第7章 ウィルバーのポストモダニズム解釈は妥当か

――ジェフ・マイアーホッフの批判

 これまでに取り上げました、スミス、ゴッダード、エドワーズといったウィルバー・コスモロジーの批判者達のエッセイをそもそも私が読む気になったのは、ジェフ・マイアーホッフの『途方もない野望』(Jeff Meyerhoff, Bald Ambition : A Critique of Ken Wilber’s Theory of Everything, Inside the Curtain Press, 2010)という本の中で彼らの考えが紹介されていたからでした。彼らの批判は、ウィルバー・コスモロジーにおいて提示されている四象限およびホロン階層という大枠と、そこにあてはめられている学問的な研究成果で構成される構造に関して、その妥当性や整合性の如何を考察するものでした。しかしながらマイアーホッフの本には、そういったコスモロジーそのものに関すること以外に、その背景にある、ポストモダニズムと称される思想についてのウィルバーの解釈や、指向的一般論の使用というコスモロジー創造の方法論についての、批判的考察も含まれています。それらについてこれから検討してみたいと思います。(「指向的一般論」は ‘orienting generalizations’ の訳です。通常「志向的一般化」と訳されていますが、第1章で述べたような理由から、本稿では引用文中以外では「指向的一般論」と訳しています)。
 今回はポストモダニズムについてのウィルバーの解釈を取り上げますが、次のような結論を得ることになります。
・ウィルバーは極端な形態のポストモダニズムを厳しく糾弾するが、その一方でポストモダニズムの本来の深みを適切に紹介していない。
・ウィルバーによるポストモダニズムの解釈は、文脈がホロン階層構造を持つという彼独特の仮定も含んでおり、そこから結論される、視点の相対性における絶対性という考えは明白な間違いである。彼の場合、全てはホロン階層のもとにあるという特異な視点を、合理的な根拠なく絶対化してポストモダニズムの核となる要素にしていることが混乱のそもそもの原因となっている。

ポストモダニズムの三つの中核

 ウィルバーは、ほとんどのポストモダニズム的手法は、「言語は単なる所与の世界の表象ではなく、世界の創造と構成に携わっている」(Ken Wilber, Integral Psychology, Shambhala, 2000, p.164)という哲学の言語的転回に関わっているとし、以下の三つの仮定をポストモダニズムの中核だとしています。

1. リアリティは全くの所与ではなく、いくつかの重要な仕方において構成、解釈である(この見解はしばしば構成主義(構築主義)constructivismと呼ばれる)。リアリティは全く所与であり、部分的にも構成されたものではないという信念は、「所与の神話」と呼ばれる。
2. 意味は文脈依存的であり、文脈には限りがない(これはしばしば文脈主義contextualismと呼ばれる)。
3. 認識は従って、いかなる単一の視点も不当に優先すべきではない(これは統合的-非視点主義integral-aperspectivismと呼ばれる)。
                          (Integral Psychology, p.163)

 ウィルバーが構成主義と呼ぶ仮定1は、客観的対象あるいは客観的事実などの、私たちがリアリティと考えているものが、所与でそれ自体としてあるのではなく、私たちの主観的な解釈を含んだものであり、そういう意味では構成されたり、創造されたりしている側面があるという主張です。ウィルバーはこの考えを土台にして、仮定2の文脈主義、仮定3の統合的非視点主義へと、ポストモダニズムとは何かということに関する彼の見解を展開していきます。

文脈主義

 仮定2で述べられている文脈主義の考えは、私たちの主観的な解釈で使われている言葉の意味は、実は「私たちが意識的にはほとんど知ることのない、背景となる(文化的)文脈のネットワークによって創られている」(Integral Psychology, p.166)というものです。さらにウィルバーは、「脱構築は、意味の文脈的決定と文脈の無限な拡張可能性という、対となる原理に同一視できる」(同 p.166)というジョナサン・カーラーJonathan Cullerの言葉を引用したり、「私は常に現在の意味を変えるだろうさらなる文脈を想像できる」(同 p.166)と自ら述べたりして、文脈の限りない拡張可能性を主張します。そうして、ハーバーマスの次のような叙述を引用し、文脈の無際限性から文脈の制御不可能性が帰結すると主張します。

 意味を変化させる文脈のヴァリエーションを全て捕捉したりコントロールすることは原則的にできない。文脈をすべて挙げ尽くすことができないからだ。すなわち理論的に言って、文脈をすべてと言えるまで読みつくすことができないのである。(『進化の構造1』、松永太郎訳、春秋社、1998年、p.67)

 以上の文脈主義の考えは、私にはもっとだと思えます。しかしウィルバーは、そのような一般的な解釈から一歩踏み込み、次のような主張もすることになります。

 私が述べてきたように、リアリティは、ホロンの内のホロンの内のホロンというような無際限なあり方をしており、何ら認識できる底も頂もないというまさにその故に、文脈には終りがないのである。今現在の宇宙全体でさえ、次の瞬間の宇宙の部分にすぎない。全ての全体は常に、無際限に部分なのである。そしてそれ故に全ての考え得る文脈は無限である。コスモスがホロン的であるということは、それは上でも下でもどこまで行っても文脈だということである。(Integral Psychology, p.166)

 すなわちウィルバーは、コスモス(外面も内面も含んだ宇宙)がホロン階層的に存在していることから、文脈も、ホロン階層的な、含んで超えるという非対称な一つの系列を成しているという、特異な見解を採ってしまっているのです。この見解のもとでは、非対称な文脈の系列に含まれない文脈、あるいはその系列に並列する別の文脈の系列、などが存在する可能性は除外されています。「今現在の宇宙全体でさえ、次の瞬間の宇宙の部分にすぎない」とウィルバーは述べていますが、現在の宇宙が過去の全てを含み、失われたものは全くないという仮定をそもそも無批判に受け入れていいものなのでしょうか。そこでは、過去は視点から独立して定まっていて変えようがないという、それこそポストモダニズムが批判している所与のリアリティが前提とされてしまっているのではないでしょうか?
 この特異な見解についてはまた論じることにしますが、一般的な文脈主義の考えは、ウィルバーによって仮定3の統合的-非視点主義へと展開されていきます。

統合的-非視点主義

 普段私は、漠然とではありますが、どこまでも広がる一様な空間と、既に終わった過去から未だ見ぬ未来へと進む時間という概念の枠組みで環境を捉えています。視点とは、例えばこのような、認識の枠組みとなる概念図式と解することもできると思います。そして概念の意味は文脈に依存し、また文脈は無際限に多様だとする文脈主義からすれば、当然視点も無際限に多様であることになるのでしょう。ウィルバーは、そのことを多視点的な認識の必要性へとつなげていきます。

 意味が文脈依存的であるという事実――文脈主義とも言われるポストモダニズムの二つ目の重要な真理――は、リアリティに対する多視点的なアプローチが必要とされることを意味する。いかなる単独の視点も部分的で制限的、そしておそらく歪められたものであろうから、多様な視点と多様な文脈とを尊重することによってのみ、知識の探求は実り豊かに前進させられ得るのだ。そしてこの「多様性」は、一般的なポストモダンの三番目の重要な真理なのである。(Integral Psychology, p.167)

 文脈が、そして視点が多様であるなら、それらの多様性を尊重する多視点主義、あるいは多文化主義の主張はもっともであると思います。ただウィルバーは、その一般的な見解に、ジーン・ゲブザーのやや特異な考えを結びつけてしまいます。

 既に世界観との関連で私たちが知ることになったジーン・ゲブザーは、この多元的あるいは多視点的な見方を指す統合的-非視点的という用語を創った。それを私はヴィジョン・ロジックあるいはネットワーク・ロジックとも言う。「非視点」はどの単独の視点も優先されることはないことを意味し、そうであるから、より全体論的そして統合的な見解を得るには、私たちは非視点的なアプローチを必要とするということであり、それがまさに、ゲブザーが通常integral-aperspective(統合的-非視点的)とハイフンで結ぶ理由なのである。(Integral Psychology p.167)

 すでに述べましたように、ポストモダニズムでは多様な視点の存在を重視するので、それらを参照することが、知を前進させる助けになると考えるのはもっともだと思うのですが、今引用した部分では、どの単独の視点も優先されることはないと主張し、しかしながらそれらを統合的な見解にまとめることができるという、ポストモダニズムとしてはやや特異な、矛盾とも思える見解をウィルバーが持っている様子がうかがえます。

極端な形態のポストモダニズムとそれに対するウィルバーの否定的評価

 ウィルバーの考えるポストモダニズムを、その特異な見解は別としてごく大雑把に捉えますと、世界の見え方は、個人の特性や文化的背景に左右される視点に依存しており、主観から完全に独立した客観的リアリティとか、文化的背景の多様性から独立した普遍的な視点とかを、無批判に設定することはできないということになるでしょう。
 例えば、プラトンのように理想的なイデアという存在を設定したり、素朴な科学的物質主義のように主観から完全に独立した所与の客観的物質的対象を設定したり、カントのように認識におけるアプリオリな枠組みである時間や空間などの主観的直観を設定したり、あるいはレヴィ・ストロースやピアジェら構造主義者のように諸文化に共通する普遍的構造を設定したりする、何らかの種類の絶対主義的な見解に対して、相対主義的な異議を唱えるのがポストモダニズムなのだと思います。ウィルバーはこのポストモダニズムが極端に走った場合にどのような主張に至るかについても述べ、否定的に評価していくことになります。
 仮定1における、リアリティの解釈による構成的側面が極端に強調される場合には、リアリティは完全に解釈に還元され消え去ってしまうとウィルバーは述べています。

 極端なポストモダニストは単に解釈の重要性を強調するだけでなく、彼らは、リアリティは解釈に他ならないと主張する。……解釈というコスモスの重要な特徴は存在における唯一の特徴にされる。客観的な真理それ自体は、権力、ジェンダー、人種、イデオロギー、人間中心主義、……によって押し付けられているとされ、任意の解釈へと消え去ってしまう。(Integral Psychology, p.163)

 ウィルバーは、モダニズムにおける科学的物質主義は、全てを客観的な物質に還元する見解(フラットランドと彼が呼ぶ世界観)を持ち、結局全ては価値なきものにすぎないとする虚無主義に至るとして否定的に評価しています。上記の極端なポストモダニズムは、そのような見解の反動とも言うべきもので、全てを主観的な解釈に還元してしまい、これもウィルバーは否定的に評価しています。それに私は賛同します。主観と客観とは相補的な概念であり、一方にのみ還元するということは本来矛盾していると思うからです。
 次に、仮定1の構成主義、仮定2の文脈主義の流れから導かれる仮定3の統合的な非視点主義は、極端にとられると、いかなる視点も他のいかなる視点よりもよいとは言えないという主張になってしまうとウィルバーは言います。

 極端なポストモダニズムは、全ての視点は公正な発言の機会を与えられる必要があるという気高い洞察から、どんな視点も、他のいかなる視点に対してもよりよいわけではないという自己矛盾的な信念にまで行ってしまう(彼ら自身の信念は他の選択肢よりはるかに良いとされるので自己矛盾的である)。このように、平板な領域(フラットランド)での強烈な重力のもとでは、統合的・非視点主義的な気づきは、単に非視点的狂気――他のいかなる信念よりも良い信念は全くないという自己矛盾的な信念――全てが正確に同じ深度、すなわち深度0を与えられた何百万の視点に直面しての、思考、意志、そして行動の全くの麻痺に陥ってしまう。(Integral Psychology, p.170)

 全ての視点が同等であると断定するのが相対主義であるなら、その相対主義自体は他のどの視点よりも優越している視点だと主張していることになり、確かに自己矛盾の論法が成立すると思います。
 以上のように、極端なポストモダニズムに関しての彼の批判自体は私には妥当なものに思われるのですが、マイアーホッフは、そのような極端なポストモダニズムを主張している者はほとんどいないのに、ウィルバーは執拗に論じ、時には不当にも著名な論者に極端なポストモダニストの濡れ衣を着せて攻撃していると批判します。

極端なポストモダニズムを過度に攻撃するウィルバーに対する批判

 マイアーホッフは、ウィルバーが攻撃する極端なポストモダニズムの相対主義について、ポストモダニズムの代表的な哲学者リチャード・ローティが、「ふつう誰もこのような見解を支持しない」と述べていることを紹介します。そして、そのようなほとんどいそうもない者をウィルバーが執拗に攻撃し、時にはスティーヴン・カッツ(Steven Katz)やスタンリー・フィッシュ(Stanley Fish)といった思想家を、軽はずみにも極端なポストモダニストとみなし、得意の自己矛盾の論法で攻撃してさえいると批判しています。例えばカッツに関するウィルバーの攻撃を簡単にまとめますと次のようになります。

 全ての経験は、言語、文化的背景、精神的概念などによって媒介されているのだから、神秘家が、直接の、無媒介の、リアリティの経験を得ると主張することはできないとカッツは言明する。ここで彼は、神秘家の経験も含めた全ての経験の文化横断的な普遍性を否定しているのだが、しかしながら自らの思考体験に基づく「全ての経験は媒介されている」という考えは文化横断的に普遍的であると主張しているのだから自己矛盾に陥っている。

 おおよそこのようにウィルバーはカッツを攻撃するのですが、しかしその際、カッツが自分の言明は一つの認識論的言明であると述べていることをウィルバーは無視しているとマイアーホッフは指摘します。ある批評家は、認識論的言明であるのだから、カッツの提案は事実以前のアプリオリな仮定あるいは絶対的真理として理解される必要はなく、経験的な証拠にその妥当性が依存するアポステリオリな作業仮説として理解され得ると言います。そうであれば、ウィルバーのような攻撃は的外れなものになります。(カッツに関してはBald Ambition, pp.146~148およびMysticism and Philosophical Analysis, edited by Steven T. Katz, p.26、フィッシュに関してはBald Ambition, p.158を参照して下さい)。
 ローティが述べているように、極端なポストモダニズムにおける相対主義を支持している思想家はほとんどいないと本当に言えるのかどうか、私には定かではありません。ですから、少々執拗であっても、ウィルバーが極端なポストモダニズムに対して否定的な批判をすること自体は特に問題とは感じません。とは言うものの、カッツのような、妥当なポストモダニズムの立場から神秘主義の普遍性に対する疑問を呈する思想家に、言われなき自己矛盾の非難をウィルバーが浴びせかけていることは、マイアーホッフの言う通りで非難に値すると思います。しかし私がそれよりも問題だと思うのは、ウィルバーが、極端なポストモダニズムに対する攻撃を執拗に繰り返す一方で、そのような批判が当てはまらない代表的なポストモダニズム思想の方は掘り下げて紹介してくれていないことです。私にはそれこそが、読者にポストモダニズムに関する軽はずみな偏見を植え付けるという実害をもたらす、より強く非難すべきことだと思えるのです。そこで、先ほども名前が出ましたポストモダニズムの代表的な哲学者であるリチャード・ローティの考えの一端をご紹介し、ウィルバーが明確にしないポストモダニズムの側面を見ていきたいと思います。まずはローティの、先ほどマイアーホッフが紹介していた部分を含む叙述を、相当長くなりますが引用してみます。


 「相対主義」とは、次のような見解である。すなわちそれは、あるトピック――おそらくどんなトピックでもかまわないが――についての信念はそれがどんなものであれ、そのトピックをめぐる他のすべての信念と同じくらいによいものであると考える見解である。ふつうだれもこのような見解を支持しない。……「相対主義者」と呼ばれる哲学者とは、そうした対立する意見を選択する根拠が、考えられてきたほど計算可能なものではないと主張する人々のことである。だれかが、物理的科学の理論選択の規準は用語のしたしみやすさにあるとか、社会哲学の規準は存続し続けている議会制民主主義の制度への適合性にあると主張するならば、その人物は相対主義者として攻撃されることになるだろう。というのもこういった規準が引き合いにだされるとき、批判者たちは、そこから帰結する哲学的立場に従えば、「われわれの概念的枠組み」、「われわれの目的」、「われわれの制度」の優越性が正当化されなくなってしまうと指摘するのである。言い換えれば、彼らは、この立場は哲学者が本来果たすべきことを果たしていないとして批判するのである。この立場は、われわれの枠組み、文化、関心、言語、あるいはその他のすべてが――物理的現実、道徳律、実数、あるいは他の種類の模写されるのをじっと待っている諸対象と対応することによって――究極的になぜ正しい方向にあるのかを説明しようとしていないのである。とすると、問題の真の所在は、あるひとつの見解と他のもうひとつの見解をともに同じようによいと考える人々と、そうは考えない人々との間にあるのではないことになる。そうではなく、それはわれわれの文化、目的、制度が、対話によって以外では支えられえないと考える人々と、他の種類の支えにいまだ望みを託している人々との間にあるのである。
 相対主義というものがかりに存在するとすれば、もちろん彼らを論駁することはやさしい。ソクラテスがプロタゴラスにつかった自己言及的論法を応用しさえすればよいのである。しかしそういったうまくできたちょっとした対話術的戦略は、簡単にスケッチされただけの架空の人物にしかききめはあるまい。相対主義者は、深刻に対立しているさまざまの信念の選択肢に決着をつけることができるとすれば、それは「非合理的」で「非認知的」な考察によってしか可能ではないと主張する。このとき、このように言う相対主義者はまさに、独我論者、懐疑論者、道徳的ニヒリストたちと同じ空想の王国にすむ、プラトン主義的、カント主義的哲学者たちの想像上の遊び仲間となるだろう。(『プラグマティズムの帰結』、リチャード・ローティ、室井尚他訳、筑摩書房、2014、p.456~457)

……誰かがたとえばニュートン時代に関する純粋悟性のカテゴリー表を発見したとする。ところがたちどころに誰かが、こんどはアリストテレスかアインシュタインの時代にぴったりあう別のリストをつくりだす。ただちに今度は、ちがう誰かが人喰い人種にぴったりの命法を考え出す。またあるいは、誰かがわれわれの科学がなぜこのようによいものであるのかを説明してくれる進化論的認識論を展開したとする。とするとすぐさま誰かが、目の飛び出た奇怪な進化論的認識論学者についてのSF小説を書く。……こういった一連のゲームを演じていくのはいともたやすい。というのも、こういった哲学的理論のどれも、そんなに難しい仕事を必要としているわけではないからである。本当の仕事は、すでに科学者と社会によってなされてしまっている。実際科学者たちこそが、忍耐と天才によって説明的理論を発展させてきたのであり、社会こそが闘争と苦難の中から道徳と制度を発展させてきたのである。プラトン的にしろカント的にしろ、哲学者のやっていることと言えば、このすでに完了した第一レベルの成果をとりあげ、抽象のレベルをいくぶんか引き上げ、彼らの発明した形而上学的、認識論的、意味論的ボキャブラリーに翻案してみせることにすぎない。それを彼らは、この第一次レベルの成果を基礎づけたといって宣言するわけなのだ。……われわれが本当に関心をもっているのは、具体的で細かなコスモロジーや政治的変革のための具体的で詳細な提案のさまざまの選択肢に関してなのである。そのような選択肢のひとつが提案されるとき、われわれが論争するのは、カテゴリーや原理の観点からではない。その選択肢がもっている、さまざまな具体的メリット、デメリットの観点からである。プラトン的、カント的哲学者が相対主義を非常にしばしば問題にするのは、哲学的理論――第一次レベルの理論を「基礎づけよう」とする企て――について相対主義的であることは、第一次レベルの理論そのものについても相対主義的であることにつながると考えているからである。ある理論の価値が、その理論に関する哲学的基礎づけの価値に依存していると本気で信ずるならば、そのときはなるほど哲学的理論に関する相対主義が乗り越えられるときまで、物理学やデモクラシーは疑わしいものでありつづけることになろう。しかしさいわいにもほとんど誰も、そんなことを信じてはいないのである。(同、p.458~460)

 「相対主義というものがかりに存在するとすれば、もちろん彼らを論駁することはやさしい。ソクラテスがプロタゴラスにつかった自己言及的論法を応用しさえすればよいのである。しかしそういったうまくできたちょっとした対話術的戦略は、簡単にスケッチされただけの架空の人物にしかききめはあるまい」と述べられていることが、すなわちウィルバーが極端なポストモダニズムの相対主義に対して行っている種類の攻撃のあり方なのです。それに対して、ローティのようなポストモダニストが主張しているのは、われわれの「文化、目的、制度」は対話によって支えられ得るのであり、相対主義も含まれる競合するいずれかの信念が究極で絶対的なものであることを追求する「非合理的」で「非理知的」な考察でしか決着をつけられないとする哲学的伝統にさほどの重要性をもはや見ないということなのです。たとえば科学的探究は、科学を物質的な所与のリアリティの探究とみるか、あるいは人間の認識能力の制限のもとでのモデルの探究にすぎないと見るか、どちらのように基礎づけるのかとは別に発展しています。ローティが言っているのは、どのような基礎づけが究極であるのか探求すべきではないということではなく、そういうことにそれほどの重要性を見なくてもよいという態度をとることなのです。ローティ、そして多くのポストモダニズムの思想家らの主張には、ウィルバーがまとめているような表面的主張の背後に、このような、へたに相対主義の立場を主張するとありきたりの自己言及的な非難をされてしまう西洋的な哲学的伝統自体を脱却しようとする深みがあるように思えます。ローティなどの思想にも十分に触れていたはずのウィルバーが、そのようなポストモダニズムの側面に言及しないこと、そして前回述べましたように、ヴィトゲンシュタインの思想に十分に触れていたはずのウィルバーがヴィトゲンシュタインの考えの深みに立ち入ろうとしていないこと、それらを考え合わせますと、彼の思索は、他者の思想を意図的に類型化し、エロスという進化へのコスモス的な意志や、純粋な自己の発展形であるコスモス的な自己などの、自らのコスモロジーが含む超越的存在の重要性に異議を唱えるような部分を避けていると思えてなりません。

ウィルバー独自の文脈主義による文化多元主義批判

 ウィルバーは、彼がポストモダニズムの二番目の要素とする文脈主義において、独自の解釈を付け加えていると私は指摘しました。それは、文脈はホロン階層的な含んで超えるという非対称な一つの系列を成していて、その系列は、包括性が増加する方向にも減少する方向にも果てしがないというものです。その果てしのなさ故に、全ての文脈に共通に含まれる究極の文脈、文化、視点はないことになります。ウィルバーはポストモダニズムにおける多文化主義は、この文脈のホロン階層的なあり方を理解できていないと主張し批判します。

 ……多文化主義は、非視点的-統合構造へ移行しようとする高貴な企てであるが、しかし多くのポストモダン、ポスト構造主義と同じように、どの視点も最終的ではないという事実と、どの視点も単に平等であるという観念とを完全に混同してしまっているのである。そのため文化多元主義は、実際に、自分より狭い視点はすべて拒否するという自分自身の立場を見逃している(これこそすべての視点が平等ではないということを明らかに示している)。
 つまり、文化多元主義は「究極の立場はない」ということから「すべての立場は同じように受容されるべきである」という立場に退行し、そのため自分自身の正確な判断、すなわちより狭い視点、より小さな視点は受容できないという判断を抑圧するか否定してしまっている。彼らは非視点的な空間をかいま見たが、全てのコンテクストが上下運動を行っているめまいのするようなホロン空間で、完全に見当を失ってしまい、コンテクストが滑走していても、あるコンテクストは、より包容力の小さなコンテクストよりは相対的にましであることを否定するものではない、ということを見逃してしまったのだ。
 すべてが相対的である、ということはすべてが同じで、他のものより良いものは何もない、ということにはならない。すべてが相対的であるということは、あるものはつねに、実際、相対的にほかのものより良いのである。原子や分子が宇宙の最終的な、あるいは究極の構成物ではない。にもかかわらず、つねに分子は原子をより深い文脈のなかに包含する。……この相対性のなかの安定性によって、文化多元主義者は正しい判断(狭い心による非寛容性よりは多元的な寛容性のほうがいいという)を行ったのである。彼らの理論によっては自分たちの立場を説明できない。実際、その理論が自分たちの立場を否定しているからである。
 文化多元主義者は、相対的な判断の確実性を見逃したため、非視点的な空間のなかで迷子になり、自分たち自身の立場の統合的な部分、普遍的な部分を見逃してしまったのである。そのため、しばしば自分たちの立場の統合性を破壊する偶像破壊的な差異の反乱に退行してしまう。(『進化の構造1』、p.319~320)

 以上のような見解からしますと、視点あるいは文化は、含んで超えてより良いものになるというホロン階層における進化の方向性をもっており、そのために、現在のところもっとも進化したヴィジョン・ロジックという認識能力(視点)によって構成された世界観の一つであるウィルバー・コスモロジーが、究極によいとは言えないまでも、現在のところ最もよい世界観の一つなのだと推論できるわけです。ウィルバー自身がこの通りに説明しているわけではありませんが、そのように論じることができるのは明らかではないでしょうか。しかし、彼のやや特殊な文脈主義の考え方には問題があると思います。

相対主義における絶対性?

 究極の基礎的な文脈がないことから、ウィルバー流の相対性が生じ、そこでは、あるものは常にある別のものより良いと言う関係が成立するとウィルバーは述べているのですが、それに関連してマイアーホッフは次のように誤謬を指摘しています。

 ウィルバーは、ポストモダンの相対主義は、全ては文脈における文脈であるという価値あるポストモダンの洞察から帰結すると主張する。自律的な神も、自律的な自我も、自律的な知の基盤も、文脈を伴わない何ものもないのだ。ポストモダニストはしかし、この考えをあまりにも遠くへ、相対主義にまで持っていった。ウィルバーの解決は、全ては文脈化されているが、しかしいかなる使い古した仕方においてでもないということを認めることである。「このように、全ては相対的というのは、何ものもよりよいわけではないことを意味しない。それは、あるものは、実際、いつでも、相対的に他よりも良いということを意味する」(Ken Wilber, Sex, Ecology, Spirituality, p. 202)。しかしこれは間違いである。もしあるものが「相対的により良い」のであれば、それはまた相対的により悪くもあり得ることを意味する。もし相対的により良いが、あるほかの視点から相対的により悪いとして見られ得ないと主張したいなら、そのときは、どうしてそれは常に相対的により良いのかを示さなければならないだろう。しかし、もしそれが常に相対的により良いのなら、そのときそれは絶対的により良いのである。「相対的に」という語とともに「より良い」と形容することの要点のすべては、それが「絶対的により良い」ではないということにあるのだから。初めの引用の終り部分で驚くべきことに「いつでも」を含んでいることは、疑問性を強める必要性を示唆している。もしそれが「いつでも」相対的により良いのなら、それは絶対的により良いのであり、相対的により良いのではない。
 ウィルバーは、私が今引用した部分を支持する例を何ら与えていないが、しかしその代り、私が描写した問題点を明らかにしている。彼は、「原子も分子も最終的あるいは究極的な宇宙の構成要素ではない。それにもかかわらず、それらが現れるときにはどこでも、分子は常により深い抱擁によって原子を含む」と書いている(SES, p. 203)。しかしその事実は、分子が原子に比べて「より良い」ことを証明しない。「より良い」は価値判断であり、事実の言明ではない。(Bald Ambition, p.175~176 マイアーホッフによる Sex, Ecology, Spirituality からの引用文は、邦訳の『進化の構造』によらずに、直接訳しました。)

 「あるものは、実際、いつでも、相対的に他よりも良い」というウィルバーの言明は、明白な誤謬であるとマイアーホッフは述べているのですが、確かにその通りだと思います。しかし、ウィルバーの著作を読むときに、そのことに何かわだかまりを持ちつつも、追究することなく私は過ごしていました。今ではその理由の一つは、学校の成績における相対評価でのデータの相対性と、ポストモダニズムの相対性とを、私が安易に重ねて考えていたためであったのだと思います。生徒たちの成績の、集合における相対的な位置を示す相対評価でも、あるいは知識獲得の到達度を示す絶対評価でも、もとになるデータは、点数化された結果をもとに客観的に示されています。客観的ですから、そこにはポストモダニズムの主張に関連する、価値相対主義における相対性はどこにもありません。そのような客観的という一視点内での相対的位置関係と、価値相対主義における諸視点間の相対性を私は混同していたのです。
 価値相対主義における相対性とは次のような例が当てはまるものです。認知科学の客観的な研究から、原始的な生物よりも高等哺乳類、そして高等哺乳類より人間が、より高機能な認知能力を持っているとされていますが、それらは客観的な順序です。その際、高機能性を重視する価値観からするなら、原始的な生物よりも高等哺乳類、高等哺乳類よりも人間がより良いとなり、その場合高機能性に関する客観的順序と一致します。しかし、過酷な環境での生存能力を重視する価値観からすると、ある種の原始的な生物の方が、高等哺乳類あるいは人間より良いと言える場合もあるでしょう。その場合、高機能性に関する客観的順序と一致はしません。これらの二つの視点のどちらがより良いかは、一概に言えるものではありません。それはまた別の視点に依存することになります。
 あまりいい例ではなかったかもしれませんが、要点は、マイアーホッフが言うように、ウィルバーは価値相対主義における諸視点間の相対性のあり方を、客観的な相対的位置関係のあり方と混同しているということです。ところで、このマイアーホッフの批判が生じたそもそもの原因は、ウィルバーが文脈主義において、文脈のホロン階層という特異な見解を採っているからです。

文脈のホロン階層という見解はポストモダニズムを逸脱している

 ウィルバーの特異な文脈主義から彼が構築する相対性には、価値相対主義と客観的な相対性との混同という誤謬があるのは、マイアーホッフの指摘から明らかですが、それにもまして、文脈のホロン階層というウィルバーの特異な考え方自体が、ポストモダニズムから逸脱したものとしか思えません。デリダ、ハーバーマス、ローティらが、文脈の無際限性を認めているのは、おそらくそうなのだと思いますが、文脈が含んで超えるホロン階層のようなものをなしているとは述べていないのではないでしょうか。宇宙のホロン階層性を主張するジーン・ゲブザーでさえ、統合的-非視点主義ということは言っていても、それは様々な視点を寄せ集めるのではなく、統合的に見ようと主張するにすぎず、文脈がホロン階層を成しているとまで踏み込んではいないように思えます。ではなぜウィルバーは文脈のホロン階層という考えをポストモダニズムの解釈として持ち込んできたのでしょうか。それは、文化の発達がホロン階層を成しているという彼のコスモロジーが前提にされているからです。彼のコスモロジーによれば、文化であれ意識であれ含んで超えて進化し続けています。しかしそれを、文脈に対しても言えると無批判に想定してよいのでしょうか。常に新しく現れる、以前の文脈を全て含む文脈を想定するということは、失われる文脈の可能性や、別の含んで超えるという系列が分岐する可能性を無視することになります。失われたと知られずに失われているものがある可能性は否定できないので、ウィルバーのように前段階の文脈を全て含んだ文脈があるとは主張できないのではないでしょうか。そのような一種極限的なことを無批判に主張することは、ポストモダニズムからは逸脱していると思います。
 ウィルバーは、ポストモダニズムの文脈主義に、自らのトランスパーソナルな洞察に基づく、コスモスのホロン階層ということを論点先取的にあてはめ、ポストモダニズムを歪めていると思います。私には彼の考えは、彼が批判する極端なポストモダニズム同様に極端で、不適切だと思えます。
 以下のことは次回、指向的一般論の使用という方法論を扱う際により明確になると思いますが、私には、ウィルバー・コスモロジーがポストモダニズムの人達に対して意味を持つとしたら、それは「この指向性を持った統合的な仮説の線で私たちは合意しませんか」と、ある種プラグマティックな仕方で提案された場合だと思います。その提案されたコスモロジーには、「私たちには進化を基本的に良いとする意志があり、それはコスモス自体の意志でもある」という仮説、そして、「仮説ではなく真理であると認識できるかどうかは、トランスパーソナルな超合理的な洞察を持てるかどうかに左右される」という仮説も含まれます。そういう、合意を得ることを目指す提案としてなら、ウィルバーの試みはトランスパーソナルな視点もそれなりに尊重し得るはずのポストモダニズムにおいて大いに意味があるものになると私には思えます。そして、ポストモダニズムを踏まえながらも、実践によってトランスパーソナルな信念を確立したと主張する者が登場し、おそらくより改善されたウィルバー的なコスモロジーを主流の世界観に発展させていく日が来るのかもしれません。