Home | Menu | Profile | Link | Information | Index   
                  
          



銀の潮
 

                             page  1|2|3|4|5|6|7|8|9|10                     

                page1     


 

一. 

 

 母に連れられ、初めて朝霞家の門をくぐったのは、上村才七つの時。

 女工生活で体を壊し、病弱な母親は、ビーズ細工の内職をして細々と生計を立てていたが、子供も学校にあがったことだし人に使われてみてはどうか、寧ろ体も丈夫になるかもしれぬと知人に勧められ、紹介を受けて、子守として朝霞家に雇われる身となった。 

 朝霞家は先々代まではこの地では、政治家を輩出する資産家として知られていた。おとなしい人格者の先代は代書人どまり、一人娘の津世(今は彼女が当主である)が放蕩者の亭主をふたりもとってからは(初婚の相手も再婚の相手も、共に放蕩者であった)朝霞家の規模はどんどん縮小していったが、先代の金銭管理の綿密さが彼亡き後もどうにか一定財産を温存させていた。 


 朝霞家の門をくぐった母と子の耳に、日本舞踊の某かの音曲が流れ込んできた。才の小さな胸は言い知れぬ緊迫感でいっぱいになった。
「かあちゃん、僕、帰りたい」 

 母はしゃがむと、下から息子の過敏な顔をちょっと息を詰めて見た。
「かあちゃんは、今日からこの家にお勤めするんだよ、わかっとくれね。いいかい、おまえは明日から学校がひけると、この朝家さんちに来なくちゃならない。この家の奥さまは踊のお師匠さんで、昼間は稽古があっているからね、しずかにしているのが肝心なことだよ。宿題をしててもいいし、荒らさないように庭で遊んだり、赤ちゃんを見てたっていいけれども。夜になったら勤めが終わる、そしたらかあちゃんと一緒に帰ろうね」

 才は眼をしばたき、唇を噛んだ。朝露のような涙が睫のあいだから幾粒か零れ落ちた。 

 お菓子のように小さい、才の家。左官だった父が借り住まいのつもりで建てた。『すぐに、御殿のような家を建ててやるからな!』と、息子の顔も見ないうちに頓死するとも知らず。 

 黄ばんだ畳、ごちゃごちゃと小物の寄せられた土壁。線香の香。小川のせせらぎ。猫の額ほどの庭に柘榴の木があり、犬のハルが繋がれていて、細い鎖をシャラシャラ鳴らしてる。小径を隔てて隣家の豚小屋がある。豚ってのは見ていると、妙に生々しい。体の肌色、ひらひらした耳、潰れた鼻の具合、ブヒーッという耳に残る鳴き声やら、飼料と混じった体臭も。今しがた出てきたばかりのわが家の有様が、哀感をそそるほどのなつかしさで才の胸を塞いだ。 

 朝霞家は馴染のない高級旅館の匂いがした。それに、何かが塗り籠められてでもいるような不穏な――心霊的、とでも表現すべきだろうか?――気配があり、過敏体質の子供を怯えさせたのだった。 

「先生はお稽古中ですから、こちらで」 

 母子が別室に案内されしな、廊下側の一部分だけ硝子の填め込まれた格子戸から広間のなかが垣間見えた。紬を着たお師匠らしき女の人が、お弟子さんたちを侍らせ、立て膝に近い格好で茶をすすっていた。行き過ぎようとした刹那、哄笑が起こった。自分たちが笑われたのではなかったにせよ、才は厭な気がして瞼を伏せた。 

 通されたのは、苔色の絨毯を敷き詰めた洋間だった。(そこいらから、茸が生えてきたって、絶対に変じゃない!)と才は思った。光線の加減によって灰真珠色、金茶色を帯びるカーテンが掛かり、相当に古そうなピアノがあった。1個中隊を見送るライオンを毛で織り出した重厚な壁掛があり、使われているとも見えないホーム・バーがあった。 

 やがてドアが開き、つと入ってきたのは先程の女の人だったが、息を呑むほどに立姿のいい三十半ばと思しき女性だった。引っ詰めにした緑髪、乳を流したような額、凛として憂わしい眉。切れ長の、瞳の濃い、視線の定まった――。侠気ななかに繊細な情愛を秘めた面差しだった。 

 朝霞津世は風格で才を圧倒した。その生々しい美しさは、幼いためになまじに精巧な才の感性をすんでにショートさせてしまうところであった。そして彼女はその死に至るまで才にとり、常に生々しい存在であり続けたのである。 


 
 

 

 

Home

Next

 

 

 

移動用アイコン、ラインをお借りしました!

 

壁紙をお借りしました!

 

純文学作品 | 児童文学作品 | 戯曲 | 評論 | 手記 | エッセー | 詩 | 歌詞 | 俳句