御鮨街道とアユ鮨を運んだ人びと


笠松川湊跡

  愛知県と岐阜県の県境、木曽川は満々と水をたたえ、ゆるやかに流れています。その木曽川を舟が行き来していたころ、羽島郡笠松町は、川湊として栄えていました。米や塩、肥料など、生活に必要なさまざまな物資が積み おろしされていたのです。




笠松宿問屋・高島家

 この川湊からやや離れた笠松の町の中に、古くから自家製の味噌・たまりを売る高島家があります。ここは、江戸時代には笠松宿の問屋でした。宿の問屋は、人や荷物を次の宿まで送るために人足やウマを集める仕事をするところです。笠松宿の北にこの岐阜町ー加納ー笠松ー一宮ー清洲ー名古屋ー熱田を結ぶ街道は、中山道と東海道を結ぶ大切な役目をしていました。そして、この街道は「御鮨街道」とも呼ばれています。…なぜ、そのように呼ばれているのでしょうか。

アユと御鮨街道


略図「鮎鮨街道いま昔」より

 アユ鮨とは、塩漬けにしたアユにごはんをつめ、おけにつけこんでおくとご飯が発酵してすっぱくなる「なれずし」のことです。
 
 元和元年(1615)大坂夏の陣の帰途、徳川家康が岐阜に来遊し、その際食したアユ鮨を気に入り、献上を命じたと伝えられていますが、この頃からアユ鮨の幕府献上が始まったようです。元和5年(1619)岐阜町が尾張藩領となった後も、同藩を通じて献上が続けられました。
 献上アユ鮨の量や回数は年によってちがいますが、毎年5月から8月まで10度、多いときは一ヶ月に6度も送ることがありました。この時、アユ鮨を運ぶ人たちが通った街道を「御鮨街道」と呼んでいるのです。
 
 このアユ鮨をつくる家は「御鮨屋」とか「お鮨元」と呼ばれ、岐阜町の河崎喜右衛門家が代々取り仕切りました。同家は扶持米を受けるとともに、尾張藩支配となってからは、毎年藩主へ年頭のお礼とお目見えを許される、特別の格式を誇っていたといいます。
 何しろ、アユ鮨を食べる人が将軍でしたから、あやまちがあればどのような処罰が下るかも分からないだけに、その神経の使いようはそうとうのものだったと想像できます。
 
 作られたアユ鮨は、味の変わらぬうちに運ばなければなりません。およそ4、5日ぐらいが食べごろだったようです。ですから、人の足にたよるしかないこの時代に、岐阜から江戸までわずか五日間で運んだといいます。宿場ごとにリレーをし、そうとうな速さで運ばなければなりませんでした。
 では、どのような人たちが、これを運んだのでしょうか。


今も残る鮎鮨街道

アユ鮨を運んだ人たち

 このアユ鮨、岐阜より江戸御台所神谷縫殿助殿まで、急度あい届くべきものなり、元和六年申五月」といった奉書をかかげ、どの荷物よりも優先させて、宿場ごとに取り次ぎ送られていきました。それほどまでに重要な荷物であったということです。
 まずお鮨元からアユ鮨を発送する一日前に,先ぶれを出し、次の問屋へ送ります。受け取った問屋は「その通知を受け取った」という返事を送り返すほどの慎重さでした。そしていよいよアユ鮨が通るとなると、人足も15人から21人という人数で運んだといいます。
    一、アユ鮨、三荷(一荷には鮨桶が17〜18個。アユは大なら10尾、小なら20尾くらい入り)
    一、アユ鮨を荷造りした外箱のかぎ
    一、宿つぎを命じた証文(老中証文本紙)
    一、その証文の写し
    一、そえ書き(御鮨元の添え状)
    一、つぎの宿に送ったことを証明する刻付帳(宿次ぎ帳)
 これが運ばれる品々でした。


高島家に残る文書

 アユ鮨一荷に1人、交代の者を合わせると12人。証文などを持つひとりとその交代の者一人。先ぶれの人足を加えると15人にもなります。ただその人足は、年によって荷の量が変わり、一定していたわけではないようです。
 さらに荷を送り出した宿問屋は、荷くずれがなかったか、箱の底に割れ目がなかったかなどの報告書を書かねばなりませんでした。また、「宿次ぎ帳」には「よし」「おそし」と荷の到着時刻がチェックを受けるなど、輸送がきわめて厳格に行われていたようです。川が増水して遅れた場合でも、あまり言い訳など通用しかったのではないでしょうか。
 笠松宿問屋であった高島家には、今も「鮎鮨御三荷継立帳」「御鮨役人足帳」の文書が残されています。いずれも天保年間(江戸時代後期)のものですが、それはこまかな記録です。
 
 「御鮨役人足帳」を見ると、アユ鮨を笠松から一宮まで運んだ人たちの名前を、170年以上たった今もそこに読み取ることができます。元助、小助、左吉などの名前に混じって、○○妹たの、○○姉るかなど女たちの名前があります 一宮までおよそ10qの道のりを、男たちにまじって、走ったのでしょうか。
 アユ鮨を送る季節は、5月から8月までの農家の一番いそがしいときです。一回につき15人の人足をつけて、年10回としてものべ150人。…送った回数の多かった年は、どのくらいの人数になったのでしょうか。そして高島家では、これだけの人数をどのように集めたのでしょうか。
 天保3年(1832)の笠松村の戸数504軒、人2061人という数字から考えると、のべ150人以上の百姓をかり出すことは、かなりむずかしかったように思われます。女たちがかり出された背景には、農繁期で人手がなかったり、あるいは病気などの理由で出られなくて、かわりに若いむすめを出したとも考えられます。
 いずれにしても、百姓にかなり負担を強いたことはまちがいありません。

この文章は、児童文学雑誌「コボたち」1987年8月号に掲載された高木敏彦さんの文章等を、作者の了解 のもとに書き加えたり修正したりしてまとめたものです。

<参考にした本・資料・協力していただいた方>
 ・「笠松町史 上巻」
 ・「ふるさと笠松」
 ・「岐南町史 通史編」
 ・「岐南町史 史料編」
 ・「岐阜市史 通史編(近世)」
 ・「厚見郷土史  上巻」
 ・「わが街道」(建築資料研究社)
 ・第九代高島久右衛門氏(笠松町在住)
 ・(岐阜市歴史博物館)「企画展・長良川うかいミュージアム」資料 
 ・「鮎鮨街道いま昔」(高橋恒美・岐阜新聞社)

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