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陰謀カレンダー8月16日
A・ストロエスネル氏死去 南米パラグアイ元大統領
47NEWS 2006/08/16


アルフレド・ストロエスネル氏(南米パラグアイ元大統領)ブラジルからの報道によると、16日、ブラジリアの病院で死去、93歳。数日前にヘルニアの手術を受けた後、肺炎などの合併症を起こしていた。  1912年、パラグアイ南部エンカルナシオン生まれ。陸軍将軍だった54年5月、クーデターで政権を掌握し、同年8月に大統領就任。58年以降は連続当選し、長期独裁体制を築いた。88年に8期目の当選を果たした後、89年2月に故ロドリゲス将軍(後の大統領)のクーデターで政権の座を追われ、ブラジルで亡命生活を送っていた。  在任中は、汚職や人権侵害のまん延が国際社会から批判された。ナチス・ドイツの逃亡戦犯を積極的にかくまったことでも有名。72年に来日。


土浦通り魔8人殺傷事件
SCRAMBLE - 8 2008年10月05日


茨城県土浦市のJR常磐線荒川沖駅周辺で起きた8人殺傷事件で、無職金川真大(かながわまさひろ)容疑者(24)が、事件前に、自分の携帯電話から、もう1台所有していた別の携帯電話に、「おれがやることがすべてだ」「おれが神だ」などとする電子メールを送っていたことがわかった。

一方、メールには「おれも自分を終わりにしたい」という記述があり、殺人願望を正当化しながら破滅願望も抱いていたとみて、土浦署捜査本部は分析を進めている。

調べによると、金川容疑者が2台の携帯電話間でこうしたメールを送っていたのは、今年に入ってから。三浦さん殺害時や同駅周辺での8人殺傷時に使用された文化包丁について、金川容疑者は「人を殺すために1月に購入した」と供述している。同捜査本部は、包丁購入後、金川容疑者が、こうしたメールを自分自身で送受信しながら殺人願望を増幅させていった可能性もあるとみている。
(2008年3月25日 読売新聞)


日本を創った12人前編
著者: 堺屋太一


建仁3年(1203年)、息子の頼家が重病になると、その跡を継ぐ頼家の子・一幡いちまん)/rp>と、政子の次男である実朝との二人に権限を分けた。これに一幡の母の実家の父、つまり政子が憎む息子の嫁の実父・比企能員ひき よしかず)/rp>が不満を持ったのは当然だろう。政子はそれを待ち望んでいたように、実家の北条家と結んで、比企氏を攻め滅ぼした。

ついでに孫の一幡も殺し、重病から回復した長男の頼家も出家させて修禅寺に幽閉した。これがのちに『修禅寺物語』という岡本綺堂の戯曲になるわけだが、政子は次男の実朝を将軍に擁立し、父の時政を執権に据えた。政子という女性は子や孫よりも権力を愛したのだろうか、それとも実家の北条家を大切に思うたのだろうか。

さらに、後鳥羽上皇の乳母にあたる藤原兼子けんし)/rp>卿二位きょうのにい)/rp>)と結託して、実朝の後継者として次の将軍に、後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を迎える約束をとりつけた。朝幕強調関係を女二人で推進したのである。

そうしたこともあって、政子は出家の身でありながら従二位に叙された。「尼将軍」といわれたのは妻が夫の征夷大将軍と同じ地位になったからだ。

当時は女性同士が結び付いて陰謀を練ることもよくあったが、政子はその最大の成功者、恐るべきママゴンの源流である。

『愚管抄』には「時政がむすめの、実朝・頼家が母いき残りたるが世にて有るにや」と記され、京で大きな勢力を築いていた卿二位と共に「女人入眼の日本国いよいよまこと也」、つまり日本の政治はこうして女性が助けることにより完成するのだと記されている。

政子は、京の都に皇子の下向を要請したが、政情の変化により拒否された。結局、後鳥羽上皇は約束と違う後継者、藤原家から頼朝の遠戚にあたる頼経を将軍に推薦する。頼経は当時二歳で、まったく権限のない将軍だった。政子が夢見た朝幕協調は崩れたが、そのため、実権を政子と父の時政が握ることになった。

さらに、時政が死ぬと、その次には弟の義時が執権となり、そのあとには、その子の北条泰時が執権となる。こうして頼朝の妻政子の実家、北条家の人々が次々と執権として実権を握ることになったのである。

史上に残る北条政子の最大の活躍は、この間に後鳥羽上皇が鎌倉の権力を嫌って軍を起こした承久の乱(1221年)の時だろう。

武士たちに「源氏から受けた恩を忘れるな。天皇よりも幕府につけ。」と政子は大演説をし、京に軍勢を送り、後鳥羽上皇以下を逮捕し、島流しにしてしまう。これによって幕府の権力は揺るぎなきものとなり、併せて幕府の実権は政子とその実家が握った、というのが伝えられている政子像である。

ただ、北条政子が大変な権力を握っていたといわれているが、実際に政治を動かしていたのは政子だったのか、その父のの時政や弟の義時あるいは甥の泰時の方だったのか、疑問は残る。ただ、はっきりしているのは、北条政子がいたからこそ時政や泰時が権力中枢に出られたことだ。また、時政、義時、泰時と三代にわたる執権の一貫した姿勢、前述の卿二位との談合、そして承久の乱でも演説などを見ると、やっぱり政子が主役だったような気がする。

その意味では、頼朝が死んだあとの幕府では、この女性が大権力を持ち、日本の歴史に関係してきたことは間違いのないようである。

「令外官」を生んだ二重構造

ここで重要なのは、なぜ政子にそういうことができたのか、ということだ。

それは頼朝自身が、「大宝律令」の条文に規定された官職ではなく、東部軍総司令官(征夷大将軍)という「令外官」の地位で、全国の「武士の棟梁」と称して政治を行うというイレギュラーな方法を開発した点にある。このイレギュラー性を北条政子が一歩発展させ、権力を将軍の官房長である執権に移した。つまり、本来は天皇に権力があり、天皇の下に「二官八省」の制度があったにもかかわらず、これをそのまま残して別に東部軍総司令官が権力を握り、その司令部を幕府という実質政府にした。そうなると次には、その東部軍総司令官に二歳の養子を就けて形式化して、官房長が実権を握った。こうしたことができる雰囲気を・・・・・・・・・・・・


陰謀カレンダー9月14日
住友銀行名古屋支店長射殺事件
未解決事件


1994年、住友銀行名古屋支店支店長が、自宅前で銃殺されるという事件起きた。この事件は、奇怪な経緯を辿ったものの、未だ真相は闇になったままです。この事件を契機にして、金融機関は、一斉に不良債権処理(回収)から、手を引いていった。

銀行の支店長と言えども、サラリーマンです。なぜ、サラリーマンである、支店長を射殺する必要があったのか。金融関係者の中では、この支店長射殺は、一つのシグナルだったと言われています。

住友銀行支店長射殺事件
平成6年9月14日の午前7時20分頃、愛知県名古屋市千種区法王町の月見ケ丘マンションB棟10階の自室前エレベータホールで住友銀行取締役で名古屋支店長の畑中和文さん(54)が、裸足にパジャマという姿で死んでいるのを近くの住人が見つけた。畑中支店長は右額を38口径拳銃で撃ち抜かれていた。正面から至近距離で射殺されいていたのである。

住友銀行は、この当時、バブルの巨額不良債権の処理に直面していた。そして、それらの不良債権の多くがイトマン事件などで判明したように闇社会と深く関わる融資案件だった事から、支店長射殺事件もそうした闇社会への問題融資と関わるのではないかと取りざたされていた。住友グループをめぐってはこの事件の前の年の平成5年2月から神戸市東灘区の巽外夫・住友銀行頭取(当時)の自宅や住友銀行支店に火炎瓶が投げつけられるなどの事件が相次いでいたのである。闇紳士たちが暗躍したイトマンも、住友銀行系列の企業だった。

事件の背景にあったのは、闇社会とつながる不良債権ではないかと言われた。しかし、事件後数か月たった11月、事件は奇妙な展開をはじめる。11月11日、住友銀行大阪本店に一本の電話があった。

「融資してくれなければ、青酸カプセルを飲む」という、嫌がらせともとれる予告電話だった。ほどなく、1人の老人が現れ、逮捕された。この老人近藤忠雄は38口径の拳銃を所持しており、銃刀法違反でも逮捕される。近藤は「このピストルで名古屋支店長をやった」と自供した。すぐさま鑑定にかけた結果、拳銃が凶行に使用された凶器と判明した。近藤はこの当時73歳だったが、警察のファイルでは有名な人物だった。昭和52年に愛知医大の寄付金3億円を強奪し、懲役13年の刑に服した男だったからだ。しかし、自ら犯人と主張するにしては供述内容がちぐはぐで、本当の実行犯であると裏付けできるだけの証言内容は得られなかった。そのため捜査当局ですら起訴を見送った。身代わりの公算が大きかったのだ。それでも、近藤はあくまでも自分が犯人だと主張し、誰に頼まれたかを自白する事はなかった。

東京都三鷹市で1993年、日本中央競馬会(JRA)理事長=当時=の渡辺五郎さん(73)を襲ったとして強盗致傷の罪に問われた近藤忠雄被告(78)=岐阜刑務所在監=に対し、名古屋地裁の片山俊雄裁判長は2日、懲役4年(求刑・懲役6年)を言い渡した。近藤被告は、住友銀行名古屋支店長の畑中和文さん(当時54歳)が94年9月に名古屋市千種区の自宅で射殺された事件で使われた短銃を持っていたとして、銃刀法違反などの罪で懲役7年判決を受けた後、別の強盗未遂事件で懲役3年判決を受けた。この間、愛知県警は近藤被告が支店長射殺事件に関与したとみて追及してきたが、有力な供述は得られていない。

【企業のヤクザ化・ヤクザの企業化】

7年前に野村証券が暴力団前会長に対して利益供与をし、これがきっかけとなり凄まじい勢いで「企業のヤクザ化・ヤクザの企業化」が進行していると示唆してから、現在に至るまでますます悪化している。その中で、銀行のヤクザ化が進行する流れを説明する住友銀行が“ヤミの世界の貯金箱”と呼ばれた平和相互銀行を吸収合併し、ヤミの世界との関係を深めていった。商社にヤミの世界の人間を役員として入れ、地上げをし、ヤクザ銀行となり、荒稼ぎをしていったのである。これに他行も追随し、バブルとなったのである。その後、バブルははじけたが、ヤミの世界からの取立はできずに税金で不良債権を償却しようとしておきたのが住専問題である。


陰謀カレンダー8月14日
金正日の後継者・金正恩の布石はかなり以前から打たれていた
livedoorニュース 2011年03月05日


金正日の後継者として金正恩の名前が挙がるまで、メディアは後継者は誰かとさんざん報じてきた。だが、実は後継者はずっと以前から決まっていた、とジャーナリストの惠谷治氏は指摘する。

 * * *  昨年9月27日、外国メディアが後継者として注目していた「金ジョンウン」の名前が、人民軍大将の称号(階級)授与の際、初めて北朝鮮の公式報道に登場し、数日後、漢字名も明らかになった。

 長男の金正男ではなく、三男の金正恩が後継者と言われるようになったのは、2009年1月、韓国の聯合ニュースが「金正日が1月8日頃、党組織指導部に対し、金正恩を後継者に決定したと下達し、李済強第一副部長が課長級以上の幹部に伝達した」と報道してからだった。

 1月8日(1983年)が金正恩の誕生日であることは、金正日専属の料理人だった藤本健二氏が、毎年、誕生会料理を作っていたことから明らかであり、議論の余地はない。以後、日韓では金正恩報道が過熱するようになった。

 金正日は2008年8月14日に脳卒中で倒れ、左半身が不自由になったが、3か月後には自力歩行できるまでに回復した。そして、11月末から金正日独自の統治スタイルである「現地指導」を再開し、12月下旬、北朝鮮北部の慈江道を回り、20日に煕川陶磁器工場を現地指導したことが報道された。

 同日、金正日は煕川青年電機連合企業所も現地指導したが、その事実は報道されなかった。しかし、2年後に朝鮮中央通信がこの現地指導を公表した写真には、金正日とともに、金正恩の姿があった。その写真を見ると、選ばれた側近だけに与えられるシルバーグレイのダウンジャケット(金正日着用と同一)を着た金正恩が、義弟の張成沢よりも上位に立っていた。

 写真の背後には、工場入り口に掲げられた2枚の赤い表示板が写っており、左は金正日来訪を記念するもので、右の表示板には「尊敬する金正恩大将同志が現地指導した車組立工場、主体97(2008)年12月20日」と書かれているのが読み取れる。

その写真が配信された同日の党機関紙「労働新聞」にも、「尊敬する金正恩大将同志が立ち寄られた生産建物、主体98(2009)年5月9日」と書かれた掲示板が写っている写真が掲載されていた(付録クロニクルの写真参照)。

 さらに、2009年6月19日、金正恩は後見人と言われる崔龍海(黄海北道党責任書記=当時)とともに、平壌近郊の軍事訓練場において新開発の戦車を試運転し、関係者たちと記念撮影した。このときは金正日の視察に随行したものではなく、金正恩が単独で軍部隊を視察している。

 これらの事実は、金正日が倒れた直後に金正恩が後継者に内定され、金正日の回復とともに父子で現地指導を開始し、全国各地の党や軍の幹部たちに「尊敬する金正恩大将同志」を紹介していたことを物語っている。

 つまり、金正恩は公式報道で内外に紹介される2年前から、実質的な後継者となっており、金父子は日韓の過熱報道をあざ笑っていたに違いない。


陰謀カレンダー7月17日
東條内閣
森綾太郎の小さなページ 2011年1月10日


太平洋戦史において、東條英機の内閣の成立は、確かに1つのエポックであった。そこで、「日本海軍の終戦工作」纐纈厚著、中公新書に基づき、東條英機の内閣の成立と終焉について記述してみる。

東條内閣の前は近衛内閣であり、近衛は一貫して、日米交渉によって和平を達成しようと努力していた。しかし、あくまでも開戦と拘る軍部と折り合いがつかず、ついに近衛は、総理大臣を辞職することになった。

すると当然に、近衛の後継が誰かということになるが、海軍との人脈のつながりで、近衛と個人的に仲がよかった末次信正海軍大将がおり、末次を後継に推す動きもあった。

ところが陸軍の反対もあって、末次の線は立ち消えになった。結局、総理大臣候補として残ったのは、寺内寿一、畑俊六、杉山元、東條英機の四人だった。このうち、天皇の信任のなさと宮中での評判から杉山が脱落し、総司令官として既に決まっていた寺内寿一、畑俊六が外れ、結局、東條英機に決定された。

東條英機は、天皇の信任が厚いことと、陸軍の開戦要求を一身に体現し、挙国一致体制をとると期待されたことで選ばれた。

海軍は当然に、東條内閣を快く思わず、それは純粋陸軍内閣であるとみなした。高木惣吉は、東條内閣をきっかけに、東條内閣と対抗しつつ、海軍独自の政治力を発揮する場を見出そうとした。

実は、東條内閣の成立に当たっては、他の候補として、宇垣一成、清浦奎吾、若槻礼次郎、岡田啓介、東久邇宮などが重臣会議で挙った。

ともかく、近衛内閣の後任探しに海軍が全く指導力を発揮しえず、純粋陸軍内閣である東條内閣に組み込まれるかたちでのみ海軍の役割を見出さざるをえないことになったのは、問題であった。

東條内閣成立に当たって一番反対したのは、元海軍大将・元首相の岡田啓介であった。結局、木戸幸一との応酬で、岡田啓介は抑えられるのだが、岡田啓介は後に、東條引き降ろしの首班となる。

結局、大命を受けた東條は、かつての方針に従い、1941年9月に、開戦の方針を再検討したが、以外にも開戦に熱心なのは天皇自身であった。こうして同年11月5日には、ほぼ開戦が決定された。

開戦になると、真珠湾、フィリピン、シンガポールなどの緒戦の大成功で、東條内閣は評価を高め、これに乗じて東條は、独裁体制の強化をはかった。

ところが、1942年6月5日のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、日本軍は急に守勢に廻り、1943年2月のガダルカナル撤退、同年5月のアッツ島玉砕と、戦局が悪化して、東條内閣に対する不満が一気に高まった。

この機会を岡田啓介は逃さず、親海軍の元首相、近衛と会談したりした。岡田の構想は、東條内閣の海軍大臣で東條の副官と揶揄される嶋田繁太郎を切り崩すことであった。しかし、どうも近衛が信頼できず、また、内大臣の木戸を説得する必要があると認識した。ところが木戸は、東條に対する天皇の信任が厚いことを根拠に、依然として東條政権を支持する方針であった。

東條は当然、岡田らの反東條勢力の活動を知り、1944年2月、木戸と相談して、自らが参謀総長を兼任するなど権力基盤の強化を図った。しかも東條は、天皇の支持取り付けを怠らない。逆にいうと、一貫した天皇の信任があったということである。

結局、天皇の信任が背後にあることが大きく、正攻法では功を奏さないので、岡田は、前軍令部長の伏見元帥に面談し、米内光政を予備役から復帰させ、嶋田海軍大臣の軍事参事官に就けようとした。そうやって、嶋田を牽制しようとしたのである。しかし、伏見の反応は芳しくない。寧ろ、東條や嶋田を擁護するのであった。

仕方なく岡田は再び、木戸にアプローチした。内大臣の木戸がやはりキーなのである。しかし、木戸は翻らない。天皇の東條に対する信任が依然として厚かったのである。

天皇にしてみれば、自分の意向を直ちに実行してくれる東條は貴重であった。一方、海軍のリーダーシップはなかなか見えてこなかった。だから、岡田が、反東條の意向で高松宮と会ったときも、高松宮は賛意を示してくれなかった。高松宮は、東條の陸軍に対する指導力を買っていた。

ところが、意外なところから、反東條の流れが起きる。1944年4月のことである。木戸内大臣が東條のことを悪く言い始めたのである。これに反東條勢力は力を得た。東條内閣を内から壊す流れも出てきた。そして、東條の後継として、寺内寿一、梅津美治郎、土肥原賢二、宇垣一成、米内光政、鈴木貫太郎などが挙げられてきた。

木戸が東條に対する評価を変えたのは結局、戦局に好転の兆しが全く見えなかったからである。それでいて、東條の強引さが鼻についてきた。とはいえ、東條ならずとも、誰がやっても容易であるわけがなく、東條に酷でなくもない。

さらに木戸と近衛は、東條利用論を論じた。すなわち、ぎりぎりまで東條に内閣を負わせ、いよいよ敗戦必至の最後の局面で東久邇宮を総理大臣に切り替え、戦争責任を東條に被せるというものである。それはまた、皇室から戦争責任を逸らすという意味でもある。実際、この構想は、のちの東京裁判でも功を奏した。

1944年6月のサイパン陥落の頃になると、宮中グループははっきりと反東條の旗色を明確にした。

こうなってくると、岡田、米内、若槻らの重臣と、高松宮、東久邇宮、伏見宮らの皇族をどう連携させるかであった。結局、木戸らが天皇に上奏して、東條を退陣させる聖断を依頼するのであるが、その際、天皇が政治の前面に出てくる。また、常に宮中グループがイニシアティブをとる。

すなわち、1944年7月12日のことであった。木戸は、東條に、嶋田の解任、陸軍大臣と参謀総長の分離などを提案した。東條はこれを受けて、天皇の信任が最早去ったと理解し、辞意を固めた。しかし天皇は依然として、東條政権維持に執心していた。

しかし、1944年7月17日の重臣会議で、岡田が木戸に内閣刷新を提案し、結局ここでの決定が最終的に、東條内閣に引導を渡した

次なる決定は、次期総理である。寺内寿一、梅津美治郎、畑俊六、本庄繁、小磯国昭の五人の陸軍大将が挙げられ、結局、人物本位で小磯が選ばれた。政治に無知なので、宮中グループからすれば、操りやすいと意図した。しかし、東條派の杉山元が陸軍大臣であったことから、これに失望する声もあったが、宮中グループに抜かりはなく、嶋田の代わりに米内光政を海軍大臣として滑り込ませていた。こうして終戦工作が蠢き始めるのであった。


陰謀カレンダー5月31日
『崇高なる悪行』 第27章 アイヒマン処刑】
マイ・パンセ


1962年5月31日午後11時58分、イスラエルが建国して以来はじめての死刑が、テルアビブ郊外のラムレ刑務所で執行された。絞首刑にされたのは、元ナチス親衛隊中佐カール・ルドルフ・アイヒマン(1906-1962)である
ヒットラー・ナチスのユダヤ人迫害は人類史上例を見ないホロコースト(民族大虐殺)となった。ナチスは1933年の公務員法で、ユダヤ人とその混血をドイツの公職から追放した。物理学者アインシュタインがアメリカに亡命したのはこのときである。
第二次世界大戦とともに、ナチスの反ユダヤ主義はさらにエスカレートし、1939年のポーランド占領後、ヒムラーの指揮下で組織的なユダヤ人根絶作戦が実行された。恐るべきアウシュビッツなどの強制収容所で数百万人ものユダヤ人が毒ガスで処刑された。
戦後15年にわたる執拗なアイヒマン追及によって、イスラエル政府はついに1960年5月、アルゼンチンのブエノスアイレスで逮捕し、イスラエルに連行した。
アイヒマンは、「自分はユダヤ人虐殺の張本人ではなく、単なる命令実行者である。ナチスという巨大な軍隊の一歯車にすぎず、法的には無罪だ」と主張した。
しかし、イスラエル大統領イサク・ベン・スビはアイヒマンの助命歎願を却下し、その数時間後、死刑が強行された。 --わたしはアドルフ・アイヒマンの最期を見た。足もとの床が口を開いて、アイヒマンが死へ吸い込まれていったのは、31日のちょうど真夜中ごろだった。アイヒマンは最後の瞬間まで冷静で、沈着、しかも傲慢だった。いまや、縄がその首にかけられようとしたとき、彼はこう言った。
「ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳。わたしはとくに縁があったこの三国を永久に忘れないだろう。わたしの妻や家族、友人たちによろしく伝えてほしい。わたしは戦争のおきてと国旗に従わねばならなかった。わたしの準備はできた」
アイヒマンは次いで、一メートルぐらい離れて、彼と向かい合っていたわたしたち記者団に目を移した。ぞっとするような微笑を口もとに浮かべながら語ったのは、つぎのような言葉だった。
「みなさん、やがてまたお会いしましょう。これが人間すべての運命なのです。わたしは一生を通じて神を信じつづけてきた。わたしは神を信じながら死んでゆくのだ」
絞首台は、厳重な警戒網につつまれたラムレ刑務所の奥、三メートル半に四メートルほどの小さな部屋にあった。アイヒマンは、この部屋ですごした地上での最後の数分間にも、良心のとがめや後悔の色はすこしも見せなかった。
  ロイター通信 ワレンシュタイン記者による
アイヒマンに、ユダヤ人虐殺という重荷を背負わせたのは、実に彼の信じる宗教ではなかったのか?


陰謀カレンダー12月1日
歴史上の人物:日蓮
にいがた観光ナビ


日蓮

日蓮上人は、文永8年(1271年)悪口科の重犯(貞永式目12条)という罪状によって配流の身となり、文永11年(1274年)祓免になるまでの3年間を佐渡で過ごした。

【文永8年(1271年)50歳】

9月12日 佐渡へ流罪の判決が決定される。
佐渡の代官本問重連の館、相模の依智に向かう。
10月10日 相模国愛京群依智の右馬尉の館を出、武蔵国久目河に着く。
10月21日 三国路を通って越後寺泊に着く。
10月27日 寺泊を舟出。
10月28日 佐渡国松ヶ崎港に着く
11月1日 本間重連の家のうしろ、塚原の小堂に入れられる。(佐渡市・根本寺)

【文永9年(1272年)51歳】 4月7日 石田郷地頭本間某のもとに移り一谷入道の家に入る。(佐渡市・根本寺)

【文永11年(1274年)53歳】 2月14日 祓免の決定。
3月8日 祓免状が佐渡に到着する。
3月13日 松ヶ崎を出発したが海が荒れ真浦へ避難。
3月15日 柏崎に到着する。(柏崎・番神崎)
3月28日 越後国府を経て鎌倉に到着する。


陰謀カレンダー5月1日
スイス八州同盟の成立
立命館大学


はしがき

1291 年の原誓約同盟による「永久同盟」の結成,1315 年のモルガルテンの戦い,同年の「永久同盟」の更新によって,スイス誓約同盟の基礎が置かれたのであったが,ハプスブルク家は,北スイスになお広大な領地をもっており,機会があれば,彼らは誕生したばかりの農民共同体の同盟を押し潰す能力を十分にもっていた。原誓約同盟が,この弱点を補強するには,また,平野から山地への食糧輸入を確保し,ザンクト・ゴットハルト峠を中枢とする商業交通を振興するためには,周辺の都市共同体との連携を強化し,さらにはそれらと同盟を結成するほかにはなかった。この都市共同体の方にも,ハプスブルクとの対立が深まるにつれて,森林三州との同盟が必須となっていき,その結果,八州同盟が結成されることになるが,その過程はそう簡単なものではなかった。各都市の置かれた対内,対外的状況にしたがって,紆余曲折をたどったのであり,本稿は,その過程を追ってみようとするものである。

1.ルーツェルンの加盟

ルーツェルンは,ザンクト・ゴットハルト峠を通過するイタリアとの通商路の北の終点を意味し ただけに,森林三州との結び付きがもっとも強く,シュタウフェン朝末期,大空位の時代には,一 時的に森林三州と同盟を結んでいたことがあるが,他方では,かねてよりハプスブルクの勢力が強 く,市内の大領主ルーツェルン修道院が同家によって買収されてからは,とくにそうで あった。であるから,「永久同盟」が結成された直後,オーストリア大公アルブレヒトは,ルツェ ルンに森林州との交易を禁じ,森林州の経済封鎖に出ることができたのであるが,それは,反面, 市民を大いに苦しめ,反ハプスブルクの風潮を醸成した。

モルガルテン戦後,ハプスブルク家の態度はやや軟化し,ルーツェルンに交易の自由を認めたのであるが,1326 年大公レーオポルトの死後,再び禁令が強化されると,反ハプスブルクの空気は決定的となった。市参事会のなかに「大公不在の不安定な状況にあって,都市の権利を守るため」と称する盟約が結ばれ,加盟者は市参事会員36 名中,26 名にたっした。それは,1330 年には,市参事会の全員を占めるようになり,さらに市民全員がそれに誓約するにいたった。これを促進したのが,スイス中央部を管轄するVogtei Rotenburg の守護に任命されたハプスブルクのミニステリアール,Hartmann von Ruoda の横暴であったといわれる。1332 年,彼が市内での誓約団体結成の禁止を命令すると,逆にルーツェルン市は森林三州との「永久同盟」に踏み切ったのである。

同盟文書によると,冒頭に,ルーツェルンの領主オーストリア大公に対する,森林三州のドイツ帝国ならびに皇帝に対する奉公を,同盟規約の適用から除外し,また各州がそれぞれのこれまでの「良き慣習」を保持することを規定したうえで,第6,7 条は,加盟各州の対外的,対内的脅威にさいして,費用各州負担のうえで相互に防衛し,援助を与えるとしている。原誓約同盟三州のあいだで紛争が起こった場合には,ルーツェルンは多数派二州に味方をすること,各州は,他州の了解なしに,他領主との同盟に入ることはしないと協約して,同盟の安定化を図っている。

ハプスブルクへの忠誠保持を認められているにせよ,ルーツェルンの「永久同盟」への加入は,同市に対するオーストリア側の疑惑を増大させたことはいうまでもない。1333 年の,オーストリア支配下の全帝国都市,領邦都市,貴族を包括した「エギーデÄgide のラントフリーデ」には,ルーツェルンとグラールスの名前は入っていないのである。オーストリア大公オットーは,ローテンブルク守護に都市参事会員任命の全権を与え,1335 年には,ツォーフィンゲンZofingen に造幣所を設立して,そこで鋳造された貨幣を関係所領で流通させようとした。この処置は,オーストリアと誓約同盟四州との対立を険悪なものにしたが,とくにルーツェルンの下層市民たちの反撥は激しく,手工業者を中心にして「300 人委員会」を結成して,弱腰の市参事会を批判した。「300 人委員会」はまもなく消滅したが,それに準じた全市民集会に支援された市参事会内の誓約同盟派はますます強化され,これを覆そうとした1343 年7月24 日の上層市民たちのクーデター計画は失敗におわつた。ルーツェルンとハプスブルクの関係は,なお切れたわけではなかったが,分裂の時期は迫っており,ゼムパッハの戦いによってその過程は完結をみるのである。

2.チューリヒの加盟とオーストリアとの軋轢

チューリヒの場合は,複雑である。

1292 年10 月,東スイスで結成された反ハプスブルク連合の一環として,チューリヒは,ウーリ,シュヴィーツと相互防衛同盟を結んだが,翌年4月,ヴィンタートゥール前面の戦いでハプスブルクのために惨敗し,親ハプスブルク政策に転じた。この状態は1330 年代まで続くが,1336 年にいたって,反転が起こる。

市内の独占的土地所有者である都市門閥家と大商人によって,市政が壟断されているのに,かねて不満を抱いていた小商人,手工業者らは,1336 年6月7日,騎士ルードルフ・ブルンを指導者に立てて,いわゆるツンフト闘争を起こした。ブルンらは,1336 年7月18 日,「第一誓約文書」を作成したが,それによると,旧市参事会員12 名が追放され,同10 名は終身にわたって参事会員選出資格を剥奪された。代わって,13 の政治的ツンフトが組織され,そこから各1名の参事会員が選出され,これまでの門閥市民,非ツンフトの大商人らはコンスタッフェルKonstaffel と称する組織にまとめられ,そこからも13 名の市参事会員(うち,7名は騎士,大商人)をおくりだすこととされた。

これとは別に,ブルンは市長の地位に就任し,その任期は終身であり,独裁的権力をふるった。1337 年,皇帝ルートヴィヒ・デア・バイエルは,これを承認し,チューリヒのツンフト市政は確立をみたのである。

しかし,納得しなかったのは,追放された都市門閥家族たちである。彼らは,チューリヒ湖南端のラッパースヴィルRapperswill 伯であるHans von Habsburg-Laufenburg─有力なハプスブルク分家─のもとに身を寄せ,そこからツンフト市政転覆を画策した。ハンスは,チューリヒ大商人やユダヤ人に借金しており,借金棒引きの条件で,その画策に積極的に関与していった。1337 年,早くも戦闘が起こったが,チューリヒ側は,亡命参事会員の財産を没収するとともに,周到な準備を積んで攻撃に着手し,そのなかで伯は戦死をとげ,オーストリアが介入してきて,第一次の衝突はチューリヒ有利のうちにおわった。戦死した伯の後任には息子のハンスが就き,オーストリアがこれを後見したが,若ハンスもまた亡命参事会員たちの企てに同調した。1350 年2月23 日,亡命者たちは,刺客を市内におくりこみ,市内の同調者を糾合して,ブルンの暗殺と政権の奪取を企てた。しかし,企ては事前に漏れ,侵入者たちは市街戦のすえ惨殺され,それに加わっていた若伯ハンスも捕らえられた9)。その五日後,チューリヒはラッパースヴィルを攻めて,これを占領し,紛争に決着が付いたかにみえたが,横から障害が入って,それは先に延ばされた。

というのも,同じころ,1349 年,アルザスの貴族ヴァルドナーWaldner von Sulz とチューリヒ市民である騎士ミュルナーMülner とのあいだにフェーデが起きていたからである。ヴァルドナーが,商旅中のチューリヒ商人から財産を奪った─その総額は,奪われた商人24 人,3,348 グルデンにたっした─のに対し,チューリヒ側は,報復としてアインジーデルン修道院への巡礼中のシュトラスブルク市民70 人,同じくバーゼル市民200 人を抑留した。シュトラスブルク,バーゼル両都市は,オーストリア大公,シュトラスブルク,バーゼル両司教の支持をえて,戦う姿勢を構えた。この争いは,1350 年7月6日,ハンガリー王妃で未亡人のアグネスの調停で和解し,都市がそれぞれの損害を受けた市民に補償をするということで解決したが,この騒ぎで,ブルンは同盟者の必要を痛感し,まずハプスブルクとの緊張緩和,それとの暫時的同盟を考えたのであった。

1350 年夏,オーストリアとの7年間の同盟が提案され,ザンクト・ゴットハルト,ボーデン湖,ジュネーヴ湖で限られた範囲内での相互援助,他の了解なしでの同盟をしないこと,チューリヒの内政を保証するという内容で話し合われた。しかし,城外市民の受け入れの可否をめぐって議論はかみあわず,同盟交渉は失敗に帰した。おそらく,同時平行的に行われていた誓約同盟四州との交渉が,チューリヒにとり,有利なものであったからであろう。同年秋,チューリヒは再度ラッパースヴィルを攻撃し,これを破壊して,自らの決意を示し,1351年5月1日,ルーツェルン,ウーリ,シュヴィーツ,ウンターヴァルデン四州と「永久同盟」を結んだ

その条約によれば,相互援助の適用範囲は,グリムゼルGrimsel 峠を起点として,アーレ河に沿って河口まで下り,そこからライン河を溯って,トゥールThur河口にいたり,同河を溯ってトッゲンブルクToggenburg 地方を越え,それからフォルダーラインVorderrhein 渓谷,ゴットハルト山塊,レベンティーナLeventina 渓谷を経て,オーヴァーヴァリスOberwallis(ゴムスGoms)にたっする線で囲まれた地域と規定されている(第3条)。相互援助は,無償,つまり出動する州の負担でおこなわれる。ある加盟州に対し,不意の襲撃がおこなわれた場合には,他州は出動要請がなくても,援助に赴く。チューリヒと誓約四州のあいだで紛争が起こった場合には,仲裁裁判によって解決を図るが,その裁判開廷の場所はアインジーデルン修道院とする。

チューリヒのブルン体制を,誓約四州は保証する。ただし,この同盟は,原誓約同盟三州とチューリヒの場合は帝国と皇帝に対して,ルーツェルンの場合はオーストリア大公に対して,これまでなしてきた同盟と奉公を妨げるものではない。そして,同盟は,10 年毎に更新し,永久的に継続するものとされているのである。

ブルンには,特別の同盟結成という意識はなく,単に母市防衛の協定を結んだという意識しかなかったとおもわれるが,オーストリア大公アルブレヒト二世の方は,北スイスにおける自己の政治的地位が脅かされたと感じ,軍事力で事態を打破しようと考えた。1351 年9月,彼は,ブルッグに軍隊16,000 を集め,チューリヒに向けて,ラッパースヴィル城の再建と損害賠償を要求した。それが拒否されると,9月20 日,チューリヒの包囲を開始し,大公は,同盟規約にもとづいて,ベルン,ゾーロツルン,バーゼル,シュトラスブルクから増援部隊を召集したが,チューリヒ側は,誓約同盟四州の応援をえて,反撃に出,さらに防戦体制を強めるため,1351 年冬,チューリヒと誓約軍は,グラールスGlarus に進軍し,翌1352 年6月4日,同州を「永久同盟」へと加盟させた。その5日後には,同盟軍はツーク州Zugへも進軍するのである。

アルブレヒトは,再度,陣容を立て直して,1352 年7月,チューリヒを包囲するが,包囲側に戦意は乏しく,オーストリア軍に同行していたブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒの仲介で,休戦交渉が始められ,いわゆる「ブランデンブルクの平和Brandenburger Friede」が成立することになった。それによると,オーストリアはシュヴィーツ,ウンターヴァルデンに対する支配権を暗黙裡に放棄する。それに対して,両州は,オーストリア側に州内のハプスブルク領地,同支配下の教会,修道院からの地代の収取を認める。また,グラールスとツークをオーストリアの支配下に返す。チューリヒはラッパースヴィルを返還する。チューリヒ,ルーツェルンは,城外市民受け入れ政策を放棄する,というものであった。大公アルブレヒトは,しぶしぶこれを受け入れ,誓約同盟側も,不利ではあったが,これに従った。ただし,後者にとっては,それを償うかのように,1353 年,ベルンが誓約同盟に加入してくるのである。


陰謀カレンダー5月1日
5月2日 モタッハリー師が暗殺された日
ラジオイラン

西暦2011年5月2日
イラン暦1390年2月12日
イスラム暦1432年ジョマーディオルアッワル月28日


イラン暦1358年2月12日、イランの優れたイスラム学者であり思想家でもあるモルテザ・モタッハリー師が、テヘランで、イランの反体制派テロ組織モナーフェギーンによって暗殺され、殉教しました。モタッハリー師は、イスラム革命理論家の一人で、イランイスラム共和制の創設者であるイマームホメニー師の教友の一人でした。
この偉大なイスラム教徒の思想家は、12才で神学校に入学し、学生時代に、様々な学問を習得した他、当時のパフラビー王朝に対する政治面での闘争活動を行ない、イスラム革命が開始されたイラン暦1342年には、この革命の活動家の一人でした。この偉大な巨匠は、神学に加え、23年間に渡り、テヘラン大学・神学イスラム科学部で教鞭をとり、多くの門下生を育てました。
モタッハリー師の特徴として、イスラムへの深い知識と理解、現代の文化、政治、社会面での問題に精通していたことなどが挙げられます。彼は、「イスラムは人間生活のあらゆる側面に適合可能であることから、人類の救済の最良の処方箋であり、現代の人類に最高の生き方を提示している」と語っていました。
モタッハリー師は、一般の人々が理解できるように、イスラムの原則と戒律を明白に解説しようとしていました。 モタッハリー師が残した様々な分野に関する多くの書籍、論説、講演などは、イスラムの多くの問題を解明し、また多数の外国語に訳されています。 イランで、モタッハリー師の殉教日は、教師の日と名づけられています。
モルタザー・モタッハリー(英文ウィキペディア)


陰謀カレンダー6月2日
谷垣、小沢両氏は茶番劇で何を狙ったのか
日経BPネット  田原総一朗の政財界「ここだけの話」 2011年06月02日


6月2日正午過ぎの民主党代議士会で、菅直人首相は「震災対応に一定のめどがついた段階」で辞任する意向を表明した。その後に開かれた衆院本会議で、菅内閣に対する不信任決議案の採決が行われ、賛成152票、反対293票で否決された。

やむなく不信任決議案を提出した自民党  もともと野党の内閣不信任決議案の提出に対して、国民の反感は強かった。

 なぜ今、不信任決議案を出さなければいけないのか。東日本大震災の被災地の復旧・復興、そして福島第一原子力発電所事故の収束と、やるべきことは山積している。それなのに党利党略のために不信任決議案の提出とは、いったい野党は何をやっているのか。民主党も小沢一郎氏に近い議員たちが野党の提出する不信任決議案に賛成する動きを見せているとは何事か。国民不在、被災地への軽視はあまりにも度が過ぎるのではないか――。

 こうした批判が強かったのである。私も、その通りだと思う。

 今回、自民党・公明党・たちあがれ日本が不信任決議案を衆院に提出したわけだが、その本音は「やむなく不信任決議案を出す」というものだった。谷垣禎一自民党総裁が主体的、積極的に不信任決議案を出したとは思えない。


陰謀カレンダー3月29日
平成23年度予算が成立
産経ニュース 2011.3.29


一般会計総額92兆4116億円の平成23年度予算が29日夕、成立した。予算案は同日の参院本会議で自民党など野党の反対多数で否決され、両院協議会でも不調に終わったが、予算議決に関する衆院の優越を規定した憲法60条に基づき、横路孝弘衆院議長が成立を宣告した。


陰謀カレンダー3月20日
2001年3月20日の日経トップニュースは,日銀による金融の量的緩和のニュースでした。
熊本学園大学 2001年5月25日


「日銀は19日の政策委員会・金融政策決定会合で,景気の下支えやデフレ圧力の緩和を狙い,金融市場に供給する資金を増やす量的金融緩和に初めて踏み切ることを賛成多数で決めた.政策目標を金利から資金量に変更する決定で,21日から実施する.手形や債券の買い入れを増やし,金融機関が日銀に持つ当座預金残高が1兆円程度多い5兆円になるよう目指す.日銀は短期金利がゼロ%近辺に下がると見ており,結果的にゼロ金利政策も復活する.今回の措置は,消費者物価上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで続ける方針で,政府や企業などには構造改革を急ぐよう改めて注文した.(抜粋)」

3月20日付け,Wall Street Journal(電子版)の記事も読んでみましょう.
Wall Street Journalは米の代表的な経済新聞です.
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The Bank of Japan, launching radical steps to pull the economy back from the brink of a deflationary spiral, abandoned interest rates targets and instead vowed to push up money supply.

Stepping into the uncharted waters of "quantitative easing" Monday, the central bank met government demands for it to focus on reflating the supply of cash in the economy by targeting an increase in commercial banks' reserves.

And reversing long-standing opposition to buying more government debt or setting inflation targets, the central bank said it stood ready to buy more Japanese government bonds in the market and promised to maintain the new policy until consumer prices stop falling.(excerpt)


陰謀カレンダー6月5日
爆発サイクリング
ザ・ハングマン 思い入れ文


ある深夜。自転車メーカー・アルファ自転車の社長室で、自転車のブレーキワイヤーにある薬品を塗布する実験をしていた。それに関する恐るべき計画を、秘書課のOL・小島京子は立ち聞きしてしまった!数日後、スーダラに平和を満悦していたパンはふとした事で京子に出会う。が、京子はペガサス自転車の製品を愛用しているパンに「おやめになった方がいいですわ。今にとんでもない事が起こるかも・・・」と告白する。その直後、京子はパンの前を通過した自転車に乗った怪しい男に刺殺されてしまった!この通り魔事件が、パンらハングマン達をも巻き込む恐るべき大事件へと発展していく!!これは偶然にも事件に巻き込まれたハングマン達が、信用失墜のためにライバル社を陥れれようとする自転車メーカーと対決する話です。カメリヤ連邦の輸出権をペガサス自転車から強奪しようとするアルファ自転車一味は、無差別手段の狡猾かつ非情な作戦を展開。信用失墜のために系列のスリースター薬品が作った腐食液にて、故意によるブレーキ事故を連発。しかもハングマン達の出現に焦った一味は、通り魔の不良社員やペガサス自転車の大原社長と孫をも抹殺。なかなか尻尾を掴ませない上に、業界紙の編集長やペガサス自転車の裏切者まで使った狡猾な体制は正に「血も涙もない鉄の掟」ともいえるものでした{なにしろ原口 剛氏はタミーのお色気作戦にも引っかからなかった堅物だったなぁ[善役だった『大鉄人17』もそうでした]・・・}。また幾度もハングマンに挑戦した戸浦六宏氏も然る事ながら、石原プロ作品や#1&5でマイト(=日下部孝介)と遠藤〔=寺田 農氏・#5〕の上司だった高城淳一氏が裏切者というのも怒髪点を衝くものでした。さらに『太陽にほえろ!』にもよく出ていた、有吉ひとみ氏の悲壮な演技もよかったです。『ザ・ガードマン』・『キイハンター』・『マイティジャック』にも参加した山浦弘靖氏の話も、#5{マイト(ここではパン)が単独で動き回った末に事件を重く見たゴッドが重い腰を上げる}をベースにしながらも骨子がしっかりしており虚々実々の駆け引きが展開されていました。これが、後の#42でも再現されたのもわかります。また帯森迪彦監督の演出も丁寧で、競輪場の使い方やチャームガールのキャンペーン・サイクリング大会での細工のシーン〈大騒ぎにまぎれて腐食液の細工を車にいるマイトが見る〉のようなカットバックも見事でした{そういえばデジコンはハンキングでマイトの事を「ダイナ」って言っていましたね[#26&28で自分で言っていたけど・・・]}。悪の限りを尽くした一味は怒ったハングマン達によって、「ヤッホヤッホ」の車速感知連動爆弾付・美容自転車の爆発サイクリングで全滅。今の世相でも充分に通用する、企業抗争ものの秀作でした。でも欲を言えば、植木 等氏に『スーダラ節』を唄ってほしかったなぁ・・・。


陰謀カレンダー6月5日
「ザ・ハングマン」
懐かしき「昭和パラダイス」へようこそ!


~1980年放送開始~ リクエストによりアップしました。 「ザ・ハングマン」は、テレビ朝日系列で放送されたアクションドラマのシリーズで、タイトルの意味は「闇の死刑執行人」hangman。必殺シリーズの現代版みたいなドラマだったような憶えがあります。ほんの数回ぐらいしか見ていなかったもので・・・すいません(汗)。
シリーズの第1作目「ザ・ハングマン 燃える事件簿」は、当初半年間の放送予定が予想以上の好評を博したため、さらに半年延長され計1年間にわたる人気ドラマになりました。
以後金曜夜9時の時間枠で1987年までに計7作ものシリーズが放送されました。
主役のハングマン・チームを演じる俳優陣は、シリーズによって変わるものの黒沢年雄さん、林隆三さん、名高達男さん、山本陽子さん、佐藤浩市さん、渡辺徹さん、火野正平さん、夏樹陽子さん、早乙女愛さん、植木等さん、山城新伍さんといった当時を代表する人気俳優のみなさんが演じていました。
その中でも特に名高さんは全7シリーズ中5作に出演していて、名高さんの代表作となっているようです。


陰謀カレンダー11月14日
原子力安全に関する国際条約 (その他の条約)
原子力安全委員会


原子力安全条約のほかに,これまでに発効した原子力の安全に関連する条約として,以下のものがある。

 (1) 原子力事故の早期通報に関する条約(早期通報条約)
 本条約は,次の「援助条約」とともに,1986年4月のソ連チェルノブイル原子力発電所事故を契機として,原子力事故の際に被害を最小限に止めるための国際的枠組みの構築を目的として,IAEAを中心に策定された。1986年9月26日IAEA総会で採用され,署名のため開放された後,1986年10月27日に発効した。1994年7月現在,我が国を含め締結国は65ヶ国及び3国際機関である。
 締約国の義務として,原子力事故が発生した場合に,IAEA及び被害を受ける可能性のある国への早期通報,さらに事故原因,放出放射能量,拡散予測等の安全対策上必要なデータの提供等を定めている。

 (2) 原子力事故又は放射線緊急事態の場合における援助に関する条約(援助条約)
 本条約は,「早期通報条約」と同じ経緯で採択され,1987年2月26日に発効し,1994年7月現在,64ケ国及び3国際機関が締結している。
 本条約では,締約国は本条約の規定に基づき,必要に応じ他の締約国,IAEA等に援助を要請できる。また,援助を要請された国は,援助を提供できるかどうかを直ちに決定し,援助を行うとしている。

 (3) 廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約(ロンドン条約)
 本条約は,海洋環境の保護を目的として廃棄物等の海洋投棄の規制を主たる内容としている。本条約は,1972年にロンドンで採択され,1975年に効力を生じた。我が国は,1980年10月15日に同条約を批准した(1980年11月14日,我が国について効力発生。)。1994年8月現在,73ヶ国が締約国である。
 本条約は,廃棄物その他の物の海洋投棄を原則として禁止した上で,廃棄物について,その投棄が禁止される物,特別許可(事前の申請に基づく政府による個別の許可)を必要とする物,一般許可(投棄行為一般について禁止を解除するという形態で付与される事前の許可)を必要とする物,上述以外の物の4つに分類している。
 放射性廃棄物については,1993年の第16回締約国協議会議で採択された改正により,従来海洋投棄が禁止されていた高レベル放射性廃棄物に加えて,低レベル放射性廃棄物についても海洋投棄が禁止されることとなった。なお,国際原子力機関(IAEA)が定義し,締約国が採択するデ・ミニミス・レベルの放射能を含む廃棄物等については,海洋投棄の禁止は適用されないこととなっている。

 (4) 原子力損害賠償に関する条約
 この分野では,1968年に発効した原子力分野における第三者責任に関する条約(パリ条約),1977年に発効した原子力損害の民事責任に関する条約(ウィーン条約)がある。


陰謀カレンダー6月5日
エイズ関連年表

西暦 1886年6月5日 日本が万国赤十字条約(ジュネーブ条約)に加入。
西暦 1916年5月15日 (誕生)安部英あべ たけし)/rp>、厚生省エイズ研究班の班長で、薬害エイズ事件の責任を問われたが、裁判では無罪。
西暦 1959年10月9日 (死亡)石井四郎、陸軍731部隊の創設者。
西暦 1980年11月14日 朝日放送の『ザ・ハングマン』が放送開始。
西暦 1981年6月5日 世界で最初のAIDS患者発見例が発表される。
朝日放送政策の『ザ・ハングマン(第29話)爆発サイクリング』が放送される。
西暦 1981年8月28日 アメリカ疾病予防管理センターが、同性愛の男性にカリニ肺炎やカポジ肉腫の発生が多いと発表。
西暦 1985年3月21日 日本初のエイズ患者は血友病患者であったとの報道。
西暦 1985年3月22日 第1回エイズ調査検討委員会、日本初のエイズ患者を認定。
西暦 1989年2月17日 「エイズ予防法(後天性免疫不全症候群の予防に関する法律)」が施行される。
西暦 1996年2月16日 薬害エイズ事件で菅直人厚生大臣が謝罪会見。
西暦 1996年8月29日 帝京大学副学長の安部英が薬害エイズ事件で東京地方検察庁刑事部に逮捕される。
西暦 2005年4月25日 (死亡)安部英あべ たけし)/rp>


陰謀カレンダー7月24日
ビル爆破説
アメリカ同時多発テロ事件陰謀説 - ウィキペディア


テロの6週間前に、港湾公社から不動産王といわれるラリー・シルバースタインに賃貸権が委譲されており、その際に彼が35億ドルという巨額の保険をかけたために、事件後に80億5000万ドルという大金が支払われたと言われる。しかし、そのような主張とは違う証言もある。また、仮に80億5000万ドル支払われたとしても、シルバースタインには賃貸者として現地の回復義務があり、この費用はおよそ60億ドル。さらに、港湾公社への賃貸料も支払わねばならないので、実際に得になるかどうかは不明。またこの説をとった場合、単に放火すればよいものを、飛行機を突っ込ませる意図が全くわからない。
Insurance dispute
Larry Silverstein - Wikipedia


The insurance policies obtained in July 2001 for World Trade Center buildings 1, 2, 4 and 5 had a collective face amount of $3.55 billion. Following the September 11, 2001 attack, Silverstein sought to collect double the face amount (~$7.1 billion) on the basis that the two separate airplane strikes into two separate buildings constituted two occurrences within the meaning of the policies. The insurance companies took the opposite view. Based on differences in the definition of "occurrence" (the insurance policy term governing the amount of insurance) and uncertainties over which definition of "occurrence" applied, the court split the insurers into two groups for jury trials on the question of which definition of "occurrence" applied and whether the insurance contracts were subject to the "one occurrence" interpretation or the "two occurrence" interpretation.


陰謀カレンダー7月24日
スイス再保険会社、NY世界貿易センターの保険裁判で勝訟
swissinfo.ch 2004-05-05


2001年9月11日、乗っ取られた民間旅客機2機が相次いでニューヨークの世界貿易センターに激突した。この米国同時多発テロ事件をめぐり、ニューヨーク州裁判所は3日、ビル倒壊が2回あったと数えて、再保険会社スイス・リーに対し、掛けた保険金の2倍支払うよう求めていた原告側の訴えを棄却した。スイス・リーは、敗訴すれば2,000億円近くの支払いを迫られる可能性もあった。
今回の判決により、再保険会社スイス・リーは保険金の支払いを最高8億7,700万ドル(約965億円)以下に抑えられることになった。

再保険会社は、一般の保険会社が持つリスクの一部を「再保険」して肩代わりする会社のこと。大規模な災害やテロなど突発的な巨額の保険金支払いに備え、多くの損害保険会社が利用している。

米国同時多発テロが起きた当時、世界貿易センタービルのオーナーは複数の再保険会社と契約していたが、このうちスイス・リーは契約全体の22%を占め、再保険会社の中で一番割合が高かった。このため、訴訟で求められた保険金も再保険会社の中で一番高いとされる。

対立する解釈
 保険金を2倍支払うよう訴えたのは、ラリー・シルバースタイン氏(72)。世界貿易センタービルのオーナーだ。

 世界貿易センタービルは長い間、ニューヨーク州とニュージャージ州当局が共同出資で設立した都市開発公団が所有していた。土地は現在も同公団が所有しているが、同時多発テロが起こる数ヶ月前に都市開発公団は建物だけをシルバースタイン社に売却。同社がビルの賃貸を始めたのは同時多発テロの6週間前だった。

 事件後、スイス・リーを筆頭に、再保険会社とシルバースタイン氏の間で保険契約内容の解釈をめぐり意見が対立。再保険会社は2つのビル倒壊そのものを1回と数えることを主張したが、シルバースタイン氏はこれを受け入れず、訴訟までもつれ込むことになった。

 スイス・リーの勝訟に先立って、ニューヨーク州裁判所は先週も、他の再保険会社を訴えた同じ内容の訴訟ケースでシルバースタイン氏の訴えを却下している。別の再保険会社2社との訴訟判決も近日中に明らかになる見通しだ。

 今回の判決に対し、スイス・リー米国支社のジャック・ドュボア社長は「事件が起きた後で、保険金支払いの条件を変えることはできないという原則論が守られた」と述べ、この裁判は決着がついたとしている。

 このニュースを受け、スイス証券取引所では4日、スイス・リーの株価は2.5%上昇し、午前の取引で88・10フラン(約7,544円)の値をつけた。

 シルバースタイン氏は、仮に世界貿易センタービル倒壊による保険支払い裁判で全敗しても、再保険会社による保険金の支払いで総額35億ドル(約3, 850億円)を受け取ることになる。


陰謀カレンダー7月24日
スイス系企業はどこにある?
Gaipro株式会社


東京には無数の人材紹介会社があります。その中で弊社は、ホームページの内容からもお分かりになるかと思いますが、「スイス・ヨーロッパ企業に特化した人材紹介会社」として活動しており、実際にクライアントの約9割がスイス系企業です。スイスは人口およそ780万人の小さな国で、経済大国とは言い難いものの、 イメージはあくまでも自然あふれる穏やかな永世中立国です。従って、「日本で活躍するスイス系企業は一体どういう企業なのか」、また「それほどスイス系企業に特化しても意味があるのだろうか」、と思う方もいるかと思います。

200社も?成功にはグローバル展開が前提
実は、在日スイス系企業はおよそ200社に上り、営業拠点を含むとその2倍になり、日本での活動は驚くほど盛んです。スイス系企業は世界規模で成功している会社が多く、その理由のひとつには、スイスでは国内マーケットが小さく、ビジネスを拡大するには早い段階で国境を超えてグローバル展開する必要があるというのがあります。しかし、日本で知られているスイス系企業を挙げてみようとすると、典型的な時計ブランド(ローレックス、スウォッチなど)やチョコレート(例えばリンツ)以上は思い浮かばない人が多いでしょう。

チューリッヒ中心に金融大手
スイス最大の都市チューリッヒを中心に、金融系大手はスイス経済全体の大きな役割を果たしており、たとえば最近の金融危機で苦戦してきた銀行大手のUBS、クレディ・スイスの他、チューリッヒ保険(世界で5番目に大きい保険会社)やスイス・リー(世界で2位の再保険会社)などがあります


製薬・バイオ優良企業がバーゼルに集中
そのほか、特にこの経済危機の中、スイスにとって極めて重大な柱として国民経済を支えている産業は製薬業界です。スイスのバーゼル市には世界4位のロシュ(中外製薬を買収、タミフルを創薬)、5位のノバルティスの製薬会社のほか、ロンザ(医薬品受託製造大手)、シンジェンタ(世界2位のアグリビジネス大手)など多くの世界有数の製薬会社やライフサイエンス企業が集まっています。

これもスイス系企業?
また、日常生活ではあまり目に触れませんが、業界でよく知られている最先端精密機器メーカー、ABB(重工業、電力機器大手)、スルザー(機器メーカー)、メトラー・トレド(計重器Nr.1)などもスイスの会社です。一方、スイス系企業と知って驚く方もいらっしゃると思いますが、ネスレ(食品・飲料最大手、ネスカフェ等で古くから日本でも有名)、アデコ(世界最大の派遣会社)などの大手もスイスで生まれた企業です。 そのほか特定分野をリードする数え切れないいわゆるHidden Champion(一般に知られていないものの特定の分野のリーディング・カンパニーとして成功している中小企業のこと)もあります。

目立たず現地のビジネス習慣を尊重
日本で活躍している多くのスイス系企業が、他の外資系企業また日系企業に比べ、それほど目立たないのはなぜでしょうか。一般的には当該企業のスイス本社が各国のビジネス状況・習慣を尊重し、スタンダードの高い本国の労働基準をできるだけ日本支社に応用しながら上級管理職まで現地採用するなど、日本の市場に合わせているためと考えられます。

以上のように、誰でも知っている大手からあまり知られていない企業まで、日本にはたくさんのスイス企業がありますが、一般のお客様から業界の方まで、おおむね高い評価を得ています。そういった評価を得ていることは、スイス企業に特化している弊社にとっても大きな喜びです。


陰謀カレンダー5月17日
屯田兵第一号が琴似に入植
札幌市役所


現在の西区琴似の地に、明治8年5月17日、初の屯田兵となる198戸、965人が入植しました。琴似の屯田兵村は、屯田兵制度の最初から最後まで全期間を経験した唯一の兵村でした。平成17年は屯田兵入植からちょうど130周年にあたる記念すべき年になります。
琴似神社 札幌
縁あって札幌発御朱印の記録


最初の屯田兵が琴似に入った1875年(明治8年)、有志によって亘理伊達家の祖・伊達成実を祭神に創建されました。当時は成実の神号にちなみ武早神社と称しました。1994年(平成6年)には琴似開拓に縁のあった会津藩の開祖・保科正之を祀りました。春季大祭の5月27日は、屯田兵の入植が完了した日です。このお宮は寒冷地での厳しい生活に耐えた東北武士の心の拠り所であったに違いありません。


陰謀カレンダー1月12日
噴火の経過
桜島の大正噴火 - ウィキペディア


1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まった。間もなく噴煙は上空3,000m以上に達し、岩石が高さ約1,000mまで吹き上げられた。午後になると噴煙は上空10,000m以上に達し桜島全体が黒雲に覆われた。大音響や空振を伴い断続的に爆発が繰り返された。午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)が発生し、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害があった。


陰謀カレンダー12月21日
かわら版 18年12月21日号
正しい歴史を考える会


昭和17年12月21日
◎ 支那事変処置方針の大転換。
御前会議で「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」が決定された。この対支新政策は王兆銘国民政府の強化支援と重慶とは一切の和平工作を行わない事等で、国民政府の参戦時期は18年1月9日
とした。
それまでは支那事変を一挙に解決すべく、9月初めに準備下令し、支那派遣軍は怒涛の如く進撃する態勢が整えられたが、南方遙かなガダルカナル作戦の失敗を境として西南太平洋方面の戦局は急を告げ、この方面に兵力を廻さねばならない事態となり、当面支那から急遽第6・第17・第57師団をブーゲンビル・ニューギニア方面に転用せざるを得ない情勢となったのであり、この事は戦略上からも返す返すも残念な事であった。
つまり この大戦争で作戦的に支那事変解決の目途は無くなったという事である。
この新方針は12月25日に支那各地の参謀長に陸軍大臣・参謀総長より「頭を180度転換して協力せよ」と説明があったが、受けた人の方は眼を白黒した様だ。


陰謀カレンダー12月25日
鹿児島県暴力団排除活動の推進に関する条例
鹿児島県 2009年12月25日


○鹿児島県暴力団排除活動の推進に関する条例
平成21年12月25日
条例第59号
鹿児島県暴力団排除活動の推進に関する条例をここに公布する。
鹿児島県暴力団排除活動の推進に関する条例
(目的)
第1条 この条例は,暴力団員による不当な行為が県民生活等に多大な影響を及ぼしていることにかんがみ,暴力排除活動の推進に関し,基本理念を定め,県,県民,事業者等の責務を明らかにするとともに,暴力団事務所の開設の防止,暴力排除活動を実施するもの等に対する支援等について必要な事項を定めることにより,県民の安全かつ平穏な生活の確保を図ることを目的とする。
(定義)
第2条 この条例において,次の各号に掲げる用語の意義は,当該各号に定めるところによる。
(1) 暴力団 暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(平成3年法律第77号。以下「法」という。)第2条第2号に規定する暴力団をいう。
(2) 暴力団員 法第2条第6号に規定する暴力団員をいう。
(3) 暴力団事務所 暴力団の活動又は暴力団員の組織的な活動の拠点である施設又は施設の区画された部分をいう。
(4) 暴力排除活動 暴力団員による不当な行為を防止し,及びこれにより県民生活又は事業活動に生じた不当な影響を排除するための活動をいう。
(5) 関係機関等 財団法人鹿児島県暴力追放運動推進センター(平成4年3月17日に財団法人鹿児島県暴力追放県民会議という名称で設立された法人をいう。以下同じ。)その他の関係機関及び関係団体をいう。
(6) 不動産所有者等 県内の不動産を所有し,管理し,又は占有するもの及び不動産の譲渡等の代理又は媒介を行うものをいう。
(7) 不動産の譲渡等 県内の不動産を譲渡し,又は県内の不動産の賃借権,地上権その他の使用を目的とする権利を設定し,若しくは移転することをいう。
(基本理念)
第3条 暴力排除活動は,暴力団が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等(法第2条第1号に規定する暴力的不法行為等をいう。)を行うおそれのある構成員で組織された反社会的団体であり,県民の安全かつ平穏な生活と健全な社会経済活動に多大な影響を及ぼす存在であることを県,県民,事業者及び関係機関等が共に認識し,相互に緊密な連携の下で一体となって推進されなければならない。
(県の責務)
第4条 県は,暴力排除活動の推進に関する総合的な施策を策定し,及びこれを実施するものとする。
(県民及び事業者の責務)
第5条 県民及び事業者は,暴力排除活動に関して理解を深め,自発的に暴力排除活動の実施に取り組むよう努めるものとする。
2 県民及び事業者は,次に掲げる行為をしないように努めなければならない。
(1) 暴力団員に対して不当な行為をすることを依頼し,唆し,又は助長すること。
(2) 暴力団の威力を示して不当な行為をすること。
(3) 暴力団の活動を助長すること。
3 県民及び事業者は,県が実施する暴力排除活動の推進に関する施策並びに関係機関等が実施する暴力排除活動及び暴力排除活動の推進に関する事業に協力するよう努めるものとする。
(不動産所有者等の責務)
第6条 不動産所有者等は,不動産の譲渡等を行う場合は,その相手方に対して,当該不動産を暴力団事務所の用に供しないことを確認するなど暴力団事務所の開設の防止に努めるものとする。
2 不動産所有者等は,不動産の譲渡等を行う場合は,当該不動産の譲渡等に係る契約の内容として,当該不動産に暴力団事務所が開設されていることが判明したときは,催告をしないで当該契約を解除し,又は当該不動産の買戻しをすることができる旨の定めを設けるよう努めるものとする。
3 前項に規定する契約により不動産の譲渡等を行った不動産所有者等は,当該不動産に暴力団事務所が開設されていることが判明したときは,当該契約を解除し,又は当該不動産の買戻しをするよう努めるものとする。
4 宅地建物取引業法(昭和27年法律第176号)第2条第3号に規定する宅地建物取引業者は,その代理又は媒介する不動産の譲渡等を行うものに対し,前3項の規定を遵守するために必要な助言又は情報の提供を行うよう努めるものとする。
(不動産所有者等に対する支援及び安全対策)
第7条 県は,不動産所有者等に対し,不動産所有者等が前条に規定する責務を果たすために必要な,情報の提供,技術的助言その他の支援を行うものとする。
2 県は,不動産所有者等が前条に規定する責務を果たすに当たって,その生命,身体又は財産に対して暴力団員又は暴力団員から指示を受けた者が危害を加えるおそれがあると認めるときは,必要な安全対策を講ずるものとする。
(調査)
第8条 知事は,不動産所有者等が第6条に規定する責務を果たしていない疑いがあると認めるときは,速やかに,必要な調査を行うものとする。
2 知事は,前項の調査を行うに当たり,必要があると認めるときは,当該不動産所有者等に対し,必要な資料の提出又は説明を求めることができる。
(勧告)
第9条 知事は,前条の規定による調査を行った不動産所有者等について,第6条に規定する責務を果たしていないため,暴力団事務所が開設され,又は開設されるおそれがあると認めるときは,規則で定めるところにより,当該不動産所有者等に対し,必要な措置をとるよう勧告することができる。
(公表)
第10条 知事は,不動産所有者等が次の各号のいずれかに該当する場合は,規則で定めるところにより,その旨を公表することができる。
(1) 正当な理由がなく,第8条第2項の規定による資料の提出若しくは説明をせず,又は虚偽の資料の提出若しくは説明をしたとき。
(2) 前条の規定による勧告を受けたものが,正当な理由がなく,当該勧告に従わないとき。
2 知事は,前項の規定による公表をしようとするときは,あらかじめ,規則で定めるところにより,当該不動産所有者等に対し,意見を述べる機会を与えなければならない。
(県が行う契約からの排除)
第11条 知事は,前条第1項の規定による公表をされた不動産所有者等について,規則で定めるところにより,期間を定め,県が行う契約から排除することができる。
2 知事は,前項の規定により県が行う契約から不動産所有者等を排除しようとするときは,あらかじめ,規則で定めるところにより,当該不動産所有者等に対し,意見を述べる機会を与えなければならない。
(市町村への要請及び支援)
第12条 県は,市町村に対し,地域の実情に応じた暴力排除活動の推進に関する施策を策定し,及び実施すること並びに県が実施する暴力排除活動の推進に関する施策に協力することを求めるものとする。
2 県は,市町村が実施する暴力排除活動の推進に関する施策について,情報の提供,技術的助言その他の必要な支援を行うものとする。
(暴力排除活動を実施するもの等に対する支援及び安全対策)
第13条 県は,暴力排除活動を実施し,又は実施することを予定しているものに対し,情報の提供,技術的助言その他の必要な支援を行うものとする。
2 県は,暴力排除活動を実施し,又は実施することを予定しているものの生命,身体又は財産に対して暴力団員又は暴力団員から指示を受けた者が危害を加えるおそれがあると認めるときは,必要な安全対策を講ずるものとする。
(鹿児島県暴力追放運動推進センターとの連携)
第14条 県は,暴力排除活動の推進に関する施策を実施するに当たっては,財団法人鹿児島県暴力追放運動推進センターと緊密に連携し,及び協力するものとする。
(啓発活動)
第15条 県は,県民及び事業者の暴力排除活動に関する知識の普及及び意識の高揚を図るため,広報その他の啓発活動を行うものとする。
(規則への委任)
第16条 この条例に定めるもののほか,この条例の施行に関し必要な事項は,規則で定める。
附 則
この条例は,平成22年4月1日から施行する。


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