
| 鯉のオルフェ |
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池に水音がした。魚の尾びれが水をはねたのだ。 彼は人などめったに来ない、手入れなく荒れ果てたこのため池が気に入っていた。彼は大きな黒い鯉で、ゆうゆうと池の中を泳いだ。 7月の青々しい木々にかこまれたその池は、二、三日前には干上がりかけていて水などわずかしかなかった。それが激しい梅雨の雨によって池は水で満たされた。そんな即席の池に、今こうして立派な魚が一匹泳いでいた。 しゃらんしゃらんと鈴の音のように鳴る銀色の球体が、水面のすぐ上方に浮かんでいた。 黒い鯉はエサの虫と勘違いして、それをぱくりと口に呑んでしまった。銀色のものは鯉の口の中で言った。 「鯉さん、わたしは虫ではありません。魚です。正確にはかつて魚だったもの。魚の魂です」 鯉は口の中のものの声におどろいて、それを吐き出そうとした。 「口を開かないで!わたしが消えてしまう」 鯉は口をつぐんだ。 そして、 何が望みなんだ? と考えた。 「鯉さん、わたしはあなたがもと来た龍宮に帰りたいのです」 鯉は合点すると、池の奥深く、水を潜りはじめた。 「わたし達は皆、龍宮より分けられた魂。死して後にはまたそこに戻りたいのです」 鯉は銀色のものの話に耳をかたむけた。 「わたしは水瓶で人に飼われる、小さな銀の背をした魚でした。兄弟もなく、同居するものもなく一匹ぼっちでした。そしてある日、その水瓶で死んだのです」 銀色のものは、澄んだ声で物語り続けた。 「私は思うのです。わたしはその水瓶で生まれて死んで、ほの暗い水の中以外、そとの世界を知らずにいました。仲間と語らうこともなく、さみしくその生を終えたのです。わたしの生はいったいなんだったのか。どんな意味も価値もなかったのか・・・・・・」 「それは違う!!」 そこで、鯉は思わず力強く声を発してしまった。同時に銀色のものは彼の口から飛び出していった。 それは勢いづいて水面へと昇っていく。 鯉は急いでそのあとを追いかけた。流線型の彼の体のまわりに、水流が生じた。 「待ってくれ」 銀色のものはしゃらんしゃらんと音を立てながら、浮かび上がっていった。 「いいえ、いいんです。鯉さん。わたしはこのまま水上で砕けてしまうでしょう。でも、それでも、時が経てばまた魂は一つに凝固する。そのとき、きっともう一度あなたにお会いしたいな」 鯉はけっきょく銀色のものに追いつくことは出来なかった。銀色のものは水中から空気中にはじけて、霧散した。 黒い鯉はため息のように泡を吐いた。それから、静かになった池の表面に顔を出した。 「おい、聞いてるか。この世に何の意味も価値もない命なんて一つもないんだ。俺は何度でもお前を迎えに来てやる。そして絶対に龍宮に連れ戻してやる。そこは水底の魚霊の国だ。もうお前はさみしくなんかないぞ」 鯉は、銀色のものの消えてしまった空中にだみ声でそう言い放つと、水に沈んでいった。 それから梅雨が終わって池の水がひいて、彼が棲めなくなるまで黒い鯉はその池にとどまり続けた。そして水が干あがりはじめた時、名残惜しそうに水底の泥のなかに沈み、この池を龍宮に去っていった。 | ||
(おわり) | ||
童話 |