52校は統合されて、一挙に31校となったのです。

6.「岐阜商業」の復活

 占領軍の教育政策によって県下の中等教育はその様相を一変したのですが、占領軍の撤退と共に旧態に戻そうとする反動的な動きが起こりました。
 例えば、高校統合によって、栄光ある「岐阜商業」の名前は一度は消え去ったのですが、これは岐阜商業卒業生にとっては耐え難いことでした。
 昭和25年(1950)1月の市議会に、単独商業高校設立の熱烈な請願がありました。そして26年(1951)4月、県立岐阜商業の建設に対する1270万円の市の負担金が可決され、富田女子高等学校の一部を仮校舎として県立岐阜商業が復活しました。


7.市立三高校の県立移管など

 今までは、岐阜市以外の郡部からも、市立高等学校・市立商業高等学校・市立工業高等学校の三校に入ることができました。
 昭和26年頃になると、高校への入学志望者が増加して「学区制撤廃」の声も大きくなりました。同時に、「市立三高校の県立移管」が問題になりました。今までの状態では、人事交 流や給与面でも県立と市立で不均等のままで、岐阜市の財政難問題等も進展しないと考えられたからです。
 しかし、三高校で約3億円という資産をそのまま県に移管することには反対する者も多く、暗礁に乗り上げた状態になっていました。
 そんな中、昭和26年(1951)11月の段階では、市の関係者は「小中は市町村で、高校は県で」という国の方針や市の諸条件を考慮しながら、「早ければ明春4月から県立移管を」という意向を持っていました。
 そして、昭和27年(1952)市議会全員協議会では、「市立高校の県立移管と共に、短大・薬大の国立移管」が全員一致で決議されました。
 しかし、県教育委員会は、「岐阜・大垣・高山の三市の学区制を緩和し、岐阜市は市立三高の県立移管を条件として四校の総合考査制をとる」という妥協案を提示しました。これに対して、「新制高校の三原則(小学区制の導入・総合性・男女共学制)」の立場に立つ校長会・PTA代表・市教育委員会は絶対反対。…一方、県知事は高校の学区制撤廃論を主張し、事態は休戦状態となりました。
 昭和29年(1954)3月、「市立高校に通学する市外生の授業料を値上げしたい」との岐阜市長及び議会からの通告があり、再び問題が燃え上がりました。

 一方、岐阜市の連合育成会は、学区変更反対の陳情文を県議会議長・県教育長に手渡し、市教委も反対運動を展開していました。
 昭和30年(1955)6月、市立三高校の県立移管と学区制の問題について、知事と市長のトップ会談が行われました。また、県教委の市教委に対する工作が再三にわたって続けられました。しかし、あくまで「現状維持での県立移管」であり、事態の進展は見られませんでした。
 ところがその後、事態は急変しました。昭和31  ー昭和24年の市立長良高等学校ー  年(1956)、岐阜市議会で「学区制撤廃による県立移管」が可決されたのです。そして、今まで小学区制を主張してきた市教委も軟化して、中学区制を認めるような要望書を県教委に提出したのです。
 こうして、昭和31年4月、市立三高校の県立移管問題は実現しました。
そして12月、「全県は2通学区制とする岐阜県公立高等学校の通学区域を定める規則」が公示されました。

8.高校増設の要望とその対応8.高校増設の要望とその対応

 市立三高校の県立移管が実現しても当時は岐阜市内での普通高校は4校しかなく、普通高校が狭き門となっていました。そのため、「岐阜市内にぜひ普通高校を」と、PTA・校長会・市教委による岐阜市高校増設委員会が活動していました。
 そんな中、昭和32年(1957)11月、岐阜タイムスが「高校増設で具体案、真福寺市所有地に、市教委が初めて打ち出す」と報道しました。岐阜市高校増設促進委員会の決議にそって市教委が作成し、県に要望したものが報道されたのです。
 一方、県当局は日本の高度経済成長の時代に対応して理数科を主とする高校の増設を考えていました。
 こうして昭和33年(1958)4月、県立岐山高等学校が開校し、続いて36年4月岐阜西工業高校が開校しました。
 この後も、普通高校志望者が増加することが見込まれ、「より多くの普通高校の増設」が求められていました。特に昭和38年のピークを控えて陳情や署名活動等が展開されました。
 そんな中、市教委・市議会文教委員会・市PTA連・市小中校長会の四者会議は、「統一要求として『一校増設』に要求を絞る。但し定員を55%増、普通高校一校増設」を、県に陳情しました。
 ところが県当局は、時代の要請する工業高校に力を入れると共に、他方では女子高の設立にも力を入れていました。そして、県は父兄の必死な高校増設の要望に対し、女子高校の新設で応えようとしました。現に、岐阜商業や大垣商業の入試には女子の志願者が殺到し、昭和37年度の入学者は女子が60%となっていました。
 そこで、昭和38年度には、定時制高校の全日制への切り替えを含めて、三つの女子高を新設しました。その一つが岐阜第一女子高校でした。
(註)平成17年、学校統合により、岐阜西工業高校と岐阜第一女子高校は岐阜総合学園高校に統合されました。

○この文章は、下記の文献を下に後藤征夫がまとめました。
<参考文献>
・「岐阜市史・通史編・現代」
・「岐阜市史・史料編・現代」
・「岐阜県市・通史編・現代」
・「岐阜県史・史料編・現代」
・「岐阜県教育史」

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