第4章 ウィルバー・コスモロジーにおけるホロン構造の問題点と対案――ゴッダードによる批判

 前章でご紹介しましたアンドルー・P・スミスAndrew P. Smithのエッセイの中でも、後の章で取り上げますジェフ・マイアーホッフJeff Meyerhoffのウィルバー思想を批判する本 Bald Ambition (『途方もない野望』)でも、たびたび言及されているウィルバー・コスモロジーの批判者達がいます。その中の一人、ゲリー・ゴッダードGerry Goddardの考えを今回はご紹介したいと思います。
 彼のいくつかのエッセイもIntegral Worldに掲載されていますが、今回参照した主要なものは次です。

・Gerry Goddard, Holonic logic and the dialectics of concsiousness : Unpacking Ken Wilber's Four Quadrant Model , December 2000 (ホロン的論理と意識の弁証法:ケン・ウィルバーの四象限モデルを紐解く)

 このエッセイの内容に関しては、スミスとの間に論争がありましたので、そのやりとりである以下の諸エッセイも副次的に参照しました。

・Andrew Smith, Quadrants translated, quadrants transcended (Response to Goddard) , January 2001
•Gerry Goddard, Quadrants Re-Instated , A response to Andrew Smith , February 2001
・Andrew Smith, Nothing special : More Dialogue with Gerry Goddard , February 2001
•Gerry Goddard, Concluding Unscientific Afterword , A Final response to Smith , March 2001
・Andrew Smith, Lateral Differences : Concluding Remarks to Gerry Goddard , March 2001

 Integral Worldの著者紹介によりますと、ゴッダードはイギリス生まれのカナダ人で、2007年に64歳で亡くなっています。占星術師、形而上学者、トランスパーソナリスト、コンサルタント、著述家、教師、学者で、特に占星術とポストユング的トランスパーソナル学との連携に関心があったそうです。

四象限説とは

 まずはゴッダードが議論の起点とするウィルバーの四象限説を、第1章とは異なり、個人の主観(内面)と客観(外面)に焦点をあてることからスタートして考察したいと思います。
 私自身が何かを観察しているような状況を振り返ってみます。そうしますと、見たり触れたりして観察する私と、私に見られたり触れられたりして観察される対象の世界があると思われます。観察する方の私は主体とか主観とか呼ばれますし、私に観察される様々な対象の方は客体とか客観とか呼ばれます。このとき、主観と客観とは全く異なるありかたをしているように思えます。客観として私の周りに存在する世界は、私だけでなく、他者の主観によっても、基本的に同じように観察可能な言わば公共的な領域に思えます。一方でその客観的世界を観察する主観としての私には、その観察体験に独自性があり、決して他者には知られ得ない面があり、そのため客観的世界には属していないように思えます。例えば私が赤い色をしたものを観察しているときの、赤く見えている感じは、私でない他の人には決して同じように体験できないし、知り得ないと思うのです。
 しかしながら、私には客観的な面もあると思えます。客観的世界には、大体において私の意のままに動かすことができたり、他の対象と相互作用したときには、何らかの私の主観的な現象が伴ったりする特別な部分があります。それは私の身体と言われるものです。例えば私の身体に属す右手は私の意のままに動かすことができるし、そして私の意志のもとにその右手を動かして私の身体の他の部分をつねりますと、右手での手ごたえを感じるのに加えて、つねられた部分では痛みなどを感じ、そばにある毛布などをつねった場合に何の痛みも感じないのとは異なり、私の主観と結びついた特別なことが起きます。そういうことから、私には確かに主観的側面(大まかに、心、意識などと呼ばれている側面)と並んで身体およびその振る舞いという客観的な側面があると思うのです。同様なことが他の人にも言えるとしますと、個人を図1のように表すことができるかと思います。二つの四角は、右側から見たときと左から見たときで同じ人の別の姿が現れるように、ある個人の主体としての見え方(主観)と対象としての見え方(客観)とを表しています。

       図4-1

 ところで、私は他者と区別できる個人で独自性を持つのですが、完全な独立性を持っているというには遥かに遠く、他者とともに所属する社会と言う集合的存在の中でしか存在し得ないと思われます。何故なら、客観的側面における私の身体やその行動などの全ては、社会の中でエネルギーを得て、様々なことを学習することで初めて形成され維持されるのですし、また私の主観的な体験も、社会の中で培われた感性、概念、世界観を土台として初めて形成されるのだと思うからです。同じことはどの個人にも言えそうです。そうしますと、主観的側面においても客観的側面においても、全ての個人には、集合的側面(社会のメンバーであらざるを得ないという側面)があり、結局四つの側面があるように思えます。それは図4-2のように表すことができます(図では、直行する座標軸で作られる四つの象限に四つの側面があてはめられていますので、ウィルバーは側面と言うかわりに象限とも言います)。

        図4-2

 

 個的というのは、社会との関わりよりも、個人の独立性に焦点をあわせたときの個人の見え方です。例えば、身体能力、生活習慣、嗜好などは人それぞれです。集合的と言うのは、社会との不可避的なかかわりに焦点をあわせた場合の個人の見え方です。例えば集合的主観であれば、所属する社会の文化からその人が身に着けた考え方等があるでしょうし、集合的客観であれば、所属する社会の制度から、その人が身に着けた行動の仕方等があるでしょう。人々は、個人的にはそれらを肯定的に捉えたり否定的に捉えたり、あるいはそれらに従ったり従わなかったりするでしょうが、そのような個人性が現れる際の基盤として、社会に所属する人たちが共通に受け継いだものがあるはずです。それが集合的主観、集合的客観です。ただ、この集合的側面は、ここが注意すべきところですが、あくまでも個人の側面です。ウィルバーが全てのホロンは四象限を持つと言うときには、このような個人の四つの側面を、個人につながる進化の過程で現れた全てのタイプの個的存在も持っていると考えているのだろうというのが私の解釈の一つです。ところが、私がウィルバーに関するエッセイを書くときには必ずと言ってよいほど引用してきました次のウィルバー・コスモロジーの四象限図を見ると、異なった状況が見えてきます。

図4-3(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)


 ここでは、上側象限は図4-2と同様に個的存在の主観的側面と客観的側面を表しているのですが、下側象限は、個的存在の集合的側面ではなく、個的存在がメンバーとして属す集合そのものになっています。そうしますと、この場合には、上側と下側は個的存在と集合的存在という異なるタイプのものを表しているので、個的存在はホロンの一つのタイプに過ぎず、集合的存在と言う別のタイプのホロンがあるとすべきだと思えます。ウィルバーもそのように考えて、上側象限のものを改めて個的ホロンと呼び、下側象限のものは集合的ホロン(社会ホロン)と呼ぶようにしたのだろうと私は考えます。
 こうして、ウィルバーは二種類の四象限モデルを作ってしまい、それらをきちんと差異化せずにたびたび混同し、矛盾した表現をするようになってしまったと言うのが、スミスの批判を扱った際に述べた私の意見です。もし図4-2の個的存在の四象限の下側(あくまでも個的存在の集合的側面です)を図4-3の四象限の下側の集合そのものと同じだと見誤ってしまい、進化の過程で現れた個的存在全てが、集合そのものを側面として持っていると考えたとしましょう。そうしますと、個的存在を全て集めて重ねればコスモスにある全ての個が表現できるだけでなく、いかなる集合も表現できてしまうはずで、コスモスを構成するホロンという基本要素は四象限を持つ個的存在とすればいいことになります。ところが、集合そのものが個の側面にすぎないのはやはりおかしいと考えますと、上側と下側は同じものの側面ではなく、異なるものを表していて、コスモスを構成する基本要素には個的ホロンと集合的ホロン(社会ホロン)の二種類があるとすべきだとも思えてきます。こういったことを整理しなかったため、あるときは個的存在のみが四象限を持つコスモスの基本要素、ホロンだとし、別のあるときには、四象限を持つわけではない集合的ホロン(社会ホロン)もあるとする混乱状況にウィルバーは陥っていたと私は考えたわけです。
 実は上側の個と下側の集合を同じものの二つの側面と考えられる視点も存在すると私は思います。例えば、人間と言う一般概念で意味されるものを考えてみてください。そのとき人間は一人一人の個人を指してもいるし、種としての集合を指してもいるとは思えないでしょうか。そうして、個と集合ということを、人間と言う一般概念が指す存在の、二つの側面としてとらえることもできるのではないでしょうか。そういう視点からすれば、個と集合とは、人間一般の両側面として扱われることも可能だと思えるのです。ウィルバーは、右下(客観的集合的)象限ではシステム論的な見方で全体を見ているのであり、それは相互作用する個の集合として原子論的に右上(客観的個的)象限に還元することはできないのだと述べることがあります。そのようなときには、存在に関する一般概念の、個と集合の二面性の考えが実は背景にあったのではないかとも私には思えるのです。第1章ではそのような観点から四象限説を説明しましたし、私自身はこの解釈が一番自然なものだと思っています。
 ゴッダードは、人間に関する四象限において、上側の象限は局所的な主観 (心あるいは意識)を持つ個的ホロンを、下側の象限は局所的な主観は持たない社会ホロンを表しているのだと見ます。すなわち、図4-2ではなく図4-3の立場をゴッダードは議論の起点にとります。そうして、個的ホロンにも社会ホロンにも必須な要素がそのモデルには欠けているとし、新しいモデルの探求を始めます。その概要を描写し、考察するのがこのエッセイの課題です。

ホロンのモデルが含むべき能力と構造の論理

 まず彼が注目するのは、ウィルバーが『進化の構造1』で提示した、ホロンが従う20の原則の2番目です。そこには、ホロンの持つ四つの基本的な能力として、自己保存、自己適応、自己超越、そして自己分解が挙げられています。
 自己保存と自己適応に関しては、ウィルバーの『進化の構造1』に次のように書かれています。

 自己保存 あらゆるホロンは自己独自の全体性や自立性を保存するために、自己の独自性を保とうとする力を見せる。水素原子は、適切な環境(文脈)においては、水素原子であり続けることができる。それが 志向性を見せていると拡大解釈できなくても、時間を超えてその働きの独自性(エイジェンシー)を保つのは確かである。すなわちそれは時間の変動を超えて同じであり続ける――時間を超えてアイデンティティ(自己同一性)を保つというもっとも単純な意味において、自己保存の力を発揮するのである。(p.68)

 自己適応 ホロンは単に自己を保存する全体として機能するばかりではない。それは同時に部分であり、部分であるからには自己を他のホロンに順応ないし適応させなければならない(同化ではなくて適応であり、自己創出(オウトポイエシス)ではなくて異質創出(アロポイエシス)である)。全体/部分であるホロンの部分性は、この適応の力に発揮されている。他のホロンの存在を認め、その存在している環境に適応する力である。(p.70) (引用者注.この引用文では、全てのホロンは全体でもあり部分でもあることが前提とされ、そして部分であることで全てのホロンは自己適応能力を持つとされるのですが、前章で述べましたように、部分になっていないホロンもあります。おそらくここでは、「部分である」は、全てのホロンが当てはまる「集合のメンバーである」ことも含んで使われていると思います。)

 そして、自己保存の能力による「自己の存在を主張し、自己を保存し、同化させる」性向と、自己適応の能力による「ほかに加わり、結合し、結びつく」性向を、ウィルバーはエイジェンシーとコミュニオンと呼ぶことにするのです。また、エイジェンシーとコミュニオンは反対方向の極性で、一方が強まると他方は弱まるという相反的な関係にあるとして、ウィルバーは次のように述べています。

 ……エイジェンシーが強まれば、コミュニオンは弱まる。その逆も同じである。すなわち、ホロンが自己の独立性を保とうとすれば、それだけ自己の全体性を保存することになり、より大きな、より広い全体のなかの部分あるいはコミュニオンとしての働きは弱まる(逆に、部分であればあるほど、全体性は弱くなる)。(p.76)

 そうして、ホロンが健全であるには、エイジェンシーとコミュニオンのバランスが取れていることが必要であり、バランスの崩れは病理につながる場合もあるとされます。
 四つの内の残りの二つ、自己超越と自己分解については次のように述べられています。

 自己超越(または自己変容) 酸素原子一個と水素原子二個が適切な環境で結び付くと、新たな、そしてある意味で今までにないホロンが出現する。それが水の分子である。これは単なるコミュニオン、自己適応、あるいは単に三つの原子の連合によるものではない。これは新しいホロンの出現として結実した変容である。異なった全体が一緒になって、新たな異なった全体を形成したのだ。ここには今までになかった創造的な力が働いている。………ヤンツとワディントンはこれを自己超越と呼んでいる。(pp.71~72)

 自己分解 (自己超越によって垂直に)積み上げられてきたホロンは、また崩れ落ちもする。予想できることだが、ホロンが「溶解」したり、「ばらばらに剥がれ落ちる」ときには、積み上げられてきたのと同じ過程をたどって(もちろん逆方向に)崩壊していく。(p.75)

 ウィルバーの考えによれば、人間を含むホロンは含んで超えるようにして発達していきます。それが自己超越の能力を持っているということです。また、発達したものは、必ず崩れ去ります。それが自己分解の能力を持っているということです。図4-3で言いますと、中央から延びる対角線の矢の方向に進化・発達のレベルが上昇することが自己超越であり、逆方向にレベルが下がることが自己分解です。それに対して、エイジェンシーとコミュニオンは、ホロンがあるレベルにおいて自己を保存する性向と、他の個と結びつき同化する性向とを表しています。そこで、特定のレベルを発達・進化の方向と垂直に交わる平面として考えますと、自己超越と自己分解は、平面に対して垂直にレベルが変わり、別の平面に移る能力と言えますし、エイジェンシーとコミュニオンは、特定のレベルを表す平面内での、水平方向に働く性向と言えます。
 このように、四つの基本的能力をホロンは持つということを踏まえて、ゴッダードは、ウィルバーの四象限モデルを次のように評価します。

 もしウィルバーがいかなるホロンにもあてはまる基礎的な構造を図示しているなら(すなわち、ホロン構造の四重の論理を図示しているなら)、左/右が内面/外面を描写し、垂直な階層(図3における1~13までのレベル)が部分/全体を描写するように、私たちは彼の図が水平的なエイジェンシー/コミュニオンをもまた描写するだろうと期待する。しかし、ウィルバーの四象限モデルの上側と下側の象限は、いかなるホロンにもあてはまる極性ではなく、明らかに二つの論理的に異なるタイプのホロン(把握の中枢を持つ個的ホロンと持たない社会ホロン)を描写している。(Holonic logic and the dialectics of consciousness 以下、ゴッダードの引用文は、断りがない限りこのエッセイからです)

 つまり、図4-3のような四象限図には、自己超越と自己分解の垂直な軸(図では中央から広がる対角線方向になっています)は含まれていますが、エイジェンシーとコミュニオンという水平方向の極性は含まれていないので、ホロン構造を表すものとしては不十分であり、しかもその極性は、上側象限の個的ホロンの構造にも、下側象限の社会ホロンの構造にも含まれなければならないとゴッダードは考えるわけです。さらにゴッダードは、ホロン構造のモデルを構成する側面や極性は、次の二つのホロン的な関係論理に従うとします。

(1)相補的関係( ‘Janus-faced relation’)
同じものを異なる認識論的な視点から見ているときに現れる二つの側面の間に成立する関係。一つのコインの表と裏とか、ウィルバーの四象限図における主観と客観などが例となります。ゴッダードによれば、二つの側面の間には、一方がより多大になれば他方もより多大になるという存在論的な関係が成立することになります。例えば、個人の主観性のレベルが上昇しより深度が増大すれば、客観的な脳の複雑性の度合いもより増大するというわけです。原語にあるJanus(ヤヌス)とは、頭の前と後に顔を持ったローマ神話に出てくる神の名です。

(2)極性的弁証法的関係( ‘Polar dialectical relation’)
前節に、「エイジェンシーとコミュニオンは反対方向の極性で、一方が強まると他方は弱まるという相反的な関係にある」と書きましたが、これが極性的弁証法的関係の例になります。人は相反する性質を同時に持つものだと思いますが、それらの一方がより強化されると、他方はより弱化するという存在論的な関係があれば、それが極性的弁証法的関係なのです。

 こうしてゴッダードは、ホロンのモデルでは、含んで超えるという論理に従う垂直方向の進化・発達の軸と、極性的弁証法の論理に従う水平方向のエイジェンシー・コミュニオンの極性が含まれなければならないし、ウィルバーの四象限モデルにある主観・客観の差異化あるいは個と集合の差異化を踏襲するときには、相補的関係性の論理も含まれることになると考えるのです。

ウィルバーの四象限モデルを個的ホロンのモデルと見なすことは可能か

ゴッダードは、ホロンのモデルを作成していくにあたって、まずはウィルバーの四象限モデルを個的ホロンのモデルと見なすことはできないかと次のように問いを立てます。


 「個的ホロン」(上側象限)と言う言葉は実際にはホロンのエイジェンシーを意味し、「社会ホロン」(下側象限)は、単に個的ホロンのコミュニオンに対する大まかな名前なのだと考えることで、ホロン構造の描像としての四象限モデルそれ自体を個的ホロンのモデルとして再解釈し保持し得るのではないだろうか?

 しかしそうするには論理的な困難があるとゴッダードは考えます。エイジェンシーとコミュニオンは極性的弁証法的関係にありますから、個的ホロンのエイジェンシーとされた上側の個的ホロンがより発達するなら、個的ホロンのコミュニオンとされた下側の社会ホロンはより退行しなければなりません。しかし一般的に言えば、より高度に発達した個人はより高度に発達した社会に生きているはずです。だからウィルバーの四象限モデルの上側と下側とを個的ホロンのエイジェンシーとコミュニオンと見なすと矛盾が生じるとゴッダードは主張するのです。
 私には、より多大であるとかより強化されるという意味に、より発達するということを含めていいのかどうかが気になります。ですから、これだけではゴッダードの主張が妥当なものかどうか私にははっきりしませんが、別に発達という事をからめなくても、次のようなことは言えると思います。もし互いの独自性を尊重する社会であれば、人々がより個人の独自性(エイジェンシー)を大事にして強調しているなら、それはより社会を強化していると言えるはずですから、個人のエイジェンシーとその社会は、個人のエイジェンシーと個人のコミュニオンのようには、一方が強化されると、他方は弱化すると必ずしも言えないであろうと。
 さらに、次のように、そもそも社会は個人の相互作用による結びつき(コミュニオン)に還元できないとゴッダードは議論します。

 ウィルバーの右下象限において、個的な有機体は実際相互作用をしている。しかし、時空間における物理的そして生物圏的な場はまた、個的ホロンの相互作用に還元できない「社会ホロン」を示唆する特徴でもある。この「社会ホロン」は、シェルドレイクの形態形成場(1995年)、ユングの集合的無意識(1959年)、ベイトソンの社会的な心(1972年)などのようなある種の広がりを持った場的な心( field-mind )の概念を含むだろう。……それで、ウィルバーによれば、二つのタイプのホロンが明確にあり、どちらもエイジェンシーとコミュニオンの両方のモードを通じて現れるのである。心理学者は諸個人を見、社会学者は社会を見る。心理学者にとって、社会は諸個人の複雑な所産である。一方社会学者にとって、諸個人は社会の所産である。どちらの見方も他に通じることはない。それらは同じ世界を理解するための異なる(極性的な)方法なのである。

 言及されていますシェルドレイク、ユング、ベイトソンの考えについては、極めて表面的なことしか私は知りません。しかし、自然における動物たちの共同体を個的ホロンの相互作用という文脈でとらえますと弱肉強食の社会となり、システム論的に生態系と考えますと食物連鎖によってはじめて維持される全体性が見えてくるというような、よく知られたことでも、個と社会は互いに還元できないという簡単な例になると思います。ゴッダードはこうした簡単な例は特に挙げてはいませんが、引用文にありますように、シェルドレイクなどの考えを根拠に社会は個とその相互作用に還元できないとし、ウィルバーの四象限モデル(図4-2ではなく図4-3の方)は、個的ホロンのエイジェンシーとコミュニオンを表しているとみなし得ないと結論します。そこで、仕切りなおして新しいモデルを探求するために、彼は個的ホロンと社会ホロンの分析をさらに進めることになります。

社会ホロンのエイジェンシーとコミュニオンとは

 ゴッダードの考えからすれば、個的ホロンにも社会ホロンにも、ホロンである限り、エイジェンシーとコミュニオンという極性的弁証法的関係があるはずです。もともとウィルバーは、先ほどの『進化の構造1』からの引用文からしても、個的ホロンを想定して四つの能力を考えていたと思いますので、個的ホロンに関してはその関係はすでに明らかだと思いますが、社会ホロンではどのように考えればよいのでしょうか。ゴッダードは次のように述べています。

  私たちは「社会ホロン」――結合力を持つ特定の世界空間(あるいは世界観)を伴う、特定の相互作用的なグループ――を、エイジェンシーとコミュニオンの両者のモードにおいて示す必要がある。社会ホロンのエイジェンシーは他の(同じレベルの)グループまたは社会からの区別である。社会ホロンのコミュニオンは、均一なグループ化からより広範でそして異質性をより多く含む文化への変化を結果的に伴う、他の社会と文化とのダイナミックな相互作用を指す。

 このように、社会ホロンのコミュニオンとエイジェンシーについての原則的な考えをゴッダードは明らかにします。彼は具体的な例は示していませんが、例えば鎖国時の日本と明治維新時の日本を比較しますと、文化の変容という文脈においては、前者は他の社会に対する独自性が強調されるよりエイジェンシー的な社会を、後者は他の社会とのダイナミックな相互作用を許容するよりコミュニオン的な社会を持っていたと言えるのかもしれません。では、社会ホロンと個的ホロンの間で、それぞれのエイジェンシーとコミュニオンはどのような関係にあるのでしょうか。

社会ホロンと個的ホロンの間でのエイジェンシーとコミュニオンの関係

 ゴッダードは次のように分析します。

 社会ホロンのエイジェンシーは、個人に発達を抑止するような圧力を及ぼす、その結合的な構造である。また社会ホロンのコミュニオンは、他の文化に対するその開放性である(人間に関しては、その開放性は、間部族的混合から、文化的に複雑な国民国家、そしてグローバルな文化への発達に関係している)。従って、私たちが階層的に(現代人の時代まで)上昇する際、社会ホロンはそのエイジェンシーを減じそのコミュニオンを増やし、一方個的ホロンはそのエイジェンシーを増やしそのコミュニオンを減じる。

 社会ホロンがエイジェンシー的だということは、その独自性そして一体性が強く、個人に互いに強く結びつくこと(コミュニオン的であること)を要求します。また、社会がコミュニオン的で他の社会と相互作用しやすいとき、他の社会の人々も含めて、独自性をもった個を(エイジェンシー的な個を)許容するようになっているはずです。こうして、エイジェンシーとコミュニオンの二極性は、個と社会の間では、個における場合あるいは社会における場合とは正反対の関係に形成されているのだとゴッダードは主張します。極性的弁証法的関係にある個のエイジェンシーと個のコミュニオン、そして社会のエイジェンシーと社会のコミュニオンは、一方がより強まると、他方はより弱まるという関係にあるのですが、個のエイジェンシーと社会のコミュニオン、そして個のコミュニオンと社会のエイジェンシーでは、一方がより強まるともう一方もより強まる関係にあるのです。
 ここで、相補的関係というのを思い出して下さい。それは同じものを異なる認識論的な視点から見るときに現れる二つの側面の間に成立する関係で、一方がより多大になれば、他方もより多大になるのでした。個のエイジェンシーと社会のコミュニオン、そして個のコミュニオンと社会のエイジェンシーも、一方がより強まると他方もより強まるのですから相補的関係だと言えるのではないでしょうか。(「多大」と「強まる」は英語原文では ‘more’ ということですので、ここでは同義としています。)
 しかし相補的な関係にあるのは、同じものの二つの側面です。個と社会とは異なるタイプのホロンであり、完全に別なものと思われます。ですから相補的とは言い難いと思います。ところがゴッタードは個のエイジェンシーと社会のコミュニオン、そして個のコミュニオンと社会のエイジェンシーは相補的関係にあると言うのです。それは彼が、図4-3のようなウィルバーの四象限図の上側と下側、個と社会を、異なるタイプのホロンとしながらも、同時に一つのものの二つの側面とも見ているからです。
 先に引用しましたゴッダードの文章に「心理学者にとって、社会は諸個人の複雑な所産である。一方社会学者にとって、諸個人は社会の所産である。どちらの見方も他に通じることはない。それらは同じ世界を理解するための異なる(極性的な)方法なのである」という部分がありました。これは、社会と個人は同じ世界という一つのものを異なる視点で見た二つの側面だと言っているのと同じです。別の個所では「個/社会の関係は、同じものを異なる視点で眺め象っているということである。この意味で、私たちは相補的な極性について語っている」とはっきり述べています。
 では、これまでに述べてきましたことから、ホロン構造のモデルとはどのようなものだとゴッダードは結論するのでしょうか。

ゴッダードによるホロン構造のモデル

 ゴッダードは、ウィルバー・コスモロジーを示す図4-3のように、個と集合とが含んで超えるように進化・発達していくことを認め、そして進化・発達の軸と垂直に交わる、各レベルの水平な平面には、個的ホロンと集合的ホロンが相補的関係性において含まれる四つの象限があることも基本的には認めます。ただ、ウィルバーのモデルでは、次の二つの条件が満たされていないので不十分だとするのです。

①四象限の上側の個的ホロンと下側の社会ホロンのそれぞれに、エイジェンシーとコミュニオンの極性が組み込まれていること。
②個的ホロンと集合的ホロンの相補的な関係は、より正確には、エイジェンシー的な個的ホロンとコミュニオン的な社会ホロンの間で、そしてコミュニオン的な個的ホロンとエイジェンシー的な社会ホロンの間で成立しているということ。

 そこでゴッダードは、次のようにウィルバーの四象限を含む平面を改造します。まず表と裏の両面を創り、それぞれにエイジェンシーの極性とコミュニオンの極性を割り当てます。ただし、上側と下側とで、割り当て方を逆にします。図4-4では、上側では表側にエイジェンシー、裏側にコミュニオン、そして下側では表側にコミュニオン、裏側にエイジェンシーを割り当てています。

              図4-4


 こうして次に、上側だけを見ますと、表裏で個的ホロンのエイジェンシーとコミュニオンの極性的弁証法的関係が、下側だけを見ますとやはり表裏で社会ホロンのコミュニオンとエイジェンシーの極性的弁証法的関係が、表だけ上下合わせて見ますと個的ホロンのエイジェンシーと社会ホロンのコミュニオンの相補的関係が、裏だけ上下合わせて見ますと個的ホロンのコミュニオンと社会ホロンのエイジェンシーの相補的関係が成立していると見なすのです。これで、必要とされたことが組み入れられたことになります。
 以上で、ゴッダードがウィルバーの四象限図という大枠をどのように改造するかという事は述べられたと思いますが、彼のエッセイでは、主観と客観との間に成立する認識論的関係が個的ホロンと集合的ホロン(社会ホロン)との必然的結びつきを基礎づけているという独特な見解が示されていますので、それについて考察していきたいと思います。改造された大枠をさらに基礎づける話です。

主観と客観の認識論的関係に関するゴッダードの見解

 人は、知覚、思考、観察などを含む行為を意図したり、意志したり、経験したりする者として主観であり、別の主観である他者によって知覚、観察される身体およびその行動として客観でもあることは、とりあえず多くの人に認めてもらえるのではないでしょうか。そして、主観としての意図、意志、経験と言うのは、その人自身でなければ知り得ないように思えますので、他者が知覚、観察の対象とし、知ることができる身体およびその行動が属する客観的な世界のどこにもないというのはもっともに思えます。ゴッダードはこの、人の主観であることと客観であることとを、同じ人を異なる二つの視点から見たときの二つの側面だと考えます。つまり、コインの表と裏のように、相補的関係にある二側面だと考えるのです。そうして、ある人の主観的側面と客観的側面は、その人において完結できるものではなく、他者との関係が不可欠になっているとゴッダードは考えを進めます。それは、ある人の客観的側面とは、他者の視点から知覚、観察される必要があり、さらに、そのとき他者の主観において現れている知覚や観察の体験と同値であると彼は考えるからです。そしてゴッダードは、このような状況を、二つの個的ホロンで構成される世界に凝縮して、次のように述べています。引用文中の存在物entityは個的ホロンを指していると考えてください。

 存在物(エンティティー)x(原子、有機体、人間)がもう一つの存在物yを知覚する時、yは対象として現れ、そしてxは経験として現れ、その経験内容は、対象yがそうであるところと主張される描像に直接に一致する。同じようにして、存在物yは存在物xを知覚する。存在物の本質、有様、あるいは存在は、他の存在物から知覚される者としては「客観的」であり、他の存在物を知覚する者としては「主観的」である。存在物双方が主観/客観であるのは、それらの間の関係の本質に依拠している。この相互的関係は非二元的な生起または事象である――換言すれば、それは二つの部分、すなわち相互作用する心と物質ではない。

 この引用文だけでは、少しわかりにくいかもしれません。そこで、ゴッダードがこのような状況を示すために提示している図を参考に話を続けたいと思います。

                図4-5


 図4-5の各ホロンの左右の部分は、主観的側面と客観的側面を表しています。ただし、客観的側面は他者の主観による知覚によって生じますので、xとyしかホロンがないとすれば、xの客観的側面はyの主観的側面と不可避的に関係し、yの客観的側面はxの主観的側面と不可避的に関係することになります。そのような必然的関係を図では二つのホロンを結ぶ円錐形で表しています。つまりゴッダードは、ホロンが主観/客観(主観と客観の相補的な両側面をもった存在をこのように表現することにします)であるためには、複数であることが必要だと、その集合の存在の必然性をも主張しているのです。
 ここでこういう疑問を抱いた方もおられるかもしれません。自分の主観で自分の客観的身体を見るときには、他者が見ているのではないのに客観的な側面が現れると言う矛盾が生じることにならないのかと。それに対してゴッダードがどう答えるのかは確かめようもないのですが、私は彼が、自分で自分の身体を見るときには、他者としての視点で知覚していると答えたのではないかと想像します。それは彼が、他者の視点から見られた姿だということを客観の第一義的な意味としていたと考えるからです。自分の指を噛むと痛いのに、毛布を噛んでも痛くないというようなことから、幼児が身体的自己を発見していくというピアジェの考察についてウィルバーは述べていますが、そういう事例は、自分の身体を基本的には他者の視点で認識していたからこそ自己としての発見も起こり得たことを示していると私には思えます。ですから、ゴッダードの、客観とは他者の視点がなければ成立しないという考えは、自分で自分の身体を見る場合も含めて自然な見解のように私には思えます。
 また、彼の見解では、一方の客観は他方の主観と同値ですから、カントのように所与の存在としての物自体とかヌーメノンとか呼ばれる形而上学的存在を知覚の背後にある真なる対象として設定する必要性は見事に消されています。また、一方の主観と他方の客観とのこの結びつきはあくまでも論理的な結びつきであり、相互作用による言わば後天的な結びつきとは全く異なるものです(ちなみに、ゴッダードの考えに従うと、幼児が身体を自分であると発見するのは後天的なことであり、主観/客観関係に新しい要素を付け加えることになるのだと私は思います)。
 ところで図4-5では、主観的側面(左)はさらに外的outerな部分と内的innerな部分に分けられています。これについてゴッダードは次のように述べています。

 より正確なモデルでは、左の「外的」経験は左の「内的」経験から区別される(この区別は私たちが正統的なデカルト的分岐と呼んで図の左に描かれるべきだとしたものである)。そして、左の「外的」とは、他者がその右で客観性として現れる仕方である。左の「内的」は左の「外的」と一緒に、他者の左の「外的」として客観的に右に現れる。すなわち、一方の右の全描写は、他方の左の外的と同値である。……知覚/存在は、左の「外的」と他者の右との相互的含意関係である。左の「内的」は、他者には対象として現れるが、他者に対して直接的な知覚関係には全くない。このように私たちが通常「心」と呼ぶもの(現に「客観的なリアリティ」を示しているのではない全ての「主観的」経験内容――すなわち非知覚的心)は、他者にとって論理的に未知なままである。客観化して間接的に知る以外に、他者の精神的経験を直接に感知することについて語ることは、不可能なだけでなく非理知的なことである (少なくとも、トランスパーソナルな意識が高次で統一的なレベルからその区別を包含するまでは)。……こうして、論理的に必然的な経験の私秘性(プライバシー)が帰結する。

 ゴッダードは、主観には、知覚をベースにした客観と結びつく部分と、純粋な思考・イメージに関係する極めて私的な、通常心と呼ばれる部分があるとしているのです。デカルトの議論で言えば、前者は不確実な外部認識に関する部分であり、後者は間違えようのない確実な自己知に関する部分です。そのため図4-5では、主観的側面(左)はさらに客観と結びつく外的outerな部分と思考やイメージに関係する内的innerな部分に分けられているのです。そして、コインの表を見ているときには裏は見えないように、ホロンの内的な部分は他者には決して知られ得ないのです。ただ私は、思考やイメージや知覚などの心理学的行為すべてには、チャーマーズが『意識する心』(ディヴィッド・J・チャーマーズ、林一訳、白揚社、2001)で述べていますように、客観的な世界での因果的関係と主観的な現象的特性の両者が伴っていると思いますので、本当に私秘的な部分としての主観的側面の内的な部分には、心理学的行為の現象的特性(体験の当事者であることで持つ質感のようなもの)を当てはめるべきではないかと考えます。これに関連したことは、6章で検討します。

個の主観・客観の認識論的関係は個のエイジェンシーと集合のコミュニオンの基礎である

 ホロン的論理の見地からは、単独の個人が別の主観/客観的個人との関係における以外に主観/客観として論理的に存在し得ないように、全ての個人は(そして、全ての束の間の二者関係さえ)社会と呼ばれるより大きな構造的な全体に埋め込まれている。

 ゴッダードはこのように述べていますが、主観/客観の認識論的関係によれば、主観的側面と客観的側面を持つ個的ホロンは、その主観的側面の外的部分には他者の客観的側面との論理的結びつきがあり、その客観的側面には他者の主観的側面の外的部分との論理的結びつきがあり、必ず他者とともに存在しなければならないことになります。すなわち、主観と客観の両側面を持つ個的ホロンがたった一つ存在するという事はありえないので、複数の個的ホロンが存在しなければならないことになります。前節の個的ホロンが二つしかないモデルでは、必然的な結びつきを持つ対が一つだけでしたが、無数の個的ホロンがある現実では、進化の過程で実現した各レベルで、実現しているかあるいは実現可能な無数のこのような二者による対があり、それらが複雑にからまりあって集合を創り出していると考えられそうです。そうして各レベルでの個的ホロンが対をなすことの必然性に、個と集合が世界の相補的な二側面であることの根拠の一つを見て取れると思います。
 ところで、この主観/客観の認識論的関係性のもとにある個と集合は、基本的にエイジェンシー的な個とコミュニオン的な集合であるとゴッダードは主張します。それは、「特定の主観は、「他者」を客観として知覚することを通じて、自身を独自なものとして経験する」からです。主観/客観であるとき、個は他者との差異化において存在していて、そこにエイジェンシー的個の根源を見ることができるというわけです。そうして、基本的にはエイジェンシー的で独自性を持つ主観/客観としての個をメンバーとする社会は、異質な個を許容しやすく、そのため他の社会と交流がしやすくコミュニオン的であると考えられるのです。従って主観/客観の認識論的関係に基づく個と社会の相補性には、エイジェンシー的な個とコミュニオン的な社会との相補性がベースにあることになります。
 そうしますと、コミュニオン的な個とエイジェンシー的な社会との相補性の方は、主観/客観として基本的にはエイジェンシー的な個が、相互作用を重ねていくことで二次的に発生したとすべきなのでしょうか?実はゴッダードは、主観が直接に他者の主観を認識する主観/主観モードの共感的結びつきもあるとしていて、そこに、コミュニオン的な個とエイジェンシー的な社会との相補性の根拠があると論じています。

個の主観/主観の認識論的関係は個のコミュニオンと集合のエイジェンシーの基礎なのか

 個的ホロンの主観/客観的な知による二者関係では個は客観を通じて他者を見るのであり、他者の主観にある私秘的な部分は、基本的には自分に置き換えての推測的なアクセスしかできないことになります。それに対してゴッダードは、「主観性の間での直接的な共鳴」、「対の間の媒介を要しない関係的共鳴」、「私的内的部分の結合的共鳴」と彼が呼ぶ、主観間の直接的な(主観/主観的な)知による二者関係があると言います。
 そうしますと、主観/主観の認識論的関係によって、他者のその人でなければ知り得ない(私秘的な)主観に関する直接的な知が及ぶ範囲では、個的ホロン同士は同一者として交流します。そのため、このモードでは、その知の範囲において個の結合は一体にまで高まり、完全にコミュニオン的になります。また、このような直接知で結びついたコミュニオン的な個の集合、社会は、その一体性を共有しない個をメンバーとする別の社会とは明確に区別できるでしょうから、極めてエイジェンシー的になるはずです。このように、個の主観/主観の認識論的関係が、個のコミュニオンと集合のエイジェンシーの基礎になることを説明できると思います。ゴッダードは次のように述べています。

 そのエイジェンシー的な形態における社会ホロンは、対の間の媒介を要しない関係的共鳴によって構築される。集合的に共鳴し、共感的に調律された「場的な心(field-mind)」あるいは「グループの心」を形づくる無意識な関係である(個の主観/客観的な意識の観点からは無意識ということである)。大いなる連鎖のより高い心的-自我のレベルでは、この関係はいっそう無意識的になり(すなわちユングの集合的無意識)、支配的な個的ホロンおよび心的-文化と呼ばれる集合的間主観的意識によって置き換えられている。

 この引用文からすると、ある集団に共有されて、あまりに当たり前で無意識的になった主観的なものが、主観的共感の要素になっているのだと思います。ゴッダードは別のエッセイで、主観/主観の知について、「対象としての彼あるいは彼女の表面的な経験を超えて、あるいはその背後に、他者を知る仕方を意味する」( Quadrants Re-Instated , A response to Andrew Smith )とし、直観、芸術などを例として挙げています。そうしますと、彼が言う主観/主観的な知において得られるものは、かなり一般的なもので、ポストモダン的に言えば、共有された文脈という事になるかと思います。
 例えば、人間の社会であれば、メンバーが共有している言語が織り成す意味体系や、メンバーが共有する文化的世界観が該当すると思います。また人間も動物も含めた集団においては、共有されている感情の生じ方や本能的な衝動の生じ方が該当すると思います。それらはほとんど無意識のまま、個的ホロンが主観/主観的に共感しているとき、他者の主観に背景的に作動しているとして扱われているのだと思います。そして、中でも非常に古くから共有されているものが、ユングの集合的無意識のようなものになるのではないでしょうか。そしてこれは、ウィルバーの四象限図の左下にある間主観的なものと基本的に同じなのではないでしょうか。ところが、ゴッダードはそう考えてはいないようなのです。彼の述べていることを引用してみます。

 モダニズムは主観/客観的な知の仕方に基づいているので、社会の次元のコミュニオンは主観/客観関係の派生物となる。人間の個の間の間主観的対話は主観/客観的関係によって定義されるのだ!先に述べたように、原初的なエイジェンシー的社会の共有的な主観/主観的本質は、ウィルバーが自我と自我の結びつきである「私たち」として描写した、個的な主観/客観に基づいた間主観的な網によって覆われた。そうして彼の左下象限は、客観化されずに主観/主観的に共有される、解釈と価値観に関する解釈学的な領域という意味を帯びる。しかしこれは、同じ象限の範囲(すなわち社会ホロンあるいは下側の象限)に位置づけられるものの、主観/客観の差異化の後でのみ可能な主観/主観的結びつきである。

 私はこのゴッダードの考えには疑問を抱きます。ただし、疑問を抱くのは、ウィルバーの間主観的な側面が主観/客観的な知に基づいているという部分ではありません。それはおそらくそうなのでしょう。私が疑問を抱くのは、主観/客観の差異化が原初的な主観/主観的な知の成立より後であるかのように考えていることです。しかもおそらくモダニズムで初めて成立したと考えているらしいことです。ゴッダードは、主観/客観の差異化と、その差異化の自覚ということを混同しているのではないでしょうか。主観/客観的な認識論的関係にある個的ホロンを、前に引用しました文章の中で、「存在物(エンティティー)x(原子、有機体、人間)」と表現し、原子にも有機体にも当てはめていたのはゴッダード自身です。確かに主観/客観の差異化の自覚はモダニズムの特徴なのでしょうが、差異化自体は宇宙発生の初期、遅くとも原子登場のときには生じていたと彼自身考えるはずです。ですから、彼が主観/主観的とする知が、実は主観/客観の知によって構築されたものにすぎないと言う可能性はあるだろうと思うのです。
 例えば私が森にハンティングに行き、私が向けた銃口を見て、眼を見開いた鹿の恐怖の感情を、鹿と共有する感情の生じ方を無意識的に使って共感的に知ったとしても、一方でそれはその鹿自身になってその体験を知ったと言うこともできそうですが(主観/主観的な知)、進化の過程も含めた外部経験の記憶(主観/客観的な知)から私や他の人や動物が共通して蓄積したもの(本能を初め様々な認識のツールを含む)に基づく、私自身の体験の知(ゴッダードが考えるところのウィルバーにおける間主観的知)として扱うこともできそうだと思うのです。
 ただ、トランスパーソナルな現象では、本来的な主観/主観的な知であると認めざるを得ない場合があると思います。主観/主観的な知(直接の他者の主観の知)とは、他者の主観の私秘的な部分を知ることです。ゴッダードはそれを思考とかイマジネーションとか、外部知覚にかかわらない部分に関するものと捉えています。しかし私秘性とは、外部感覚的なものであろうが感情や思考であろうが、体験する当人による自己知には他者には得られない面が必然的に伴うことにつきると私は思います。そうしますと、主観/主観的な知は他者の体験をその者自身として体験することによる、本来ありえないはずの知となります。例えば私が友人のAさんの思考体験をAさん自身として体験して知るということがあれば、それが主観/主観的な知の一例になると思います。ともかく個を超えた知ですから、トランスパーソナルです。テレパシーのような超能力は、そのようなことが実現する場合なのだと思います。そしてこのような知は、先ほどの鹿の場合のように、外見から判断し、蓄積された無意識的記憶をもとに自分の体験として解釈したとは言い難い場合があると思うのです。鹿では外面と内面がほぼ素朴に対応していると思いますが、人間であるAさんの場合、非常に険悪な顔をしながら楽しいことを考えていることもあり得るでしょうし、にこにこしながら実は誰かを殴ってやろうなどと怒りに燃えている場合もあり得るでしょう。テレパシーの場合、その内面を知るというのがその能力のあり方なわけですから、外面的な表情には惑わされずに、そのような、意外な心根を知ることができるはずです。ですから、そのような内面と外面とが例外的な仕方で伴っている行為の場合も含めて、十分にテレパシーなどの現象のデータが得られたときには、少なくともトランスパーソナルなレベルでの、主観/主観的な知のあり方の存在は否定できなくなると思うのです。しかしそうであっても、それ以前のレベル全てで、共感的な知は、主観/主観的な知のあり方が根源になっていると結論づけることはできないと思います。
 ゴッダードの考えの正否にかかわらず、図4-4を少し詳しくした、彼の考えるホロンモデルのやや詳細なものは何かの参考になると思いますので、図4-6として挙げておきます。

                 図4-6

 

ゴッダードの主観/客観の論理でコスモスの起源を考える

 ゴッダードの主張する主観と客観の間の認識論的関係性のもとで、ウィルバーのコスモロジーを見直すとどうなるでしょうか。およそ138億年前に客観的宇宙は始まったとされますが、客観にはそれを他と見る主観が伴います。従って一切の差異化のない無限定な空に客観的宇宙が始まったとしますと、認識の視点が同時に現れていたことになります。認識といっても、思考も概念もイメージも五感もない、多分私たちが母親の胎内にいたときに持っていた何らかの知の仕方よりも原始的な、ウィルバーがホワイトヘッドの言葉prehension(把握)で示そうとしたような働きを持つ視点が(主観が)発生したということです。コスモス(この時点から空ではなくコスモスと呼ぶことにします)が、一方で主観として、他方で客観(他)として現れたわけです。ウィルバーが言うところの原初の二元論ということに対してはこういう解釈も可能ではないかと私は思います。
 宇宙物理学によれば、間もなくして無数の素粒子が登場するようですが、それらはそれぞれが個的ホロンの客観的側面であるとするなら、それと相補的な無数の視点(主観的側面)が登場し、互いを客観的世界のなかに他として把握し始めたということになります。そうして、無数の主観/客観の認識論的対が複雑に重なり合うことで、より複雑な認識能力を伴う視点を持つ個的ホロンが登場し、個的ホロンの新たなタイプの対を創り出し、コスモスが無数かつ多様な主観として、自らの様々な客観的姿を見るようになったとしますと、これがコスモスの進化の基本的な有様であり、私達も含む個的ホロンは、その主観、その視点において、サングラハ教育・心理研究所の岡野主観に倣って、コスモスの自己認識器官になっていると言えるかと思えます。ウィルバーがウィルバー5で「全ては視点である」と言うときに伝えようとしたことの中にはこのような考えも含まれていたと私は思います。また、高等生物、特に人間は、主観として他を見ることでコスモスとしての自己認識をおこなっているだけではなく、他として見ている客観的世界の中に自分である身体を自覚的に認識していることで、無意識的に自らをコスモスと同じような存在であると主張しているようにも思えます。コスモスを神とするなら、人間はその存在において、自分は神を象っていると主張しているように思えます。
 以上はしかし、主観/客観という枠組み、視点に基づいた議論に過ぎませんから、次のようなゴッダードの考えが結局は当てはまると思います。

 私たちは私たちの描像が、ウィルバーのもののように、ホロンの論理に基づいて「リアリティ」を地図化していることを知る必要がある。何かがホロンであるという事は、それが視点に基づいてこれまたはあれとして「見られ」得るということである。しかし私たちが「見られ得る」と言うとき、私たちは(科学において普通そうであるように)三人称の視点を取っている。すなわち、ホロン的論理(私たちの地図)は三人称の視点からの「リアリティ」の地図化なのである。それ自体が個的な主観/客観のエイジェンシーに支配されている――すなわち、私たちの地図の諸刻面の一つから構築された描像である――この三人称の視点こそが、主観的/エイジェンシー的/個的視点なのである。三人称の視点に特権を与えるというこのことこそが、私たちがトランスパーソナルの敷居を跨いで進む時、道を譲り始めるものなのである。

 四象限という枠組みがどんなに根本的なものであっても、それは主観と客観の差異化、すなわち原初の二元論に基づく一つの視点に過ぎないわけです。その二元論を統合し、非二元的な空という本質を知るには、おそらくトランスパーソナルな体験が必須になるのでしょう。前回のスミスと比べますと、今回のゴッダードはウィルバーのモデルに対して好意的です。その違いは、ウィルバー・コスモロジーに対するゴッダードの批判の焦点(四象限の基礎づけ)がスミスの批判の焦点(客観的な進化)と違っていることによるのではなく、ゴッダードがウィルバー同様にモデルをトランスパーソナルあるいは非二元につなげようとしているのに対し、スミスが事実上それはモデルには挿入できないものだとして除外していることによるのだと私には思えます。
 しかしいずれにしろ、スミスの批判は、科学的な知見に基づく興味深いものだったと思いますし、ゴッダードの批判は、主観と客観、個と集合とに認識論的な基礎づけを試みており、これもまた極めて興味深いものでした。そうしてそれら力のこもった批判をもたらしたということだけでも、私にはウィルバーの功績には多大なものがあると思えるのです。