第5章 ウィルバー・コスモロジーにおけるホロン構造の問題点と対案――エドワーズによる批判

 ジェフ・マイアーホッフJeff Meyerhoffによるウィルバー批判の本 Bald Ambition (『途方もない野望』)でも、アンドルー・P・スミスAndrew P. Smithのエッセイの中でも、たびたび言及されているウィルバー・コスモロジーの批判者達の中には、前章で取り上げましたゲリー・ゴッダードと並んで、マーク・エドワーズMark Edwardsがいます。今回は彼の批判と対案を扱いたいと思います。彼のエッセイも、フランク・ヴィッサー主催のサイトIntegral World に多数掲載されています。その中から、主に次のものを参考にしました。

・Through AQAL Eyes Part 1: A Critique of The Wilber-Kofman Model of Holonic Categories, June 2002
・Through AQAL Eyes Part 2: Integrating Holon Theory and the AQAL Framework, November 2002
・Through AQAL Eyes Part 3: Applied Integral Holonics, April 2003
・Through AQAL Eyes Part 4: A New Theory of Holons, April 2003
・Through AQAL Eyes Part 5: Matter, Membership and Mutuality, May 2003
・Through AQAL Eyes Part 6: Unpacking the Behavioural Quadrant and a Proposal for a New Energy-Form Holonic Dimension, May 2003
・Through AQAL Eyes Part 7: "I" and "Me" and "We" and "Us" and "You" and "Yous", June 2003

 Integral World の著者紹介によりますと、エドワーズは、西オーストラリア大学(the University of Western Australia)で発達心理学の修士号を取り、障碍者とおよそ20年間働いてきて、近頃では統合的理論の視点から、聖典の解釈に関する本を書いているそうです。
 エドワーズは、ゴッダードがウィルバー・コスモロジーを批判する際に起点にしたことを自らの批判の起点ともしています。そこで、エドワーズの考えについて述べる前に、ゴッダードの考えを振り返っておきたいと思います。

ゴッダードの考えを振り返る

 コスモスを構成する基本的な要素はホロンであり、そのホロンには相補的な主観的側面と客観的側面がある。また相補的な個的側面と集合的側面もある。そしてそれら二種類の相補性を重ね合わせてできる個的主観的、個的客観的、集合的主観的、集合的客観的という四つの側面をホロンは結局持つことになる。以上がもともとウィルバーによって構想された四象限ということです。象限という言葉を使うのは、主観-客観の相補性を示す横軸と、個的-集合的の相補性を示す縦軸を直交させてできる四つの象限に、四つの側面をあてはめて示すからです (図5-1)。

       図5-1

 

 ところが、ウィルバーは自らの世界観を展開するうちに、上象限と下象限が個的ホロンと集合的ホロン(社会ホロン)という別のタイプのホロンを表しているという考えも四象限に重ねるようになりました。図5-1を一方ではあるホロンの四つの側面を表すとしながら、他方では異なるタイプの個的ホロンと集合的ホロンを表しているともする混乱状態に陥ったわけです。例えば、私という個人がホロンであるとして、その私に図5-1の四つの象限があるとする一方で、私は図5-1の上側の象限を持つ個的ホロンにすぎず、下側の象限は私が所属している人間の社会という集合的ホロンのものであるともする状態に陥ったのです。この混乱状態の存在がゴッダードの批判の起点です。そしてゴッダードは、結局のところ、四象限説の上象限と下象限は異なるタイプの個的ホロンと集合的ホロンを表しているとすべきだとし、その上でモデルを整合的なものに改良しようと試みたのです。
 ゴッダードは上象限と下象限は一つのホロンの相補的な側面ではなく、世界の相補的な側面だとします。そしてその世界の個的側面(上側象限)が個的ホロンであり、集合的側面(下側象限)が集合的ホロン(社会ホロン)だと考えるのです。おそらくここでゴッダードが持ち出す世界とは、例えば人間に関する文脈においてであれば、全ての人間はその個々人として存在してもいるし、また個々人をメンバーとする共同体として存在してもいるという、人間の最も基本的な枠組みに基づく全体(人間の世界、人間界)を言っているのだと思います。また彼は、『進化の構造1』(ケン・ウィルバー著、松永太郎訳、春秋社、1998年)で提示されたホロンに関する二十の原則に従うと、個的ホロンにも社会ホロンにもエイジェンシーとコミュニオンという極性があるはずだと指摘し、個的ホロンと社会ホロンの相補性は、より正確には、個的ホロンのエイジェンシーと社会ホロンのコミュニオン、あるいは個的ホロンのコミュニオンと社会ホロンのエイジェンシーという組み合わせで成立するのだともします。そうして、四象限を表す平面に表と裏をつくることで、個的ホロンも集合的ホロンも含んだまま、ウィルバーの四象限を世界の側面を表すものとして発展的に解釈しなおすのです(図5-2)。

         図5-2 ゴッダードの四象限モデル

 

エドワーズによるゴッダードのモデルの評価

 エドワーズの批判の起点はゴッダードと同じです。そしてウィルバーの四象限が、ある一つのホロンの四つの側面だという考えを捨て、上側象限は個的ホロン、下側象限は社会ホロンを表していると考えるのもゴッダードと同じです。そして彼は、ゴッダードの考えに関して次のように述べることになります。なお、引用文中にありますAQALとは、All Quadrants , All Levels, All Lines, All States, All Types……の略語で、全象限、全レベル、全ライン、全タイプ…という、現段階で万物を扱うために最も包括的だとウィルバーが考える枠組みのことです。これらについては、『インテグラル・スピリチュアリティ』(ケン・ウィルバー著、松永太郎訳、春秋社、2006年)の序章を参照していただければと思います。この章でも後で表示しますが、有名なコスモスの四象限図は、All Quadrants(全象限) , All Levels(全レベル)の部分を示していることになります。少し長く、読みにくい訳で恐縮ですが、エドワーズ自身がゴッダードの考えと自身の考えとを比較している部分ですので、とりあえず目を通してください。

 ……ゴッダードは、いくつかの論文で、内面-外面を表す左/右次元が一つのホロンの相補的な両極に関係する一方で、個的-集合的の上/下次元は二つの異なるホロンの「タイプ」に関係していると指摘した。彼はこのことは解消されるべきであると思い、そのための彼自身の提案を展開する。彼は「エイジェンシー-コミュニオンの極性はより満足いくようにモデルにおいて統合される必要がある」と述べる一方で、エイジェンシー-コミュニオンの次元と個的-集合的の次元のそれぞれの極は、論理的に異なる関係であり、したがって等置され得ないとも考えている。
 これらの技術的でしかし重要な点がこれまで十分に扱われてこなかったことに私は同意する。これらの問題に対しゴッダードは、異なるタイプの次元全てを切り離し、彼がウィルバーの基本的提案に十分に調和すると思う、より複雑な関係的モデルを築きあげることで解決しようとする。一方私の見解は、ホロンの理論とAQALの枠組みとの十全な統合が、これらの問題に対する解決を非常に直裁なものにするということである。エイジェンシー-コミュニオンの関係は、個的同一性と交流的同一性の相互性を強調する中核的なホロンの動因である。各ホロンに現れている多と一 (訳注 the Manyとthe Oneの訳です)のダイナミックな相互浸透を描写するのに最も適切なのがこの関係なのである。「集合」に対する「個」の対比では、この次元の内的な論理に関しても、両極が互いに浸透する度合いを正確に記述する能力に関しても、このダイナミクスを捉えはしない。エイジェンシー-コミュニオンという術語は、これらのダイナミクスを捉えるための記述の力と論理的な整合性をまさに併せ持っている。従って、私の方法は、(これもまたホロンである)コスモスの四象限という大きな図と同様に、日常的な通常のホロンのダイナミックな構造を記述するにも、(それぞれの場合に合わせて言い換えはあるとしても)「エイジェンシー」と「コミュニオン」というホロン的な命名法を採用することである。「個」と「集合」という語は、私たちが個の入れ子状の発達と集合の入れ子状の発達とを探求する際の、ホロン階層のタイプを記述するためにとっておかれるべきだと私は思う。個/集合の対比は、異なるホロン的系列の間の関係を示す度合いが余程強いのであり、ホロンの特定の質に関する自己-動因と交流-動因との間の関係を記述するのに使われると混乱を招くだけである。内的-外的とエイジェンシー-コミュニオンの二つの発達の次元は、両者とも一つのホロンの両極性的なダイナミクスに言及しており、互いに論理的に関係しあっている。これらの次元は一緒になって、万物の理論的・コスモス的なホロンと、日常的レベルの通常ホロンの双方における発達的な各象限の間に、大変密接で相互浸透的な関係をもたらす。(Through AQAL Eyes Part 2 Web上のテキストであるため、通常のページづけはありません)

 この引用文には、内的-外的の次元とエイジェンシー-コミュニオンの次元の間の論理的関係など私にはよく理解できないこともあるのですが、結局のところ、象限間に成立している、発達と関連するダイナミクスを表現するためには、個的-集合的の軸ではなく、エイジェンシー-コミュニオンの軸を主観-客観の軸に交差させるべきだとエドワーズは考えるのです。そうして主観-客観の軸とエイジェンシー-コミュニオンの軸から新しく創られる四象限が、個的ホロンと集合的ホロンが共通して持つホロン一般の四つの側面になるとするわけです。つまり、ゴッダードが、個的-集合的という軸は、個的ホロン、集合的ホロンという別のタイプのホロンを示す軸ではあっても、世界という観点からすればその相補的側面を表す関係とみなせるのだとし、ウィルバーの不明瞭な四象限像をホロンではなく世界の四象限と解釈することにしたのに対し、エドワーズは、個的-集合的関係はホロンの四象限を構成する軸にすべきではなかったとし、代わりにエイジェンシー-コミュニオンの軸を置き、新たに出来た四象限が個的ホロンにも集合的ホロンにも同じように適用できる四象限であるとするのです。では、この新たな四象限を持つエドワーズのモデルを概観していきたいと思います。

エドワーズのモデル

図5-3 コスモスの四象限図(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)


 いきなりですが、図5-3はコスモスを表現するウィルバーの四象限図です。ゴッダードやエドワーズの見方によれば、上側の内面的・個的象限(意識象限)と外面的・個的象限(身体と行為の象限)が、私達のような個的ホロンの主観的側面と客観的側面を表し、下側の文化の象限と社会の象限が、個の集合である集合的ホロン(社会ホロン)の間主観的側面と関客観的側面を表しているのです。ゴッダードはこれら四つの象限を、ホロンではなく世界(図5-3の場合は最も包括的な世界であるコスモス)の側面だとします。そしてエイジェンシーとコミュニオンという極性を上側個的ホロンと下側集合的ホロンのそれぞれが持つと考えて、結局図5-2のような表と裏を持つ四象限モデルを作ったわけです。
 それに対してエドワーズは、図5-3の上下方向の個-集合の軸を、エイジェンシー-コミュニオンの軸に取り替えて新しい四象限をつくり、それが個的ホロンにも集合的ホロンにも当てはまるのだとします。図5-4がそうしてできたエドワーズのモデルです。図中、コミュニオンは関係性という言葉で表現されています。

 図5-4 ホロンとAQALマトリックスに関する統合的な見方
  (Through AQAL Eyes Part 4のFigure 4を参考に作成)


 図5-4のタイトルは参考にした図のタイトルをそのまま訳したものです。AQALとは、すでに述べたことですが、全象限、全レベル、全ライン、……という万物を捉える枠組みです。ウィルバーの図5-3では全象限と全レベルが示されていて、主観-客観の軸と個-集合の軸が交差していました。それに対して図5-4では、上下方向の個-集合の軸をエイジェンシー-コミュニオンの軸に替え、各レベルを同心円で表現し直しています。また、長さの一定しない中央から広がる放射線を描くことで、例えば左上の意識象限で、認識のラインでは形式的操作という高いレベルに達しているのに、道徳のラインでは慣習的なレベルにしか達していないというような、特定のホロンの異なるラインでの異なる発達段階を表しています。
 縦軸を変えたことでエドワーズのモデルにおける象限の内容には、ウィルバーのモデルにおけるそれとは当然違いがでてきます。また、個的ホロンと社会ホロンという異なるタイプのホロンにあてはめれば、それによっても象限の内容に相違が生じます。そこで、個的ホロンと社会ホロンの両者にあてはめた場合の各レベルでの各象限のあり方も簡単に見ていきたいと思います。

       図5-5 個人的ホロンとその鍵となる構造
     (Through AQAL Eyes Part 3のFigure 1を参考に作成)


 図5-5は個的ホロンの四象限図です。上側象限は基本的にウィルバーのモデルを表す図5-3と変わりません。図5-3の上側象限は個的ホロンを表していたからです。変わったのは下側です。図5-3では下側は社会そのものだったのですが、図5-5では左下は社会の影響のもとで個人が形成する世界観を、右下は社会の中での個人の役割を表します。それらは社会との関わりを示していますが、あくまでも個人の世界観であり役割です。このようにして四つの象限全てが個的ホロンの四つの側面を表すことになります。仮に幼児という個的ホロンに関して簡略して四象限を図示すると図5-6のようになります。

     図5-6 幼児という個的ホロン
 (Through AQAL Eyes Part 4のFigure 6aを参考に作成)


 図5-6では、ラインは省いてあります。また、当該の幼児のレベルを実線にすることで、この図は幼児というホロンの図だと主張しています。幼児のレベルを示す実線の円より内側にある同心円は、幼児が発達してくる上で含んで超えてきた新生児、乳児のレベルの境界を表し、より外側にある同心円は、幼児が未来において発達していく子供、青年のレベルの境界を表しています。(幼児の世界観は自己中心的で、幼児の社会的役割は家族という社会での役割です。)
 では、集合的ホロン(社会ホロン、共同体ホロン)の場合はどうなるのでしょうか。図5-7が共同体ホロンの四象限図です。

     図5-7 共同体ホロンとその鍵となる構造
  (Through AQAL Eyes Part 3のFigure 2を参考に作成)


 上側象限では、社会ホロンが個的ホロンと同様に、全体としての意識を持ったり、あるいは行為をしたりすることになります。間主観と間客観ではなく、主観と客観と言うべきものになっています。下側象限には、左側に主観的な共同体としての世界観、そして右側に客観的な共同体の制度があります。ウィルバーのモデルである図5-3と比較しますと、下側象限は基本的に同じです。図5-3の下側象限は集合的ホロンを表していたわけですからそれは当然だと言えるでしょう。つまり、図5-7は図5-3の下側象限に新しい上側象限がくっついたようになっているのです。次の図5-8は、村という特定の社会ホロンを表す四象限図になります。

     図5-8 村/近隣という集合的ホロン
  (Through AQAL Eyes Part 4のFigure 6bを参考に作成)


 ここでは当該の村のレベルの円を実線にすることで、これは村というホロンの四象限図だと示そうとしています。より内側の家族、血縁システムの同心円は、村に発達していく上で含んで超えられてきたレベルを表し、より外側の地域共同体、国/州の同心円は、村を含んで超えたより発達したレベルを表しています。
 次に、エドワーズのモデルに関して付加的な二つのことを述べておきます。一つ目は、個的ホロンと集合的ホロンのタイプの違いは異なるホロン階層の系列に所属していることに起因しているという考えです。二つ目は、AQALという枠組みはリアリティを見るための解釈的なレンズであるという考えです。

ホロンのタイプの違いは別々のホロン階層の系列に所属していることに起因する

 『進化の構造1』のホロンに関する20の原則の4には次のように書かれています。

 ……ホロンは増加する部分/全体の連続として階層的に発生する。有機体は細胞を含む。しかしその逆ではない。細胞は分子を含む。しかしその逆ではない。分子は原子を含む。しかしその逆ではない。まさにあらゆるレベルでのその逆ではない性質こそが、不可避的に非対称性と階層性(ホロン階層性)とを構成する。(82ページ)

 図5-4は幼児という個的ホロンのモデルでした。そこには、新生児において形成された様々なものを含んで超えるようにして乳児に成長し、そして乳児において形成されたものをさらに含んで超えるように幼児に、同様にして子供に、青年に成長するという個的ホロンの非対称的発達を見て取ることができます。幼児はそのホロン階層の系列に含まれるが故に個的ホロンなのです。また図5-8を見ますと、そこには、家族、血縁システム、村、地域共同体、国という、やはり含んで超える非対称的な発達の階層があります。村はこのホロン階層に含まれるが故に集合的ホロンなのです。エドワーズは、個的ホロンと社会ホロンが異なるタイプのホロンであるということは、20の原則に従ってホロン階層を作った時に、別々の系列に所属しているという事実によるのだとし、例えば次のように述べています。

 ……個的ホロンは、それらが社会ホロンとは別のホロンのカテゴリーに本来的に所属するから集合的ホロン階層から除外されるのではなく、社会ホロンのホロン階層に適合するのに必要とされる規準に合わないから除外されるのである。(Through AQAL Eyes Part 2)

 エドワーズは、個的ホロンと集合的ホロンには所属する象限が異なるというような違いがあるわけではなく、どちらも同じように四象限を持つのだけれども、所属するホロン階層の系列が違うので異なるタイプのホロンになるのだと考えるわけです。この考えは、付加的に述べたいとした二つ目の、AQALという枠組みはリアリティを見るためのレンズであるという考えとも関係しています。

AQALという枠組みはリアリティを見るためのレンズ(視点)である

 図5-3のようなAQAL(全象限、全レベル)という枠組みによる万物のモデルは、コスモスの地図とでも言えるものになっているわけですが、エドワーズは、AQALという枠組みは、図5-3のようなコスモスの地図を表現するためのものというよりは、あらゆるリアリティを見るための解釈的レンズとしての役割の方がその本質なのだと捉えます。
 彼は、「科学の理論とは、世界がどのようになっているのかに関するものではなく、私たちが世界について何を言い得るかについてのものなのである」(Through AQAL Eyes Part 2)というニールス・ボーアの考えに言及し、AQALも科学理論と同様の役割を担っているとして、次のように述べています。

 膨大な量の個人的、社会的、そして文化的な知識の総合としてのAQALレンズは、私たちにリアリティを理解するための非常に強力な解釈的道具を用意する。(Through AQAL Eyes Part 2)

 ホロンあるいはホロン階層的なシステムは、AQALの眼、あるいは統合的な理論の解釈的なレンズを通じて、リアリティを眺めるとき私たちが見るものである。(Through AQAL Eyes Part 2)

 そして、次のような図も説明のために挙げています。

        図5-9(Through AQAL Eyes Part 2 Figure 5aを転載)


        図5-10(Through AQAL Eyes Part 2 Figure 5bを転載)


 図5-9は、リアリティそのものが四つの象限を持っているので、それを見ている人にも世界がそのように見えてくるという考えを表しています。図5-10は、人がAQALという解釈の枠組みを持った視点で見るから、四象限を持ち、含んで超える階層の系列に所属するホロンが見えてくるのだという考えを表しています。後者の考えの場合、AQALという視点で見るかぎり、いかなる局面においても、ホロン階層とそこに所属する四象限を持つホロンとが現れざるを得ないのです。そうして、現れた特定のホロンが個的であるか集合的であるかというタイプの相違は、そのホロンが所属する階層系列の相違に基づくのだとエドワーズは考え、それが付加的に述べたいとした一つ目の考えにつながるわけです。
 それでは、以上述べてきましたエドワーズのモデルに関して、私なりの評価をしてみたいと思います。

エドワーズのモデルを評価する

エイジェンシーとコミュニオンの次元について

 エドワーズの四象限では、左側は主観的な意識の象限です。そして右側は客観的な行為の象限です。上側はエイジェンシーの象限で、下側はコミュニオンの象限です。そうしますと、左上はエイジェンシー的な意識の象限、左下はコミュニオン的な意識の象限、右上はエイジェンシー的な行為の象限、右下はコミュニオン的な行為の象限となるはずです(図5-11)

       図5-11


 ここで、個別性、独自性、自律性などと結びつけられて語られるエイジェンシー的ということと、共同体性、相互性、関係性などと結びつけられて語られるコミュニオン的ということを、ウィルバーの叙述に立ち戻って確認しておきたいと思います。

……ホロンはエージェンシーを保たなければならない一個の全体であるだけでなく、他のシステム、他の全体性の一部分でもあるのです。ですから、一個全体として自己の自律性を維持しなければならないことに加え、同時に他のものの一部分として適応しなければなりません。それ自体の存在が環境への適応能力にかかっていて、それは原子から分子、動物から人間まで言えることです。
 そのように、あらゆるホロンは一個の全体としてそれ自体のエージェンシーを持つだけでなく、また、他の全体の部分としてコミュニオン(交流)によって適応しなければならない。もしどちらかを怠ると、つまりエージェンシーかコミュニオンのいずれかを怠ると、あっさり消されてしまう。存在しなくなるのです。(『万物の歴史』37~38ページ)

 エイジェンシーとコミュニオンのこのつねなる水平方向の戦いは、あらゆるレベルで病理現象さえ生み出す。過剰なエイジェンシー、過剰な自己独立性は(抑圧と疎外という形で)そもそも独立性を維持してきた豊かなコミュニオンのネットワークを断ち切ってしまう。一方、過剰なコミュニオンは、自己の統合性を失わせ、ほかのホロンとの溶解に導く。そのとき境界はぼやけ、溶融し、自律性は失われる。(『進化の構造1』77ページ)

 引用文からしますと、エイジェンシーとは自身の存在の保持を追求するホロンの性質、コミュニオンとは自身が所属する全体なり集合なりを優先し、あくまでその一部として調和することを追求するホロンの性質とも言えると思います。例えば、私は家族の一員なわけですが、私自身の趣味や、私の都合の良い食事・入浴などのスケジュールを優先させようとする意識はエイジェンシー的だと言えるでしょうし、逆に冠婚葬祭をはじめとする家族全体の都合を優先する意識はコミュニオン的だと言えるでしょう。どちらも私自身が健全にあるために必要ですし、どちらかが過度になると、私自身がおかしくなることにつながると思います。「皆は一人の為に、一人は皆の為に」という小説『三銃士』に登場する合言葉や、自由・平等・連帯という民主主義の理念なども、エイジェンシーとコミュニオンの両立ということの必要性に言及しているとみなすこともできると思います。
 そうしますと、図5-11で示しました、主観-客観とエイジェンシー-コミュニオンの両軸によって張られる四象限の内実はどのようなものになるのでしょうか。主観というのは意識の側面です。ウィルバー流に言えば内面ですし、私というホロンであれば、私の心とされている領域です。そこに、そのホロン自体のあり方を追求しようとする側面があれば、それが主観的・エイジェンシー的側面であり、そのホロンが一部となっている全体のあり方に調和することを優先して追及しようとする側面があればそれが主観的・コミュニオン的側面です。先程も触れたことですが、私であれば、私のやりたいこと、私の好みを優先させる意識が主観的・エイジェンシー的側面で、家族や社会の意向、しきたりを優先させる意識が主観的・コミュニオン的なのだと思います。また、それらそれぞれの意識に符合する行為が、客観的・エイジェンシー的あるいは客観的・コミュニオン的側面なのだと思います。
 では、エドワーズのモデルではどうなっているでしょうか。図5-4~図5-6を見返していただきますと、個的ホロンの主観的・エイジェンシー的側面に意識、主観的・コミュニオン的側面に世界観、客観的・エイジェンシー的側面に行為、客観的・コミュニオン的側面に役割とあります。おそらくエドワーズは、個的ホロンの意識と行為は、個的であるがゆえにエイジェンシー的と考え、また個的ホロンの世界観と役割は、集団(社会)の中でのかかわりにおいて形成されているがゆえにコミュニオン的であるとしたのではないかと推察されます。しかし、私にはこの対比の仕方は的外れなものだと思えます。個的ホロンの主観ということがすでに意識ということなのであり、四象限の左側の側面全体を占めることになります。そうしますと、左上は意識におけるエイジェンシー的な側面であり、左下は意識におけるコミュニオン的な側面であるはずです。それが、エドワーズのように、左側全体を表す意識を左上に押しこめ、意識の要素である世界観を左下において対比させるというのは奇妙ではないでしょうか。世界観は個的ホロンの意識におけるラインの一つであり、それが社会との関係性において形成されたというのはその通りでしょうが、その世界観において、エイジェンシー的な面とコミュニオン的な面があり、それぞれが左上象限の一部分と左下象限の一部分とされるべきではないでしょうか。例えば、合理的世界観においては基本的人権を尊重するという考えがありますが、自己に焦点をあててその権利を強く意識すればエイジェンシー的になり、社会の全員に焦点をあててその権利を強く意識すればコミュニオン的になるというように、世界観においてそして意識において、エイジェンシー的な面もあればコミュニオン的な面もあると思うのです。そう考えますと、エドワーズのように、意識自体と世界観とをエイジェンシー的とコミュニオン的として対比させるのはやはりおかしいと思います。
 同じことは個的ホロンの客観的側面にも言えると思います。客観的側面は行為ですから、その行為にエイジェンシー的な側面があれば右上象限に、コミュニオン的側面があれば右下象限に当てはまるのだと思います。例えば、公務員が社会的役割を果たす行為において、ほんのちょっとの残業も拒否するように自己保持的になっていたら、それは過度にエイジェンシー的であり、要求された課題を達成するために健康のことも顧みずに残業をこなすように滅私的になっていたら、それは過度にコミュニオン的であるのではないでしょうか。それがエドワーズの場合、行為そのものがエイジェンシー的になり、役割がコミュニオン的になっていて、対比の仕方がかみ合っていないように思えます。
 共同体ホロンの方でも同じようなことが言えると思います。ゴッダードもそうでしたが、エドワーズも集合的ホロンに個的ホロンと同様な主観的側面である意識があると考えます。例えばユングの集合的無意識などは、集合的ホロンの意識の例になります(無意識は非意識ではなく意識に含まれるとします。無意識と言うより深層意識と言うべきかもしれません)。すでに触れたことですが、村という共同体ホロンであれば村としての意識があるとするわけです。そうしますと、主観的側面の共同体意識に、その共同体自体の保持を追求しようとするエイジェンシー的な側面と、その共同体が所属するより包括的な全体のあり方に適応することを追求しようとするコミュニオン的な側面があれば、それぞれが主観的・エイジェンシー的側面、主観的・コミュニオン的側面になるはずです。そして、共同体的ホロンの客観的な側面は共同体の行為ですから、共同体意識のエイジェンシー的側面に符合する行為が客観的・エイジェンシー的側面であり、共同体意識のコミュニオン的意識に符合する行為が客観的・コミュニオン的側面になるでしょう。例えば、国という共同体ホロンであれば、自国の利益や権利を強調しようとする国家意識とそれに符合する行為はエイジェンシー的であり、自らも属す国連の全ての加盟国との調和を優先しようとする国家意識とそれに符合する行為はコミュニオン的ということになります。エドワーズも、「(国家のような)個々の社会的ホロンは、近頃、(国連の決議のような) 説得的な集団的均衡を顧慮することなく、それら自身のエイジェンシー的な目的と動機から行動する傾向がある」(Through AQAL Eyes Part3)などと述べていたりしますから、そのような考えもどこかに持っていたのではないかと思います。ところがこのような叙述もありながら、エドワーズの一般的な考えは、私が述べたような考えに一致していないように思えるのです。
 図5-7、図5-8をもう一度見てください。エドワーズの考えでは、共同体ホロンの主観的エイジェンシー的な側面は共同体意識です。主観的コミュニオン的な側面は共同体の世界観です。客観的エイジェンシー的な側面は共同体行為です。客観的コミュニオン的な側面は共同体の制度です。村という共同体ホロンであれば、それぞれは村としての意識、村の価値観、村の行為、村の制度ということになります。そうしますと、主観的側面全体を意味する共同体意識が左上象限に押しこめられ、客観的側面全体を意味する共同体行為が右上象限に押しこめられてエイジェンシー的とされ、それらに共同体意識の要素である価値観と、共同体行為を規定する要素である制度がコミュニオン的として対比されていることになります。やはり個的ホロンの場合と同様に、対比の仕方がかみ合っていないように思えます。
 主観的側面では、例えば共同体意識の要素である世界観において、エイジェンシー的側面とコミュニオン的側面があるとすべきではないでしょうか。また、客観的側面では、共同体行為がそのままエイジェンシー的というのではなく、その行為が極めて自律的で、あまり他との関係性を考慮に入れない傾向があるときエイジェンシー的で、他と協調する傾向があるときコミュニオン的だとするべきではないでしょうか。ゴッダードは、個的ホロンであれば同レベルの別の個的ホロンと、社会ホロンであればやはり同レベルの別の社会ホロンと相互作用することをコミュニオンは意味するのだとしていました。私もゴッダードの考えに同意し、共同体のコミュニオンということは、同じレベルでの他の共同体ホロンとの関係を意味すると解釈すべきだと思えるのです。それに対しエドワーズのモデルの場合、先ほどの図でもわかるように、例えば社会ホロン(共同体ホロン)のコミュニオン的外面は社会の構造を意味しています。
 結論を言いますと、エドワーズの上象限の内容と下象限の内容の対比は、エイジェンシー的とコミュニオン的の対比とはずれているので、個-集合の軸をエイジェンシー-コミュニオンの軸に置き換えて個的ホロンにも集合的ホロンにも同じように成立する四象限をつくることに失敗していると私は思います。

コスモスのモデル化に関して

 エドワーズは、コスモス自体もホロンであるとして、図5-12のようにモデル化しています。ただし、図中の「一」は、個人であろうが、国家のような集合であろうが、個々としてみた場合を表しています。また、「多」は、交流する諸個人とか、交流する諸国家とか、交流する複数を表しています。

    図5-12 コスモス的ホロンの四象限的な見方
  (Through AQAL Eyes Part 2のFigure4を参考にして作成)


 このモデルの内容を見ると、ウィルバーのコスモロジーを表す図5-3と一致するように作られています。そのため、上側象限はエドワーズの個的ホロンの上側象限と、下側象限はエドワーズの共同体ホロンの下側象限とおおまかに一致しています。しかし、コスモスという究極的に包括的なもののモデルであるなら、個的ホロンと集合的ホロンの両者の系列の四象限が統合的に含まれている必要があると思うのですが、そうはなっていません。まるで、AQALレンズをコスモスにあてるときだけは、エイジェンシーとコミュニオンの軸を個と集合の軸に戻しているように見えます。
 ゴッダードのモデルでは個と集合の相補性を世界の相補性と捉えて保持した上でエイジェンシーとコミュニオンの極性も加えた形になっていましたし、スミスのモデルの場合には個と集合とをよりラジカルに一つの系列にまとめることで、二つのタイプのホロンの統合を試みていました。彼らのモデルと比べると、私にはエドワーズのモデルはコスモロジーの包括性に欠けているように見えます。

AQALを解釈的枠組みとすることに関して

 マイアーホッフは、エドワーズがAQALあるいは万物の理論を様々な事物を捉える際の大きな枠組み(視点)としていることが、ウィルバーに影響を与えた結果、「全ては視点である」とウィルバー5で言わしめたのではないかと推測して次のように述べています。

 ウィルバーはこの批判に影響を受けたのかもしれない。何故なら、彼の理論の最新型では、ホロンを形而上学的な根本的存在物と見なすことを放棄し、その代わりに視点をその基礎的カテゴリーとする「ポスト形而上学的」理論を主張しているからである。(Meyerhoff, Jeff, Bald Ambition : A Critique of Ken Wilber’s Theory of Everything, Inside the Curtain Press, 2010 p.26-27)

 たしかにそういうことはあるのかもしれません。しかし、エドワーズがAQALを解釈的枠組みとすることと、ウィルバーが「全ては視点である」とすることには、大きな隔たりがあるように私には思えます。エドワーズの考えを表している図5-10を見返して下さい。エドワーズはカントが物自体やヌーメノンという対象そのものを設定したように、レンズの向こう側に所与のリアリティを見ているわけですが、ウィルバーはそのように設定されたリアリティについて触れることを拒絶しているように思えます。というよりも、レンズの向こうにリアリティとされる所与の存在を設定することは拒絶し、世界の本質とは、見る主観と見られる客観の関係を超越した非二元的な何かとしかいいようがないとしていると思うのです。つまり図5-10のようには示し得ないとしているように思えます。それにウィルバーは、『意識のスペクトル』以来、原初の二元論による限界づけを克服するための非二元的見方への転換を継続して勧めてきています。ですから、エドワーズが影響を与えたと言っても、それはウィルバーに新たな考え方をもたらしたと言うのではなく、もともと彼が主張していたことの新たな言い方を思いつかせたということに過ぎないのだと思います。

全体的所感

 スミスの批判は、ウィルバー・コスモロジーファンとしての私には脅威を感じさせ、またウィルバー・コスモロジーの批判者としての私には共感を抱かせかつ新たな展望を開いてくれるものでしたし、ゴッダードの批判は主観と客観の相補性に関しての独特な見解を私に教えてくれるものでした。それに対しエドワーズの批判は、何か焦点の定まらないウィルバー・コスモロジーの批判的解説のような印象を持ち、このエッセイで扱おうかどうか実は迷いました。しかしまとめてみますと、彼の代案たるモデルは的外れなものだと思う一方で、その理由をはっきりさせていくことで、ウィルバー・コスモロジーのあり方を再認識できたように思います。
 このエッセイでは触れませんでしたが、エドワーズは、個的-集合的次元をエイジェンシー-コミュニオン次元に替えることで個的ホロンと集合的ホロンそれぞれに四象限を設定するだけでなく、個的ホロン、集合的ホロン両者の各象限にまで及ぶ、ホロンの健全性、病理に関する詳細なリストを作成しています。スミスは、そのようなリストを評価していますが、そのようなリストが提示されるだけでなく、それを導くための統合的なダイナミクスによる理論の簡素化こそが必要で、自らのワン・スケールモデルがそのような必要性を満たすと主張しています(Andrew P. Smith, Wilber's Eight-Fold Way: How Many Sides Does a Holon Have?)。またエドワーズは、エイジェンシー-コミュニオンの次元にエネルギー-形態の次元も加え、さらなる細分化を試みます。また、ウィルバーが視点に関して「私」「私たち」「それ」「それら」という四つの人称代名詞で枠組みをつくるのに対し、エドワーズは一人称、二人称、三人称のそれぞれの単数と複数で六つの枠組みをつくり、この面でもさらなる細分化を試みますし、ウィルバー5のゾーンという考えや、視点の重ね合わせに関する統合的数学という考えなどに対する批判も行っています。これらのことに興味がおありになる方には、特にThrough AQAL Eyes Part 5, Part 6, Part 7が参考になるでしょう。