長良川の水運(江戸時代)

はじめに

 江戸時代になると、各地で城下町や門前町・宿場町などの建設が盛んに行われました。そのために必要な大量の材木が、筏に組むなどして流送されました。
 また、幕府・大名の御用物資・年貢米などの輸送のほか各地の商品生産と流通が発展し、荷舟による舟運の役割も一層拡大しました。長良川流域でも各地に川湊ができ、風で帆を膨らませた大小の舟が、頻繁に長良川を往来していたのです。





1.長良川の材木流送(桴・(いかだ)筏流し)

 郡上郡内の材木流送は、郡上藩主・遠藤常友の時代(1646〜1676)に始まったようです。新田開発を進めて検地を実施するとともに、材木を伐り出し、藩財政の立て直しを図ったのです。その政策の一環として、山林資源確保のため領民が山林に立ち入ることを禁じ、藩が独占的に材木を伐採・販売する体制を築こうとしました。

 藩内で伐り出された材木は御用材として刻印が打たれ、長良川を流送して市場に送られました。そして川筋の高原村(現・郡上市美並町砂)などの農民は「桴(いかだ)株」を与えられ、桴(いかだ)の流送に携わるようになりました。郡内においては、桴(いかだ)を組み立てることと桴(いかだ)を流送することは別の仕事とされ、分業体制が確立されていました。

 山から伐り出された材木は、川(流量や水深など)が大きくなる地点までは「管(くだ)流(ながし)」といって一本ずつ流送しました。そして、長良川と吉田川の合流点である中野村(現・郡上市八幡町稲成)で、小型の桴(いかだ)(幅約1.5m、長さ4m)にして高原(こうはら)村(現・郡上市美並町砂)まで流送。また中野村から高原村の間で伐り出した材木については、その近くで「ひろい桴(いかだ)」にしました。
 そして水量が豊富になる高原(こうはら)村では、上流から送られて来た桴(いかだ)を3枚繋ぎ合わせて、高原(こうはら)村の筏(いかだ)乗りによつて武儀郡立花村(現・美濃市立花)まで流送しました。
 ところで立花村は、流木を集める場所であるとともに郡上方面から流送されてきた桴(いかだ)(小)を組み直す場所でもあり、ここで組み直された筏(いかだ)(大)はさらに下流へ流送されました。

 美濃国の中心地・岐阜町の入口である中河原では、筏乗り手と言われる人たちによって上流から流送されて来た小さな筏がさらに大きな筏に組み直されました。そして2人の筏乗り手によって、津島・桑名・白鳥(名古屋)方面にまで流送されていきました。


2.長良川の川湊と舟運(舟荷の運送)

 この頃の長良川の川湊は、舟運可能な下田(現・郡上市美並町上田)・須原(現・美濃市洲原)・立花(現・美濃市立花)・上有知(現・美濃市上有知)・小瀬(現・関市小瀬)・芥見(現・岐阜市芥見)・長良三郷(現岐阜市長良)・岐阜中河原(現・岐阜市川原町)・河渡(現・岐阜市河渡)・墨俣(現・大垣市墨俣)などでした。
 その他、支流川の湊・土場としては、長良古川の下尻毛(現・岐阜市下尻毛)、荒田川の大野(現・岐阜市茜部大野)、武儀川の世保(現・岐阜市世保)などがありました。

 元々、長良川は金華山麓より上流は山間部ばかりで川瀬が一段ときびしく、「郡上川筋」と呼ばれていました。
 そして金華山麓より下流は、「長良川筋」(墨俣川筋・河渡川筋)と呼び分けられ、長良川の舟運によって墨俣や桑名・名古屋まで通じていました。

3.長良川水運の要・中河原湊の長良川役所

 長良川を下る筏と、上流から下流に送られる舟荷(幕府や大名の御用舟を除く)を把握し、そこから一定の役銀(税金)を徴収する役所が長良川役所でした。



ー長良川役所と付問屋があった所ー    
 

その成立年代は不明ですが、元和5(1619)年岐阜町(中河原も含む)が尾張藩に編入され、役銀を徴収する長良川役所も尾張藩が引き継ぐことになりました。これは、長良川水系の水運の支配権が幕府(美濃国代官)から尾張藩に移り、尾張藩の長良川役所、つまり岐阜町の中河原湊が長良川水運の要となったことを意味しています。
 尾張藩は、長良川の水運支配を確実なものとするため、流域の要所要所に「番所」を設け、その最重要拠点となったのが中河原の長良川役所だったのです。
  

 川を下る材木や竹、下流へ運ぶ酒、紙、茶などの舟荷と舟数、そして肥料となる灰を積んで上流へ向かう舟数をチェックして、税金を徴収しました。また商人が材木を購入して岐阜町へ揚げる場合は、通行税とは別に筏役を徴収しました。

 この長良川役所は、はじめ早田村の馬場にありましたが、長良川の流路の変動に伴って、寛永13(1636)年には岐阜町の古屋敷に接する中河原の地に移りました。これは、岐阜町寄りの井川(現在の流路)が以前に比べて大きな川になり、三つの川筋が甲乙つけ難くなりました。そのため早田村馬場では材木や荷舟の統制・把握が困難となり、三つの川筋が分流する直前の地に役所を置いた方が都合が良くなったのです。


ー長良川湊絵図(1698)ー

 川役所には尾張藩の国奉行手代・代官手代が常駐しましたが、全ての実務を担ったのは付問屋(改役)でした。江戸時代を通じて付問屋(改役)を務めたのは中河原に住む西川家で、17世紀後半からは対岸の長良の住民が加わりました。また上流から筏に組んで流されてきた材木を中河原で組み直して桑名や名古屋方面に送る筏乗り手(46人)や、岐阜町への物資の陸揚げと運送を独占的に行う小揚げ人(40人)も交代で役所に詰めて仕事を補佐しました。西川家はこの筏乗り手・小揚げ人も管理しており、材木などの輸送問屋でもありました。

中河原が独立し発展することができたのは、この長良川役所の設置が契機となって筏乗り・小揚げ人・船乗りなど水運に従事す る者が住み着くようになったからです。
 岐阜町の北の長良川端にある中河原には、岐阜から北へ向かう北美濃街道筋の渡船場があり、その対岸は長良三郷でした。「濃州q行記」(寛政年間)には、中河原の様子が次のように書かれています。
  
 「此地は元来長良川の河原にて囲い堤もなく、洪水の時は一面に水溢れり、西側町つづきにて川沿い町通り寅卯の方へさせり、町長は四町ほどあり、南は岐阜西材木町入口より長良役所の少し西の方まで家つづけり、是は長良の渡場より岐阜への入口故、諸商ひ物繁盛の地にて、此地は第一に刻多葉粉・素麺を製して他方へ多く売出せり、其外農隙には日雇かせぎなどする者も多し、町並茶屋なども軒をつらね賑わしき所也(中略)此は正保年中に町並出来追年増し(中略)今家百五十三戸、男女六百七十三人」

 なお「伊勢湾方面や長良川下流から荷物を積んで上がってくる舟荷(岐阜・加納方面やさらに長良川上流に搬送されようとする物全て=公用を除く)は、必ず鏡島湊(現・岐阜市鏡島)で荷揚げされなければならない」と定められていました。鏡島湊は長良川下流から遡上する荷舟の終点で、長良川流通の取り締まりは長良川役所と鏡島湊の二ヵ所で行われていたのです。


4.郡上川筋の舟運(上有知〜岐阜・長良)と上有知

須原谷の郡上川(長良川)に牧谷の板取川が合流し、穏やかな流れとなる所に位置する武儀郡上有知村(現・美濃市美濃)。…上有知は、和紙の一大産地として、その原料である楮の集荷場として、さらには武儀郡や郡上郡の物資の集散地として発展していました。…町には市が開かれ、各種の商問屋が繁盛していたのです。


ー上有知湊(美濃市・長尾豪さん提供)ー

慶長5年(1600)、高山城主・金森長近は、関ヶ原の合戦の功績が認められ、武儀郡の領有と武儀郡上有知(現・美濃市)への築城が認められました。これは、飛騨一円を支配する長近にとって、飛騨国から美濃国に出るためのルートとして大きな意味をもちました。 武儀郡金山村(現・下呂市金山)から見坂峠を越え、飛騨国で生産される林産物(材木や白木・榑木類)を上有知へ大量に陸送し、これらを川舟に積んで岐阜の中河原に流送しようと考えたのです。そこで上有知湊を開き、物資の運搬にあたらせる「番船」の制度をつくりました。舟株を所持する者が船主となり、各番船に属する専属の船頭たちが生まれました。
  その後、上有知村は尾張藩領となりましたが、変わらず奥美濃の商業都市として繁栄していました。


  上流の下田あたりから上有知湊へ下ってくる舟の大きさは20石積以下で、立花の人々が買い集めた炭・薪・白木・木地・天井板・竹皮などを舟積みし、上有知や岐阜、あるいは桑名・名古屋まで輸送していました。舟は30艘ほどあったようです。
 また、上有知では、木材・板・薪・炭などの他、この地方の産物として有名な酒・和紙・鎌・生糸・お茶などが積み込まれ、湊はたいへん賑わいました。

 上有知湊から岐阜・長良(中河原湊)へ通うのは30石積前後(長さ5間・幅4尺5寸)程の鵜飼形舟が多かったようです。一艘あたり3人の舟乗りで積下り、岐阜・長良で積み荷を下ろすと、海産物・塩・砂糖・呉服・太物(衣服にする木綿の布地)・灰(肥料)などの商い荷を積んで、再び3人で引き上って行きました。

 もちろん上有知方面から桑名や四日市あるいは名古屋まで行く荷舟もありましたが、ほとんどの物は岐阜・長良の問屋へ荷揚げされ、その舟は軽量の上り荷を積んで引き戻ったのです。
さらに下流の河渡や墨俣・桑名・名古屋方面に向かう舟の場合は、定められた手続きをとらなければ、下流に下ることはできませんでした。

5.長良川筋の舟運(岐阜・長良〜桑名・名古屋)と鏡島湊

 岐阜地方の湊にある舟は比較的小さなものでしたが、それでも80石積の鵜飼形舟(長9間前後・幅7尺)が行き来しており、寛政年間頃に長良三郷だけでも83艘の荷舟がありました。そしてその多くが大垣・桑名・名古屋あたりまで活動していました。


ー鏡島湊跡の説明板ー

 上り舟は、墨俣までは何とか帆をあげて登れますが、墨俣以北は舟に綱をつけて数人で引きあげなければなりません。鏡島あたりの引き揚げ人夫の行動範囲は墨俣から岐阜・長良までで、それより上は上有知方面から乗り下った舟乗りが自力で引き上っていきました。

 鏡島湊は、長良川水系で最も早くから開かれた川湊の一つてす。天正20年(1592)岐阜城主となった織田秀信(幼名は三法師。信長の孫)は、領国経営の第一歩として、様々な人を定住させて、鏡島湊に町場を築こうしました。そのため鏡島湊以外の土地に舟を着けないよう命じ、鏡島湊に対しては年貢以外の諸役を免除しました。こうして鏡島湊を物資流通の中核にしようとしたのです。


ー長良川のようす(19世紀)ー

 鏡島に目が向けられたのは、次のような理由からです。
@、鏡島は周辺に比べて土地が高いた め、洪水の被害を受けにくい。
A、鏡島より上流は古川・古々川・井 川の三つに分かれ、しかも板屋川・ 伊自良川・鳥羽川が流れ込んでいた ため流れが複雑。洪水が発生するた びに大きく変化した。(長良川の流 路が井川筋に固定するのは、元禄年 間(1688〜1704)頃。)
B、鏡島以北の川瀬の状態は上り舟が 運航するには不適当で、困難を伴う ので大変。
C、墨俣は対岸であり、岐阜に一番近 い荷揚げ場としては離れすぎ。岐阜 町の繁栄、加納方面の津としては中 山道沿いの鏡島の渡し場が最適。

 こうした自然条件と織田秀信の定めによって、鏡島湊が荷舟の着岸所として特別な位置を確保したのです。…鏡島湊で陸揚げされた物資は、主として馬の背によって長良川沿いに忠節を通って岐阜町へ中山道を通って加納城下や、関・上有知方面までも陸送されました。
   


ー長良川・荒田川・境川など(1758)ー

 関ヶ原合戦後も、鏡島湊は加納藩の御用物資から城下町の商荷物の荷揚げや積出しを独占しました。岐阜や長良に対しては、上り荷舟の湊高の上納を要求するなど規制力をもっていましたが、上有知方面からの下り舟までは規制できなかったようです。
 
 同時に、時代が進むにつれて、鏡島湊の立場はしだいに不安定なものとなっていきました。その原因の一つに、慶安3年(1650)の大洪水と川筋の堤普請に伴い、舟が鏡島湊の上流に遡航(そこう)できるようになったからです。そして元禄12年の洪水で再び井川筋へ川瀬が変わり、以後流路が固定して鏡島から岐阜・長良への舟路が短くなり運行しやすくなったからのようです。

 実際、「濃州徇行記」によれば、鏡島より上流の岐阜までも荷舟が運行していたことや、長良三郷(上福光・真福寺・中福光)に83艘の運舟があり、桑名や名古屋あたりまで運行していたこと、岐阜の長良川べりの下新町や上げ門町には舟付場があったことなどが書かれています。
つまり、江戸時代の中頃からの商品流通の発展ともあいまって、たとえ鏡島湊が独占的権益をもっていたとしても次第に切り崩され縮小されて、寛政年間(1800年頃)には岐阜・長良方面まで広範囲に、舟運が展開していました。

6.加納藩と大野湊

加納の津として独占権を保持していたと思われる鏡島湊が、荒田川沿いの加納城下に近い大野(現・岐阜市茜部大野)によってその権益をおびやかされるようになったのは、江戸幕府の成立後、約50年後の頃からです。
 慶安3年(1650)長良川から下奈良村(現・岐阜市下奈良)逆水留門樋をぬけて荒田川へ舟を乗入れ、加納に間近かの大野へ薪・炭を荷揚げすることを申請していた加納町善兵衛の願いは聞き届けられました。それ以後、大野まで舟が出入りするようになり、薪炭舟だけでなく多くの荷物舟まで舟付けされるようになりました。


ー昔は広かった荒田川(茜部大野)ー

加納の御城用・家中や城下への薪炭の輸送は譲ったものの、他の諸物資の荷揚げまでされては、鏡島湊の存立にとって一大危機です。そこで湊高上納をたてに領主に訴え、万治3年(1660)あらためて大野への薪炭舟以外の舟出入を抑止してもらいました。
 しかし、その後も大野舟着場へ薪炭舟以外の舟が荷揚げし、鏡島湊との間にたびたび争論を起こしました。その結果「御城用並みに御家中の急荷物は鏡島湊の問屋に連絡した上で大野湊へ舟荷揚げをしても良い」などの条件を残しつつ、相変わらず大野湊での荷揚げが続きました。


ー長刀堀へ通じる水路跡ー

 鏡島湊の特権を完全に崩すことは江戸時代をとおしてできませんでしたが、幕末には荒田川から大野を経て加納城の長刀堀に直通する新川が開削され、長良川から加納城下への直通ルートが開かれました。この結果、長良川の支流、荒田川沿いに位置する大野湊は加納町へも程近く、以後加納藩の保護の下、物流の中心として栄えるようになりました。


○この文章は、下記の文献を下に後藤征夫がまとめました。

<参考文献・協力者など>
・「岐阜市史・通史編・近世」(昭和56年・岐阜市)
・岐阜県郷土資料「わが郷土と長良川」(昭和45年・岐阜県教育委員会)
・定本「長良川」ー母なる川、その悠々の歴史と文化ー(2002年・郷土出版社)
・「KISSO」vol.39(平成13年7月・木曽川下流工事事務所ホームページ)
・「長良川水系の河川水運」(民俗文化・平成8年〜11年・松田千晴)
・「長良川とともにあゆむ」(平成22年・長良川展実行委員会
                   =岐阜市歴史博物館・岐阜新聞・岐阜放送)
・岐阜市歴史博物館総合展示案内「ぎふ歴史物語」(平成18年・岐阜市歴史博物館)
・「ふるさとの想い出・写真集・岐阜」(国書刊行会・丸山幸太郎・道下淳共編)
・館蔵品図録「絵はがき」(平成11年・岐阜市歴史博物館)
・美濃市ホームページ「上有知湊・夕景」(長尾デジタルフォトギャラリー)


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