第1章 ウィルバー・コスモロジーの概要

 批判の本格的な紹介に入る前に、ウィルバー・コスモロジーの概要を、私流の説明方法で、次の表題の順に確認しておくことにします。

 1.人間の個的側面と集合的側面
 2.人間の内面と外面
 3.人間の四つの側面
 4.人間に至るまでの個的外面における進化の過程
 5.四象限に進化の過程を重ねた系統発生的なコスモスの地図
 6.個体発生は系統発生を繰り返すという考えの導入
 7.ホロン概念の導入
 8.非二元性とエロス
 9.指向的一般論(orienting generalizations)の使用という方法論

1.人間の個的側面と集合的側面
 デジタル大辞泉には、「一般概念」あるいは「普遍概念」について次のように書かれています。

 個々の事物のいずれにも同一の意味で適用される概念。魚・木・人間などの類。

 すると「人間」という一般概念では、個々の人間は大きかったり小さかったり、あるいは髪の毛が多かったり少なかったりの違いがあっても、そこには人間としての何らかの共通性があるとみなしているわけです。その際、単数では共通性は意味をなさないのですから、複数の個人がいることが前提とされています。「人間」という一般概念が事実として成立するためには、人間が個と集合の両者として存在していることが必要です。
 ウィルバーは、おそらくこのような考えから個と集合ということは人間という現実の基本的な対となる側面だとしたのでしょう。彼は次のように述べています。

 個体と社会(集団)は、一方が他方より高い価値を持つ別のコインではなくて、すべての、そして一枚一枚のコインの裏表なのである。同じものの二つの側面であって、根本的に違ったもの(あるいはレベル)ではないのである。(『進化の構造1』p.138)

 表と裏とか、右と左とか、上と下とかが一つのものにあるとされるとき、必ず二つ対になって現れます。そのような二つの側面間の関係を相補的関係と呼ぶことにします。ウィルバーは、人間の個々として現れる個的側面とそれらが集まって現れる集合的側面が相補的関係にあるとするのです。図1-1は、四角形で人間を表し真ん中に境界線を一本引いて、上側を人間の個的側面、下側を集合的側面として表したものです。

  図1-1


 実際人間一人一人は一応独立した全体性を持ちますが、実体として単独で存在することはできません。まずもって両親がいなければどの人も生まれなかったでしょうし、両親が生むだけでなく育てなかったら大人には成長できなかったでしょう(両親が面倒を見てくれなくてもその人は成長したかもしれませんが、その場合には、親戚の方とかあるいは保護施設にいる職員の方とかが面倒をみる必要があったでしょう)。また、その両親自身、彼らの両親と彼らが所属する社会がなかったら、生まれたり成長したりすることはなかったでしょう。そうしますと、人間においては、個人(個)とその集合である社会とは本来切り離して考えることはできませんから、個的(Individual)な側面と集合的(Collective)な側面を持つとするのは自然な人間観の一つだと思います。

2.人間の内面と外面
 人間の個的側面の具体例である私は今、「内面と外面」についてどう説明すればいいのかなと考えたり、それにしてももぐもぐ食べているこのコンソメ味のポテトチップスはちょっと味がしつこいなと思ったりしています。ところでこういった考えや思いは、私の身体のように誰かが見たり触ったりできる客観的なものではなく、私だけが主観的に体験できる何かで、通常私の心とか意識とか呼ぶものに生じるようです。そして、それこそが私という存在の根源になっている気がします。「我想うゆえに我あり」とデカルトは述べたそうですが、確かにそのような気がするのです。
 しかし一方で、そもそも身体がなければ考えたり感じたりできないようにも思えます。痛みを感じたり、何かを味わったり見たり聞いたりするとき、皮膚や舌や目や耳などを通じて体験していますし、かぜを引いて体調が悪いとしっかり考えることができなかったりします。科学者は、脳の複雑な構造があるからこそ、人は様々なことを思考できるのだと主張しているように見えます。そうすると、感じたり考えたりすることよりも、この身体の方こそが私という存在の根源であるように思えます。
 私という存在の根源になっているものとして、心と身体と二つの候補を挙げましたが、ここではとりあえず次のようにしてみます。たしかに私には心もあるし身体もある。そして、私が何かを(例えば痛みを)感じるときには、私の身体には何らかの物理的刺激(例えば注射針の皮下への挿入)に対する物理的反応が生じているようだし、私が何かを考えるときには、私の脳は活発に活動しているようなので、私には、他の人が見たり触れたりすることのできない心とか意識とか言われる側面と、他の人が見たり触れたりできる物質的な身体という側面があり、両者は密接な関係にあると。ウィルバーは前者を内面(Interior)と呼び、後者を外面(Exterior)と呼んでいます。主観と客観とも呼んでいます。
 念のために述べておきますが、内面は身体の内側のどこにもないと想定されています。私の身体の内側には内臓があったり脳があったりするわけですが、それらは解剖することによって他の人が見ることも触ることも可能です。しかし、いくら身体の内側を暴いても、他の人が見たり触れたりできる私の思考が露わになるとは思えません。心とか意識とか言われる内面は、露わにできる空間的位置などない、物質的な形態はとらないものと想定されているのです。
 私自身の主観的な側面(内面)と客観的な側面(外面)とについて述べてきましたが、私が普段接している家族や職場の同僚にも私同様に内面と外面があると言えるのでしょうか。彼らに見たり触ったりできる身体(外面)があるのは確かです。しかし覗いてみることは不可能な内面はどうなのでしょう。どんなに親しい人であれ、その心を覗いてみることなどできませんが、私は他者と思考の道具である言葉を共有していて、それを使ってコミュニケーションをとることができます。従って当然彼らに思考したりする内面があると考えてよいのでしょう。ウィルバーが個々人(人間の個的側面)には誰しもこのような内面と外面があるとし、相補的な二つの側面であるとしたのはもっともなことだと私は思います。
 ところで前節で私は、両親が所属し私も所属することになる社会(集合)がなければ自分は生まれもしなければ育ちもしなかったと述べましたが、そのとき、両親の精子と卵子が結合しなければ私は生命体として発生することはなかったし、発生した後は、栄養や住処や情報を得させてくれる社会のメンバーになっていなければ大人には育ち得なかっただろうと考えたりしました。精子や卵子、そして社会の様々な有様は誰もが目にすることができる外面で、人間の集合的側面に外面があるのははっきりしています。では内面はどうでしょうか。
 いろいろな感覚、衝動、感情などが私の内面、心に生じますが、中でも人として私は、内面において様々な概念を使って思考することができます。私の思考は私個人のもので、そこに人間の集合的な側面とのつながりは一見ないように思えますが、それは大間違いです。今私は、ウィルバーの思想を題材に叙述しているのですが、この叙述の中に現れる様々な概念は私が創り上げたものではありません。私が成長していく過程で、私が属している共同体の中で、親や学校の先生や様々なマスメディア等々から学んできたものばかりです。つまり人としての私の内面にあるほとんどのものは、人々の集合に由来しているようです。
 また私は、梅干を見ると、あの独特のすっぱい味覚がよみがえってきますし、その味覚には、梅干入りのおにぎりを食べたときの食感などが、すぐに連想できるといった形で密接に結びついています。この味覚やそれと関連した触覚への思いは、他の文化圏の人にいくら説明しても同じようには了解してもらえない、多くの日本人が共通に持つ感性だと思います。感性は心に生じる内面的なものですから、これは日本の食文化の中で育った私が、同じ文化圏で育った人達と共有している集合的内面の例と言えるでしょう。もう少し大がかりな例としては次のような価値観に関することも挙げられるでしょう。合理的な文化圏で育てば、人々は基本的人権を尊重する価値観を自然に持つことになるでしょうが、伝統に根付いた父権主義的な文化圏に育てば、合理的文化圏からすれば男女差別的と判断されてしまうような価値観を、差別的な意識など全くなしに自然に持つことになるでしょう。このように価値観は、その文化圏に属して初めてその自然さを実感できるもので、やはり集合的内面の一例といえるでしょう。
 味覚への思いとか価値観を例に出しましたが、それらは大まかに言えば集団に共有された世界のとらえ方、世界観ということができます。このように人間には、集合においても内面があると言えそうです。私は、ウィルバーが人間には個的側面にも集合的側面にも内面と外面が必ずあり、両者が相補的な関係にあるとすることが自然に思えます。図1-2は、四角形で人間を表し、真ん中に境界線を一本引いて左側を人間の内面、右側を外面として表したものです。

  図1-2


3.人間の四つの側面
 図1-1のように人間には相補的な個的側面と集合的側面があり、また図1-2のように相補的な内面と外面があるとしますと、両図を重ね合わせれば、結局は図1-3のように、個的内面、個的外面、集合的内面、集合的外面があることになります。それらの呼び方は、主観的個的、客観的個的、主観的集合的(間主観的、文化的)、客観的集合的(間客観的、社会的)というように、いろいろ考え得ると思います。ウィルバーは図1-3内部の直交する境界線を二つの座標軸とみなし、これら四つの側面を四つの象限(quadrants)とも呼びます。

  図1-3

 

4.人間に至るまでの個的外面における進化の過程
 ダーウィンは生物の進化ということを理論化しましたし、現代宇宙論は、ビッグ・バンから始まる宇宙の進化の過程について述べています。それらをあわせると、物質的宇宙における、人間の身体にいたるまでの、次のような進化の過程を知ることができるとウィルバーは主張します。
 ビッグ・バンで宇宙が膨張し始めてからしばらくして、まずクォークやレプトンなどの素粒子が登場し、次にそれら素粒子から合成されたより複雑な陽子や中性子と呼ばれる粒子が現れ、陽子、中性子、電子から合成された原子が現れ、さらに分子が、高分子が、細胞が、神経組織を持つ生物が、神経管を持つ生物が、脳幹を持つ爬虫類が、辺縁系を持つ哺乳類が、新皮質を持つ高等哺乳類が、そしてついには複合新皮質を持つ人間が、前段階の個体を含んで超えるようにして現れたと。
 これは人間の個的外面である身体に至る進化の過程ですので、先ほどの人間の四象限図の右上に書き入れることにしますと、その結果は図1-4のようになります。この図で使われている用語は、『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図の右上象限にあるものを、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したものです。和訳では、原書でmoleculeとあるところが細胞となっていたり、neuronal organismsとあるところが組織となっていたりしましたので、それらを「分子」、そして「神経系を持つ有機体」と直しました。また、SFとあるのは、structure function (構造-機能)の略語です。

                図1-4


 ところで、この系列に現れる原子、分子、細胞などは、全体性をもった個としてとらえることができますから、この右上象限にあらわされているのは、人間の身体に至る進化の過程で宇宙に登場した客観的な個的存在の系列です。

5.四象限に進化の過程を重ねた系統発生的なコスモスの地図
 人間は相補的な四つの象限を持つわけですから、先ほどの右上個的外面の進化の過程に対応して、その他の象限においても含んで超えるという進化の過程があったとウィルバーは考えます。そして、意識の発達(左上象限における個的内面の発達)、文化の発達(左下象限における集合的内面の発達)、社会制度の発達(右下象限における集合的外面の発達)などに関する、自然科学、社会科学、心理学などで得られた知見を組み合わせて、四象限にわたる人間に至るまでの進化の過程を図1-5のように示すことになります。

図1-5 (『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)


6.個体発生は系統発生を繰り返すという考えの導入
 ところで、ヘッケルというドイツの生物学者によれば、個人の発達(個体発生)は、人という種が現れるまでの進化の段階(系統発生)を繰り返すことになります。例えば私は、母親の胎内で、魚類的、爬虫類的、原始哺乳類的な形態を、含んで超えるようにして次々に経ていくことで、系統的な進化の段階を辿って生まれてきたとするわけです。ウィルバーはこのヘッケルの考えを拡張的に取り入れ、人は宇宙の系統的な進化の段階をたどって生まれてきたとし、図1-5を、個体発生も表しているとみなします。
 そうしますと、図1-5の右上象限に記入されている発達の系列は、宇宙における個的存在の外面的進化の段階(系統発生)を表してもいるし、最も高度な種である人類の一個体の発達の段階(個体発生)を表してもいるわけです。そしてもちろん、現時点でのすべての個的存在がいずれかにあてはまる発達のレベルを表してもいます。例えば段階8の辺縁系は、宇宙に最初に登場した原始的哺乳類(昔の私たちの先祖でもあるネズミのような動物)とそのレベルにとどまったままで水平的進化をしてきた現時点で存在している最も原始的な哺乳類(今もいるネズミ)を表していますし(系統発生)、人やそのほかの哺乳類の個体が発生途上に通過する辺縁系が形成される段階を表してもいます(個体発生)。そしてこの図のほかの象限には、対応した各象限での発達の様子が記入されているということです。ところで、一般に宇宙(universe, cosmos )といいますと、物質的すなわち外面的なものの全体をさします。図1-5の右側は、宇宙の進化において現れた個的存在の外面と、その集合を表していますから、宇宙全体の成り立ちを示していると言えます。それに対し、左側も含めた図1-5全体は、外面のみならず内面をも含めた全体の成り立ちを示すことになります。それでウィルバーは、内面も含む全体を外面のみの全体である宇宙と区別して、コスモス(Kosmos)と呼ぶことにしています。そして図1-5で示されるような彼の世界観は、通常ウィルバー・コスモロジーと呼ばれています。
 もう少し図1-5を詳しく見ておきます。原点は、系統発生としては、4つの象限全てを包含するコスモスの始まり(物理的にはビッグ・バンと呼ばれる現象)を、コスモスのメンバーである各個の個体発生としては、その誕生を示しています。系統発生の方で辿っていきますと、この宇宙の始まりからしばらくして、外面的個的存在として原子が現れます(右上)。四象限説では、全ての個的存在には内面があるとしますから、当然原子にも、どんなに素朴であろうが、対応する内面があり、図1-5では左上象限に把握(prehension)と表記してあります。個的存在の誕生とともに、それらの集合も誕生します。原子のレベルでの集合の外面的なあり方は右下象限にある銀河系です。もちろん初期銀河系は現在のありかたとはかなり異なってはいたでしょうが、基本的な特質はこの時期に現れたわけです。集合にも、外面と相補的な内面がありますから、図1-5では、左下象限にとりあえず物質的と書かれています。
 こうした、4つの象限にわたる原子のレベルを含んで超える形で、やはり4つの象限にわたる分子のレベルが現れるという仕方で、次々と新しいレベルがコスモスに登場するわけです。その際、前段階のレベルでの個体は、必ず次のレベルでの個体数より多く存在します。例えば、全ての分子は原子を部分として持っているのですから、原子は分子よりも数量的には必ず多くあります。全ての哺乳類は、爬虫類の本質的部分である脳幹を含んでいますから、爬虫類は哺乳類よりも数量的には必ず多くいます(分子の部分である原子が原子としてカウントされるように、哺乳類の部分である爬虫類的脳幹は、ウィルバー・コスモロジーでは爬虫類としてもカウントされます)。
 次に、人でなければ現れない段階10のレベルを見てみましょう。外面的・個的側面を表す右上象限で段階10を見ますと複合新皮質となっています。これは人間が登場して初めて現れた脳の部位です。内面的・個的側面を表す左上象限で同じ段階10を見ますと概念と書かれています。ピアジェ等の研究によりますと、現代人は平均的に6歳ぐらいでその意識のレベルは概念を持てる段階に到達します。段階10におけるこの右側象限と左側象限との対応関係は、複合新皮質を機能させ始めるのが、概念を持ち始める6歳ぐらいだということを表すわけです。内面的・集合的側面を表す左下象限で同じく段階10をみますと、魔術的と書かれていますが、これは、概念を認識の主要な道具として使う人々が主導権を握っている集団の文化が魔術的だということを表しています。それは、呪文や呪いがリアルに息づく文化に人々は所属しているということです。そのような文化が初めて現れたのは一万年以上も前のことでしょうが、現在でも同じレベルの文化をもった集団(ブードゥー教を信仰する人々の集団など)はありますし、高度な文化の中にもそのレベルの文化的要素が含んで超えられるという形で組み込まれてもいるわけです(様々な非科学的と思われる占いなどの行為が、合理性に達した社会にも、含んで超えられたレベルのものとして組み込まれています)。外面的・集合的側面を表す右下象限で段階10をみますと、鍬農業及び部族的/村落となっていますが、これは、左下象限で魔術的段階にある人々が中心となって形成している社会の経済・政治制度が鍬農業・部族/村落にあたることを表しています。
 現代世界においては、少なくとも先進国と呼ばれる国の社会の主導権を握る成人は、左上象限において理性(形式的操作を認識の主要な道具として使用する)レベル、段階12に通常達しているとしますと、左下象限の段階12をみますと合理的な文化が実現し、右下象限の段階12を見ますと産業的な社会の国民国家が存在することになります。そうして、この段階12にある人は、段階12までの全てのレベルを含んで超えてきた存在ですから、理性的な人間としては国民国家のメンバーでありますが、動物としては生態系のメンバーであり、細胞としてはガイアのメンバーであり、原子としては銀河系のメンバーであり、全てのレベルで集合のメンバーとなっているわけです。内面で言いますと、上の方のレベルでは合理的な文化を人々と共有しており、下の方のレベルでは物質的な間主観的内面を原子と共有しているわけです。そして、もし人間に至る系統進化の系列がコスモスの進化であるなら、図5はコスモス全体の地図を表しており、万物の理論とも言えることになります。

7.ホロン概念の導入
 例えば原子は、全体としてのまとまりを持っていますが、分子の部分となる可能性も持っています。ウィルバー・コスモロジーでは、系統発生で登場した存在は、人間でも原子でも四つの象限をもち、その全ての象限で以前のレベルを含んだ全体であると同時に、より高いレベルの部分になり得る存在です。それをウィルバーは、部分/全体とかホロンとか呼ぶことにしています。そうしますと、コスモスは、個的側面では素粒子、原子、分子、……、人間として現れる、各レベルのホロンが集まってできていると言えることになります。そして、四つの象限を持ったホロンからコスモスができているからこそコスモスにも四つの象限があることになるのです。

8.非二元性とエロス
 ウィルバー・コスモロジーは、極めて簡潔に表すには、図1-5の、コスモスの地図とも呼べるものを使うのですが、簡潔ではあってもそこには境界づけられた様々な要素があります。境界づけるというのは、基本的にはそうであるものとそうでないものとを二分するということでしょうが、図1-5では、最も基本的な境界づけは、内面(主観)と外面(客観)との左右の二分であったり、個と集合との上下の二分であったりするわけです。
 このような境界づけをウィルバーは二元論というのですが、その境界づけで何ものかが現れるには、そのもとになる何かが必要ではないかという考え方があります。例えば、ホワイト・ボードに一本の線を引っ張って右と左に境界づけるとき、右と左の領域が現れるには、それらをもともと含んだ境界づけのないホワイト・ボードの面が必要ではないかという考え方です。このような考え方に従いますと、コスモスは様々な境界づけで表れているわけですが、それら境界づけを可能にする何かでもあるはずだろうことになります。ウィルバーはそれをスピリット、基底、空、非二元などという言葉で表現し、コスモスの本質とします。そして本質を境界づけて現れたものを現象とします。そうして、進化の究極的目標は、個が個であることを超え(トランス・パーソナル)、限定性を超越してコスモスと一体化することだとし、そのような自己超越的指向性を、本質たるスピリットの性質であるとして、エロスと呼びます。
 以上が、とりあえず私が自分なりに解釈するところのウィルバー・コスモロジーであり、かなり単純なものと思われるかもしれませんが、そこにたどり着くまでには、膨大な知見をまとめるための独特の方法論があったとされています。その方法論が「指向的一般論(orienting generalizations)の使用」ということです。

9.指向的一般論(orienting generalizations)の使用という方法論
 『万物の歴史』(ケン・ウィルバー著、大野純一訳、春秋社、1996)の中で、ウィルバーは指向的一般論(orienting generalizations)について次のように述べています。ただし、引用しました訳文では、“orienting generalizations”に「志向的一般化」と訳語をあてています。私は「指向的一般論」というような訳語をあてる方がよいと思うのですが、それについては引用文の後ですぐ論じます。

 人間の知識のさまざまな分野――物理学から生物学、心理学、社会学、神学そして宗教まで――をみてみると、一定の広い、一般的なテーマが浮かび上がってきますが、それらには、実際食い違いはほとんどありません。
 例えば、道徳的発達の分野内では、ローレンス・コールバーグの道徳的段階の細部についても、あるいはキャロル・ギリガンによるコールバーグの図式(スキーム)の改訂の細部についても、誰もが同意しているわけではありません。が、人間の道徳的発達が少なくとも三つの主要な段階を経るということに関しては、一般的かつ十分な同意があるのです。
 人間は、生まれたときはまだいかなる種類の道徳的体系にも社会的に組み込まれていない。つまり「前慣習的」です。それから、自分が養育される社会の基本的価値を表す一般的な道徳の枠組みをおぼえる。つまり「慣習的」になります。そして、さらに成長すると、個人は自分の属す社会についてよく考え、それによって社会から適度な距離を取り、批判したり改革したりする能力を身につける。個人は、ある程度「後(ポスト)慣習的」になるわけです。
 このように、発達の順序の実際の細部や厳密な意味はまだ盛んに論争されていますが、しかしなにか三つの主要な段階のようなことが事実起こる、しかも普遍的に起こることは、ほとんど誰もが合意します。これが「志向的一般化」[orienting generalizations]で、このやり方だと、多数の合意付きで、重要な森がどこにあるかが示される。森に何本の木があるかについては合意できなくても、というわけです。
 言いたいのはこういうことです。もし私たちが、これら、さまざまな知識部門――物理学から生物学、心理学から神学まで――からの広く合意された志向的一般化[orienting generalizations]を受け入れたうえで、さらにその志向的一般化[orienting generalizations]を数珠つなぎにすると、いくつかの驚くべきかつしばしば深遠な結論に達するだろう。まったく思いもかけないような、とはいっても合意済みの知識以外なにも含んではいない結論に。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。必要なのはただ、数珠つなぎにしてネックレスに仕上げることだけだ、と。(p.30~31、[ ]内は原文の該当部分を私が付け加えました)
 広い志向的一般化[orienting generalizations]に取り組むと、宇宙、生命、<霊(スピリット)>に関わる男と女の位置を示す広い案内地図(オリエンティング・マップ)を提案することができます。この地図の細部は好きなように埋められますが、しかし主な輪郭は、さまざまな知の部門からの、単純だがしっかりした志向的一般化[orienting generalizations]で選り抜かれた、膨大な証拠で裏付けられているのです。(p.32、[ ]内は私が付け加えました)

 以上の引用文の中で、「これら、さまざまな知識部門――物理学から生物学、心理学から神学まで――からの広く合意された志向的一般化[orienting generalizations]を受け入れたうえで、さらにその志向的一般化[orienting generalizations]を数珠つなぎにする」という部分を、if we take these types of largely-agreed-upon orienting generalizations from the various branches of knowledge―from physics to biology to psychology to theology―and if we string these orienting generalizations together (Ken Wilber, A Brief History of Everything, Shambhala 2000 p.16) という原文と比較しながら見ていただきますと、ウィルバーが意図するところは、orienting generalizationsと呼ぶ、各知識部門における広く合意された理論なり結論なりの事項があり、それらを使用してつなぎ合わせることが、包括的な理論を創り出す上での方法論になっているということだと読み取れます。ところが引用した訳文ではorienting generalizationを「指向的一般化」という何か一つの方法論を思わせる語で訳しているため、方法論自体を意味しているように解釈して使用する研究者を見受けることがありました。以前は私自身それでもいいと思っていましたが、やはり通常複数形で書かれるorienting generalizationsというのは、その方法論で使用する各知識部門における広く合意された理論なり結論なりの諸事項であると解釈すべきだと思います。今後順次ご紹介したいと思う批判を含む文献の中でも、orienting generalizationsはそのような意味で使われています。従って、その訳語としては、それ自体が方法論を意味しているのではないことをはっきりさせ、そして自己超越的な進化の方向性を指し示すという意味合いを込めて、「指向的一般論」とするか、あるいは複数であることを強調したい場合には、「諸指向的一般論」とするのがよいのではないかと思います。そこで、このエッセイではそうすることにします。
 ただ、ウィルバーの影響下にあるIntegral Instituteの関係者の間では、orienting generalizationが、完全に方法論そのものを表すように意味が変わってしまった可能性もあります。『インテグラル・シンキング 統合的指向のためのフレームワーク』(鈴木規夫著、コスモス・ライブラリー、2011)には、次のように書かれています。

 無数に存在する多種多様な情報を整理・統合するための方法として、インテグラル理論は「便宜的な一般化」(orienting generalization)という方法を用います。難しそうな言葉ですが、その意味するところは非常にシンプルです。“orienting”とは、共同作業を進めていくための共通基盤を築くために、関係者に基本的な事実を確認してもらい、その意識を方向付けするということです。そして “generalization”とは、多様な情報の中に存在する共通事項を見極めて、それに言葉を与えるということです。
 それぞれの専門領域には、数多くの流派が存在しており、また、それぞれの流派の中でも、多数の研究者や実践者が独自の意見を主張しあいながら、対話や議論を展開しています。多くの場合、それぞれの関係者の主張や理論は相互に相容れないものであり、それらを調停することなど、とうてい不可能なことであるように思われます。こうした状況を前にしたとき、私たちはそのあまりの情報量のために途方に暮れてしまいます。
 こうしたときに必要となるのは、状況を俯瞰して、全体を大雑把に鷲掴みにするということです。そこで、「便宜的一般化」においては、関係者の意見の間に存在する細部の相違点に注目するのではなく、それぞれの意見が合意している共通項に焦点を絞ります。つまり、関係者が対話や議論をするときに前提としている共通の条件は何かを明確にするのです。(p.13~15)

 ここでは、orienting generalizationは方法論として解釈されていますし、orienting もgeneralizationも、『万物の歴史』におけるのとはニュアンスの異なった意味を与えられています。ここまではっきりもともとと異なる意味で解釈しているとすると、Integral Instituteにおける、ウィルバー理論を発展させたインテグラル理論では、語の使用がかなり変わってしまっているのかもしれません。
 批判文などを読み進むうちに訳語について気になったものですから、少々長く書いてしまいましたが、『万物の歴史』からすると、ウィルバーは彼のコスモロジーを創るうえで、様々な学問各分野で、十分に合意された( largely-agreed-upon )、単純であるがしっかりとした( simple but sturdy )諸指向的一般論を使って、深遠な全体像を確立していくという方法論を使ったということです。例えば、図1-5の左上(個的内面)象限においては、ピアジェの発生的認識論などが、右上(個的外面)象限においてはダーウィンをはじめとする人たちの進化論、物理学のビッグ・バン理論などが、左下(集合的内面)ではジャン・ゲブサーの意識の起源に関する理論などが、右下(集合的外面)ではハーバーマスの社会の進化に関する理論などが、諸志向的一般論として扱われ、それらから、進化という方向性を持ったコスモスの全体像が導かれるとウィルバーは主張しているわけです。
 以上で、その方法論も含めて、ウィルバー・コスモロジーの概要を述べました。このコスモロジーを学ぶ間に私が抱いた疑問のおもなものを挙げていきますと、次のようになります。

・ホロンとは「全体であり部分である(全体/部分である)」というのは間違いではないのか。「全体であり部分である、あるいは全体であり部分となる可能性を持つ」とすべきではないのか。
・含んで超えるという進化の特徴は、全ての象限で成立すると言えないのではないのか。例えば集合的象限では、排除して置き換わるということではないのか。
・すべてのホロンは四象限を持つとする一方で、個的ホロン、文化的ホロン、社会ホロンとかいう特定の象限で成立するホロンがあるような言い方もしている。ウィルバーのホロン概念は整合性をもっていないのではないのか。
・ヴィジョン・ロジックという意識のレベルは、まだほとんど実現していないものなのか、それとも、誰でもがすでに多少とも持っているようなものなのか。ウィルバーの立場は一定していないのではないのか。
・複合新皮質を幼児が持っているということは、形式的操作を実現するための脳の構造が幼児のころから用意されていることを意味するように思えるが、より高次な、ヴィジョン・ロジックおよびトランス・パーソナルな意識のレベルに対応する脳の構造も幼児にはすでに用意されていると考えていいのか。
・コスモスの地図は、人間に至る系統のみを表している。人間に至るのとは別の、より高次なレベルに至る系統の存在も否定できないとすると、全宇宙を扱っていると断言すべきではないのではないか。

 これらの疑問のいくつかに関しては、先ほどウィルバー・コスモロジーの概要を示す際に、すでに私自身の一定の解釈を施してしまっていますが、この後批判を検討していく際には、その私の解釈に関しても改めて触れていくことになります。
 それではいよいよ批判に関して述べていきますが、最初に扱うのは、Frank Visser (フランク・ヴィッサーとも表記することにします)の、ウィルバーによる進化論の理解と、それに基づいたエロスの必要性に関する主張を主題とするものです。