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陰謀カレンダー9月2日
低用量ピルを解禁
BOXWEB 1999.6.3

中央薬事審議会が答申
欧米から40年遅れ、今秋にも販売開始

 厚相の諮問機関、中央薬事審議会(中薬審)の常任部会は2日、経口避妊薬低用量ピルの承認を答申した。6月中に厚相が正式に承認し、今秋には、医師の処方が必要な「要処方せん薬」として販売が始まる見通しだ。1990年の承認申請から9年、欧米に遅れること約40年で、先進国で唯一、未承認だった日本でもピル解禁が実現する。女性にとって、自らの意思で避妊できる選択肢が新たに加わる。

●●●●●
 承認の対象は、9社16製品。各社は薬の公定価格を決める薬価申請をしないため、保険は適用されない。価格はメーカーで異なるが、1カ月分が3000円前後とみられる。

 答申に当たり中薬審は、血栓症などの副作用予防とともに、解禁後に懸念されるエイズなど性感染症のまん延を防ぐため「ピルは性感染症を防止するものでない」ことの周知が重要との考えを示した。

 製薬各社に対しては、使用上の注意を記載した添付文書に加え、医師向け、服用者向けの情報提供資料を印刷して配布するよう求め、具体的な文書案を公表した。これらの資料には副作用や服用が禁止されるケース、処方の細かい手順などが書かれている。処方の際、医師は服用希望者にコンドームの有効性を説明、必要に応じて性感染症の検査を受けるよう勧奨する。

 厚生省は今年4月に施行された感染症予防法に沿って、ピル解禁後の性感染症の動向を監視していく。製薬会社には、副作用などに関する市販後調査を義務付けた。

 低用量ピルについては、厚生省研究班が86年、「導入が望ましい」とする報告書をまとめた。翌年、計約5000人の女性を対象に臨床試験が始まり、90年から91年にかけて9社が承認を申請した。

 しかし、承認間近だった92年、エイズ拡大の恐れを理由に審査が突然凍結され、95年まで中断した。その後、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)として生態系に影響するという指摘なども出て、承認が遠のいた。

 度重なる結論先送りに、女性団体などが反発。今年1月に男性の性的不能治療薬バイアグラが申請半年でスピード承認されると、「性差別による2重基準だ」と批判が噴出し、審議に微妙に影響した。


陰謀カレンダー3月23日
ピルの解禁とバイアグラの販売開始

■ ピルとバイアグラについては、猥褻わいせつ)/rp>な語呂合わせがふんだんに使われた。

西暦 1199年1月25日 源頼朝が落馬。これが元で2月9日に死去。

旧暦 1906年9月2日 ★(死亡)チャールズ・ファイザー、ファイザー社の創始者。
西暦 1906年10月19日

西暦 1972年6月14日 榎美沙子えのき みさこ)/rp>ら「中ピ連」を結成。ピル解禁を要求。
★日本航空471便ニューデリー墜落事故。

西暦 1999年1月25日 ★厚生省が性的不能治療薬バイアグラの製造を承認
源頼朝の落馬800周年記念日
西暦 1999年3月23日 バイアグラの国内販売が開始される(ファイザー)。
パラグアイの副大統領アルガーニャが暗殺される。
能登半島沖不審船事件。自衛隊に初の実戦命令。
★豊田大橋開通(一般車両)。
西暦 1999年6月2日 ★中央薬事審議会はピルの認可を答申する。
旧暦 ★(死亡)カルザイ・アフガニスタン大統領の父。暗殺。
★(死亡)山花貞夫、社会党委員長。
西暦 1999年7月14日
西暦 1999年7月23日 ★全日空61便ハイジャック事件。容疑者が機長を刺殺。
旧暦 ★日本でピルの発売を開始
西暦 1999年9月2日

西暦 2006年9月2日 ★元豪華客船『ステラ・ポラリス号』が潮岬しおのみさき)/rp>沖にて沈没。 (チャールズ・ファイザーの没後100周年記念日
西暦 2006年10月19日 ★元公安調査官が外国特派員協会で「ヤクザ」を語る。
チャールズ・ファイザーの没後100周年記念日



陰謀カレンダー9月5日
志位委員長が訪韓
しんぶん赤旗 2006年9月6日


西大門刑務所歴史館を訪問 日本共産党党首として初

日本共産党の志位和夫委員長は五日ソウルに到着、日本共産党の党首として初めて韓国を訪問しました。

志位氏は同日午後、訪韓の最初の日程として、日本の植民地支配に反対してたたかった独立運動家が弾圧、拷問、処刑された市内の西大門(ソデムン)刑務所跡につくられた歴史館を訪問。朴慶穆(パク・ギョンモク)館長の案内で歴史館を見学し、獄死した独立運動家の名前が刻まれた追悼碑に献花し、黙とうしました。

 朴館長は「一年に五万人の日本人が訪れ、日本の過去を知り、日韓の友情をはぐくむ場となっています」と説明。志位氏は、日本の植民地支配下で独立運動家に加えられた残虐な弾圧と迫害の史料、監獄や処刑場、暴圧に抗したたたかいの展示を一時間半かけて見学しました。

 見学を終え、韓国メディアに感想を求められた志位氏は、「日本による苛烈(かれつ)な植民地支配の暴虐非道な実態、それに勇気をもって立ち向かった朝鮮の愛国者の独立をめざすたたかいの力強さを感じました」とコメント。


陰謀カレンダー1月12日
富士山・桜島の噴火活動

旧暦 1271年9月12日 日蓮にちれん)/rp>佐渡島さどがしま)/rp>に流される。龍ノ口法難たつのくちほうなん)/rp>
不思議な光の玉が飛んでくる。)
旧暦 1279年10月1日 日蓮が聖人御難事しょうにんごなんじ)/rp>を著す
旧暦 1471年9月12日 桜島の「文明ぶんめい)/rp>大噴火」
日蓮の龍ノ口法難200周年記念日
旧暦 1476年9月12日 桜島南西部で噴火、死者多数、沖小島と烏島が形成。
日蓮の龍ノ口法難205周年記念日

旧暦 1703年11月23日 元禄大地震。M8前後の大地震。
旧暦 1707年11月22日 富士山の麓で強い地震が頻発する。
徳川家康の大坂冬の陣出陣107周年記念日
元禄赤穂事件5周年記念日
西暦 1707年12月15日
旧暦 1707年11月23日 富士山が大噴火。東側に新山が出現し宝永山と命名。
元禄大地震4周年記念日
西暦 1707年12月16日
旧暦 1779年10月1日 桜島の安永大噴火。死者153名。
日蓮の聖人御難事執筆500周年記念日

西暦 1889年1月12日 ★イスラム改革派アフマディーヤ協会が始まる(インド)。
旧暦 1889年1月12日 大日本帝国憲法公布
★日本で最初の「万歳三唱ばんざいさんしょう)/rp>」。
★文部大臣森有礼もり ありのり)/rp>(薩摩藩士)が刺される。翌日死亡。
西暦 1889年2月11日

旧暦 1913年12月16日 桜島の大正大噴火(一日目:噴火の開始)。
富士山の宝永大噴火206周年記念日
西暦 1914年1月11日
西暦 1914年1月12日 桜島の大正大噴火(二日目:本格的大噴火)。
日本で最初の「万歳三唱」25周年記念日
爆発は、立て続けに3回起こる。

西暦 1973年6月1日 ★北朝鮮の「統一革命党の声放送」が英語放送を開始。
★中野サンプラザ開館。
桜島噴火
中国国家副主席習近平しゅう きんぺい)/rp>の20才の誕生日

西暦 2009年10月3日 リオデジャネイロの2016年夏季オリンピック開催決定。
★(死亡)中川昭一、財務大臣。
桜島が爆発的噴火

西暦 2010年6月4日 菅直人が内閣総理大臣に選出される。
釜山プサン)/rp>でG20財務相・中央銀行総裁会議。
桜島が噴火。降灰量がこの頃のピークに達する。

西暦 2011年2月7日 桜島・南岳で爆発的噴火
旧暦 東北地方太平洋沖地震
★石原慎太郎東京都知事が、都知事4選出馬を表明。
★「怒りの日」反政府デモ(サウジアラビア)。
西暦 2011年3月12日 九州新幹線鹿児島ルートが全通
鹿児島中央駅では一切の記念行事を中止
★米軍は三陸沖で「トモダチ作戦」を展開。
西暦 2011年10月6日 (死亡)スティーブ・ジョブズ、アップル社の設立者。
★サラ・ペイリンは米大統領選に不出馬を表明。
★イスラエルの化学者シェヒトマンがノーベル賞を受賞。
(現地時間2011年10月5日
桜島で爆発的噴火。噴石1キロ超飛ぶ。
西暦 2012年3月12日 JR九州が的外れな1周年記念イベント
桜島が爆発的噴火、2合目まで噴石が飛ぶ。
九州新幹線鹿児島ルート全通1周年記念日
旧暦 オイコス大学銃乱射事件、学生7人が死亡(米国)。
九州新幹線鹿児島ルート全通1周年記念日
(速達列車が普通車を「追い越す」仕組み)
西暦 2012年4月2日

西暦 2012年5月20日
2012年5月21日
北半球で金環食観測
桜島が爆発的噴火(鹿児島市)。
★イタリア北部地震。
旧暦 2012年4月2日 東京スカイツリーが開業。
西暦 2012年5月22日
西暦 2012年7月24日 木内登英(きうち たかひで)/rp>と佐藤健裕(たけひろ)/rp>日本銀行政策委員会審議委員。
★外国為替市場でユーロが約12年ぶりのユーロ安。
桜島南岳山頂火口で爆発的噴火。約1年半ぶり。

西暦 2013年7月10日 ★ソフトバンクがスプリント・ネクステルを買収。
桜島昭和火口で爆発的噴火
西暦 2013年7月16日 ★東証と大証の現物取引市場が統合。
桜島で中規模の噴火
皇太子徳仁親王(なるひとしんのう)/rp>の結婚20周年記念日



陰謀カレンダー9月29日
桜島の噴火活動記録
天変地異年表 月日は、明治5年末までは旧暦を使用しています。

22000年前頃 現鹿児島湾北部で噴火。姶良カルデラが形成。噴火が続いた後、現桜島の北側で大爆発を起こし、薩摩・大隅両半島と霧島山周辺の広範囲に火砕流をもたらす。灰は1000km離れた場所にも降下。(日本被害地震総覧)
766(天平神護2)年6月5日 これより前大隅神造新島で地震。民多く流亡する。桜島噴火。(続日本紀27)
1468(応仁2)年 この年、桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
1471(文明3)年9月12日 桜島噴火し、人多く死ぬ。以降5年間度々噴火。(震災予防調査会報告86)(日本火山総覧)
1473(文明5)年4月11日 桜島噴火。(震災予防調査会報告86)(肥後国史)
1476(文明8)年9月12日 桜島噴火。人家埋没し、人畜死亡多数。降灰数日続く。(日本噴火誌)(島津国史)(震災予防調査会報告86)
1642(寛永19)年3月7日 桜島噴火。(震災予防調査会報告86)春、疫病流行する。(本朝年代記)
1705(宝永2)年12月 桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
1742(寛保2)年3月2日 8日にかけて桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
1749(寛延2)年 この年、桜島噴火。(日本災異誌)
1756(宝暦6)年 この年、桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
1779(安永8)年9月29日 大隅で地震。桜島噴火する。
1779(安永8)年10月1日 桜島大爆発。9つの島が生成する。大坂でも降灰。薩摩藩内で死者150余人、全半壊500戸。2万石が被害を受け、牛馬2000頭が死ぬ。(日本火山総覧)
1785(天明5)年 この年、桜島噴火。(日本災異誌)
1790(寛政2)年 この年、桜島震動し噴火。(日本災異誌)
1791(寛政3)年8月14日 桜島噴火。(日本災異誌)
1797(寛政9)年 この年、桜島噴火。(日本災異誌)
1799(寛政11)年2月22日 桜島噴火。(日本災異誌)
1860(万延1)年2月 桜島噴火。(日本災異誌)
1914(大正3)年1月12日 桜島大爆発。地震も伴う。溶岩が大量に流出し、3集落を呑み込み、大隅半島に達し陸続きとなる。噴火と地震で死者35人、行方不明23人、負傷者112人。全壊120軒、半壊195軒、焼失2148軒。小津波あり。灰は仙台に至る。(日本火山総覧)
2006(平成18)年6月7日 桜島の昭和火口付近で小規模の噴火。噴煙の高さは約1000メートルに達する。同火口付近の噴火は1946年に溶岩を流出した大噴火以来60年ぶり。
2009(平成21)年3月1日 2日にかけて桜島で爆発的噴火が相次ぐ。入山規制のレベルを2から3に上げる。
2009(平成21)年3月10日 桜島南岳昭和火口でやや大きな噴火。噴石が2合目に達する。



陰謀カレンダー9月12日
9月12日は水路記念日です!
海上保安庁海洋情報部


路記念日と言ってもすぐに海上保安庁水路部の創立の日と思い浮かぶ人は非常に少ないと思います。 また、部の名称も平成14年4月に「水路部」から「海洋情報部」に変更しており、なじみも薄いと思われますので由来を紹介してみましょう。

 明治2年(1869)8月兵部省が設置され、翌3年3月その下に海軍掛と陸軍掛との分課が設けられました。  旧暦の明治4年(1871)7月28日に兵部省が海軍部と陸軍部に分けられ、この時、海軍部に第1秘史局、第2軍務局、第3造船局、第4水路局、第5会計局の5局が置かれました。ここに、当時わが国の緊急課題であった日本沿岸の安全を図るための海図作りを使命とした水路局が初めて誕生したのです。

 戦前、5月27日の「海軍記念日」に含まれていましたが、昭和32(1947)年、海上保安庁が水路局の誕生した7月28日を水路部の創立の日として制定していましたが、昭和46年(1971)の創立100年を期して、太陰暦から太陽暦に換算し、9月12日を創立の日とし、以後、この日を水路記念日としています。

 当時の実務は、勝海舟らとともに長崎海軍伝習所においてオランダ式の航海・測量術を学んだ津藩出身の柳楢悦(やなぎ ならよし)少佐〔初代水路部長〕を中心として東京築地の海軍兵学寮(後の兵学校)の一室で、現在の水路業務の基礎がスタートし、日本人による近代的な海図作りが精力的に開始されました。

 わが国における海図の第1号は「陸中国釜石港之図」で、明治5年9月(旧暦8月)に完成していますが、これ以前にも、徳川時代から航路案内や海路図のようなものが作られていました。

 例えば、徳川時代には海外渡航を禁止した鎖国政策の実施により船舶航行の範囲を国内に限定したため、瀬戸内海を中心とした交易が主となりました。そのため、航路案内や海路図は瀬戸内海のものが多く、慶安・承応年間(1648~1655)から始まり、寛文のころ(1670)には木版刷りで刊行され、元禄年間(1688~1704)にはその版種は数十種にのぼりました。なお、現在海上保安庁はわが国周辺海域を中心として航海用海図を約750版刊行しています。近年では航海用電子海図も刊行し、国内外の船舶に利用されています。

 水路部(局)は、兵部省に設置されて以来、下記のように所属省庁が移り変わって現在に至っていますが、途中、水路部の観象台業務の移管が行われ、天文関係は文部省へ、気象関係は内務省へ移管されました。

     明治 4年(1871) 9月12日(旧暦7月28日) 兵部省(ひょうぶしょう)海軍部水路局
            {1869年に設置された兵部省に海軍部が設置されその内部機関として築地・兵学寮内で業務を開始した}
         5年(1872) 4月 5日(旧暦2月28日) 海軍省水路局(兵部省廃止に伴い設置された海軍省の内部機関となる)
         5年(1872)11月13日(旧暦10月13日)海軍省水路寮
         9年(1876) 9月 1日           海軍省水路局
        19年(1886) 1月29日           海軍水路部{海軍大臣に属する機関(海軍省外局)となる}
        21年(1888) 6月27日           水路部(海軍の冠称廃止)

    (明治43年(1910)12月16日   築地海軍用地に水路部庁舎完成、移転)
    (大正10年(1921) 6月      国際水路局IHBに加盟)

     昭和20年(1945)11月29日   水路部(運輸省外局となる)
        23年(1948) 5月 1日   海上保安庁水路局{海上保安庁が運輸省の外局として設置され同庁の内部機関として設置}
        24年(1949) 6月 1日   海上保安庁水路部


     平成13年(2001) 1月 6日   海上保安庁水路部{海上保安庁は国土交通省設置に伴い同省の外局として設置}
     平成14年(2002) 4月 1日   海上保安庁海洋情報部(現在に至る)


陰謀カレンダー11月17日
日本遺族会とその戦争観 王希亮
季刊 中国帰還者連絡会


日本遺族会は、その前身を日本遺族厚生連盟(以下は簡単にこれを連盟と記述す)といい、1947年11月17日に設立された。この団体の成立は、その政治的な背景や趣旨をみれば自ずから明らかだが、設立以来政府、国会及び与党と密接不可分の特殊な関係を結び、政治舞台で審議に参与し、半官半民の政治団体となっている。同時にこの団体の道理に合わない戦争観は、日本の各界の認識と戦争責任の反省に対して、他の団体では出来ない阻害と破壊作用をなしている。

 1947年11月17日、日本遺族厚生連盟は設立を宣言し、靖国神社の事務総長・元大本営参謀・海軍中佐の大谷藤之助の推薦の下に、元貴族院議員・長島銀蔵が理事長に就任(1948年4月以降は会長制)した。当時連盟本部は神奈川県庁の県厚生連盟の中に置かれ、靖国神社の中にも連絡所が設置された。これは、連盟が誕生した時から、靖国神社と密接不可分の特殊関係があったことを物語っている。連盟の成立後、23か条の規約を発表したが、その第3条には、「本連盟は戦争犠牲者および社会の公共の為に殉職した者の遺族をもって会員と成す」とあり、第4条には「本連盟は極力会員相互の扶助と、救済慰藉に道を開き・…・これをもって戦争を防止し、世界の恒久平和を確立し、全人類の福祉の為に貢献する」。ここで指摘すべきことは、この項にある「戦争を防止し、世界の恒久平和を確立する」という言葉だが、これは決して連盟の根本的な趣旨ではない。つまり当時の日本は連合国の最高司令部GHQの占領指導下にあったので、この種の団体の成立には必ずGHQ社会局の批准を経なければならなかった。しかも、GHQはこの連盟が成立するについて三つの条件を付けた。一には、当組織の中に戦没者の遺族だけでなく、社会の公共的事業で犠牲になった人の遺族をも入れること。二つには、遺族間の相互扶助を目的とすること。三つ目は、現職の政府職員・役人、追放処分をうけた者、元の職業軍人はこの連盟の幹部になってはならない、ということである。

 連盟が成立してから、連盟は、200万の戦争犠牲者の800万遺族の利益を代表すると声明し、先ず、遺族の福利救済事業に力を注ぎ、国家の立法機関に「遺族援護法」の制定を促す運動をおこなった。1952年4月30日、閣議を経て「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の実施が正式に公布された。この法律の規定により、戦傷病者および戦死者の遺族は毎年一定額の年金と弔意金を受けることになった。しかし、戦争中に家族を失った遺族はこの中に含まれなかった。例えば、空襲で死んだ市民、広島・長崎の原爆による死亡者、および沖縄戦で自殺を迫られて死んだ者、或いは戦火に倒れた一般住民の遺族は除外された。つまり軍人ではない被害者の遺族は「援護法」を受ける資格がないのだ。

 1953年3月11日、連盟は「財団法人日本遺族会」(略称)と名を改めた。この時から、遺族会は「遺族の救済と相互扶助」の初心から背離し、その37条の規約の中には、連盟規約の最初に提出された「戦争を防止し、世界の恒久平和を確立し、全人類の福祉に貢献する」の一語は削除され、反対に強調されたのは「英霊を称え、霊を慰める事業」を「最優先目標」とすることにであった。

 遺族会は成立のその日から、日本政府の全面的支持と「無私」の援助を受けることになった。1953年8月、日本政府は「法第200号」を公布し、国有財産である東京都千代田区の九段会館を無償で遺族会に貸して経営使用させた。九段会館は1934年に、帝国在郷軍人会が、昭和天皇の即位の大礼を記念して建てたもので、内部には、会議室、結婚式場、ホテル、レストラン等があり、戦前は軍人の活動の場となっていたからここを軍人会館ともよんでいる。戦後、ここは国有となり、遺族会の出現によって、政府は全く先例がないにも関わらず国有財産を無償・無期限で遺族会の経営・使用にまかせ、同時に直接厚生省の「指導」を受けることになった。これでも分かるように日本政府側は遺族会に対して特別な好意を示し、特殊待遇を与えている。資料によれば、1993年、九段会館の営業額は57億円にも達し、1994年は55億円と、遺族会の活動に対して堅実な経済的基礎を提供している。

 1962年1月、遺族会の第三代目の会長安井誠一郎が病没すると、賀屋興宣があとを継ぎ、これより人のいう「賀屋-板垣体制」が出現した。賀屋は、戦時中は東条英機内閣の大蔵大臣で「北支那開発会社」の総裁等の要職につき、戦後は東京裁判でA級戦犯になり終身禁固刑の判決を受けた。1955年に釈放され、すぐに自民党に入り、1958年に自民党の推薦を受けて衆議院議員となり、自民党の政調会長となった。板垣は「九・一八」事変を発動し、中国東北侵略の巨魁の一人で、後に東京裁判で絞首刑となった板垣征四郎の息子で、戦時中は陸軍少尉として戦争に参加し、1957年に遺族会へ加入して、当組織の企画部長となり、1972年から事務局長をつとめた。1980年の選挙で参議院議員となった。賀屋、板垣の外に、遺族会の顧問には自民党副総裁であった大野伴睦が就任した。賀屋-板垣の体制は既に15年の長きに亘り、(賀屋は1977年4月に死去)依然として、政府側と密接に連携し、いわゆる「戦後の総決算」という活躍時期を迎えた。

 もし、連盟が成立した当初のように、活動の中心を遺族の経済的利益を計ることに置いたというのなら、政府の「援護法」が出たことで、遺族たちは毎年一定額の年金と弔意金を得ることになって、初期の目的を達した。だが以後連盟は運動の中心を「英霊を慰め」ることに移し、政府に対して靖国神社の「公式参拝」を促し、侵略戦争を否定することに専心することになった。

 1952年6月10日、連盟は「連動方針大網」を打ち出し、「戦犯として処刑された者の遺族も遺族会の中に加入される」、「極力靖国神社に、でなければ各地の護国神社に処刑された者たちや学徒および国民義勇隊員の霊を祭る」、「戦没者に対して国民感謝の日を設ける」等を提出した。

 1953年1月、連盟は一部の遺族を組織して、靖国神社で断食闘争を行って政府に圧力を加え、政府に対して靖国神社に「戦没者の英霊」を祭るように要求した。結果は、断食闘争の目的こそ達しなかったが、政府は戦時中の「公務補助金」制度を復活させた。

 この年の8月に、「恩給改正法」が公布され、これによって元軍人の遺族の絶対多数が利益を得ただけでなく、処刑された戦犯および拘留中に死亡した戦犯の遺族にも「軍人恩給」が支給されることになり、何と、戦犯が拘留されていた期間をも「在職恩給」が支給され、拘留中の傷病者は「在職恩給」の外に「公務傷病恩給」が給付されることになった。

 1958年1月、遺族会顧問大野伴睦は遺族の「大型陳情団」を組織し、靖国神社に集まり、政府および与党に「陳情」し、靖国神社を「公式参拝」することを要求した。この結果、政府は表向きには遺族たちの要求をいれなかったが、経済的に遺族たちに「公務扶助金」の額を引き上げる形で答えた。

 賀屋-板垣体制下の遺族会は、只、連盟および遺族会の「英霊をたたえ」、「国家護持」、「公式参拝」(靖国神社)等運動の趣旨を継承しただけでなく、これらの趣旨を更に充実させ、頻繁に社会世論を発動して、政府や国会に圧力を加えた。

 1962年8月、遺族会は「靖国神社の国家護持に関する要綱」を出し、政府に対して、戦争中天皇ファシズムを宣伝するための教育の道具であった靖国神杜の国営化を実施することを要求した。翌年の10月、更に「靖国神社法要綱案」を出し、同時に、政府および各地方議会の自民党議員を発動して靖国神社の「国家護持」の騒動を起こし、更に全国規模で署名請願運動を操り広げ、全国で295万人の署名を集めて、国会に対して「請願書」を出した。今回の騒動の影響で、1966年7月、海上自衛隊の106名の指揮官兵士が、地方政権の首脳と一緒になって軍装に身を包み、軍隊式の統一行動で、集団で靖国神社に参拝し、軍(自衛隊)、政(地方政権担当首脳)一致の靖国神社の「公式参拝」の既成事実をつくった。

 その他、与党である自民党は、ずっと靖国神社の国営化促進運動に積極的であり、早くも1955年12月、自民党議員は政府に対して「120万の英霊を国費で祭ろう」という議案を提出した。翌年の3月、自民党は更に「靖国神社草案要綱」を提出、その中心主張は靖国神社の国営化である。このようにして、日本遺族会と自民党の二大勢力は、一つは「民間団体」という顔をもち、もう一つには与党の身分で国政に参与し、相互に相呼応して、じょじょに日本政府を右傾化させている。

 1963年8月15日、日本政府は第一回の「全国戦没者追悼式」を行い、昭和天皇と皇后が出席した。時の総理池田勇人は、「これらの戦没者の功績と亡くなった同砲の梅しさは永遠に歴史に名を止めるべきだ」、「戦後、わが国の経済と文化は著しい発展をしたが、その礎は過去の大戦にあり、祖国の栄光を信じて異郷に命を落とした英霊たちの願いを我々は一日も忘れるべきではない」と挨拶を述べた。

 1964年4月29日、昭和天皇の誕生日のこの日、日本は又公然と戦時の「戦没者叙勲」制度を復活させた。この日に池田勇人は講話のなかで、「戦没者の叙勲は、国家が今次大戦中に祖国の為に尊い命を投げ出した英霊に対して、感謝を表明すると共にその生前の功績を称えるものだ」と述べた。

 1970年10月、日本政府は又、戦時の『賜杯』制度を復活させた。これは国家に対する「功労賞」の一つで、戦没者に銀杯或いは木杯を与えた。報道によれば、目下のところ日本政府は約205万人の戦没者に勲章や「賜杯」、証書の類を配り、その数はおおよそ戦没者全体の70%以上(日本側の発表では、戦没者は300万で、その中には原爆の被害者、空襲、集団自殺等の殉難者が含まれるがこれらの人々は叙勲の対象にはならない)に当たるという。

 日本政府の戦争観点および一連の行動は、遺族会にたいする一種の刺激剤の注入にほかならない。70年代に入って、遺族会の動きは更に活発になり、全力を挙げて日本政府、首相、閣僚に靖国神社の「公式参拝」を促すようになった。彼等は、声高に、これは靖国神社国営化の第一歩であるという。1976年、当会は靖国神社本庁、全国戦友会連合会、日本郷友連盟、軍恩給連盟等の団体が合同して「英霊にこたえる会」を結成した。その趣旨は日本政府、閣僚を動かして靖国神社の「公式参拝」をいち早く実現しようとするものなのだ。彼等は、これが実現してこそ戦死した「英霊」は「浮かばれる」と考え、これによって戦死者の英霊を慰めることができるというのだ。

 これに呼応するように、1980年、自民党は衆参議員選挙の際、「靖国神社の公式参拝」を実現することを公約に掲げて、遺族会等の右翼団体の支持を得、自民党一党政権の政治的局面を作り出した。翌年の4月、自民党の国会議員311名によって「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」を組織し、国会議員が集団で参拝することを主張した。この後、鈴木、三木内閣の首脳および一部の閣僚が「私人」の名義で靖国神社を参拝し、「公式参拝」、「国家護持」の第一歩を踏み出した。

 1985年8月15日になって、遺族会や自民党内部による推進の下に、内閣総理大臣中曽根を頭にした政府要人が、アジア、太平洋地域諸国の強い反対と国内の抗議をよそに、公然と「内閣総理大臣」の肩書で「公式参拝」した。以後日本政府与党の面々は次々に登場して、一連の侵略戦争否定の奇談怪談を繰り広げ、いわゆる「戦後の総決算」の幕開けとなった。

 1993年8月、新任の細川首相は、「私は、(日本が発動したあの戦争は)侵略戦争であり、誤りだったと思う」とのべた。戦後、日本の首相が初めて公開の席上で今次戦争の侵略性を認めたことになる。しかし、この発言は即刻遺族会など右翼団体の強い反対にあい、遺族会は抗議して曰く、「これは英霊にたいする冒涜だ」と。同年十月一日、遺族会は再び声明を発表していう「大東亜戦争は国家保護と国民の生命財産を護るための自衛戦争だ」。翌年三月、前述の「英霊にこたえる会」中央本部は各所に「日本は侵略国ではない!」というビラを撤いた。

 遺族会(連盟)が成立したばかりの時は、国連駐留軍の抑制があり、大きな声では侵略戦争否定の旗印を掲げることはできなかった。だが、1952年サンフランシスコ条約が結ばれてから、GHQは大政を日本政府に返還した。遺族会は活動の中心を「英霊をたたえる」、靖国神社の「国家護持」に置き、その前提としては先ず侵略戦争の否定であり、東京国際裁判の否定で、公然と戦争犯罪の為にその決定を覆し、侵略戦争中の死者の徳をたたえている。これは遺族会が靖国神社の中に掲げた宣伝の額縁や標語をみれば一目瞭然で例えば、

「あれらの私たちの為に命を投げ出した英霊をたたえ慰めるのは、国家国民の義務だ」

「平和と繁栄の礎となった英霊たちに感謝と敬意を捧げよう」

「大東亜戦争は日本の自衛の戦争だ」

「英霊は命をもって祖国日本と同胞への気持ちをあらわした。これこそ献身であり平和への願いだ」

「英霊とは、日本の明日の為に身を捧げた人たちだ」

「わが国には、昭和の殉難者がいるのみで、A級戦犯はいない」

 上述の侵略戦争を否定する観点を総括すれば、以下の何点かに帰納することができる。

1、自衛戦争観=日本が発動した戦争は純粋に自衛のために、仕方なく行った。

2、殉国史観=戦死者は国家、民族の為に英雄的に献身したので、今日の政府および次代の人々から尊敬されるべきだ。

3、平和と繁栄の礎観=戦死者の献身があってこそ、今日の平和と繁栄がある。

 上述の観点の外に、遺族会の観点には「英米同罪観」と「解放戦争観」が含まれる。

 前者は英米の古い帝国主義国家は当時も、又かつてもアジアで植民地をつくった。もし日本の侵略に罪があるというのなら、英米と日本は同罪だ。後者は、今回の戦争によって中国・朝鮮・韓国等その他アジア諸国が次々に西ヨーロッパの植民地統治から解放されて、独立を勝ち取った。言外にアジアの各民族が解放されたのは、日本のおかげであるという。

 日本遺族会は政治的に、与党および一部の政府要員のよりどころとなっており、しかも、かなりな数の遺族会幹部が衆・参議員になって、政治の舞台に発言権を持ち、経済的には日本政府から無償で借りた九段会館の、年間収入は数十憶円にもなるというから、十分な経済保証の裏付けを持ち、組織的には104万戸の遺族家庭をかかえ、各家庭に5人の家族がいると計算すれば、総数約500万人の大組織となる。だから、それは半官半民の絶大な勢力を持ち、注目に値する政治団体だといえる。

 しかし。平和と進歩の力も決してあなどることはできない。日本遺族会だけが、戦没者遺族のたった一つの団体というわけではない、記録によれば、実際にこの組織に加入しているのは、日本戦没者遺族総数の56%前後で、なお、44%の遺族はこの組織には加入していない。では日本遺族会の他の組織の状況はどうだろうか?その一つに平和遺族会全国連絡会(略称平全連〉があり、遺族会の趣旨とは全く異なる遺族団体だ。1986年7月7日、平全連は蘆溝橋事件の49周年記念日に成立を宣言した。現在、当会には日本各地に15の平和遺族会を擁しており、その宣言文には「我々は、アジア、太平洋で肉親を失いました。・・・ですから戦争の罪悪を痛感し、私たちは複雑な心境です。身内を失ったあの戦争は、同時にアジア各国の平和に脅威を与え、民衆の生活を破壊し、2000万人以上の命を奪った侵略戦争でした。私たちは夫や息子や父親の死を『有意義な死』にしようと、自身を慰めています。私たちは戦没者の遺族として、誰よりも強く平和を要求しています。私たちは絶対に再びアジアの人民を敵視し、あの罪も無い民衆を虐殺することはできません。私たちは戦争による悲劇を十分に嘗め尽くした者ですから。日本の政府に対して、再び戦争による惨禍を避ける為に最大の努力をするように希望します。このようにすれば、私たちの肉親の悲しみと無意味の死、およびアジア各国人民の死も意義を失わずに報われることでしょう。これこそが私たちの追求する只一つの道です」

 平全連の外にも、キリスト教遺族会があり、それは1948年8月に成立し、遺族会とは戦争観をことにしている。当会はかつて声明を発し、「(日本)が発動した戦争は決して偉業ではない。戦没者を『英霊』として祭ることは、決して遺族の願いではない」と、述べた。

 1976年8月15日、当会は英霊会の世論の宣伝に対して『趣意書』を発表し、「1・英霊は決して平和の基礎ではない……戦没者の遺族は『英霊』を否定している。2・戦没者の追悼をするなら、個人の宗教や信条を大事にすべきだ。3・必ずアジアの戦没者遺族に謝罪せよ」

 と、いった。更にこの「趣意書」は「最も大事なことは、日本は目を海外に向けて、アジア各国の戦没者遺族の苦痛を自己の苦痛として考えることによってはじめて、日本の民族中心思想を打ちやぶり、本当の意味の連帯の輪をつくることができる」と指摘している。

 日本に、このような進歩と平和の力があるかぎり、右翼勢力は自分たちだけで勝手なことは出来ない。日本遺族会が提出した「靖国神社法条」は続けて6回も国会に提出されたが、毎回通過せずに廃案になったということは一つの例である。1985年8月15日、中曽根首相は「公式」に靖国神社を参拝した後、次の年も参拝のつもりであったが、国内外の反対と抗議の声が高まり、中止せざるを得なくなった。公開の席上で気炎を吐いた政府の要人たちも、やはり一人ひとり自ら辞職をしなけれぱならなくなったではないか!

 これらのことを考えれば、今日の世界において、時代に逆行し、歴史の古い付けをひっくり返すことは、そんなに簡単に彼等の思いのままにならないとうことが言えよう。

 (おう きりょう 黒龍江省社会科学院歴史所)



陰謀カレンダー1月20日
CIA長官人事
土屋大洋のウェブログ 2009年1月16日


ブッシュ政権のCIA長官マイケル・ヘイデンはNSA長官時代に令状なし通信傍受を始めた張本人で、プライバシー業界では非常に評判の悪い人だ。ところが、オバマ新大統領が彼を留任させるかもしれないという噂が出ていた。

結果的には、クリントン政権の古狸であるレオン・パネッタが指名され、インテリジェンスのプロたちを怒らせている。パネッタはインテリジェンスの経験が全くないからだ。

ヘイデン留任はなかったが、クリントン政権からブッシュ・W・ブッシュ政権に移る際、ジョージ・テネットCIA長官が政党を超えて留任したことがあるから、あり得ない話ではない。

さらにさかのぼると、フォード政権下でCIA長官だったパパ・ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュ)は、任期が短かったこともあり、カーター政権でも引き続き長官職に留任することを希望していたが、カーター新大統領に拒絶されたという話があるそうだ。

当時のパパ・ブッシュは非常に党派的な人間として知られていたので、そこが嫌われたようだ。

この話を読んで、10月にヒューストンのブッシュ・ライブラリーで見つけた資料を思い出した。歴史的価値が特にあるわけではないが、おもしろいのでスキャンして載せておこうと思う。なお、紙が青いのは、原資料と区別するために大統領ライブラリーのコピー用紙が青いため。



陰謀カレンダー5月20日
鹿児島県鹿児島市の桜島の昭和火口で5/20〜5/21にかけて爆発的噴火、噴火活動が再開した2006年6月以降最大の火山灰が市街地に降り注ぐ
地震情報のまとめ速報 2012.05.21


鹿児島市・桜島の昭和火口で20日から21日にかけ、爆発的噴火が相次ぎ、大量の火山灰が市街地に降り注いだ。

タオルで顔を覆って歩く人たちの姿が見られたほか、JRの分岐器(ポイント)が正常に動かなくなるなどし、運転を見合わせる列車も相次いだ。

鹿児島地方気象台によると、21日午前9時までの24時間降灰量は1平方メートル当たり733グラム。昭和火口の噴火活動が再開した2006年6月以降、最も多かった10年6月4日(283グラム)の約2・6倍となった。桜島の今年の爆発的噴火は530回を超え、気象台は「引き続き警戒が必要」としている。

JR九州鹿児島支社によると、20日夜から21日午後に、鹿児島、日豊、指宿枕崎線で計36本が運休、計44本が遅れ、約1万3200人に影響が出た。

(読売新聞より)


陰謀カレンダー3月12日
九州・山陽新幹線 直通運転1周年記念沿線弁当イベント
Tetsdo.Com 2012年3月5日


ジェイアール九州フードサービスは、九州・山陽新幹線相互直通運転開始1周年を記念し、博多駅構内「駅弁当」博多口店・新幹線口店にて、山陽新幹線や西日本地区在来線沿線の駅弁を販売。販売期間は、2012年3月10日(土)~20日(火・祝)。山陽新幹線新神戸駅の「平清盛たこしゃぶちらし」、西明石駅の「ひっぱりだこ飯」、岡山駅の「桃太郎の祭ずし」、福山駅の「廣島名別あなごめし」、広島駅の「清盛しゃもじ弁当」、予讃線高松駅の「たこ飯」、山陰本線鳥取駅の「ゲゲゲの鬼太郎風呂茶漬け」、松江駅の「およぎ牛弁当」などを販売。売切次第販売終了(西日本地区の弁当は1日限定約300食)。


陰謀カレンダー3月12日
桜島で爆発的噴火、入山規制範囲を拡大(3/12)
rescuenow.net 12.03.12


鹿児島地方気象台によると、桜島では、12日15:07頃、昭和火口で爆発的噴火が発生し、大きな噴石が2合目(昭和火口より2km付近)まで達した。

このため、福岡管区気象台・鹿児島地方気象台は、12日15:35、桜島に火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)を切り替え発表し、「火口から居住地域近くまでの範囲で警戒が必要」とした上で、居住地域近くまでの範囲で噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石や火砕流に警戒を呼び掛けるとともに、風下側や遠方では降灰や風に流されて降る小さな噴石(火山れき)、山麓では降雨時の土石流にも注意を呼び掛けている。 桜島では活発な噴火活動が続いており、今年に入ってからの噴火回数はこれまでに同時期では過去最多ペースの309回に達している。


陰謀カレンダー4月2日
九州新幹線】つばめ号を追い越すさくら号のトレビア
鉄道動画カメラマン黒川了一の九州鉄道ブログ 2012-04-03


九州新幹線が全線開業してから1年。
先月17日に九州新幹線もダイヤ改正されました。
パラパラと時刻表チェックしていたら、やっぱりありました。
九州新幹線内での追い越しダイヤ。。。
ただし、基本的には先行する「つばめ」号の後続の「みずほ」号が追い越しているダイヤ構成になっています。
しかし、実はこの中に下り列車の1本だけの「つばめ」号が、後続の「さくら」号に追い抜かれるという、トレビア的なダイヤ設定が隠れています
定期列車の中でのお話になりますが、九州新幹線では基本的に博多駅、熊本駅で「つばめ」や「さくら」との緩急接続が確立しており、基本的には博多~熊本間では「さくら」「つばめ」の、どの新幹線に乗っても先行到着できるダイヤ設定になっています。
しかし、九州新幹線の下り列車である博多発「つばめ」343号だけは事情が異なります。
「つばめ」343号の博多発は10時41分発、熊本には11時35分着、後続の「さくら」547号の博多発は10時49発、熊本には11時25分着です。
途中の久留米までは、「つばめ」343号が先行していますが、各駅間の走行時間を見ると、筑後船小屋駅の出発時間が他の「つばめ」号より約4分遅く設定されています。
つまり、筑後船小屋駅で「さくら」547号を追い越していることが解ります。
先行する「つばめ」号を追い越す「さくら」号は上下合わせて この一本だけ です。
九州新幹線に乗車する機会があれば、ぜひ800系「つばめ」から追い越す700系「さくら」号を見学して見るのも貴重です。


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