昭和の柳ヶ瀬・復興から繁栄へ

はじめに

  柳ヶ瀬は大きな戦争で焼け野原になりながらも、わずか数年でみごとに復活します。そして全国的にも有数の繁華街となりました。昭和41年 には「柳ヶ瀬ブルース」という歌謡曲の大ヒットもあり、その名はさらに全国区となりました。繁栄のヒントとなるいくつかのキーワードと何人かの証言をもとに柳ヶ瀬の復興と繁栄の歴史を追ってみることにします。

1.戦前―岐阜の将来を見据えて―



-すずらん灯のともる夏の夜の柳ヶ瀬-

昭和3年  昭和に入り、全国的に起こった金融恐慌の影響で柳ヶ瀬も客足が減っていました。その再生の手段の一つとしてあげられるのがすずらん灯。柳ヶ瀬通り1丁目から4丁目の4町内にすずらん灯60基が建てられました。この8灯式を採用したのは当時の松尾国松岐阜市長で、 全国的にも珍しいものでした。直径25センチの乳白色のガラスのほやの灯が一斉に点灯されるとどんなに明るかったことでしょう。そのおかげで各店が夜遅くまで営業するようになり「柳ブラ」という言葉が生まれました。

4年  舗装工事が始まります。当時はまだ未舗装で乾けば砂ぼこり、雨が降ればぬかるみとなっていましたが、柳ヶ瀬通りから始まって、若宮町、小柳町、弥生町と5年10月までにアスファルト舗装工事が行われ完成しました。
5年6月  丸物百貨店の誘致も、松尾国松市長が岐阜の将来を見据えて行ったものでした。当然地元商店街だけでなく商工会議所も大反対。しかし柳ヶ瀬の実力者堀芳助に反対者への説得を依頼するなどして開店にこぎつけたのでした。最初は大垣共立銀行岐阜支店のビル2階から5 階までを借りてオープン。初めのころは連日1万人をこすお客で賑わったということです。


-柳ヶ瀬あたりの神田町通り-

6年  丸物百貨店は西隣の旭座(映画館)を購入して 売り場面積を広げました。前からある百貨店や小売店は影響を受けましたが12月の岐阜日日新聞には次のように記されています。「商店街はデパートにたかってくる人を引き寄せようという頭になった。今日柳ヶ瀬から丸物を消すことは、一般市民の望まないところだろう」商店街はこのように必ずしも衰えることなく丸物と共に繁栄していきました。(その丸物も20年7月の空襲で外壁だけになってしまいます。)
                     
8年   この頃になると、玉突き、射的、碁会所、マージャン荘などの遊戯場が132軒と激増した上、映画(活動写真)館、飲食店、カフェーなどの集中によって、柳ヶ瀬は急速に繁華街の様相を示すようになりました。

12年  日中戦争が始まりました。その影響で軍需景気が起こり柳ヶ瀬には兵隊であふれる時期もありましたが、生活物資の配給が徐々に厳しくなっていきます。(たとえば16年にはマッチ、17年にはとうふ、油揚げ、こんにゃくといったものまでが対象となり、衣料品は切符制で1人1年で100点――洋服上下50点、手ぬぐい3点など――とされました。)また男子は兵役にとられ、女子は軍需工場に徴用されるなど「人無し物無し」の柳ヶ瀬となりました。

2.戦後―復興を支えたもの―


 昭和20年7月9日の空襲で、半世紀にわたって築き上げられた柳ヶ瀬の街は木造家屋がほとんどであったため跡かたもなく焼失し、コンクリートの建物の外壁だけが残る瓦礫の街と化しました。


-戦後の芝居小屋・柳ヶ瀬座-

20年8月  終戦直後から木箱に戸板をのせた露店、籐製の乳母車だけの露店といった闇市(野菜、果物、魚類、それらを加工した食料品、中古を主とした衣料品、軍需品を転用・加工した日用品・雑貨)が人々の渇きをいやしていました。しかし商業活動としては丸物百貨店を応急修理して配給所とし、衣料、毛 布、石けん、砂糖などの日用品の配給業務と衣料・日 用雑貨を仕入れて販売を行う商業活動が行われていました。
9月  バラックが建ちはじめ芝居小屋が3つ(柳ヶ瀬通りの柳ヶ瀬座、演技座―青雲館の跡地、豊富座)バラック掛けで建ちました。復興の先駆けでした。   
10月  丸物百貨店は3階まで復旧して、2階で占領軍兵士が帰国に際し購入するみやげものの販売も始まりました。
11月  衆楽館がバラック掛けで開館。
11月中旬以降  露天商が恒常的な商人としての商売を始めるために、バラックではありましたが商店街を建設するようになり闇市は下火になっていきました。また露天商が組織化され一定の秩序をもった営業がされるようになりました。しかし11月24日の岐阜合同新聞は「昔に還らぬ柳ヶ瀬の商店街、望めぬ大店の復活、当分は新興勢力の露店時代」と復旧の難しさを書いています。
12月  ところが上記の新聞記事が出てまもない12月18日には岐阜合同新聞に「空き腹でも大繁盛、早くも娯楽の別天地」という興業復活の快調をたたえる記事が載りました。
21年3月  丸物百貨店は物々交換所をオープン。初日から2階だけでは狭すぎて3階に広げたくらいの盛況で、衣料と食糧の交換が75パーセントを占めました。(たとえばモーニング一揃いが砂糖3斤(1.8㎏)など)食糧不足が伺えます。第一映画館が木造本建築で復興開業しました。
8月ころ  さらに復興が進み、柳ヶ瀬一帯の店舗数286軒のうち174軒が飲食店。次いで化 粧品、アクセサリー、文房具、おもちゃ、日用雑貨の店舗の順で1日に柳ヶ瀬に落ちる金は当時20万円以上でした。映画館、劇場は10館に増え(岐阜劇場も開業)、連日満員の大入り続きでした。「(映画の)観客、各館とも日に2000~3000人下らず」(8月27日付)と岐阜タイムズは報じています。
22年10月  柳栄会主催「柳ヶ瀬祭り」開催。福引き付大売り出しや路上演芸会など多彩な行事が催され『柳ヶ瀬の復興』を市民にアピールしました。
25年ごろ  柳ヶ瀬はすっかり元の姿に戻り活気を帯びてきました。杉皮やトタン葺きの屋根を瓦に葺き替える店が出始めました。朝は8時から9時の間に店を開け、夜は10時近くまで営業をし、飲食店は11時ごろまで店を閉めませんでした。自転車預かりの店が10数軒(お客さんや柳ヶ瀬で働く従業員が預けた)、旅館も8軒ありました。


-西から見た柳ヶ瀬通り・昭和28年-

26年  丸物の全館が元通りに使用できるようになりました。

 このように、焼け残った映画館をいち早く再開させたことが戦後の復興に大きく寄与しました。つまり柳ヶ瀬の復興を支えていたのは娯楽だったのです。同時に、丸物百貨店が商店街の核となっていたことも見逃せません。
 つまり物心両面が揃った街であったからこそ飛躍的な復興がなされたのです。

3.30年代 「もう戦後ではない」―思い出の柳ヶ瀬―


 30年代に入ると「もう戦後ではない」ということばが聞かれるようになり、高度成長の時代に突入していきます。柳ヶ瀬も例外でなく経済復調の恩恵をうけました。その繁栄の姿は、次の2つの手記と4人の話が如実に表しています。

                    「昭和31年頃の岐阜市街」 
                
 -上田尚武(31年4月に就職で岐阜に赴任)-


-丸宮百貨店と丸物・昭和33年-

 
 東西を走る徹明通りと神田町通りの交差点の東寄りのところは名鉄美濃町線の起点となっていま した。西寄りの南側には十六銀行徹明支店(現在は「てつめいギャラリー」になっている)があり、その前には市民病院行きの無料バスの乗り場がありました。おおらかな時代でした。北側には「丸宮百貨店」がありました。現在の名鉄メルサのあ る場所です。そこから少し北側には「柳ヶ瀬」通り入り口のランドマーク「丸物百貨店」が繁盛しておりました。丸物百貨店の西隣りにはビクターというレストランがありました。岐阜市の土地評価基準になっていたところです。
 柳ヶ瀬本通りは岐阜市で一番賑やかな、いわゆる岐阜市の銀座通りでした。当時は駐留軍(進駐軍と呼んでいた)の兵士やその家族も交え、夜は遅くまで賑わい、不夜城の感がありました。丸物百貨店の北には3本立て低料金を看板にした映画館、豊富座が、また柳ヶ瀬の南の通りには多くの映画館がひしめいておりました。
 柳ヶ瀬の西側(凱旋道路より西側)には大人向きの歓楽街があり、「西柳ヶ瀬」といっておりました。忘年会などの後、上司が二次会と称して若い独身男性には少々刺激が強過ぎる熟年女性による生身のサービスが待っているところ、キャバレー「コマスタジアム」へ連れて行ってもらったこともありました。社会研修の一つということでした。さらに西柳ヶ瀬の西の端、真砂町通りに近いところには「まさご座」という劇場がありました。ここでは同じく上司による社会研修「ストリップショー」を最前列の席(特等席)で観賞させていただきました。上司たちはどうやって部下の教育費(?)を工面したのか、不思議に思ったものです。
 西柳ヶ瀬で当時から今も続いている老舗は「起き上がり最中(もなか)本舗」だけになってしまったように思います。この老舗の包装紙は歌川広重の描いた版画「中山道」が印刷されており、各種のお土産の中でも最中の形状・味と併せて大変好評でした。



         「昭和30年代の柳ヶ瀬と映画館」
 
       -藤垣司朗(30年初めから40年初めまで柳ヶ瀬で映画事業に携わる)-


-昭和36年の劇場通り-

 昭和30年代初めの柳ヶ瀬は、岐阜市民にとって最も愛されて親しまれた繁華街で12の映画館と、丸物百貨店を中心に食堂、喫茶、衣料、アクセサリー、玩具などいろいろな小売店の揃った市内で最も賑わった盛り場でした。
 柳ヶ瀬通りをはさんで北の小柳町、弥生町はキャバレー、居酒屋、小料理屋などが立ち並び、柳ヶ瀬のもう一つの夜の顔、キャバレーの「ショーボート、カサブランカ」、バー「シスター」、「にかく、六代目、寿し安」などの寿司屋、それにステーキの店「金鯱山」など仕事を終えた商店主、サラリーマンの癒しの場、憂さ晴らしの場とも言える街でした。
 南の日ノ出町通り、南北に通ずる劇場通りは、9つの映画館が集まる柳ヶ瀬集客の顔で、楽しい遊びの街でした。「白十字、赤と黒、瑪瑙館・・・」それに今でも常連が集まる「たつみ茶房、マルイチ」と多くの喫茶店があり、当時、モーニングサービスはなかったのですが、これらの店は多くのカップルの出会いの場となっていました。
                 
 柳ヶ瀬通りは丸物百貨店をはじめとして「たなはし、丸万、みのしげ、マルシン」そして、「江戸っ子」など呉服、洋服の専門店が並び、レストラン「ビクター」、中華の「平和園」、トンカツの「清楽」、うなぎの「なまずや」など評判の飲食店や、洋品、化粧品、文具、玩具、喫茶店等々すべての業種が揃ったこの盛り場の中心でした。


-岐阜劇場の看板-

 日曜祭日など休日ともなれば娯楽を求めて繰り出した岐阜市民や近郊からの老若男女で、柳ヶ瀬のメイン通り(柳ヶ瀬通り、日ノ出町通り、劇場通り)は、前の歩行者を追い越すのが容易でなく、時には肩がすれ合うような混雑ぶりでした。12の映画館では多少相違はあるものの、立ち見は当たり前、中には、満員のお客さまで場内に入る扉がふくらむほどでした。当時一館の座席数は400~1000席、豪華さと広さ で「陸の竜宮城」ともいわれた岐阜劇場は1500席で、立ち見を含めると、現在の入場者数との差がわかります。その岐阜劇場で入場者の最高は1日に約5000人でした。館前の宣伝看板も今と比べてとても派手で、電飾看板、動く看板などが柳ヶ瀬の雰囲気を盛り上げていました。夏の花火大会の夜には一部の映画館ではオールナイト営業を、毎週土日曜日には一般営業終了後、別の映画で12時ごろまでナイトショウを実施し、柳ヶ瀬の夜間の集客の一 翼を担っていました。
 昭和20年代後半ごろ出現したテレビは、30年代中頃からその普及速度を速め、実際に各家庭にテレビが普及したのは「昭和39年の東京オリンピック」でした。その間カラー放送も開始され、ますます「茶の間の必需品」となり、生活の中心になりました。
 「一軒に一台のカラーテレビ」の存在は映画事業に大きな影響を与え、映画を見るために柳ヶ瀬に足を運ぶ人の数も大きく減少しました。映画と共に、ショッピングなど楽しみを求めて盛り場、柳ヶ瀬に足を運ぶ市民も少なくなりました。駐車場を必要とする自動車の普及もそれに追い打ちをかけました。
 そして、昭和30年代から40年代の柳ヶ瀬は、家庭で映像が楽しめるテレビの出現、交通手段としての自動車の増加など、娯楽の多様化や、いろいろな技術の進歩など盛り場としての要件が変化し、その姿を変えてきました。
 平成22年現在、映画館はロイヤル劇場とシネックスにはいる4館、芝居小屋は豊富座のみとなっています。


-岐阜東映と人びと-

 昭和32年頃の柳ヶ瀬のようすです。(住宅地図より作製)柳ヶ瀬がいかに娯楽の街であったかを知ることができるでしょう。3年後の35年には念願のアーケード(手動式・自動式)も完成。
 映画館は柳ヶ瀬だけで12館ありました。
(1岐阜劇場、2岐阜東宝、3地下劇場、4小劇場、5満映、6満鉄会館、7岐阜東映、8岐阜日活、9衆楽館、10自由映画館、11金華劇場、12豊富座)
 喫茶店もどんどん増えていきました。キャバレー11店、バーは大小合わせて300店ありました。


・30年代高校生の頃洋画が好きで、よく映画を観に行きました。学校の映画研究クラブの券を見せると入場料が70円にしてもらえました。近くの自転車預かりでは、一回の預かり賃が20円。毎週土曜日は10時から最後の一回を上映してくれました。花火の日ともなると一晩中上映していて、花火を見終わった後映画を観てから帰る人もずいぶんいました。夜でも明るくて賑やかでした。(大橋昇治さん)
・神田町通りをバスに乗って通る時、バスから柳ヶ瀬の方を見ると黒山のひとだかりで、いつも人でいっぱいでした。(曽我部一太さん)                            
・夕方柳ヶ瀬にいる姉を迎えに行く時、姉の顔がすぐそこに見えているのに、そこまで行くのに人をかき分けないと行けないくらい人で一杯でした。お店は11時に閉めて、それからお風呂に行くという毎日でした。  (生家が神田町通りで店を構えていた山本敏子さん)
・30年代小学生だった私にとっては「柳ヶ瀬=丸物百貨店」でした。屋上にはグルグル回る飛行機や乗れる自動車がある小さな遊園地と遊戯場があり、「スマートボール」というゲーム台で遊ぶのが大好きで行くと必ず楽しみました。もう一つの記憶は食堂。柳ヶ瀬から歩いて5分ほどの所に住んでいたけれど、親たちは生きるのに一生懸命で、現代と違い家族で外食することはほとんどありませんでした。たびたび行ったわけでもないのに、いつ行っても混んでいた記憶があります。そこでも私は決まってオムライスを食べました。真ん中にケチャップがかかって、つまようじで作った日の丸の旗が立ててありました。(津田裕子)                                            

 
 以上のお話からは、柳ヶ瀬が全ての世代の人々が楽しめる種類の娯楽が集まった街として発展したことを知ることができます。当時は一宮、名古屋辺りからも柳ヶ瀬に遊びに来る人たちが大勢いました。

4.急激な変化―しのびよる陰―


-クリスマス商戦・昭和41年-

 40年代になると柳ヶ瀬はトップレベルの商店が多く、業種も豊富で、全てが揃った街の姿になっていきました。しかし30年代に普及した三種の神器(テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)が、カラーテレビ・自動車・クーラーの3つになって生活が変化し始め、車社会に移っていきます。

41年 市営金公園地下駐車場が完成しますが、柳ヶ瀬地区の駐車場問題がクローズアップされるようになります。
48年  高度経済成長がストップ。日本経済は低成長期に入り、柳ヶ瀬にも当然のように不況の影があらわれます。同時にこの頃から、郊外人口の増加、市中心部の人口減ないし人口増の停滞がみられるようになり、こうした社会情勢の変化や生活の変化が柳ヶ瀬の繁栄に”待った”をかけるようになっていきました。
52年  5月、丸物百貨店が岐阜近鉄百貨店と商号変更をします。9月岐阜劇場の跡地に岐阜高島屋がオープンしました。
      
 その後は、柳ヶ瀬に2つのデパート(近鉄と高島屋)があったのですが、時代の波には勝てず、近鉄百貨店も平成11年(1999)に閉鎖し、柳ヶ瀬の賑わいは徐々に消えていきました。

終わりに

 岐阜市民は、柳ヶ瀬のシンボルとして慣れ親しんだ「丸物」の名が無くなると知った時、寂しさだけでなく将来にものすごく不安を感じました。そして少しずつ人々は柳ヶ瀬から遠ざかり、若い世代に「華やかなりし頃の柳ヶ瀬」を逐一説明しなくてはならないほどに変容しました。

 娯楽も思考も人心も多様化してしまった昨今ですが、高齢者や車を運転しない人たちにとっては、「柳ヶ瀬」に対する思いは強まっています。それは単に「郷愁」というだけでなく、「いつでも買い物ができ、生活に必要な街・柳ヶ瀬を」「楽しく憩いのある柳ヶ瀬を」という切実な願望です。
 そんな中、柳ヶ瀬商店街の若い人たちを中心に、柳ヶ瀬を再生させるための様々な活動や試みが始まっているようです。そして最近、情報誌や新聞でも、それらの活動を紹介する記事が多く見られるようになってきました。こうした取り組みに、大いに期待したいものです。

・ この文章は、下記の文献・史料を参考にしながら、また多くの皆さんに協力いただきながら、津   田裕子がまとめました。
<参考文献・史料、協力していただいた人>
・「岐阜市史 通史編 現代」(岐阜市)
・「岐阜市史 史料編 現代」(岐阜市)
・「柳ヶ瀬百年誌」(岐阜県柳ヶ瀬商店街振興組合連合会発行)
・「ふるさと岐阜の20世紀」(道下淳著)
・「ふるさとの思い出写真集・岐阜」(丸山幸太郎・道下淳共編・図書刊行会)
・「写真集・目で見る岐阜市民の100年」(吉岡勲監修・郷土出版社)
・「図録 絵はがき」(岐阜市歴史博物館)
・羽島映画資料館の職員の皆さん
・岐阜市歴史博物館・学芸員・ボランティア仲間の皆さん

情報発信誌VIVOに掲載されました


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