
| 雨の出口 | ||
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夏用の白いセーラーの衿をひるがえしながら、水月は駆け足で家路を急いでいた。水月の手も足もまだすらりと伸びていて、女性独特の曲線を、中学生の彼女は持ちあわせていなかった。 空のぐずる音。見上げた空は、今にも雨が降り出しそうだ。 田舎の一本道とはいえ、自宅まで大分ある。 道の両脇にある林の、木々の葉の上に、雨粒があたる音が響いた。にわかに雨が降り出してきた。 このままじゃ下着までずぶ濡れになりそう。そう思って水月は、唇をきっと結んだ。カバンを脇に抱えて、全力疾走の構えをとった。 その時、車なんてほとんど通らない田舎の道に、背後から車のエンジン音が聞こえた。水月は何気なく振り返り、その構えのまま、誰だろうとその車を見た。見覚えのある軽自動車だった。構えていた腕を下ろした。棒立ちになった水月の前に、車が停車する。 「お兄ちゃんかあ」 兄は運転席から腕を伸ばし、助手席側のロックを外した。 「早く乗れ」 水月は運転席の兄の隣りに乗り込んだ。兄が車を発進させた。 「あんまシート濡らすなよ。おれの車だぞ。汚したら後で拭いとけよな」 男の癖に細かい事を言う兄に、水月は辟易した。どうせなら、父か母の車に拾われたかったもんだと思う。 「お前、今帰りか?」 「お兄ちゃんこそ」 「晩から人と約束があるから、今から帰って仮眠する」 「大学生って暇なんだねえ」 「中学生に言われたかない」 車の外は大降りになってきていた。大粒の雨の雫が、車の窓ガラスにあたっては砕ける。兄との会話はなんとなく途絶え、水月は、雨の打つ窓を、ぼんやり見つめていた。 ふと、水月はすぐ左の窓に、人の手形を見つけた。雨降りの湿った空気のせいで、内側から曇った窓ガラスに浮かぶ、今まさに誰かが手を置いてつけたような、手形。 自分のバイト代と貯金をはたいてこの車を買った兄は、いつも神経質に車の外も内もぴかぴかにしている。窓ガラスに手形が残ってるなんて、兄らしからぬことだった。何気なく自分の手のひらを、窓の手形に比べてみる。随分小さい。子供よりもっと小さく、赤ん坊の手のひらの跡みたいだった。 「お兄ちゃん、これ何。この手のひらの跡。最近、赤ちゃんでも乗せたの?」 水月が振り向いて見た兄の横顔は、おそろしく無表情だった。間があって、兄が答えた。 「いや。そんな覚えはない」 いつもと違う空気の重さを持つ兄に、不信感がわいて、水月は兄の横顔をまじまじと見た。その時、水月の目線の先、兄の横顔の真後ろの窓ガラスに、手形がひとりでに浮きだしてきた。 「うそ」 水月は信じられない光景を見て、背筋が凍った。この目の前であの手形が窓についたのだ。兄は水月にわからないように、一瞬眉をひそめた。それから水月にも、自分の右隣の窓にも、振り返りもせず低い声で言った。 「わめくなよ。ハンドルきりそこねるぞ」 水月は黙ってうなずいた。そしておずおずと訊いた。 「なんだったの。あれ」 兄は答えない。 わき目もふらず、運転している。水月はうつむいて思う。 あれは自分の見間違いだったかも。 沈黙が続き、車のタイヤが雨水を跳ね上げる音だけがした。しばらくして、水月は髪を横から引っ張られた。 「今日は何でこんなことするの、お兄ちゃん」 驚いて兄を見るが、兄はハンドルに両手をとられている。今、髪を引っ張るこの手は、兄の手ではない。手を払いのけたつもりが、手ごたえを感じない。じゃあ、誰が。水月は頭を振って、その誰かを探した。 「これだ」 兄が今日は重い口を開いた。右手でハンドルを持ち、もう一方の手で何かをつかんでいた。小さな赤ん坊の、ひじから手のひらまでの部分だった。そこだけだった。人間の人体のたった一部分。それはマネキンや人形の手ではなく、人の肌の湿った感触を持っていた。水月は絶叫した。今度は兄も不平を言わなかった。 車が、トンネルの入り口に入った。車内は暗がりになった。水月はおびえて小さくなってふるえていた。 「トンネルを抜けたら、これは窓から捨てる。いいな?これは人の死体の一部とか、そんなのじゃない。捨てても問題はない」 冷静沈着な口調で兄が言った。 家の近くの短いはずのトンネルなのに、なかなか抜けない。水月は出口を今か今かと待ち構えた。それ、を視界に入れたくなくて運転席のそっぽを向く。 光が見えた。とたんに、トンネルを抜けた。トンネルの出口はどしゃ降りの雨だった。 窓を開ける音、そして一瞬、雨風が吹き込んできた。あれを捨てたらしい。 「水月。あれ、にも俺に何か、言いたいことがあったのかもしれない。でも俺だけがどうして、そういうものが見えるからって理由だけで、あいつ等の言うことをいちいち聞いてやらなくちゃいけないんだ。普段からあれ、を見たって、俺は気にしないようにしてる」 兄が前だけを見据えて言った。 普段からということは、お兄ちゃんの周りではあんなものがよく出るということなんだ。 そう思い当たって、水月はぞっとした。兄を見る。冷たく不機嫌な横顔をしていた。水月にとって、今はその兄こそが、知らない世界の住人みたいに見えはじめていた。 | ||
| (おわり) | ||
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