第3章 ウィルバー・コスモロジーにおけるホロン階層の問題点と対案――スミスによる批判

 アンドルー・P・スミス(Andrew P. Smith)のウィルバー・コスモロジーに対する批判と代替案に関するエッセイは、フランク・ヴィッサーが主宰するIntegral Worldに多数掲載されています。その中から、次のものを参考にまとめました。

・A one-scale model of holarchy and it's implications for four strand theories of knowledge acquisition(Response to Edwards) , September 2000
・The spectrum of holons (Response to Kofman) , January 2001
・All four one and one for all : A (Somewhat Biased) Comparison of the Four Quadrant and One-Scale Models of Holarchy , February 2001
・Why it Matters : Further Monologues with Ken Wilber (December 2001)
・Wilber's Eight-Fold Way: How Many Sides Does a Holon Have? May 2003
・The Pros and Cons of Pronouns: My View of My View of Edwards' View of Wilber's View of Views, July 2003
・Contextualizing Ken, A Review of Jeff Meyerhoff's Bald Ambition, September 2004

 スミスの批判は、私がウィルバー・コスモロジーに抱いていた疑問と重なる部分も多いので、この章は、私自身が考えてきたことなども加えて論じました。また、Integral Worldの著者紹介によりますと、スミスは分子生物学、神経科学、薬理学の学歴を持ち、電子書籍 Worlds within Worlds と小説Noosphere IIの著者だそうです。

批判の対象となったウィルバー・コスモロジーのホロン階層を振り返る

 批判の対象となったホロン階層を振り返りたいと思います。図3-1は、第1章でも提示しましたウィルバー・コスモロジーを簡略に示したおなじみの図です。大枠の四角形を上下左右に分割してできた四つの領域は、個的外面(右上)、個的内面(左上)、集合的外面(右下)、集合的内面(左下)という、コスモス(世界)の四つの側面(象限)を表しています。外面は客観的ということであり、内面は主観的ということです。
 右上の部分に注目していただきますと、対角線に沿って、原子、分子、原核細胞(あるいは原核生物)、真核細胞(あるいは真核生物)、神経系を含む有機体(原文ではneuronal organismsとなっており、訳本ではそれを神経組織としています。しかしorganismは組織tissueや器官organなどの下位階層を含む有機体です。そこで、このエッセイでは「神経系を含む有機体」とします)、神経管(原文ではneural cordで、おそらくneural tubeと同じものを指しているので、脊髄の原型が形成される段階を示しているものだと思います)、脳幹、辺縁系、新皮質、複合新皮質……という系列が書き込まれています。これらは、宇宙が始まって以来の、客観的な個的存在の進化の系列を表現しています。ところで、これは個的外面ですから、ある存在の四つの側面の内のたった一つを表しているにすぎません。例えば段階1ですが、個的外面では原子ですが、別の側面で同じ段階を見ていきますと、左上個的内面の把握、右下集合的外面の銀河系、左下集合的内面の物質的とありますから、これら四つの側面が揃って初めて段階1の存在となるわけです。

図3-1 (『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)


 もう一つ例を挙げてみますが、右上象限で段階10に複合新皮質とありますが、これは人間に進化することで初めて現れた個的外面です。同じ段階のその他の側面には、個的内面の概念、集合的外面の部族的/村落および鍬農耕的、集合的内面の魔術的とあります。人間に進化して個的外面で複合新皮質を持つことで、その個的内面では概念を駆使できる認識能力を持ち、集合的外面では部族を形成して鍬農耕的な生産形態を持つ社会ができ、またその社会の集合的内面では呪文などが重要性を持つ魔術的な文化が見られるということです。そしてこれら全ての側面が揃って初めて段階10の存在なのです。
 ウィルバーは、進化の各段階に現れるこれら四つの側面を持つ存在をホロンと呼びます。そうして、これら全段階の全ホロンが集まって、コスモス(世界)はできているとします。
 このホロンについてもう少し詳しく見ていきます。ウィルバーがホロンのあり方を説明する際によく提示する例は、個的外面での原子と分子の関係です。例えば水分子を取り上げてみます。水分子は水素原子二つと酸素原子一つを含んでいます。そして、原子一つ一つが独立した粒子(個)としてふるまうように、水分子も独立した粒子(個)としてふるまいます。このときウィルバーは、分子は原子に対して全体であり、原子は分子に対して部分であると言います。そして、全体である水分子は、生命体が存在するための重要な物質となったりして、部分の水素原子や酸素原子がばらばらではなしえない役割を果たします(そういう意味で全体としての水分子は、部分としての水素原子や酸素原子を超えています)。
 このように、分子は原子を含んで超えた全体とみなされるのですが、その分子は、進化の過程のさらに先で登場する細胞という個に対してはその部分でしかありません。そうしますと、分子は全体であると同時に部分でもあるので、「全体/部分」なのだとウィルバーは言います。ここまで、原子、分子、細胞というホロンの個的外面における系列の一部を取り上げ、含んで超えるという関係性を見てきましたが、それに続く系列全てに関しても、またその他の象限における対応する系列に関しても、同じことが言えるとウィルバーは主張します。そして、四つの象限を持ったホロンとは、進化の過程で含んで超えて登場してきた「全体/部分」なのだとします。
 この含んで超える系列における、全体であり部分であるということから、より進化した高い段階の(高次の)ホロンとより低い段階の(低次の)ホロンの間の非対称関係が帰結します。分子と原子の関係で言いますと、もし低次の全ての原子がなくなったとしたら、より高次の分子は原子からできているわけですからやはりなくなってしまいます。それに対し、高次の分子が全てなくなったとしても、分子を構成していた原子はばらばらになって存在し続けるでしょうし、もともと分子の一部となっていない低次の原子はたくさんあったわけでしょうから、原子がなくなるわけではありません。一般化しますと、低次のホロン全てがなくなったらより高次のホロンも全てなくなるが、高次のホロンが全てなくなっても低次のホロン全てがなくなるわけではないという、低次と高次との非対称関係がホロンにはあるというのです。この非対称関係は、全体は単なるメンバーの集まり(集合)とは違うことを示すためにも使われます。
 それは、こういうことです。集合は図3-1の下象限にあります。右下象限で見ていきますと、原子の集合としての銀河、原核生物の集合としてのガイア・システムと系列は進みます。ウィルバーによれば、個とその集合とは一つの存在の、そのレベルにおける別の側面なのですから、個を全てなくせば集合もなくなり、集合をなくせば個も全てなくなるという、部分と全体の間の非対称関係とは異なる、対称的な関係があることになります。例えば、原子全てをなくせば銀河もなくなり、銀河全てがなくなれば原子もなくなるだろうという主張です。そしてこの相違から、その個の集まりが全体なのか集合なのかを識別できるのだと主張します。そして、人間とその社会の関係は個と集合の関係にあり、人間とその細胞との関係は全体と部分の関係にあるとウィルバーは想定しています。

全体/部分?

 以上述べてきました、ウィルバーによるホロン階層の理論に関して、まずは私自身の疑問について取り上げ、かたづけておきたいと思います。ウィルバーの著作では、ホロンは全体かつ部分(全体/部分)であるとされるのですが、この定義は不完全だと私は思います。部分でないホロンもたくさんあるからです。
 例えば酸素原子と水素原子を考えてみてください。それらは、水分子の構成要素になっていたり、その他様々な分子の構成要素になっていたりする場合が多いのでしょうが、しかし分子の一部ではない状態で、宇宙空間をさまよっている場合もあるでしょう。また、金属原子では、通常分子を作らずに原子のまま集まって固体をなす場合が多いわけです。そしてスミスがたびたび指摘しているように、ヘリウムなどの不活性原子は分子の部分にはならないのです。細胞の場合でも、有機体の組織や器官の一部になっているものもあれば、単細胞生物として部分にならないものもあるわけです。また、もし現時点で人間を含んで超えるような個的存在が登場していないとするなら、全ての人間は全体ではあっても部分ではありません。将来人間あるいは複合新皮質を下位レベルの部分として含む人間より高次な存在が登場する可能性を否定できないだけです。そうしますと、ホロンとは、「全体かつ部分である、または全体かつ部分になる可能性のあるもの」とでも定義すべきではないでしょうか。いずれにせよ、ウィルバーのように、ホロンとは全体かつ部分(全体/部分)であるとするわけにはいかないと思います。
 しかし、何故ウィルバーはこれほど明らかな誤謬に陥ったのでしょうか。ウィルバー流のホロン階層の考えは『進化の構造』(松永太郎訳、春秋社、1998年。原書は1995年)で初めて明確にされたと私は認識していますが、そこでは、時に、全体の一部であることと、集合のメンバーであることとの混同が見受けられます。どの個も集合のメンバーであることは自明であるとするのがウィルバーの四象限の考え方ですから、全体を集合と取り違えると、どの個も必ず全体の部分になっているとしてしまうでしょう。もともと個というのはその統一性のゆえにそれ自身が必ず全体性を持っていますから、結局どの個も全体であり部分であるとなってしまいます。さらに次の節で述べるような別の混乱から、個をホロンと取り違えてしまえば、最終的に「全てのホロンは全体であり部分である」という言明に至ります。このようにして、誤謬に至った経緯を一応説明できると私は思います。
 しかしやはり腑に落ちない気もします。「集合と個」と「全体と部分」の違いを強調したのはウィルバー自身だし、いつまでも気づかないはずはないと思うのです。そうであればどこかの時点でウィルバー自身がはっきり混乱について言及することがあってよかったと思うのですが、私にはそのような記述を見た覚えがありません。何か私には思いつかない別の理由があるのかもしれません。

集合的象限は個の側面なのか、それとも個と相補的な関係にある側面なのか

 ウィルバーは、個的ホロン、社会ホロン、文化ホロンという象限ごとにホロンがあるような言い方もします。また、それら種々のホロンの中で、四つの象限を持つのは個的ホロンだけであるというようなことも述べたりします(例えば『インテグラル・スピリチュアリティ』p.367)。しかし、ホロンとは、四つの象限を持つ全体/部分であるとするのが基本の考え(例えば『進化の構造1』p.207)だとしますと、象限ごとにホロンがあるということは、それとは完全に矛盾した解釈ではないでしょうか。また、個的と形容されたホロンが、集合そのものを表す集合的側面も含めた四象限を持つというのも、矛盾した表現に思えます。
 なぜウィルバーはそのような首尾一貫しない記述をしたのでしょうか。スミスは、個の集合的側面と、集合的存在そのものとの差異化をウィルバーはできていないと指摘していますが、そのことが矛盾した記述に陥った主要な原因なのだと私は思います。
 個人を考えて見ます。個人ですからもちろん個的なのですが、人には社会のメンバーであらざるを得ない側面がたしかにあります。例えば言語を使用することは、人としての根本的な特徴だと思いますが、言語でコミュニケーションをとっている社会で育たない限り、言語を習得することはありえないと思えます。そうしますと、個人には、言語的社会という人間の集合に属しているという側面が必ずあるはずです。しかしこの個人の集合的側面とは、あくまでその人と社会とのかかわりでその人が持つ側面であり、集合そのもののことではありません。しかしウィルバーは、この個人の集合的側面を、集合そのものと混同したまま話を進めてしまったと思われます。では、本来ウィルバーが四象限の集合的側面で表そうとしていたのは、集合そのものなのでしょうか、それとも個の集合的側面なのでしょうか。
 私は、図3-1のコスモスの四象限図がウィルバー・コスモロジーの基本的枠組みを表現していると思いますから、その集合的側面に書き入れられている事項から、集合そのものだと考えます。より根本的な理由としては、ウィルバーが、個と集合との間に、主観(内面)と客観(外面)との間にあるのと同じような相補的な関係を見ていたはずだという私の考えがあります。スミスは単に、ウィルバーは個の集合的側面を集合そのものと混同していると指摘しているだけですが、私はウィルバーの理論形成の背後にある隠された前提のようなものまで考察してみたいと思いますので、この話題を少し掘り下げることにします。そのために、相補性という言葉で私が意図することを説明します。
 私は目の前の空間に右側と左側の区別をつけることができますが、そのとき必ず右と左の両者はセットになっています。どちらかだけということはありません。同様に目の前の空間に上側と下側の区別をつけることができますが、やはり上下の両者はセットになっています。どちらかだけということはありません。ただし、左右とか上下は境界の位置に対して相対的に決まりますから、境界をずらすことで同じ場所が右になったり左になったり、あるいは上になったり下になったりはします。しかし、いずれにしろ片方だけでは成立しません。このように、相対立しながらも、必ずセットで現れなければならない事態を、相補的と私は言うことにします。もともとは、量子力学的存在を古典力学の言葉で説明する際には、粒子と波動の二重性を持つとして語らざるを得ないという状況に、物理学者ニールス・ボーアが相補性という言葉をあてはめたのを知ったのが、相補性という言葉に私が出会った最初なのですが、今では、上記のような弁証法的な事態に当てはまるように解釈して私は使っています(ボーアの考えについては、『サングラハ』119号に若干述べましたので参照していただければと思います)。
 四象限を構成する際の、主観(内面)と客観(外面)にもこの相補性があると私は考えます。それは、観察体験が生じる事態を振り返ることで説明できます。何か物体を私が観察しているとします。見たり、物差しをあてて大きさを計測したり、においを嗅いだり、手で触れて表面の凹凸具合を調べたりという具合に。このとき、対象となる物体は、私だけが観察できるのではなく、他の人たちも観察できる、客観的世界の一部です。そして、私が観察で様々な仕方でその物体を調べるにあたっては、私自身が客観的世界に参加し、対象の物体や、必要な道具や、共に検討する他の人々と相互作用をする必要があります。ですから、私自身客観的世界の一部であるはずだと思えます。実際私には、私が意図したように動かすことができる肉体があり、その肉体は私自身も他者も触れたり見たりできますから、客観的です。そして一方で、観察というのは体験を含み、私の体験には私以外の誰も知りえない独自性があると思います。例えば、ある物体の表面が赤い色であると私が観察しているときの、あの独特の感じは、私固有のものであり、私でない誰も決して知りえないと思うのです。この、私でない誰も持ちえない、知りえない何か(主観、内面、現象、クオリア)は、デカルトが『方法序説』で疑い得ない「私」について述べ、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「世界に属さない主体」について述べ、ウィルバーが『無境界』で原初の二元論で現れる主観について述べ、チャーマーズが『意識する心』で、どうしてもその存在を否定できない現象的な感じについて述べるときに想定していたものと同等のものだと思います。
 私は、この主観と客観の両者が、セットとして現れざるを得ない相補的な関係にあると思うのです。もし主観しかないとするなら、それを主観と言えるでしょうか。私固有のものしかないのに、それを私固有のものと言う意味がどこにあるのでしょうか。またもし客観しかないとするのなら、それを客観と言えるでしょうか。客観とは、本質的に、観察の対象となりえるものとか、主観から独立したものなどと定義されるのですから、必ず主観の存在を前提しているように思えます。もちろんこれは、主観と客観という概念について、その間には相補的な関係が成立していると主張しているだけで、世界の真相は主観と客観を超えたところにあるのだというような形而上学的な議論と関わるものではありません。そのようなことは、例えば世界の非二元性などと関連づけて別に議論する必要があります。ただもし私が、自分に固有の主観があると確信しているなら、私は、自身に主観と客観という相補的な二面性が生じるような仕方で世界が現れているとみなしていると言いたいわけです。また、これは私の話ですので、他者については、私と同じように相補的な二面性が生じていると確言はできません。他の人にも、私同様に、その人独自の内面があるかないかは、その人でない私には確信的に知りようがないからです。しかし人であれば私と同じように主観を持つと仮定しますと、どの個人にも、相補的な、客観的世界に現れる側面とそこに現れない主観的な側面があり、ウィルバーの四象限説の上半分の二つの象限を承認することになります(枠組みの中の具体的な事項の承認については別です)。
 ウィルバーは、おそらく個と集合との間にも、片方だけでは成立しない相補的な関係があると、ウィルバー・コスモロジー形成の初期段階のどこかで考えていたのだと私は推察します。それは、主観客観と同等な差異化として個と集合を扱い、個がなくなれば集合もなくなり集合がなくなれば個もなくなると断定していたことからうかがわれます。普通、分子の集合がなくなっても、たった一つ分子が存在することは可能だろうし、人間社会がなくなっても、ロビンソン・クルーソーのようにして、たった一人の人間が存在することは可能だろうと考えてしまうのではないでしょうか。しかしウィルバーはそうは考えなかったのです。そう考えなかったのは、分子であろうが人間であろうが、一般概念が成立するときには、個と集合の相補的関係が前提されるとしていたからではないかと私は思うのです。
 例えば分子という概念が成立するには、分子一般ということが言えなければならないとします。そのためには、一個の分子が登場するのでは不十分ではないでしょうか。仮に水分子1個が登場しても、それを分子と言うレベルの個体だと言えるでしょうか。どちらかというと、水素原子と酸素原子の変わった組み合わさり方が現れたということで終わってしまうのではないでしょうか。同じ構造を持ち、同じようにふるまう複数が登場して初めて、水分子という一般概念が成立し得るのではないでしょうか。人間にしても、一人だけ登場しても、変わったサルが一匹いたというに終わるのではないでしょうか。人間一般が成り立つには、同じような人間性をもつ複数の個が登場しなければならないのではないでしょうか。
 ウィルバーが実際にはどう考えていたのかは断定できません。しかし前章で述べましたが、彼が種は集団として発生したはずだと考えていたことなどから、一般概念が成立しているような存在に関して、今述べたような個と集合との相補性が伴っていると考えていたと私は思うのです。
 いずれにしろ、個と集合とは必ず対になって現れることをウィルバーは断定していますから、個と集合というのは、主観と客観と同様な相補的関係にあって、主観と客観、個と集合という二組の相補的概念によって張られる四象限の、下側の集合的側面は、個の集合的側面ではなく、個が集まった集合そのものと考えていたのだと思います。少し具体的に動物の世界を四象限的にとらえますと、上側個的側面は、強いものがいたり、弱い者がいたりと、個々のあり方に焦点が合わされるときに浮かび上がる側面で、原子論的側面とでも言えるかもしれませんし、下側集合的側面は、個々が織り合わされて食物連鎖などが形成されている生態系と見るときに浮かび上がる側面で、システム論的側面とでも言えるかもしれません。こういう考え方は、ウィルバーの多様な考えの中にも含まれています。
 個的存在の例として私自身を振り返りますと、さきほど述べましたように主客の両側面があります。そして私には、集合の一員として相互作用し、集合の影響によって形成される面が主観的側面にも客観的側面にもあります。しかしそれらは、私と言う個の主観的側面(象限)と客観的側面(象限)内において形成されるわけですから、別の象限が形成されるわけではありません。ところがウィルバーは、単独の個における社会的側面を集合そのものと混同的に同一視し、四象限が個においてできるとしてしまったのではないでしょうか。そして四象限を持つと誤認された個をホロンとしてしまいます。ところが、個と集合との相補的関係からすれば、個と集合は対等ですから、個がホロンなら、集合もホロンでなければならないと思われてきます。しかしこの集合のホロンは、個のように、明確な主観あるいは内面を持っていないようですから、四象限を持つとは思えません。そうしますと、四象限を持つ個的ホロンと、そうではない集合ホロンが見えてきてもしまうでしょう。そうしたカオス的事態が、あるときは全てのホロンは四象限を持つと述べ、あるときは個的ホロンと集合的ホロンがあると述べ、またあるときはそのうちの個的ホロンのみが四象限を持つと述べるという、収拾のつかない事態にウィルバーを導いたのだと思います。私は個人的には、混乱の原因さえ理解すれば、個的ホロンの擬似的四象限とコスモスの四象限をまとめることも可能ではないかと思い、『サングラハ』118号ではコスモスはホロンを超越している(trans holonic)としたモデルを一応試みましたので、興味のある方は参考に見ていただければと思います。そこでは単独の個も本来的な四象限を持てるとしたので、かなり奇妙なモデルになってしまいました。しかし、コスモスが非二元に通じるのであれば、そのためのモデルが通常の論理に従わず、奇妙に見えるのも仕方がないと思ったりもするのです。
 ウィルバーは、全てのホロンは四象限を持つという考えを何かの折に発露することはあっても、それは限りなく影が薄くなり、ほとんど何の疑念もなく各象限ごとのホロンという考えを認めるようになってしまったようです。もはやホロンにとって必須の特徴から四象限はほぼ消え、全体/部分ということだけが必須項目として残されているように見えます。ただし、その全体/部分も、ウィルバーのもともとの考え方には誤謬があると私が考えているのは、先に述べた通りです。

コフマンによるホロンの集まりの分類

 この節では、スミスの批判の対象となった、個的ホロンの集まりの分類論について述べていくことにします。言わば、スミスの批判を説明するための準備の節ということになります。
 ウィルバーの著作からは、個的ホロンが集まってできるものには様々な形態があることが知られます。例えば原子という個的ホロンが集まってできるものとしては、原子の次の段階の分子というより高次な個的ホロンや、銀河系という原子と同じレベルの社会ホロンや、金属の塊などの寄せ集め(heapヒープ)などがあります。また、人が集まった社会には、意図的に作られた道具や建築物などの人工物があり、それらは様々なレベルの個的ホロンから構成されています。フレッド・コフマン(Fred Kofman)は、このような、ウィルバーの著作に散見される個的ホロンが集まってできる様々な形態に関する理解不足が、ウィルバー理論の誤った理解を招いていると主張します。そこで彼は、ウィルバーの記述とウィルバーとの対話に基づいて、個的ホロンの集まりの様々な形態についてその定義と具体例を、Integral Worldに掲載されている ‘Holons, Heaps and Artifacts’ (2000) というエッセイにまとめたのでした。ここではそれを、個的ホロン、社会ホロン、ヒープ、人工物の順に簡単に見ていきたいと思います。
 個的ホロンとは、統一的な外面に加えて、局所的内面あるいは意識を持つ存在です。原子(内面は把握)、分子(内面は感応性)、有機体の神経パターン(内面はスパイラル・ダイナミクスの価値のミーム)などが例としてあげられていますが、要は図3-1における上側個的象限における外面と内面の両面を持つ、各段階のものが想定されています。
 社会ホロンは、同レベルの個的ホロンのグループで、そのメンバー間の相互作用には特定のパターン化されたモードがあるとされます。そして個的ホロンと異なり、局所的意識は持たず、間主観的あるいは非局所的な意識を持つとされ、また、はっきりとした統一的外面は持たないとされます。コフマンはわざわざ社会ホロンと個的ホロンは同じコインの裏表の関係にあると言及していますから、個と集合との相補性が、同レベルの二種類のホロンの間に想定されているのは明らかです。そして、社会ホロンは、メンバーの個的ホロン以外に人工物も含むとされています。アリ塚の物理的構造(人工物)とメンバーのアリからなるアリのコロニーとか、適切なレベルの意識を持つメンバーの個人とそれら個人間の関係交流を支える生産システム・マネージメントシステム・情報伝達システムなどの人工物からなる会社などが、社会ホロンの例として挙げられています。
 人工物は、個的ホロン、あるいは社会ホロンによって、本能的に、あるいは目的を持って意図的に作られるもので、内面はありません。そして、単なる寄せ集めではなく、特定できるパターンを持ち、目的のために役立つもので、物理的なもの、概念的なもの、スピリチュアルなものがあるとされます。アリ塚、鳥の巣、ビーバーのダム、建築物、飛行機、コンピューターなどは物理的な人工物であり、詩、歌、小説、超弦理論、哲学、言語などは概念的な人工物であり、神話はスピリチュアルな人工物だとされます(神話に関しては、ドグマティックな部分を除いた、神秘主義的な部分だけをコフマンは想定していると私は思います)。さらにコフマンは、遺伝工学的に人間によってつくられたウィルスは、部分的にはホロンであり、部分的には人工物であると言います。また、人間や動物よりレベルの低いホロンも人工物を創るとし、酵素が複数の分子をまとめてつくる第三の分子、オートポイエーシスで細胞がつくりだす自身の物理的構成物、ミトコンドリアで生成されるATPなども人工物とされますし、細胞が肝臓でつくる胆汁という人工物は、有機体の構成要素になるとも述べられています。
 ヒープは、ホロンや人工物からなる単なる寄せ集めです。時には、別のヒープがその寄せ集めに含まれることもあります。ヒープは内面を持ちません。これは人工物と同じです。また、ヒープは意識的なデザイン、目的、特定できる組織的パターンなどを持ちません。こちらは人工物と異なる点です。砂丘、岩、ゴミの山、枯葉の集まり、水たまりなどがヒープの例として挙げられています。時にヒープは、意識的な目的によって人工物に変えられる場合があるとも指摘されます。例えば、砂時計の砂は、ヒープが人工物の一部に変わった例です。また、ゴミの山のようにヒープは社会ホロンの一部であったりする場合もあります。
 これらホフマンの考えの中で、まずは個的ホロンと社会ホロンの定義に対するスミスの批判について述べたいと思います。

コフマンの個的ホロン及び社会ホロンの定義に対するスミスの批判

 コフマンによる社会ホロンとは、結局は、メンバーの個的ホロンが次の(a)、(b)の規準を満たし、さらに全体として(c)、(d)の規準を満たしているグループのことなのだとスミスは解釈します。

 (a)共通の所属
 (b)相互作用のパターン化されたモード
 (c)局所化されていない意識
 (d)統一されていない外面

 そしてこれら四つの規準は実はほとんど役に立たないとスミスは主張します。まず(a)と(b)に関してですが、それらは、全体としての個的ホロンに含まれる、部分としての個的ホロンにもまったく同じように成立するではないかとスミスは指摘します。例えば分子という個的ホロンには、原子という個的ホロンが部分として含まれていますが、それらは全体の分子に共通して所属しています。また、それら原子は、共有結合などの一定のパターンの相互作用をしているがゆえに単なる寄せ集めとはならずに、分子を形成できるわけです。ですから、(a)と(b)は個的ホロンに含まれる部分としての個的ホロンから、社会ホロンに属するメンバーとしての個的ホロンを差異化するための規準とは言えないだろうとスミスは主張します。
 (c)に関しては、規準と言うのではなく、検証できない仮定にすぎないとスミスは主張します。私達は、人間の一員である自身の内面の存在に確信を持ち、どの人間にも同様の内面を想定することに問題は感じません。しかし人間以外の形態の存在の内面については決定的なことは言えていないし、検証できているわけでもないと思います。例えば、ウィルバー・コスモロジーでは分子という個的ホロンの局所的意識を仮定していますが、それは検証どころか、多くの人が賛同することでもないように思えます。また、人間社会が局所的な意識を持っていないという事は、多くの人はそう思っているにしても、やはり検証されたことではなく、逆に集合的存在に人間と同様な意識のようなものの存在を唱える人もいるようです。
 (d)に関しては、スミスは、コフマンが意図することを空間的に明確な境界を持つことだと解釈したうえで、人間の社会もそのような物理的境界を持っているではないかと主張します。確かに国という社会ホロンにおいて、国境があります。国境は流動的で変化するものでしかないのは事実ですが、同じことは、分子、細胞、組織、有機体などの個的ホロンの境界についても、大なり小なり言えます。分子の中の原子同士は共有結合などで物理的に、有機体の中の細胞は電気信号を伝達する神経網で生物学的に、明確に結びついているのに対して、社会における人間の結びつきは同様な物理的あるいは生物学的な結びつきは持たず、それが統一的外面のあいまいさの要因になるとイメージされるかもしれませんが、社会の中での人間の間には、分子間や細胞間とはレベルの異なる法制度などの取決めがあり、それなりにしっかりした結びつきを形成していると私は思います。
 大体以上のようなことから、コフマンの考えでは社会ホロンを個的ホロンから差異化できないとスミスは主張します。そして、個的ホロンの新しい定義を提案するのですが、その提案がなされた背景を知っていただくために、個的存在と言われるものの、宇宙における進化の過程を少し振り返ってみたいと思います。

進化の過程を振り返る

 エネルギーが充満した真空から、ビッグ・バンという現象で超高温・超高密度の宇宙が誕生し、各種の素粒子から原子が形成されていくという前史にはほとんど触れずに、私たちの身体を構成する最小単位としての原子から個的ホロンの進化の系列をたどることでは、ウィルバーもスミスも一致しています。私もそうすることにします。とりあえずウィルバーの考えに基づく図3-1の右上象限を参照しますと、個的ホロンの進化の系列はおおまかには次のようになります。ただし、複合新皮質において、新しい構造機能(Structure-Function  略してSF)が現れる部分は、対応する認識能力の名称を[  ]つきで併記することにしました。

原子→分子→原核細胞→真核細胞→神経系を持った有機体→神経管(脊索動物)→爬虫類的脳幹→辺縁系(哺乳類)→新皮質(三位一体脳)→複合新皮質[概念]→SF1(構造機能1)[具体的操作]→SF2[形式的操作]→SF3[ヴィジョン・ロジック]

 この系列はかなりあらい部分もあります。原子の次に、分子とだけありますが、実はここに、スミスの考えにとって重要な役割を果たす細かい段階がありますので、それについても触れながら、少し詳しく系列を見ていくことにします。
 45億年ほど前の原始地球の大気中には、二酸化炭素CO2、窒素N2、水H2O、メタンCH4、水素H2、硫化水素SH2、アンモニアNH3といった、数個の原子からなる単純な分子(無機物)があったそうです。やがて地表が冷えると水蒸気が液体の水になり、海が地表面を覆うようになります。その中でこれら無機物分子がつながり、アミノ酸、ヌクレオチド(リン酸、糖類、核酸塩基の三つの部分よりなる、AMPとかATPとかいわれるもの)などの有機物分子が登場します。図3-2、図3-3はアミノ酸、ヌクレオチドの構造式の例です。

図3-2 もっとも構造が複雑なアミノ酸の一つトリプトファン 


図3-3 AMPというヌクレオチド


 さらにこれら有機物分子がつながって高分子生体有機物(原子千個以上、分子量1万程度以上)が生成されるようになります。アミノ酸がアミド結合(ペプチド結合)によって50個以上連結すればタンパク質になりますし、ヌクレオチドがリン酸エステル結合をすれば核酸になります。酵素などは触媒作用を持つタンパク質の例ですし、遺伝をつかさどるDNA、RNA(数千万から数十億の原子からなる巨大分子)は核酸です。そして、高分子が複合して受容体などを形成しつつ、最初の生物、原核細胞が現れたと言われています(40億年ほど前)。

  図3-4 原核細胞(gregorius.jp 原核細胞と真核細胞より)

 

 図3-4が原核細胞(細菌、バクテリアなど)の図です。細胞は細胞膜に囲まれていますが、原核細胞ではDNAは裸のまま塊になっています。図3-5は後に登場する真核細胞(20億~25億年前誕生)のものです。真核細胞には、細胞の中にさらに核という、やはり膜で囲まれた部分があり、その中にDNAが納まっています。細胞内には核の他にも、細胞小器官と言われる、膜で囲まれたさまざまな部分があります。中でもミトコンドリアは細胞呼吸の化学反応が行われる部分で、生命にとって欠かせない器官だと言われています。

   図3-5 真核細胞 (gregorius.jp 原核細胞と真核細胞より)


 ここで、原子から細胞に至るまでの進化の過程をまとめてみますと、次のようになります。

原子(水素、ヘリウム、……鉄、……、ウラン、……)

無機物小分子(水素、二酸化炭素、水、メタン、……)

有機物分子(アミノ酸、ヌクレオチド、……)

高分子(タンパク質、核酸)

細胞(原核細胞、真核細胞)

 この進化の系列において、無機物小分子は原子が結合してできています。有機物分子は小分子や原子が結合してできています。高分子は、有機物分子が結合してできています。ところで細胞ですが、これは高分子が結合してできているとすますわけにはいきません。その構成要素には、高分子のほかに、高分子の部分となっていない有機分子、有機分子の部分となっていない無機分子、あるいは無機分子の部分になっていない原子も含まれています。原子から始まってこの細胞にいたるまでにあらわれた各段階の存在が参加する形で細胞はつくられているのです。これは、それまでの分子の各段階にはみられない特徴だとスミスは指摘します。このことを銘記して、進化の過程をさらに辿ってみたいと思います。
 原核生物は原核細胞による単細胞生物ですが、中にはいくつかが集まって生活するものもあります。様々なバクテリアの群体(コロニー)がそうです。群生したものには、菌糸を伸ばしたり、胞子を飛ばしたり、より高等な生物とよく似た生活形態をもったものが含まれてはいます。ただし、それぞれの細胞の役割が高度に分化したものではなく、分裂して、いったんばらばらになった個々の細胞が、また集まって群生したものにすぎません。したがって、多細胞生物としては扱われていない段階です。
 真核細胞が細胞の分化を伴い多細胞化するのは、藻類での栄養生成部分と生殖部分との分離が最初だそうです(10~12億年前)。ただ、ウィルバー・コスモロジーの進化の過程は、私達人間に至る系統だけを扱っていますから、動物の多細胞化の方だけを辿ることにします。ウィキペディアによれば、動物の多細胞化と分化の進展に関しては、「移動することにより、進行方向の細胞が、より餌をとる可能性が高いだろうから、早い段階で、栄養が各細胞に行き渡る仕組みが発達したと思われる。同様に、運動の仕組み、感覚、及びそれらの情報を伝える仕組みが発達し、複雑な組織系、器官系を進化させた。その代償として個々の細胞は互いに依存しあい、個々の部分が独立して生き延びる能力は低くなっていった」とあります。
 最も原始的な動物である海綿動物は15種類程度に分化した細胞をもっており、その祖先は10億年前にはすでに存在していたと言われています。外部環境に直接接触する細胞群、外部から内部へ栄養を運ぶ器官、内部で消化を行い栄養を循環させる器官などへの分化が起こっていたと考えられます。このように組織、そして組織から構成される器官を含む生物をorganism有機体といいます。
 最も原始的な有機体である海綿は神経系を含みませんが、クラゲなどが属する腔腸動物になりますと神経系を含むことになるそうです。ウィルバーが真核生物の次のレベルとして挙げているneuronal organismsは、この段階の動物のことを言っているのでしょう。
 少し横道にそれますが、このエッセイの冒頭で、図3-1の右上象限の説明でも触れましたように、organismは通常有機体と訳されますから、neuronal organismsは「神経系をもつ有機体」とでも訳すべきだと思います。『進化の構造』では「神経組織」と訳されてしまっていますが、それでは神経細胞が連なった組織tissueと誤解されてしまうと思います。
 話を進化の過程をたどることに戻します。この後、やがては脳へと進化する中枢神経を持つより高等な動物が登場してくるわけですが、人間へとつながる進化の過程では、背面に脊索(神経管)はあるが脊椎骨はともなっていないという動物(原索動物 ナメクジウオ、ホヤ)、そして脊椎動物(魚類)、両生類、爬虫類(脳幹)、哺乳類(辺縁系)、高等哺乳類(新皮質)、人間(複合新皮質)と続きます。
 こうしてみますと、細胞以降の進化の系列は、おおよそ次のようにまとまると思えます。

細胞(原核細胞、真核細胞)

単純な多細胞生物

組織の形成

器官の形成

細胞が分化した多細胞生物(有機体)

神経系を含む有機体

原索動物(神経管)

魚類(脊髄)

爬虫類(脳幹)

哺乳類(辺縁系)

高等哺乳類(新皮質)

人間(複合新皮質)

 組織や器官の形成は、単純な多細胞生物から細胞の分化が進んだ有機体への形成と同時進行的に起こっているようですが、構造的に見ますと、組織は細胞が一様に結合してできたものであり、器官は様々な組織を言わば部品にしてできています。ですから、進化の過程での異なるレベルとしてここでは扱います。そして器官を部分とする有機体が現れるわけですが、ここで、皆様に銘記をお願いしたことを思い出していただきたいのです。
 細胞は、分子の段階とは全く異なる構造を持っていました。それは、前段階の高分子が結合しているだけではなく、それまでに現れた、原子、小分子、有機物分子、高分子のそれぞれが構成要素になっているという特殊性があったからです。同じ特殊性を、有機体に見ることができないでしょうか。私達人間の体は有機体ですから、その体を思い浮かべてください。
 体液中には原子がイオン状態で存在したり、水分子が存在したり、酵素が存在したり、細胞(例えば赤血球)があったりします。体表面には皮膚の組織があり、体内には消化器官、循環器官、呼吸器官があります。すなわち人間の体は、単に器官が組み合わさってできているわけではなく、細胞がそうであったのと同じように、それまでの進化の段階で現れた多くを単独の形で含む存在です。それに対して、有機体の一部である器官は組織が集まってできているだけで、単独の細胞、単独の分子、単独の原子を持っているわけではありません。組織も、細胞が結合してできているのであり、単独の分子、単独の原子をもっているわけではありません。
 有機体に至って初めて、細胞と同様に、それ以前の階層の存在を単独の形で含む特別なものが現れたのです。そして有機体の登場後の段階は、神経系そして脳の進化の過程であり、全て有機体という範疇での変化の過程にすぎません。ですから、それらは、原子という段階で、より原子番号の大きな原子が現れた過程とか、小分子において、水分子、メタン、アンモニアなどが現れた過程とか、あるいは細胞において、原核細胞、真核細胞が現れた過程とかと同じになるのではないでしょうか。そう解釈しますと、図3-1の上象限にある存在を含む進化の過程は、例えば次のように表現すべきだと思います。

原子(水素、ヘリウム、……鉄、……、ウラン、……)

無機物小分子(水素、二酸化炭素、水、メタン、……)

有機物分子(アミノ酸、ヌクレオチド、……)

高分子(タンパク質、核酸)

細胞(原核細胞、真核細胞、……)

単純な多細胞生物

組織の形成(皮膚、筋組織、……)

器官の形成(呼吸器、生殖器、消化器、……)

有機体(原始的有機体、神経系を含む有機体、原索動物(神経管)、魚類(脊髄)、爬虫類(脳幹)、哺乳類(辺縁系)、……、人間(複合新皮質))

 この系列の中で、他と異なる特別なあり方をしている細胞と有機体は太字にしてあります。このような認識のもとでスミスは、個的ホロン、社会ホロンの区分の仕方に新しい提案をすることになります。

スミスの構想における個的ホロンとは

 スミスの提案とは、ウィルバー・コスモロジーの個的象限における進化の過程の中で、細胞と有機体の特殊性を認め、それらに進化の系列のスタートにおいた原子を加えて、新たに個的ホロン(基礎的ホロン、あるいは自律的ホロンとも呼ぶ)とし、分子や組織や器官などは新たに社会ホロンに分類するというものです。そして、個的ホロンは次の三つの仕方において社会ホロンとは異なるのだとされます。

  1. 個的ホロンは、社会ホロンと異なり、自ら再生し得る。
  2. 個的ホロンは、社会ホロンと異なり、より高次のホロンの外で、自律的に存在し得る。
  3. 個的ホロンは、その構成ホロンの性質を保持できる。

 1番目の項目は、こういうことです。細胞であれば細胞分裂、有機体であれば無性または有性生殖によって、自ら増殖します。それに対して、分子では、自らのはたらきで増殖するのではなく、材料となる原子、分子が現れ、外的要因によって化学反応が起きて初めて増えます。また、組織の場合でしたら、やはり自らの働きで増殖するのではなく、構成する細胞が再生増殖し、それらが結合することであらたな組織ができます。スミスは、この1番目の項目にあてはまるのは、細胞と有機体だけだと指摘します。
 2番目の項目はこうです。原子は分子の部分として存在しますが、何らの結合もすることなく、単独の状態でも存在します。細胞も、多細胞生物の部分として生活するものも、単独で生活しているものもいます。有機体に関しても、他の有機体と特別なグループをつくることなく単独で生活する有機体もあります。それに対して、分子の場合、水や二酸化炭素などの簡単な分子を除けば、多くのタイプの分子は有機物分子として、細胞あるいは有機体の内にのみ見出されるそうです。また、組織や器官などは、有機体の外では見出されません。このように、この項目は、ほぼ原子、細胞、有機体にのみ当てはまるとスミスは考えるのです。
 3番目の項目は、個的ホロンに含まれている下位レベルの個的ホロンなり社会ホロンなりは、含んでいる個的ホロンの外部に取り出された場合と同じ性質を持つという事です。細胞の中のナトリウムイオンもアミノ酸もタンパク質も、細胞外でも同じようにふるまいます。有機体でも、含まれる器官、組織、あるいは赤血球は、体外に取り出されても同じようなふるまいをします。それに対し社会ホロンでは、含まれている個的ホロンあるいは社会ホロンの性質は、単独である場合と性質が変わってしまっています。例えば、アミノ酸分子の一部としての水素原子は、炭素原子と結びついてしまったがためにイオンになる能力を失ってしまっています。スミスによれば、タンパク質の一部になっているアミノ酸、組織の一部になっている細胞もやはり単独の場合とは性質が変化しているそうです。これはあとで詳しく述べることですが、人間社会も社会ホロンに分類されます。そして、社会のメンバーになっているあるいはなったことのある人間は、ある概念的能力を持ったりする点で、メンバーになった経験のない人間とは異なるとスミスは言います。
 このように、スミスは個的ホロンをある程度きっちりとした形で定義しようと試みるのですが、結局のところ、原子を例外にすれば、個的ホロンの本質とは、それにいたるまでに現れた社会ホロンおよび個的ホロンの多くを、統合的に含んでいるという事に尽きるように私には思えます。原子は自ら再生するわけではありませんから1番には当てはまりませんし、またその内部構造については触れられていませんから3番に当てはまるかどうかは定かではありません。しかしスミスは、系列の起点となるものとして原子を個的ホロンに分類しているのです。
 では、個的ホロンではないホロン、社会ホロンに焦点を移していきたいと思います。

スミスの構想における社会ホロン

 スミスは、ウィルバー・コスモロジーの個的存在の進化の系列において、新たに彼が個的ホロンとみなす原子、細胞、有機体という存在の間に現れる諸存在を社会ホロンとみなしています。原子と細胞の間でしたら、無機物小分子、有機物分子、高分子などが、細胞と有機体の間でしたら、組織、器官などが社会ホロンとみなされます。これらは、おもに前段階のホロンが結合することで現れ、細胞や有機体のように、様々な段階のホロンを構成要素とするような統合性には欠けているのです。
 ところで、ウィルバー・コスモロジーに戻りますと、社会ホロンは図3-1の下側象限にあります。原子の集合としての銀河系、分子の集合としての惑星、原核生物の集合としてのガイア・システム、真核生物の集合としての有機的生態系、そして有機体の集合としては、労働の分業のある社会、集団/家族、部族、部族的/村落、初期国家/帝国、国民/国家、全地球的と続きます。これらの中で、銀河系、惑星、ガイア・システム、有機的生態系は、どちらかと言うと社会ホロンではなくヒープと捉えるべきだとスミスは考えるのですが、それに関しては、ヒープの考察のところで述べます。それに対して有機体の集合の方で、家族、部族、国家という系列は、原子が結合して簡単な無機物分子を構成し、それらが結合して有機物分子を形成するという、スミスの考える社会ホロンの系列に対応するように見えます。もちろん、結合の仕方は、物理的あるいは生物学的な結合よりも、価値観や思考に基づく制度による結合を主とするように変わってはいますが、含んで超えるような形にはなっています。そこでスミスは、ウィルバーのモデルでは別の象限におかれたこれら動物そして人間などの有機体の集団を、分子や組織と同じく社会ホロンとし、有機体の後の系列を構成するとします。そうしますと、スミスの考えに基づいて進化の系列を私なりにまとめてみますと、次のようになります。

原子(水素、ヘリウム、……鉄、……、ウラン、……)/[把握]

無機物小分子(水素、二酸化炭素、水、メタン、……)

有機物分子(アミノ酸、ヌクレオチド、……)

高分子(タンパク質、核酸)

細胞(原核細胞、真核細胞、……)/[被刺激性]

単純な多細胞生物

組織の形成(皮膚、筋組織、……)

器官の形成(生殖器、消化器、呼吸器、……)

有機体(原始的有機体、神経系を含む有機体/[感覚]、原索動物(神経管)/[知覚]、魚類(脊髄)、……、人間(複合新皮質)/[概念、具体的操作、形式的操作、ヴィジョン・ロジック])

家族/[ウロボロス]

部族/狩猟・採集的[古代的]

部族/村落/鍬農耕的[魔術的]

初期国家/農耕的[神話的]

国民国家/産業的[合理的]

惑星的/情報的[ケンタウロス]

 太字にしたのは個的ホロンであり、それ以外は社会ホロンです。[ ]内には、内面の特徴を記入しました。ここで、ウィルバーのモデルとスミスのモデルの決定的な違いが明らかになります。ウィルバーのモデルでは個と社会とは相補的な側面であり、同じレベルにあります。ところがスミスのモデルでは、社会ホロンはそこに参加する個的ホロンより高次であり、個と社会とが一つの系列に並びます。例えばアミノ酸分子は二か所でイオン化できることで緩衝材になるように、分子は原子ができないことができます。組織は、食物を消化し、圧力をかけて血流を創り、筋肉を収縮させます。細胞にはできないことができます。人間の社会は大規模な狩りをしたり、科学技術を創造したり、個人のできないことができます。このようなことを、スミスは社会ホロンが個的ホロンを超えて高次であることの例として挙げています。
 ところで、先ほどの進化の系列は、人間をメンバーとする社会ホロンで終わっていますが、もしスミスのモデルに従って進化が進んだとするなら、人間の社会を含めて、各段階の社会ホロン及び個的ホロンを構成部分とする、超有機体とでもいうべき非常に統合的な個的存在が登場すると予想されます。スミスは次のように述べています。

 人間であることは、必ずしも宇宙におけるもっとも高度な生命の形態であることではない。私たちは、私たちが陳腐だとみなす原子と分子と細胞とからできている。同様に、私たちを陳腐だとみなすより高次なホロンの部分で私たちはあるのかもしれない。これが、実際のところ、より高次な意識を追及することに対して、そして通常の人間であるのに恒常的に不満足であることに対して、私が与え得る簡潔な理由である。( ‘The spectrum of holons’ )

 スミスは、有機体、人間を超える個的ホロンがすでに現れているのかどうか、またどのような具体的姿を持つのかについては述べていません。しかし、人間が有機体としての進化の限界に近づいていると仮定するなら、その人間の社会は惑星的にまで至ると想定されていますから、惑星規模の社会が超有機体と言う個的ホロンのひな型になるように私には思えます。そしてそこには、動物や植物の生態系や、合理的に至るまでの人間の様々な社会まで、それまでに現れた様々な個的ホロン、社会ホロンの多くが参加し統合されることになるはずです。そして、超有機体と言う個的ホロンが有機体と同様の統一的な意識を持つのであれば、この超有機体の意識こそが、有機体のパーソナルな意識を超えたトランスパーソナルな意識といわれるものの一つになるのではないでしょうか。非二元的意識というものは、究極のものとされていますので、超有機体のレベルをも越えているのでしょうが、有機体である個人が修業して達成する意識の中には、発生しつつある惑星規模の超有機体の意識の先駆的な現れのようなものもあるのではないかと私は思うのです。スミスという人は、瞑想の修業も長きにわたり行っているようですが、そこにはそのような思いも重なっているのかもしれません。また彼は、もし超有機体なるものが現れるなら、次のようなことが言えるだろうと述べています。
 人は健康診断などで血液や組織を採取し分析し、そして血液中の細胞を殺したり組織の細胞を殺したりしてしまいます。ここで、人は人間で個体ホロンです。血液や組織はそれより低次の社会ホロンや個的ホロンです。そしてそのような検査は、人間の社会において初めて発案され、起こりえることで、人間の社会ホロンが行うと言えます。これとアナロジカルなことを、レベルをあげて考えるとどうなるでしょうか。人間より高次な個的ホロン(超有機体)が現れ、その社会が形成されれば、何らかの目的のもとにより低次な社会ホロンである人間の共同体、あるいは低次な個的ホロンである人間そのものを採取、犠牲にすることも当然起こりえるだろうし、ある意味で自然なことになるのではないでしょうか。
 確かにそのように言えるのかもしれません。私は人間ですから、検査のために血液や皮膚の一部をとることはいたし方ないと思いますが、何らかの超有機体の健全さを保つために、私が所属するあるグループや私個人が実験分析のため取り除けられることはぞっとしません。しかし、超有機体をメンバーとする社会、あるいはその社会の個々の超有機体の立場からすれば、極めて自然なことでしかないのでしょう。
 ただし、そういうことが言える状況が起こるにはまだ相当な時間がかかると私は思います。これはスミスが言っているのではなく、私の考えにすぎませんが、超有機体の社会ができるには、地球に惑星規模の超有機体が現れるだけでなく、そのような超有機体のホロンが地球外にも複数現れる必要があります。例えば人間が、火星や、移住可能な他の惑星の衛星(木製の第一衛星イオ等)などの各々の内に様々な社会を作り、それらが惑星なり衛星なりで超有機体という個的ホロンの内に構成要素として統合されなければならないからです。あるいは、様々な有機体の社会が同時に存在し得る、大掛かりな人工衛星なりスターシップなりが実現し、超有機体が発生できるようにそれぞれの人工衛星なりスターシップなりの中で諸社会が統合されなければならないからです。そういう時期がくるのは、私にはかなり先のことに思えるのです。しかし一方で、宇宙的な時間からすれば、僅かな期間にすぎないであろうとも思います。
 ところで、ウィルバー・コスモロジーでは、社会ホロンとして、銀河系、惑星、ガイア・システム、有機的生態系などもありますが、それらはどちらかと言うと社会ホロンではなくヒープと捉えるべきだとスミスは考えているのだと述べました。そのあたりのことをはっきりさせたいと思います。

スミスの考えるヒープとは

 コフマンによるヒープとは、もののランダムな集まりであり、何の有意味な創発的な性質も示さない、個的ホロンの単なる物理的集団のことである、とスミスは捉えます。ただし、ここでの個的ホロンはウィルバー―コフマンの考える個的ホロンですから、スミスの考える社会ホロンも一部(各種分子や組織、器官など)含まれます。ヒープの代表的な例としてあげられるのは、砂粒からなる砂の集まりです。砂の集まりは、砂粒と異なる性質を持つわけではありません。確かに何の有意味な創発的性質も示しているようには思えません。
 スミスは、ウィルバーが惑星を分子の社会ホロンとみなすことはおかしいのではないかと疑問を呈します。なぜなら、地球やおそらく火星を抜かせば、ほとんどの惑星はほぼ「岩の寄せ集め」でしかないからです。宇宙の形成からしますと、原子の集合である星が、そしてその星の集合である銀河が形成され、さらに水やメタンなどの軽い分子が存在する状況で惑星が形成されていきますから、惑星を原子の社会ホロンとみなすべきか、分子の社会ホロンとみなすべきか、どちらが妥当なのだろうかという疑問もありますが、それはさておき、ウィルバーが銀河や惑星で、単純に原子や簡単な分子の存在する範囲を意図していたのであり、従ってヒープとすべきだというのがスミスの意見です。しかし、本当に一部分であっても、銀河には分子が登場するような部分があり、惑星でもやがては生命が誕生さえする特別な惑星である地球などがあり、創発性につながる部分を特っています。たしかに大部分は単純な原子や分子の存在する部分にしか過ぎないとしても、わずかでも創発的な部分を含んでいれば、個々の原子や分子の集まりに還元できない集合体と言えないことはないと思います。ですから、スミスのように、銀河や惑星をヒープとしないウィルバーをあまり批判する気には私はなりません。ただ、銀河や惑星といった茫漠たる言葉で、原子の集合(社会)あるいは分子の集合(社会)とするのは、あまりに大雑把過ぎないかとは思います。
 スミスはまた、コフマンがヒープを物理的存在に限定しようとする傾向を持つことにも疑問を呈しています。生物であっても、例えば蚊の群れであるとか、バクテリアの集団(大規模なものであればガイア)であるとか、単なる寄せ集めとして扱うほうが適切なものがあり、これらもヒープとみなした方がよいという考えです。
 そうして、スミスは、ヒープの特徴として、画一性ということを提案します。例えば個的ホロンの細胞の場合、核、ミトコンドリア、細胞膜等々と、たくさんの異質な構成部分からなっています。社会ホロンでも、例えば象の群れなどを考えますと、各象が異なる役割を持ちます。個的ホロンや社会ホロンに含まれるそのような異質な構成部分が見られない集まりをヒープと呼ぼうというのがスミスの提案です。つまりスミスの考えるヒープは、一様であるために、個的ホロンや社会ホロンと違って一部分から全体がわかるものであり、物理的なものだけでなく、生物的、精神・行動的なものもあることになります。
 一様であるヒープの例として、スミスは、ケイ素原子の集まりや炭素原子の集まりをあげます。ケイ素原子が結合してできる水晶にしろ、炭素原子が結合してできるダイアモンドにしろ、原子以上の創発的性質を持ちません。このように一種類のタイプの複数のホロンが互いに結びつく場合に典型的なヒープが現れたりするわけです。あるいは他のホロンと相互作用できないヘリウムのような不活性ガスなどが集まった場合とか、相互作用が弱い原核細胞が集まった場合などもヒープを形成します。真核生物では相互作用能力が発達していますから、ほぼヒープとみなし得るゆるやかなコロニーから、異なる機能に差異化した細胞の結合体へと、ヒープはその画一性を失い社会ホロンへ進化し、さらに社会ホロンは他の種類の社会ホロンと結びつき、自ら増殖できる有機体という個的ホロンへと至ることになります。このように、次第に異質的相互作用が強まることで、ヒープ→社会ホロン→個的ホロンと進展するということ、そして決定的なヒープと社会ホロンの区別はなく、ヒープは非常に原初的な形態の社会ホロンとみなせるということをスミスは述べています。
 コフマンは人工物に関しても見解を述べていました。それに関するスミスの見解も見ておきたいと思います。

スミスの考える人工物とは

 スミスは、コフマンの考えによる人工物とは、「ホロンによってつくられ、そのパターン(構造と機能)は、ホロンのエージェンシーから派生する」( ‘ The spectrum of holons ’)ものだと述べます。エージェンシーとは、ホロンの全体性を保持しようとする働きと理解していただければいいと思います。そして、コフマンが挙げる人工物の例には、人間によるものの他に、ビーバーのダムや酵素分子によって引き起こされる代謝変化で生成する新たな分子などが含まれるとしています。
 スミスは、もし酵素によってつくられた分子が人工物でもありホロンでもあるとみてしまうと、全ては人工物ということになりかねないと主張します。なぜなら、酵素自体は遺伝子のエージェンシーによって、細胞中の他のホロンとともに作られたのですから、やはり人工物と言えるのではないでしょうか。そして遺伝子自体は、別の遺伝子から作られたのですからやはり人工物と言えるのではないでしょうか。全ては何か別のものから作られたと言い得るので、結局は人工物になってしまうのではないかと言うのです。
 私には、コフマンの人工物に関する定義も、それに対するスミスの批判もはっきり理解できませんでしたが、スミスは人工物とは何かということについての対案を以下のように示しています。
 個的ホロンの特徴として、スミスは、自らの再生能力を挙げていました。細胞は細胞分裂によって、有機体は生殖によって再生します。それに対して、細胞あるいは有機体を部分とする社会ホロンは、細胞あるいは有機体が再生することで生成します。例えば、組織、器官という社会ホロンは細胞の再生によって生成しますし、有機体の社会は有機体の再生によって生成します。つまり、個体ホロンや社会ホロンは細胞あるいは有機体と言う個的ホロンの再生によって生成するといえます。ところが、人工物の代表である道具は、自動車であれコンピューターであれ、細胞や有機体と言った個的ホロンの再生によって生成するのではありません。そこでスミスは、個的ホロンは個的ホロンの再生によって直接的に生成し、社会ホロンは構成する個的ホロンの再生によって間接的に生成するが、人工物は個的ホロンの再生の過程で作られるのではないとします。人間の体に関して言えば、新陳代謝での産物、酵素、プロテイン、骨、歯、髪の毛などは、ホロンではあっても、細胞分裂や有機体の生殖で生じるのではないので、人工物とも扱われます。
 またスミスは、人工物には、物理的なもの、生物学的なもの、精神的(メンタル)なものがあると言います。骨、歯、髪などは物理的であると分類されます。筋肉の動き、消化、呼吸、血流など、ほとんどすべての有機体の機能は、細胞の再生を伴わない生物学的人工物とされます。蜘蛛の巣、鳥の巣、技術、思考などは、精神的(メンタル)な人工物とされます。精神的(メンタル)な人工物は、生物学的そして物理的性質を含み得るとされます。
 そしてスミスは、人工物である酵素や小さな分子が細胞に統合され、骨、歯、髪などの物理的そして生物学的な人工物が有機体に統合されるように、有機体の社会ホロンによる、コンピューター、思想、技術などの精神的人工物は、超有機体が登場するなら、それに統合されるだろうと言います。新しいレベルが登場すると、それまでに現れたホロンと人工物の間の区別はもはや壊れてしまうというのです。この考えに対して私は、映画『2001年宇宙の旅』とその続編の『2010年』で、人間とコンピューターが人間より高次な存在へと融合していくようなイメージが提示されていたことを思い出しました。
 個的ホロン、社会ホロン、ヒープ、人工物について、スミスの考えを述べてきました。それは、おもにウィルバー・コスモロジーにおける個的象限と集合的象限の関係についての批判そして対案だったのですが、スミスは、ウィルバーの内面の扱いについても、批判、そして対案を述べています。それについて説明するには、彼の内面に関する見解のもとになっている、チャ―マーズの考えを理解しておく必要があります。

内面に関するチャーマーズの見解

 私が何かを見たり、何かを聞いたり、何かのにおいを嗅いだり、何かに怒ったり、何かを考えたりするとき、それらは私の行為であり、そこでは何らかの客観的な事象との因果関係が成立していると思えます。例えば緑色の葉っぱを見る場合であれば、対象から発した光が私の網膜に当たり、そこで得られた情報が神経回路を通じて脳の視覚野に伝えられ、見ているものは緑色だと判断するのだろうとか、また例えば5個のリンゴから、2つを取る組み合わせはいくつあるかという問題を与えられ解く場合なら、その問題の文章を見て得られた視覚情報が脳の言語を司る部分や記憶を司る部分に伝えられ、その問題の内容を理解し解決するために脳の各部分が活性化・連動し、2つを取る組み合わせ方は10通りあると結論したりするのだろうとか。つまり心で何かが起こるときには、客観的な世界における事象と因果的関係があり、その心理状態は結局脳の物理的状態として最終的には説明できるようにさえ思えます。ところが一方で、心で何かが起こるときには、そこに、私と言う当事者だけが持つ独特な主観的特徴があるとも思えます。それは、私が体験するということにおける他の人には知りえない特徴です。チャーマーズは『意識する心』(ディヴィッド・J・チャーマーズ、林一訳、白揚社、2001 原書は The Conscious Mind, David J. Chalmers, Oxford University Press, 1996)の中で、次のように述べています。

 われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆け巡っているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある。処理過程には、認知主体であるように感じられるところがある。この内的な側面が意識体験である。意識体験の範囲は、生き生きとした色彩感覚から、背景に漂うごくかすかな香気にまで及ぶ。鋭い痛みから、出かかっていながら出てこない考えといった捉えどころのない体験に及ぶ。日常的な音響やにおいから、全身を包み込む崇高な音楽体験にいたる。しつこい痒みという些細なものから、深い実存的な苦悩の重みにまでまたがる。ペパーミントの味のように特殊なものから、自我の体験という一般的なものまで含む。体験されたこれらの質には、すべて大きな開きがある。(p.24)

 ここで言われている行為における内的な側面、意識体験は、主観、内面、現象的な質(クオリア)と呼ばれるものとほぼ同じであると考えていいと思います。そうして、チャーマーズは、心に関しては、二種類の区別できる概念があるのだとし、次のように述べます。

 二つのはっきり区別できる心的概念がある。第一は、現象的な心的概念。これは意識体験としての心に関する概念であり、意識的に体験された心的状態としての心状態に関する概念である。……第二は、心理学的な心的概念。これは、行動に因果関係をつける、あるいは行動を説明づける基盤としての心的概念である。ある状態が行動を生み出すのに申し分ない因果的役割を果たしてれば、それはこの意味での心的状態ということになる。心理学的概念に従えば、心のある状態が意識という質をもつか否かは、ほとんど問題にならない。問題になるのは、それが認知体系に果たす役割である。(p.33)

 そして、この二種類の概念で類別される、心の現象特性(現象的特性とも表記します)と心理学特性(心理学的特性とも表記します)は、事実上常に一緒におこるとし、チャーマーズは次のように述べます。


 現象特性が実例となって現れるときは、必ず心理学特性も実例となって現れる。これは、人間の心というものについての一個の事実である。意識体験は何もないところでは起こらない。必ず認知プロセスと結びついており、ある意味では、そうした認知プロセスから起こるのであるらしい。例えば何かの感覚があるときは必ず、何らかの情報処理が進行している。お望みなら、これを対応する知覚といってもいい。同じように、幸せを意識として体験するときはいつでも、何らかの内的状態が幸せに対応する機能的な役割を演じているのが通例である。因果関係をもたない体験をするというのは、論理的にはありうることだが、体験的事実としてはそれらは並行しているように思える。(p.45)

 ところで、現象特性の方は、体験者にしか知りえない主観的なものですから、それを具体的に表現することはできませんが、常に心理学特性が共に起こっているとすると、心理学特性を間に挟んで、心理学的な特性の因果的な役割で間接的に現象特性があることは言及できることになります。例えば緑色を見ているときの現象特性、幸福である時の現象特性を例に、それらに言及するときには、共に起きている心理学特性の因果関係に言及せざるを得ないことを、次のようにチャーマーズは述べています。

 <緑色の感覚>といった言葉でさえ、それが示す内容は外から持ってきた言葉で確定されている。<緑色の感覚>という言葉を学習するとき、われわれは実際には実物で具体的に示すことによって学習している――草や樹木その他が引き起こす類の体験に、この言葉を適用することを学んでいるのである。一般に、とにかく伝達可能な現象的カテゴリーがわれわれにある場合、それらはわれわれの外にあって典型的にそれと結びつくものか、あるいはそれと結びつくような心理学的な状態との関連で定義づけられる。たとえば、幸福というものの現象的な質について語るとき、<幸福>という語が指し示すものは、暗黙のうちに何らかの因果的役割を介して定着されている。何もかもうまくいっている状態、喜びに躍り上がるような状態等々である。おそらくこれが、ヴィトゲンシュタインの「われわれの内なるプロセスは外へ向かう判断基準を必要としている」という有名な言葉に対する、一つの解釈になるのであろう。(p.46)

 このように述べた後でチャーマーズは、「現象的な概念がこのように因果的基準に依拠していることから、われわれの心的概念が意味するものにはそれと結びつく因果的基準以外、何もないのだと示唆する人(ヴィトゲンシュタインやライルにもどこかそうした気味がある)も出てきた」と述べています。確かに、現象的特性が、外面的な因果関係を介してしか言及できないのであれば、それがあるとすることは無意味とも思えますが、しかし、私は自らの体験において、自分には現象的特性があると確認できるので、その有意味性を否定できません。どの人も当人としては、もし現象的特性があるのなら、私と同じように現象的特性の有意味であることを確認できます。しかし一方で、他者に関しては、その内面を知りえないのですから、心理学的特性のほかに現象的特性があるとは確信できないような気がします。例え他者が「私には確かに現象的特質がある」と言ったとしても、それは言語という機能、すなわち心理学特性において発言されているのですから、それだけでは私はその人が現象的特質を持つことを断定できないと思います。しかし、私は自分と同じように現象的質を他者も持っているとして生活をしてはいます。チャーマーズは先ほど引用した文のなかで、ヴィトゲンシュタインには、心的概念が意味するものにはそれと結びつく因果的基準以外、何もないのだとする傾向があると述べていましたが、『<私>のメタフィジックス』(永井均、勁草書房、1986)や『魂に対する態度』(永井均、勁草書房、1991)を読みますと、それでも人は、自分自身に認められる現象的特性を他者にも認める態度をとっているとしていたようです。この話題に関しては、後の章で詳しく論じたいと思います。
 話が横道にそれてしまいましたが、心の二つの特性の内、外面において因果的役割を果たす心理学的特性に関しては、認知科学や脳生理学の発達によって、今や脳という物理的システムや、コンピューターの電子回路システムに還元し得るとさえ考えられているようです。事実、コンピューターは囲碁や将棋でプロの棋士を負かすまでの思考力をもつようになり、研究者は、基本的には人間の認識能力は人工知能で再現できると確信しているようにも思えます。しかし、それはあくまでも心理学的特性の方です。現象的特性ではありません。チャーマーズは次のように述べています。

 心身問題で一番難しいのは、一個の物理的システムがどうやって意識体験を生み出せるのか、という問題である。われわれは物理的な体験と意識体験を結ぶものを、二つの部分に分解してもよさそうだ。物理的な体験と心理学的な体験を結ぶもの、そして心理学的な体験と現象的な体験を結ぶものの二つである。すでに見た通り、一個の物理的システムがどのようにして心理学特性をもちうるかについては、われわれにはもうかなりはっきりした考えができている。心理学的な心身問題は解決されているのだ。残るは、こういった心理学特性になぜ、どのようにして現象特性が伴うのか、という問いである。たとえば、痛みにつながるああいった刺激や反応のすべてに、なぜ痛みの体験が伴うのかという問題である。(p.49)

 この問題が解けない限り、心理学的特性については人間と同じレベル、あるいはそれ以上のレベルに人工知能が達したとしても、それが私の心と同じように現象的性質を持ち得るかどうかについても、確たることは言えないのでしょう。

内面における差異化

 スミスはチャ―マーズの考えにそって、内面をソフトな内面とハードな内面に差異化します。ソフトな内面は、因果関係において機能として現れる心理学的特性です。それは、認知科学で探求され得るもので、実は脳の振る舞いのように客観的外面的に捉えられると想定されたものです。感覚、思考などの全ての認識能力は、このソフトな内面とみることができます。それに対してハードな内面というのは、私が体験するときに持つ、その固有な何か、主観、クオリア、現象的質です。その人でないと知りえない何かです。
 したがって、どの個人も他者に関してはソフトな面しか認識できず、ハードな面があるかないか見分けられないのです。先程も述べましたが、他者が「私の心には現象的質がある」と発言しても、それは言語機能の一環として捉え得るわけで、証明にはなりません。後期ヴィトゲンシュタインの思想における言語ゲームの一環にすぎないとすませることができるわけです。
 スミスは、ウィルバーはソフトな内面とハードな内面との差異化ができていないと批判します。そしてウィルバー・コスモロジーの左象限(内面)に現れているのは、外面として還元的に扱われ得る心理学特性だと考え、還元不能な内面象限として扱わないことも可能だとします。さらにスミスは、認識能力を中心にする人間のソフトな内面は、社会ホロンに参加することで発達すると考え、次のように述べています。ただし、文章中の内面は、ソフトな内面と解釈してください。

 人々が生活する社会がより複雑になれば、その社会の他のメンバーとの間に持つ相互作用の複雑さはより増大する。個人の内面的経験を決めるのは、これらの相互作用である。なぜなら、その経験は、これらの相互作用を見ることによって、あるいは知覚することによって結果として生じるのだから。同じ脳が、より複雑な社会環境に埋め込まれると、より複雑な形態の内面を経験するだろう。( ‘ Why it Matters ’)

 スミスが言っている喩えではありませんが、彼が述べていることを理解するには、人間をコンピューターと比較してみることが有効ではないかと私は思います(以下にでてくるコンピューターのハードとソフトは、内面のハードとソフトではありません。誤解のないようお願いいたします)。コンピューターにはハードがあります。同じ機種のコンピューターであれば、同じレベルのハードをもっています。これを人間に喩えますと、全ての人間は、複合新皮質という高度なレベルのハードを持っているということになります。コンピューターでは、ソフトをインストールすることで、様々な能力を持つことになります。特に基本的な能力は、インストールされたOSによってきまります。人間の場合ですと、成長して社会に参加し、周囲と相互作用することで、様々な概念を学習したり、認識能力を発達させたりします。これが、複合新皮質というハードにソフトをインストールすることと対応すると考えられます。そうしますと、人間の内面のレベルは、参加する社会が用意しているレベルで決まってしまうことになります。そこで、少し乱暴ですが、内面の能力は、社会のものと考えますと、社会は個より高次なのだということになります。スミスは次のように述べています。

 私のモデルでは、内面はしばしば(いつもではないけれども)外面よりも高次である。それは次のことから帰結する。①社会ホロンはそのメンバーである個的ホロンより高次である。②個的ホロンの内面は、社会ホロンの内で見出されるとき、私が先に議論した種類の参加を通じて、しばしば社会ホロンの多くを共有する。( ‘ Why It Matters ’)

 この文章では内面は心理学的な特性として、外面は社会参加する前の複合新皮質として解釈すればいいと思います。スミスは進化の過程を詳細に見ることで、社会ホロンは個的ホロンよりも高次であるとしていたわけですが、その高次だという事には、参加する個的ホロンの内面の発達ということもこうして加わってくるわけです。このような考えは、「社会ホロンは個的ホロンが交流するとき創発する」( ‘Wilber’s Eight-Fold Way’に引用されているウィルバーの言葉)というウィルバーの発言や、間主観性は存在論的に主観性に先立つとするウィルバーのポストモダン的洞察に一致します。

スミスの単尺度モデルone scale model

 スミスはハードな内面は認めていますが、それを自分の理論に含めようとはしません。機能としてのソフトな内面のみを扱います。そして、ソフトな内面であれば、還元的に外面として扱えますから、スミスのモデルでは、根本的には外面しかないのです。また、スミスは、ウィルバーのモデルにおける個的象限と集合的象限を個的ホロンと社会ホロンに解消し、それらを一つの進化の系列上の異なる発達段階に置きます。こうして、四つの象限が並列して進化発達するという、言わば四つの進化の尺度を持つウィルバーのモデルは、スミスによって一つの尺度だけを持つモデルへと造り替えられることになります。そしてスミスは、自らのモデルをone scale modelと呼んでいます。訳語としては、「ワン・スケール・モデル」か「単尺度モデル」を私は使うつもりです。
 次の系列が、単尺度モデルの一例となります。

原子(水素、ヘリウム、……鉄、……、ウラン、……)/[把握]
原子のヒープ[把握]

無機物小分子(水素、二酸化炭素、水、メタン、……)

有機物分子(アミノ酸、ヌクレオチド、……)

高分子(タンパク質、核酸)

細胞(原核細胞、真核細胞、……)/[被刺激性]
細胞のヒープ[被刺激性]

単純な多細胞生物

組織の形成(皮膚、筋組織、……)

器官の形成(呼吸器、生殖器、消化器、……)

有機体(原始的有機体、神経系を含む有機体/[感覚]、原索動物(神経管)/[知覚]、魚類(脊髄)、……、人間(複合新皮質)/[概念、具体的操作、形式的操作、ヴィジョン・ロジック])
有機体のヒープ[感覚、知覚]

家族[ウロボロス/衝動]

部族/狩猟・採集的[古代的/シンボル]

部族/村落/鍬農耕的[魔術的/概念]

初期国家/農耕的[神話的/具体的操作]

国民国家/産業的[合理的/形式的操作]

惑星的/情報的[ケンタウロス/ヴィジョン・ロジック]

超有機体

 個的ホロンのところには、後の社会ホロンの発生とともに進化する形態も( )の中に書き込んであります。また、スミスは心理学特性の多くを社会ホロンの特性として扱いますが、具体的に発現するのはメンバーの個的ホロンにおいてですから、両方のホロンのところで[ ]の中に書き入れておきました。

ウィルバー・コスモロジーに対するスミスの結論

 存在に関する私たちの理解においてホロン階層の重要性を指摘したこと、そして一般読者と探求を進めようとする人々の両者の興味を刺激するのに十分詳細なモデルを創造したことに対して、スミスはウィルバーの業績を高く評価した上で、しかし次のような事項を含むいくつかの重要な欠陥がウィルバー・コスモロジーにはあるとします。

1. 社会ホロンの定義において、明らかな非整合性がある。
2. 細胞と有機体は私たちが知っている全ての他の形態の存在と質的に異なる基本的な性質を共有している、ということを疑いもなく証拠づける科学的データの膨大な体系があることを無視している。
3. 神経レベルでの因果的過程の事項で説明された、あるいはおそらく説明され得る精神的な現象(機能的あるいはソフトな問題)と、そのようには明らかに説明され得ない精神的現象(クオリアあるいはハードな問題)との間の区別ができていない。
 ( ‘ The spectrum of holons ’ )

 1.は、ウィルバーが、個の社会的側面と社会そのものを混同しているということです。2.は、自らが描写した個の進化の系列の中に、その形成のありかたが質的に異なるものが存在していることに気づけなかったという事です。3.は、内面における心理学的特性と現象的特性との差異化ができていないという事です。

スミスのモデルに関する私の所感

 私は、ウィルバー・コスモロジーに魅せられながらも、彼が全体と部分の関係と集合と個(メンバー)の関係とをしばしば混同していることや、彼が集合としてとらえているものの中に次第に小さくなる銀河、惑星の系列がある一方で、次第に大きくなる家族、部族、国家のような人間社会の系列もあるということに、落ち着かない感じを抱き続けていました。また、四象限が個のものであるのは明らかなようである一方で、しかし個の社会的象限と社会そのものを一緒に扱うと奇妙なモデルになってしまう、という思いもありました。さらには、個の内面を主観とするとき、それは本来他者には知り得ないもので、そこに普遍的な認識能力のような概念が中心的なものとして登場することにもやはり違和感を抱いていました。『進化の構造』以降のウィルバーの著書を読んだ方の中には、その壮大さに圧倒されながらも、私と同じように感じていた人もおられると思います。そういう言わば疑念に対して、問題点を明確にし、対案を示したスミスの貢献を、私は高く評価します。
 しかし、いくつかスミスのモデルで気になることもあります。一つは原子の扱いです。原子は個的ホロンとして扱われますが、細胞そして有機体のように自ら増殖する性質は持ちませんから、スミス自身も認めているように、彼による個的ホロンの第一の規準を満たしません。また原子の素粒子からなる構造についてもスミスは明らかにしていませんから、第三の規準を満たしているかどうかも判然としません。原子が登場する前にすでに登場していた様々な素粒子と、それらによる原子の形成を理解し、個的ホロンの規準との関係づけを再考する必要があると思います。
 次に、ヒープに関してですが、スミスはその特徴を<非常に弱く相互作用するホロンの群れ>や<一様性>で定義するのですが、ヒープの規模については何らはっきりしたことは述べられていません。私は個的ホロンの集まりによってできる場のようなものを考え、その中の、新たな社会ホロンや新しい個的ホロンが発生してくる任意の部分をヒープとみなせば、ヒープ→社会ホロン→個的ホロンという進化の系列に一致させることができるのではないかと考えたりしました。
 そして、主観と客観、個と集合ということを、二種類の相補的な側面とみなし、四象限を構成するという見方は、少なくとも人間に関しては有効な見方だと私には思えます。スミスはチャーマーズの考えに基づいて自らの理論を構築していますが、チャ―マーズが結局は外面に還元できるとする心理学的特性は、他方では現象的質、本来の内面が常に伴うものともみなしています。そうしますと、心理学的特性とは、脳の物理的状態と、現象的質の境界面をなす概念と捉え直すことも可能ではないのかと私には思えてきます。そうであれば、現象的特性そのものは示せないとしても、諸心理学的特性間の機能的相関関係で、私たちが個人内で差異化している様々な現象的特性間の相関関係も表現できているとみなせないでしょうか。そう考えれば、ウィルバーが内面の記述に様々な心理学的特性を使ってしまっていることを全面的に非難するわけにはいかないと思います。
 実はウィルバーはチャーマーズの見解に対する一定の評価を『統合的心理学への道』(松永太郎訳、春秋社、2004、p.560~p.562)に書いています。そこでは、他者の現象的特徴の存在証明に関して、トランスパーソナルな体験によってハードな問題は解決されるとして話を進めています。しかし、それは、そのような体験を持たない者には完全に無意味な言明で、そのために、チャーマーズの議論ともかみ合っていないように思えました。仮にトランスパーソナルな体験で他者の現象的特質の有無が確認できるにせよ、パーソナルなレベルの人も対象とする議論では、データに基づく進化の方向性にそって、有機体(人間)を超える超有機体のあり方と、より高次な意識との関連を少しでも示そうと試みるスミスの方が、理論家としてはウィルバーより丁寧で誠実であるように私には思えます。
 いくつか、スミスのモデルの批判的評価を書きましたが、対案を創り上げたスミスの努力には敬意を払いたいと私は思います。多くの批判者は、対案を構成するには至らないからです。なお、スミスは、単尺度モデルを使い、様々なホロンの間の相互作用で、進化のダイナミクスやウィルバー5での種々の視点を説明してもいます。それに関して興味のある方は、‘ The Pros and Cons of Pronouns: My View of My View of Edwards' View of Wilber's View of Views ’をご参照下さい。