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2004年10月号 金正日特別列車/奥平正和
ワールド・ツーリング・ネットワーク・ジャパン


アフリカを回った後、中東、ヨーロッパを抜け、ロシアを横断して帰ろうと思った。ところがロシア東部は、道がない区間があるという。そこで、バイク共々列車に乗ることになるのだが、このシベリア鉄道の旅もなかなか快適である。売店もあるし、居眠りしていられるし、雨が降ってきてもバッグからカッパを出して着ないでもいいってのがうれしい。

 シベリア東部のチタという街から列車に乗ったときは、何人もの人たちに囲まれウオッカをご馳走になりながら(飲まされながら)世界地図を広げ、写真を見せながらロシア人たちを相手にアフリカの旅話をした。

 酒盛りは夜更けまで続き、この酔っ払い連中とずっと一緒はしんどいなぁと思ったが、一人また一人と降りてしまい、4人用のコンパートメントは個室になった。窓外に広がるシベリアの原野などを眺めながら、一人旅情にひたっていると、仕事の合間をみては客室乗務員のナターシャが僕の部屋に遊びに来た。

 ロシア語会話集の単語を指差しながらの会話をする。
<結婚してるの?>
<したけど別れた>
<なんで?>
<説明するの難しい>
<あなたの写真一枚もらえない?>
<いいよ>
<裏にナターシャへって書いて>
<お安い御用だ>
 そして彼女も一枚の写真をくれた。僕は彼女の手のひらにボールペンで相合い傘を描き、そこにカタカナでナターシャ、マサ、と入れた。
<これは何?>
<これはねぇ、幸せになるおまじない>
 旅人奥平、シベリア鉄道の旅のつれづれにロシアねーちゃんとたわむれる。
 ある時、駅でもないところで列車は長々と止まってしまった。何でこんなに長く止まっているのかとナターシャに聞くと、金正日を乗せた列車が通過するので、そちら側の窓のブラインドを下ろしておくように言われているという。
 ほんまかいな? バイクでロシアを旅しているとあまり情報が入らない。

 日本に帰ってからシベリア鉄道のことを調べていたら、(金正日2001年シベリア鉄道の旅全内幕)というのを見つけた。それによると金正日一行は、2001年7月25日にピョンヤンを発ってロシア訪問の旅に出かけ、とある。北朝鮮には政府専用機がないのだろうか、それとも金正日は飛行機が嫌いなんだろうか?

 装甲列車6両(防弾仕様)を含む15両編成の金正日シベリア横断特別列車は、副首相、党書記をはじめ護衛員、料理人、医師など約150人が乗るお召し列車であった。その特別列車の走行10分前に2両の先導車両(地雷探知列車)が走り、爆弾テロや狙撃などを警戒するという物々しさだったという。
 さてお召し列車は、ピョンヤンを出発して3日目の7月28日1時8分にチタ着、そこで20分間の停車となっている。これは僕がチタを出た時の日記の日付とぴったり一致するではないか。
 あの時は信じてなかったのだけれど、だいぶ後になって本当だったのだとわかった。ほんの1、2メートルほどの距離で金正日とすれ違った。あの偉大なる将軍様にこれほど近づいた日本人は、小泉純一郎と俺ぐらいではなかろうかとひそかに思っている。俺がもしゴルゴ13だったなら、今ごろ朝鮮半島は変わっていたかもしれない。


廃仏毀釈について
妙円寺公式ホームページ


明治維新という偉業の影で、今日まであまり語られることのなかった廃仏毀釈。

ここ薩摩、鹿児島県では、神仏分離令により、庶民の信仰の寺はもちろん、修剣道、歴代薩摩藩主が保護してきた島津家ゆかりの禅寺までことごとく破壊されました。

曹洞宗、島津義弘公菩提寺妙円寺、島津家歴代藩主菩提寺福昌寺、
大本山総持寺の末寺、皇徳寺・慈眼寺・島津貴久公の南林寺(大中寺)・出水の竜光寺・豊久の天昌寺・しんこ団子発祥の深固院、臨済宗の由緒ある禅寺、感応寺、真言宗の大寺、一乗院、そして篤姫の生家、今和泉島津家の菩提寺、光台寺も…。

この鹿児島の特異な寺壊しの原因は、一部の神道派薩摩役人と、歴代島津氏の圧倒的な仏教信仰により、明治まで身分が低く、僧侶の下に置かれていた、明治政府の神仏分離令に乗じた神官(神主・宮司)達の先導による反乱だったようです。

あの明治初期のファナティックな神道派による寺こわしの中で、例えば日置市の徳重神社に関して言えば、なぜ神仏分離に矛盾する行為、つまり妙円寺を焼き払った後、島津義弘公の仏像を欲しがり、無理矢理、御神体としたのでしょうか…私には解せません。 そして“妙円寺参り”または“妙円寺詣り”と称し、当寺の寺号を無断で使い徳重神社に参る。徳重神社は妙円寺の如く振舞う。更に驚くことには、日置市伊集院町という自治体も、徳重神社をまるで妙円寺のように語り、徳重神社隣に明治13年には復興した妙円寺は無きものにする。という理不尽で滑稽な行事が、100年以上、平成19年現在でも続けられているのです。

廃仏毀釈とは本当に過去のものなのでしょうか。

このページでは以前、南日本新聞に掲載された貴重な記事をご紹介したいと思います。


寺こわし(1)
妙円寺公式ホームページ


郷土のお寺や神社の前に、コケむした仁王像がある。古いものは例外なく鼻が欠けたり、腕をもぎとられたり、ひどいのは、首を打ち落とされたり…。長い歳月の風化作用でこうなったのではない。仏さんが神様に、いや神を信仰し過ぎた人や薩摩の役人たちに、打ち砕かれた名残りなのである。

薩藩が、一向宗(浄土真宗)長年禁圧したことは、前に書いた。
しかし他の仏教などは、むしろ保護してきた。

慶応の初め、薩藩の寺院数は千六百余りもあった。
それが明治元年から四年にかけて、全部なくなった。
二千九百余人の坊さんや小僧さんや尼さんが、その間に一人残らず“蒸発”してしまった。
しかも不思議なことは、門徒などの抵抗もなければ、流血ざたもなかった。
日本の宗教史の中で、だれしも首をひねりたくなる特異なこの一ページが、薩藩の「廃仏毀釈(きしゃく)」なのである。


むろん、多くの理由があった。

まず「先君斎彬の遺志」ということである。
島津斎彬が、全仏教の追放を、もくろんでいたとは考えられぬが、外敵来襲に備えて、軍艦、大砲などの製造を急いだことが、そう受けとらせたようだ。

寺院は時鐘を除いて、あらゆる梵(ぼん)鐘を供出させた。兵器造りに、銅が足らなかったのだ。
その過程で、斎彬は急死した。

「仏こわしは先君の遺志」と、拡大解釈されたのである。

第二は神官たちの不満である。他国の神職は、地位も高く、世間もそれを認めている。しかし薩藩では、一向宗取り締まりの、とばっちりをうけ、
神職も役人から“宗門改め”という、信仰の調査をうけた。職能も低く、肩身もせまい。これというのも“仏のせい”と内心きげんが悪い。

第三は国学の流行だ。
王政復古の波が広がるにつけ、その理論づけが必要になった。
自然に国学者が、重要され始めた。

その前、賀茂真渕、本居宣長といった国学者が「仏教を排して、純粋な古道に帰るべし」と説いた。いわゆる復古神道である。

薩藩にも、本居門下の人物がいた。
復古神道の最右翼は、平田篤胤である。
薩藩の後醍院真柱(みはしら・吉備神社宮司)は、平田から特別な教えを受け、日本の国学をに背負う人物になったが、同時に薩摩国学の主柱でもあった。

薩摩自体も重豪のころから、国学を重んずる風潮はあった。
こうして仏が神から追い落とされる条件は、整い始めていた。あとは、何かのきっかけだけだ。

そこへ水戸藩が寺院改正令を出し、寺の鐘は全部つぶす--という情報が流れてきた。
これに触発されて血気の士が「廃仏を断行し、僧たちを還俗(げんぞく・元の俗人に帰ること)させられよ」と、家老の桂久武に申し出た。

慶応元年(1865)春のことである。

桂は尊王党であった。大いに賛成--というわけだ。
藩主と国父に相談するが、忠義、久光とて異論はない。
張り切った桂はみずから実行にのりだした。
後醍院真柱らを、寺院処分のための調査役に命じる。

こういうことが、しもじもに漏れぬはずがない。いや、むしろわざと漏らし、自発的な寺こわしを進めた形跡がある。
蒲生郷(姶良郡)あたりが“自主廃仏”の先頭にたった。
郷内に数寺あったが、それをこわし、浮いてくるその寺領などの費用で、文武館を造りたいと藩庁に願い出た。
天下の風雲が、けわしくなり始めていたこともあったろう。

慶応三年に許可になった。

蒲生郷は、さっそく寺をこわし、砲術調練所をもうけた。
廃寺の費用を、軍備とその調練費に当てた。

翌明治元年になると、寺こわしの火は、領内に広がっていった。


寺こわし(2)
妙円寺公式ホームページ


薩藩は、廃仏の準備を進めているうちに、めんどうなことに出会った。 神と仏が“平和共存”している神社が、あることだ。いや、神社のほとんどは、神と仏がいりまじっていた。

歴代藩主が厚く敬神した、霧島、鹿児島(姶良郡隼人町)両神宮にしてもそうであった。第一、ご神体が仏像なのである。そこで神鏡を、急いで造ってかえさせ、神仏分離を進めた。

明治元年三月、仏像をご神体にする神社は、それを改め、社前の仏像や仏具は、とりこわすべしと、藩命をだした。 続いて九月に家老名で「今般おぼしめしにより、神道ひとすじで、祭祀(し)するように」という、廃仏の断行命令をくだした。

川辺郷(川辺郡)を例にとる。 そのころ十五の寺があった。うち清水の宝福寺と、平山の玉泉寺だけを残して、あっという間に十三の寺が、こわされてしまった。

長島(出水郡東町)城川内の長光寺に、廃仏の厳命が伝わったのも、そのころであった。 住職の撤宗和尚(おしょう)は、脳天に一撃を受けたような衝動を覚えた。鷹巣に常念寺ができるまでは全島唯一の、曹洞宗の由緒ある寺であった。

それを一片の命令書で「たたきこわせ」というのである。むろん、知らせを受けた地域の総代が、各地からかけつけてきて、檀家総代の緊急会議となった。 本堂からあふれた人々の顔も、悲壮感に満ちている。和尚はことのしだいを皆に告げ、よろしく審議方を--という。

議論百出のあげく、先祖代々あがめてきた仏像と、鐘だけは、藩命とはいえ、こわすことはできぬ--と一決した。 他の仏具、仏典、過去帳(死者の俗名、法名などを記した帳簿)などは、いっさい焼くことにした。

仏像と鐘は、いったん総代の大堂兵之永宅の天じょう裏に隠した。 しかし危うくなってきたので、船で天草の小宮地村に運んだ。 観音室にあった観音像は、同じく天草の牛深に漁網にくるんで「おいと」という網元の家にあずけた。

網元は信心深い人で、朝夕拝んだ。すると霊験あらたか?豊漁の年が続いて網元は財をなした。 のちに長島の者が、牛深にタキギを売りにいって、その”大漁観音”のことを耳にはさんだ。 信仰の自由が許された明治九年を過ぎていた。

信仰もさることながら、大漁をもたらす観音様を、いつまでも天草にあずけるわけにいかぬ。旧檀家が集まり、返還をかけあった。 網元は最初しぶったが、ようやく交渉に応じた。住職は山本興雲になっていた。

長光寺側は、六隻の船を仕立て、受け取りにいった。 白布の台に鎮座した観音像は、何年ぶりかで長島に帰った。 その後、豊漁が続いたかどうかは、郷土史に書いてない。

阿多郷(日置郡金峰町)河内の岩屋観音も、明治元年に追放の身となった。 あわれなるかな観音さんは、川の中に投げこまれた。 キクという二十六歳の未亡人がそれを見つめていた。信心深い女であった。

キクはその夜こっそり川にはいっていく。 観音を救いあげて帰った。台座まで五十四㌢の、慈悲ぶかい表情の、立像であった。

キクはだれにも言わずに、家にかくまって拝んだ。 キクが人々に告げたのは、実に明治二十二年のことである。

喜んだ地区の人々はキクに感謝し、元の岩屋に堂をたてた。 観音は二十年ぶりに旧に安置された。

以後、毎年旧暦の八月十六日に、例祭がにぎやかに行われた。 伊作、田布施、それに谷山の錫山などから、踊りが奉納されてにぎわった。


寺こわし(3)
妙円寺公式ホームページ


明治新政府の大改革のうち、廃仏毀釈(きしゃく)は人間の信仰を、足もとからひっくり返す大事件であったといえる。

諸藩でも神仏分離から手をつけたが”寺こわし”には、たじろいだようだ。

その中で薩藩だけは、この至難といわれる廃仏を断行したが、続いては飫肥藩(宮崎県南部)が、かなりやっている。 薩藩の廃仏が、山津波のように、領内の寺を押しつぶしていったのは、明治元年の九月ごろからのようだ。

前回のように、長島や阿多の各郷で、仏像などをこっそり隠し、藩命にそむいた例は、いくつかはあるようだが、ほとんどの寺は、素直に、無残なとりこわしに従った。

知覧郷(川辺郡)の万福寺には、光明皇后の真筆による自観心経や、弘法大師筆の経巻、また持宝院という院号の銅鏡などの宝物があったという。これらはすべて焼かれ、こわされ、一部は兵器に化けた。

いま知覧小学校のプール付近にある、悪魔撃退の形相いかめしい不具の仁王像も、万福寺の門前にあったものだ。 廃仏のとき、役人によってこわされ、土中に埋められた。のち堀り出されたものである。
<ーーーーーーーーー>石臼を造ったため、仁王は”---------”に変わり果てた。

曽於郡大崎町の飯福寺にも、運慶作といわれ、神変大菩薩と呼ぶ、木像があったという。身長四十㌢ほどの、名品だったそうだ。

やはりそのとき焼き払われた。
ただ仁王石像は、鼻と腕の”損傷”で残った。

後年、それを掘りだしたが、国学院の樋口という教授に見てもらった。
鎌倉時代のもので、完備しておれば、間違いなく国宝的なもの・・・・・と、惜しまれたようだ。

このように、こわされても、まだ生き残っている石像はまだよいとして、石像の多くは、川の護岸やため池工事の底石として使われ、永久に”浮かばぬ仏”となった。

廃仏のとき、寺院だけでなく、個人のものまで、とりあげられた形跡もある。
知覧郷浮辺新田の朝隈次右衛門は、秘蔵の仏画に、朝晩祈っていた。
廃寺のとき、役人が聞きこんで、とりあげていった。

麓の西福寺での、仏の焼き払いは、冬の寒い日であった。
珍しく朝から、雪が降った。
家にいた次右衛門の血がさわいだ。
仏画を奪い返す決心を、妻に打ち明けた。それは命をかけた行為であった。

西福寺にいってみると、広い庭に高く積まれた経巻や仏具が、白い煙をあげ、燃え始めるところであった。
北側の、いまにも炎をあげようとしている絵巻の軸に、目がとまった。
見覚えがあった。長年秘蔵し、信心した、自分の仏画である。
よくぞきた。そして間に合った。

監視人の目が、はずれた瞬間をねらって、次右衛門はそれを救い上げて立ち去った。
家と反対の、小田代の山道を走った。峠の二本松の根元に隠して帰宅した。
そして夜、自宅に持ち帰った。

いま知覧町の教行寺にある本尊が、それである。
寺が次右衛門から譲り受けたときは、絵像の裏側は、焦げていたという。
ゆいしょある寺院と、藩主島津家の墓所にある少数の寺を除いて、おおかたの寺は、明治元年末までには、こわされてしまった。
その残った寺にも黒い影がおおった。
翌年二年三月、藩主夫人てる子が、死去するという事態が起こったのである。


寺こわし(4)
妙円寺公式ホームページ


藩主忠義の夫人てる子は、斉彬の娘である。

その葬儀に、異例の告示が、藩の知行所からだされた。
「いままでの仏式を改め、神式をもって行う」というものであった。明治二年三月のことだ。

このお触れで、鶴丸城内の”仏”たちは、追放の運命となる。
廃仏を進めていた関係者を、すっかり元気づけた。藩主一家が、仏像に絶縁した宣言と、受けとったからである。

というのは、島津家関係の寺院を、どう処置してよいものか、手をつけかねていたからである。
神職関係の鼻息が、荒くなった。

当時、西郷吉之助(隆盛)は、戊辰(ぼしん)の役が、まだ終息告げないのに、さっさと帰鹿し、日当山温泉に湯治していた。

西郷はある日、頭を剃って、くりくり坊主にした。”西郷入道”と呼ばれたころのことだ。彼らしい理由があった。

温泉のすぐ近くに、国分八幡(鹿児島神宮)がある。その鳥居の前に「坊主と不浄の徒、入るべからず」と、御札が立っていた。

理非なことには、いつの場合にも、行動で表現して、公憤をぶっつけた西郷である。
このときも、藩をあげての廃仏の風潮に便乗した、神職たちのハネあがりをたしなねるため、例によって”からだ”で表現した坊主頭であった。

しかし廃仏の火の手は、いよいよ燃えさかった。

六月には「島津家歴代の霊を祭る方法は、今までの仏道をやめて神道にする」「祖先の霊を弔う、孟蘭盆会(うらばんえ)も禁止する」というお触れが、やつぎばやにでた。

福昌寺、南林寺など、ゆいしょある七寺の領地四千二百余石も、とりあげられた。
藩庁は糧道を断つ作戦にでたのである。といって、住職を飢え死にはさせなかった。

食糧として、住職と僧の二人だけに限り、一日一人五合はだしたが、これには衣装代やその他の生活費まで含んでいた。
真綿の首しめであった。

ことここに至っては、廃業するしかない。住職たちは隠居や還俗(げんぞく、元の俗人に帰ること)を願いでた。
内心不服なことは、もちろんである。しかし、本山を通して、寺の存続を願うこともせず、檀家の衆も、直訴や、ムシロ旗をかかげて、反抗することもしなかった。
そういうことを起こせば、どういう結果になるか。きびしい一向宗への断圧の見本が、周囲にいくらでもあったからだろう。

最後まで残った鹿児島城下の福昌寺、坊津の一乗院竜厳寺など有名な六寺に、廃寺の断がくだったのは、同年十一月であった。

慶応初年(一八六五)に、千六百十六を数えた薩藩内の寺院は、ここに全滅したのである。
二千九百六十六人の、かつての僧尼は、すべて還俗した。元士族は再び士族に、農は農、商は商に帰った。
三分の一は、兵士になったという。

一部の寺は、神社に生まれかわった。 城下の南林寺が松原神社に、谷山の慈眼寺が長谷神社に、伊集院の妙円寺が徳重神社に、といったように……。

この廃寺に伴い、島津家代々の総社が創建された。
鶴嶺(つるがね)神社であった。

全国的には、明治二年から四年までに行われた、神仏分離、または廃仏毀釈も、鹿児島藩では明治二年末に、激烈な形で100㌫完了したのである。
鹿児島県人が、文化財をあまり大切にしないのは、この寺こわしの実績と影響ではないかーーという人もある。

鹿児島県の信仰の自由が真宗解禁とともに許されたのは、実に明治九年九月五日のことであった。

現在の寺院がその後に建てられたものであることは、いうまでもない。


アスワン・ハイダム Aswan High
財団法人日本ダム協会


「エジプトの母」とも呼ばれるナイル川に造られた高さ111m、全長3,600mの巨大ロックフィルダム。ナイル川の河口から900kmのアスワンにある。

当時のエジプトのナセル大統領がソ連の支援を受けて計画した国家的事業だった。1960年1月9日に起工式が行われたが、その後完成まで10年余りを要した。工事によってアブシンベル神殿やファネストアリ神殿などの遺跡が水没するため、遺跡を守ろうという運動が世界的に発生。ユネスコが中心になって資金を集め、これらの遺跡を移転し、水没を免れた。

毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止するとともに、12基の水力発電装置が210万kwの電力を供給。ダムにより出現したナセル湖から供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化も行われた。その一方で、ナイル川の生態バランスを破壊したなどの批判もある。今では、周辺の遺跡とともに、観光地となっている。


廃刊決定のニューズ系英大衆紙記者、突然の通知に衝撃隠せず
REUTERS 2011年 07月 8日


メディア王ルパート・マードック氏率いる英日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」は7日、盗聴問題で廃刊を決定。同紙の記者らは突然の通知に衝撃を隠せず、悲しみと怒りをあらわにした。  批判の矛先は、同紙元編集長で現在事業責任者を務めるレベッカ・ブルックス氏に向けられている。ブルックス氏は殺害された少女の携帯電話への盗聴が行われたとされる当時の編集長だった。ただ、同紙発行元のニューズ・インターナショナルは、同氏を擁護する姿勢を表明している。

 同紙の記者の1人は「たった1人の女性の職を守るためだけに、一つの新聞すべてを閉じようとしている。煮えくり返るような怒りと彼女に強い憎しみを覚える」と批判。「社の従業員は皆、ショック状態に陥っている」と説明した。 

 また他の記者らは、その多くが盗聴が行われたとされる時期に同紙で働いていなかったため、前任者らの犯罪で自分たちが罰せられていると訴えた。

 サブ・エディターの1人は、「(廃刊通知に)打ちのめされた。今は社にいない前任者らの尻拭いをさせられている。ひどいものだ」と語気を荒げ、「多くの記者が今夜職を失った。でも一体何のために」と怒りをぶつけた。

 ニューズ・インターナショナルは、盗聴疑惑の対象が政治家ら有名人から犯罪被害者にも広がり批判が高まったことを受け、168年の歴史を持つ同紙を10日付紙面を最後に廃刊することを決定。疑惑は10年前にまでさかのぼるものまである。

 同紙は4月の発行部数が約260万部を記録するなど、英国の日曜紙では最大の部数を誇る。


英日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」が盗聴問題で10日付紙面を最後に廃刊することを決定

この大衆紙は、創刊日、経営者の誕生日、廃刊の日付などから、日本が関与している可能性が極めて高い。

日 付 関連事件
「ニューズ・オブ・
ザ・ワールド」
ロンドンで創刊。
1843年10月1日
★源頼朝が伊豆国で挙兵する。
★大坂冬の陣が始まる。徳川家康が諸大名に出陣の命を下す。
経営者
ルパート・マードック
1931年3月11日誕生。
1931年3月11日
★ソ連がGTO制度(国民体力検定試験制度)を導入する。
★ (死亡)神武天皇、日本の初代天皇。
★(誕生)昭和天皇、日本の124代天皇。
★東北地方太平洋沖地震。太平洋三陸沖を震源として巨大地震が起こる。
経営者
ジェームズ・マードック
1972年12月13日誕生。
1972年12月13日
★アポロ17号でアポロ計画で最後の月面活動。
★パナソニック(当時は松下電器産業)がニューヨーク証券取引所に上場。
1972年旧暦12月13日
★フィリピンのマルコス大統領が新憲法発布、同時に戒厳令。
★NHK大河ドラマ「国盗り物語」が放送開始。織田信長の天下統一から本能寺の変までをダイナミックに描く。
廃刊を決定
2011年7月7日
★最古の相撲節会の記録。聖武天皇が宮中の相撲節会を観る。
この日の紙面を
最後に廃刊
2011年7月10日
★大化の改新が始まる。
★足利尊氏が、後醍醐天皇に応じて倒幕を決意し挙兵。


第2次大戦前のソビエトスポーツ
日本の新聞におけるソビエト連邦スポーツ報道の変化について
早稲田大学 大学院スポーツ科学研究科


1921年から1929年の新経済政策期のスポーツは、共産党や政府の思惑と異なるスポーツの発展を防ぎ、共産思想の普及を目指す政策に力が入れられた。このためスポーツが国家の元で管理される方針が決められ、1930年代のソビエトの競技力向上政策を支える制度が完成につながった。その一つがGTO制度である。

1928年以降に行われた経済5カ年計画により労働者はノルマ達成のための重労働を強いられたため余暇活動政策が重要視された。政府は、スポーツを厳しい労働から国民を解放するための手段として用いるために1931年にGTO制度と呼ばれる制度を制定し、国民に共通の課題を与えた。GTO制度は7歳から60歳までの(女子55歳)までの年齢に合わせた体力検定試験を実施し体力の向上を目指すというもので、体力向上政策とそれを支えるための施設拡充が図られた。施設数は1931年から40年にかけて4倍に膨れ上がり、モスクワやレニングラードなどにスタジアムが作られ、スポーツを支える基盤ができたことで更に発展した。


盗聴疑惑で英大衆紙が廃刊、英首相にも飛び火か
CNN.co.jp 2011.07.08


英メディア大手ニューズ・インターナショナルは7日、傘下の英日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」を10日付紙面を最後に廃刊することを明らかにした。

ニューズ・インターナショナルの親会社、米ニューズ・コーポレーションの会長を務めるルパート・マードック氏の次男で、ニューズ・インターナショナル会長のジェームズ・マードック氏は盗聴疑惑について「遺憾」だとし、警察の捜査に協力するとともに、このようなことが2度と起きないよう対策を講じると語った。

ニューズ・オブ・ザ・ワールド紙は168年の歴史を持つ英国有数の日曜紙だが、殺人やテロの被害者、政治家、著名人の留守番電話メッセージを違法に盗聴した疑惑が浮上。盗聴の被害者の中に2002年に誘拐され殺害された13歳の少女が含まれていたことが明らかになり、政治家や国民から強い批判を浴びた。

またこのスキャンダルは、キャメロン英首相にも飛び火する可能性がある。

英メディアは7日、英首相官邸の報道局長だったアンディ・コールソン氏がニューズ・オブ・ザ・ワールド紙の編集長時代に起きた盗聴事件を知っていたか、関与した容疑で警察から出頭要請を受けたと報じた。

コールソン氏は、王室担当記者クライブ・グッドマン氏と私立探偵のグレン・マルケー氏が英王室関係者の留守番電話メッセージを盗聴したとして有罪判決を受けた後、2007年1月に同紙の編集長を辞任。

その後、保守党の広報担当者に就任した後、スキャンダルが発覚した。同氏は昨年11月に警察の取り調べを受け、英国検察局は刑事起訴するには「証拠不十分」と判断したが、コールソン氏は今年1月に報道局長を辞任した。


日蓮大聖人のご生涯 熱原の法難と出世の本懐
創価学会公式サイト


日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国(現在の静岡県中央部)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて、大聖人に帰依するようになりました。

そのために、地域の天台宗寺院による迫害が始まり、大聖人に帰依した人々を脅迫する事件が次々に起こりました。

弘安2年(1279年)9月21日には、熱原の農民信徒20人が無実の罪を着せられて逮捕され、鎌倉に連行されました。農民信徒は平左衛門尉の私邸で拷問に等しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。

そして、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残る17人は居住する地域から追放されました。この弾圧を中心とする一連の法難を「熱原の法難」といいます。

農民信徒たちの不惜身命(仏道修行のためには身命を惜しまないこと)の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に著された聖人御難事しょうにんごなんじ)/rp>で、立宗以来「二十七年」目にして、「出世の本懐」を遂げられたと宣言されました。「出世の本懐」とは、仏がこの世に出現した目的という意味です。

そして、弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのです(一閻浮提総与とは全世界の人々に授与するとの意)。

熱原の法難において、民衆が不惜の強き信心を表したことこそが、大聖人の大願である広宣流布成就の根本要件なのです。

また、この法難において、大聖人門下は異体同心の信心で戦いました。特に、21歳の青年・南条時光は同志を守るなど活躍しました。


日露戦役週報
参拾壱 頁


明治38(1905)年 1月11日 (水曜・露暦12月29日)
バルチック艦隊支隊、ノシベ着
露バルチック艦隊のうち地中海・スエズ運河を経由した支隊が仏領マダガスカル島ノシベに到着、すでに到着していた本隊と再合流。

満洲軍、第三軍に北進下令
満洲軍総司令部は、乃木第三軍司令官に対し二月中旬を期して奉天附近に集結すべく北進を下令。


1325年(正中2年 乙丑)
三浦三崎ひとめぐり


6月25日 [神明鏡]

亥の時、雷電して俄に山門の無動寺山崩。坊舎三十余宇打埋、人民多打殺、白河京中の民屋悉流、希代の珍事なり。

[花薗天皇宸記]

申の刻ばかりに暴雨沃すが如し。

6月26日 甲辰 [花薗天皇宸記]

寅の刻に大雷鳴大雨、辰の一点に及び休止す。霹靂二ヶ所と云々。大炊御門富小路雷火一宇焼けをはんぬ。大雨雷鳴近年未曾有か。諸河水溢張すと云々。前庭の池の水岸を浸す。小島皆没しをはんぬ。

(裏書)洪水先々に超過す。山上の無動寺房舎十七宇流失す。坂下の小家等、水害せさる者数知れず。翌日泥土の中に於いて、掘り出す所の死人五百人に及ぶと云々。また白川河水溢れ、小家皆流れ死人数多と云々。
京都歴史災害研究第6号
立命館大学歴史都市防災研究センター


1325年8月12日正中二年六月二十五日 花園天皇宸記

申剋許、暴雨如沃、頃之晴、

1325年8 月13日正中二年六月二十六日 花園天皇宸記二

寅剋大雷鳴大雨、及辰一点休止、霹靂二ヶ所云々、大炊御門富小路雷火一宇焼了、大雨雷鳴近年未曾有有歟、諸河水疫溢漲云々、前庭池水侵岸、小鳥皆没了、今日於泉辺有盃数巡、…〔裏書〕洪水超過先々、山上無動寺房十七宇流失、坂下小家等、被水害者不知数、翌日於泥土中、所
中世における落雷による事故
株式会社ワールド避雷針工業


正中2年6月25日(1325年8年4日)

比叡山無動寺に落雷があったため山崩が発生し、30以上の坊舎に被害がでる(神明鏡、桜雲記、史料綜覧、続史愚抄)。
※旧暦変換については、リンク元(陰謀カレンダー8月12日)を参照。


クレオパトラとシーザーの暦
前田稔(Maeda Minoru)の超初心者のプログラム入門


どうして、31日間の大の月と30日間の小の月があるのか? また、閏年はどのように決められているのか?これらの秘密は、古代ローマにまでさかのぼります。

農耕を生活の中心としていた古代の人々にとって、季節の周期を知ることはとても重要なことでした。 そして自然界には、時の流れを測る単位として、昼夜がめぐる1日、月の満ち欠けが一巡するひと月、季節がひと回りする1年があることに気づきます。 このうち、1日とひと月の組み合わせを基本とする暦が太陰暦、1日と1年の組み合わせを基本とする暦が太陽歴と呼ばれているものです。

古代ローマでは、ひと月と1年の組み合わせにこだわった、1年が355日の太陰太陽暦(ローマ暦)が使われていました。 つまり、季節が一巡りするには、月の満ち欠け(新月~満月~新月)の周期29.53日を12回繰り返すと、ほぼもとの季節に戻るため、これを1年としていたのです。 29.53日×12カ月=354.36日(切り上げて355日で1年) このため、実際の1年とでは10日あまりのズレが生じてしまいます。 そこで、暦と季節の移り変わりを一致させようと努力しましたが、だれも妙案を考えることができませんでした。

この難問を解決したのが、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)です。 そしてそのヒントはエジプトにありました。 エジプトでは、ナイル川が氾濫する時期を知るために、長年にわたり天体の観測がおこなわれてきました。 その結果、明け方太陽が昇る直前、東の空にシリウス星が輝きだす頃、きまってナイル川が増水することを見つけます。 そして、このシリウス星が姿をあらわす周期が365.25日だということから、1年を365日とする暦が使われていたのです。

エジプトへ遠征したシーザーは、クレオパトラと恋をし、彼女を王位に復帰させるべくエジプトに長く滞在することになります。 おそらく、この時にエジプトの優れた文明に触れ、エジプト暦の存在も知ったのではないでしょうか。 ローマに帰国したシーザーは、エジプトから天文学者のソシゲネスを招いて改暦を行います。 その内容は「1年を12カ月365日とし、余りについては、4年ごとに1日の閏日を挿入する」というものでした。

旧来のローマ暦では、年始(お正月)は3月で、2月が年末でした。 シーザーはこのローマ暦の月の順番だけは尊重し、3月から順に31日,30日,31日,・・・と交互に繰り返していき、最後の2月を29日、閏年の時は30日にすると決めます。 そして、年始を1月にするとともに、自分の誕生月の7月をユリウス(英語でジュライ)と改名しました。 ローマ歴とエジプト歴がひとつになり、世界で初めて法令で閏年を規定したユリウス歴の誕生です。紀元前45年のことでした。

このユリウス歴に手を加えたのが、シーザー暗殺後にローマ帝国初代皇帝となったアウグストウス(オクタヴィアヌス)です。 「7月がシーザーの月なら、8月は私の月だ」と、8月をアウグストゥス(英語でオーガスト)に改めます。 そして、自分の月が「小の月」なのを嫌い、8月を31日にして、その分2月を1日減らして28日としました。 この結果、7月・8月と「大の月」が続くので、9月から12月までの大・小の順番を入れ替え、現在のような月々の日数になったのです。 以来、ユリウス歴は1600年以上も使われてきました。

ところが1600年の間に、実際の季節と暦が徐々にズレていき、16世紀末にはその差が10日あまりにも達してしまいました。 そこで1582年、時のローマ教皇・グレゴリウス13世によって改暦が行われます。 それは「西暦年が4で割り切れる年を閏年とする。ただし、西暦年が100で割り切れる年の中で、400で割り切れない年は平年とする」と決めたのです。 つまり、西暦1600年(西暦2000年)は閏年でしたが、1700年,1800年,1900年は閏年ではありませんでした。 これが、現在私たちが使っているグレゴリオ歴です。

日本での採用は、1873年(明治6年)のことでした。 「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていた」と、パスカルは言いました。 実際に、クレオパトラがシーザーの心をひきつけるほど魅力的でなかったら、エジプトの文明に対するシーザーの興味も薄かったことでしょう。 そして「1年12カ月」というローマ歴と、「1年365日」というエジプト歴がひとつになることもなかったかもしれません。 しかし、偶然か運命か。今日、ほぼ世界中の国で「時の道標」となっているのは、魅力あふれるクレオパトラと、良いものは迷わず導入する先見性を持ったシーザーが出逢って生まれた暦なのです。


エジプト・イスラエル兵力引離し協定
東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室


[場所]
[年月日] 1974年1月18日
[出典] 外交青書19号,139-140頁
[備考] 仮訳
[全文]
A.エジプトとイスラエルは,国連安全保障理事会によつて要求された陸,海,空における停戦を忠実に守り,本文書に調印した時から,相互のすべての軍事または準軍事的な行為を抑制する。

B.エジプトとイスラエルの軍隊は,次の原則に従つて引離される。

 1.スエズ運河東岸の全エジプト軍は添付した地図に明示されたA線の西側に展開する。スエズ運河とビター湖の西側にいるイスラエル軍を含む全イスラエル軍は,地図に明示されたB線の東側に展開する。

 2.エジプトとイスラエルの軍隊の間にある地域は兵力引離し地帯とし,国連緊急軍(UNEF)が駐留する。UNEFは,ひき続き安全保障理事会の非常任理事国である諸国からの部隊で構成する。

 3.エジプト前線とスエズ運河の間の地域は武器および兵力を制限される。

 4.イスラエル前線(付属地図のB線)と付属地図でC線と指示されたギディおよびミトラ峠のある山の西側に沿つて走つている線との間の地域は,武器および兵力を制限される。

 5.第3項および第4項で言及した制限は国連緊急軍によつて査察される。エジプトとイスラエルの連絡将校を緊急軍に付属させることを含む現行手続きは継続される。

 6.双方の空軍は,相手方の干渉をうけることなくそれぞれのラインまで行動することができる。

{地図は省略}

C.兵力引離しの細目にわたる実施は,エジプトとイスラエルの軍事代表がこの作業の各段階について合意した上で行われる。両軍事代表はこの目的のために国際連合の庇護の下に(カイロ-スエズ間道路)101キロメートルの地点においてこの協定の調印後48時間以内に会合する。

 両軍事代表は,この作業を5日以内に終了する。兵力引離しは,両軍事代表の作業終了後,48時間以内に始め,かつ,どのようなことがあつても本協定調印後,7日を越えてはならない。引離し作業は,開始後,40日を越えないで終了する。

D.本協定は,エジプトとイスラエルによつて恒久的な平和協定とは見做されない。これは,安全保障理事会決議338の規定に従い,かつジュネーブ会議の枠内で,最終的な公正かつ,永続的な平和へ向かつていく第一歩をなすものである。


肉体犯罪海岸 ピラニヤの群れ
Movie Walker


1973年8月15日公開 配給 日活 67分

海原を疾走するモーターボートの中では、信二とルミが全裸で抱き合っていた。信二は湘南一帯をたむろする不良グループのボス、ルミはさしずめ女ボスである。信二、健、宏たち五、六人のワルたちは、毎日のように浜辺のアベックたちを襲っていた。近頃、付近一帯の警察の監視が厳重になった。折りから、赤いスポーツカーに乗って通りかかった今日子が、警察に喋ったと思った信二たちは、今日子をアジトに連行した。ワル達の中で、平然とする今日子。信二たちは一斉に今日子に襲いかかった。一方、今日子の父・南部は、政界の御曹子・萩原と今日子を政略結婚させようと企らんでいたが、その陰で、南部の妻・富子は、若い萩原の肉体をもて遊んでいた。今日子の味が忘れられなくなった健たちは、南部邸を襲い、富子、今日子、女中を次々に犯した。しかし、今日子は、一部始終を黙視する信二に魅かれていった。嫉妬するルミ。二度目に南部邸を襲ってからは、信二たちは屋敷をすっかり、自分たちのアジトにしてしまった。豪華なべッドルームでは、ルミと健がセックスを堪能していた。ルミは健を抱き込み、ボスにまつりあげた。健はすっかりボス気取りになった。そこへ、南部の社員二人が駈けつけ、猟銃を持ち出しての大乱闘となるが、健が銃を奪い取ったために信二を押えつけボス風を吹かせた。信二は今日子とともに、ヨットに飛び乗り逃げた。疾走するヨットの中で、二人は愛の交歓に燃え上った。嫉妬に狂ったルミは、モーターボートで二人のヨットを追った。その眼は殺意に満ちていた。


犬だけだった「生類憐愍令」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大 した日
今日のことあれこれと・・・2006-01-28


1687(貞享2)年の今日(1月28日)、 将軍徳川綱吉の命により、犬だけだった「生類憐愍令(しょうるいあわれみのれい)」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大 した日とされている。

17世紀末、徳川綱吉政権下の数次の犬愛護令などを念頭において、「生類憐れみの令」という用語が一般に普及しているが、そうした名のまとまった法令があったわけではない。

この「生類憐みの令」について、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで殺生を禁止する法令として制定したとする説については、この最初の法令が出たとされる時期には隆光はまだ、江戸に入っておらず、現代ではほぼ否定されている。生類憐みの令の最初とされているのは、1685(貞享2)年 7月14日の 「上様御成りの道筋においても、犬猫を繋いでおくことはない」 つまり、将軍の御成の道筋に犬・猫が出ていても構わないというもので、当時、江戸では、猫はもちろん犬も放し飼いにしていたようであるが、公方さまが御成りとなれば、その道筋にノコノコと犬猫が出てこられては、町年寄や、町名主など管理不行き届きとして責任を問われるかもしれないので犬猫が繋ごうとするが、そのようなことしなくても良いといったものである。当時、江戸では、凶作の影響で大都会の江戸でも餓死者がでることがあった。老人や年老いたり病気になった牛馬を山に捨てる、あるいは生まれたばかりの赤子を他人の軒先に置く捨て子などは、日常茶飯のことであったことから、捨馬、放れ馬の禁令や,捨子、捨病人の禁令も一連の政策の重要な部分であり動物だけではなく、ヒトおも憐れみの対象としたものであった。

動物は、昔からヒと深く係わってきたが、ヒトと動物の関係の歴史を考えるとき、野鳥獣の生活環境の変化は17世紀に大きく進んでいた。ヒトによる山野沼沢の耕地が進み、動物がその耕地に実る食料を食べようとする時、ヒトが鉄砲という新しい武器で妨げることもおこってきた。同時にヒト社会の支配層、武装した多くのヒト集団による大規模な組織的な狩猟が特に野獣を大量に捕獲した。同様な狩猟の中で鷹狩りは最も頻繁に行われ、このため深山にいたるまで鷹類の巣がヒトに探索され、一面では鷹狩りの獲物を確保するため、広大な禁猟区が厳格に設定された。住民には、この日常の管理や鷹狩りの時の接待など経済的なもののほか人足駆り出しなどの負担もあり、何よりも、苦しめられたのは鳥獣の繁殖のため、区域内での狩りの厳禁から、イノシシなどが繁殖して、畑を荒らされるなど被害も多かった。この状況を綱吉政権は大きく転換させようとした。村の鉄砲の多くが没収され、大規模な狩猟と鷹狩りは中絶したが、このことは全国的にかなり大きな衝撃を及ぼしたようだ。兎に角、広大な禁猟区の規制は緩んだ。だが、野獣に対する武力を一方的に大きく削減された村住民にかわって、現在の首都公害の住宅地にあたる土地などで、幕府鉄砲隊がオオカミ討ちを展開したのも生類憐れみの時代であった。

身近なイヌ、ウマ、もヒトとの関係でその生き方に大きな変動を経験した。江戸へのヒトの密集とその生活残滓(ざんし)の大量排出とが、イヌの群生をもたらした。大規模狩猟の戦力として大名家の示威のためにも有効な動物として、西洋種大型犬が導入され、この種のイヌが珍重され、飼育犬としての性格を強めた。又、兵馬の者といわれた武士が都市居住者となっていって、ウマの飼育に自らあたることが困難になり、また、村社会でも、小規模な農業経営者が解体にむかっていった。ウマ経営を中途で放棄するものが表れるのも無理がなかった。綱吉政権の政策は、そうした状況の中で、イヌトウマの家畜動物化を推進する性格のものだったらしい。江戸の増えた野犬を収容するための、江戸近郊の喜多見・四谷・中野などの野犬収容施設は著名であり、その建設は大名御手伝をもって行われ、また諸方より資材が調達された。施設には、野犬およそ10万頭が収容され、その費用は江戸の町の負担となった。このような背景から、綱吉 が生類憐れみの志をうたった一連の政策が、綱吉政権期を特徴付けたものであり、政策の中で犬愛護策が特に喧伝(けんでん)されるのは、様々な綱吉批判派によってその奇態性が強調されたことによると言われている。違反者には極刑が科され、動物をしいたげることを極端に禁じた悪法と評されることが多いが、当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという分析があるそうだ。

それと、17世紀、綱吉よりも前の徳川家光の時代に描いた「江戸図屏風」には、大規模な鷹狩りと、解体した猪肉をぶら下げた武士が描かれており、又、以下参考の「日本における肉食の歴史」を見ると分るように、1643(寛永20)年、家光の時代に書かれた代表的な料理書「料理物語」のなかに「鹿:汁、かいやき、いりやき、ほしてよし。狸:汁、でんがく山椒みそ、猪:汁、でんがく、いりやき、川うそ:かいやき、すい物、でんがく、いぬ:すい物、かいやき」と肉料理の仕方を伝えており、跋文の後に食物の格付けが記されており、獣類の中に「中食の分」として「狗(いぬ)肉」との記述が見られる。さらに、犬の味は一白、二赤、三黒、四ぶち、五虎、六灰の順でよいといっているという。この様に江戸時代には、他の東アジア諸国と同様に、我が国も少なくとも江戸など関東においては、食犬文化もしっかりと存在していたようである。この時代には、支配者層に広く儒教が広まり、仏教から開放されたことも肉食の文化を支えたに違いない。

しかし、肉食を穢れとする観念は、遠くは「延喜式」(927年)の文章をもうけながら、特に室町期に、有力神社の物忌みの規定が整えられる中で強化されていった。綱吉の生母桂昌院は京都の生まれで、お付きの侍女も肉食を穢れとする関西の人間が多く、そういう環境の中で育てられた綱吉は関東の肉食文化を忌み嫌っていたと思われ、17世紀の綱吉の施策を支えたのであろう。徳川綱吉の政権が上野寛永寺や芝増上寺などの参詣奉者などに鹿、猪を食してはならないとしたのは1688(元禄元)年のことである。全国支配者の立場で、肉の食穢を告げた例であるが、生類憐れみの令の中でも在村鉄砲の強い統制策は、肉食穢れ感に立脚していたといわれる。農作物を荒らす猪・鹿を打ち殺してもその肉の食用を禁じ、猟師身分のものだけにこれを認めた。つまり、つまり猟師身分への賤視観念の強化がこれに伴っていたといえる。そのような綱吉の当時の食文化を切り捨てるような政策に反抗する者は当然多かっただろう。 綱吉は死の間際に「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げたというが、綱吉の死後、1709(宝暦6)年、新井白石が将軍家宣(綱吉の甥で、養子となる)の補佐役となると真っ先にこの法令を廃止した。

そして、文化・文政頃(1804年~1830年)になると、オランダ医学の輸入で、肉食が体によいことが知られたことなどから、「ももんじい屋」が現れる。そこでは、イノシシ、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、タヌキ、サル、カワウソ等が売られていたという。おおっぴらには肉食が認められていないのにもかかわらず、現在のようにウシ、ブタ、トリばかりを食べているよりも、ずっと多種の肉を食べていたことになる。

正式に、肉食が解禁されたのは、1871(明治4)年のことである。西欧列強との外交のため、明治政府はフランス料理を宮中の正式料理に採用した。1872(明治5)年1月24日、明治天皇が宮中で自ら牛肉を食べて国民に示したそうだ。このことは、私のブログ、今日(1872年1月24日)は、「明治天皇が初めて牛肉を試食 された日」で書いた。
人と動物の関わりの歴史
へーベルハウス


日本女子大学大学院後期博士課程 尾崎裕子

動物の分類

私たち人間の生活は今も昔も、多くの動物たちの暮らしと関わってきました。人と動物との関係を考えるとき、動物は大きく2つにわけることができます。1つ目は、自然に山野で生育する野生動物です。そして2つ目は、繁殖、給餌などを人間の完全な支配下におかれた家畜です。さらに家畜のなかでは、人の共同社会の経済的利潤を目的として飼養されてきた牛、豚、鶏といった産業動物と、家庭で飼育される愛玩動物(ペット)とに分類できます。

共生の始まり

人と動物の共生で最も古いのは、犬の祖先であるオオカミとの共生で、約3万年前にはじまったと考えられています。これは、オオカミが人から食物をもらい、人の住居に近づく他の猛獣に対し吠えるという、お互いにほぼ対等に利益のある共生関係でした。この関係は、その後家畜化された犬が人の狩猟を助けることでさらに強まっていきます。
人間の身近な動物は、羊は1万2000年前、山羊は1万年前、牛や豚は9000年前、馬、鶏は5000年前、ロバ、ラクダもそれに近い頃、それぞれ家畜化が始まったとされています。

犬の歴史

なかでも犬は家畜として長い歴史を持ち、旧石器時代末期の北イスラエルの遺跡で発見された犬の遺骨は、約1万2000年前にさかのぼるものだといわれてきました。ここでは、人と犬がともに埋葬された形跡があり、両者の絆を物語るように、人の腕が犬の肩に置かれていました。その後も、より古い化石が次々と発見されています。イエイヌ(Canis Familiaris)となった犬の遺骨は、ロシアやアメリカ、ヨーロッパなどから発見されていますが、西アジア周辺から発見されたものが多いので、犬の家畜化はこのあたりで始まったものと考えられています。その後、人間が選択的繁殖を行い、現在では400種以上にのぼる品種が作られており、猟犬、牧羊犬、番犬、軍用犬、警察犬、盲導犬など、多くの用途に使われています。 日本における動物との関わりにおいては、約1万年前の縄文時代に犬が唯一の家畜として、縄文人と共に広く生存していたのが始まりと考えられています。その後、6~7世紀には支配階級の猟犬、番犬の役割を担っています。
徳川政権成立期頃、諸大名で西洋種大型犬を飼育する例がよく見うけられたのは、猟犬として、番犬として、あるいは権威を誇示するためでした。江戸時代中期、5代将軍綱吉の『生類憐れみの令』は歴史上有名なものです。これは1685年(貞享2年)7月14日、「将軍御成の際 犬猫を繋ぐには及ばず…」と出されたものが始まりといわれ、その後20余年にわたり、次々と法令が出されていきます(表のとおり)。1697年(元禄10年)当時、幕府が設置した中野・大久保の犬小屋に収容された犬は、4万8000頭程度で、その他野犬なども含めると100万近い人口の江戸で、犬の数は1割を超えていたといわれています。また江戸時代後期には、小型犬の狆(チン)が室内犬として珍重され、江戸の町では狆専門の獣医もいたといいます。

猫の歴史

犬と並んで愛玩動物として代表的な猫は、家畜化されたのは約4000年前のエジプト時代にさかのぼりますが、それがエジプト以外の地域に流出したのは紀元後のことです。日本に入ってきたのは、奈良時代初期か、その少し前のことであろうとされています。その後、支配者層の、とくに女性たちの間で、愛玩動物として飼育され、次第に繁殖するにつれ、一般へと広がっていきました。

その他の動物

金魚、小鳥、鈴虫といった他の小動物も、近世の日本ではひろく飼育されています。金魚は室町時代に中国より渡来し、当初は貴重で高価であったため、支配階級や富裕層で観賞される対象でしたが、江戸中期の元禄時代になると上方や江戸といった都市では、一般大衆の間で飼育が大流行しています。

日本の動物観

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、布教のため来日していた、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは1585年、当時の日本の風俗とヨーロッパの風俗とを比較した『ヨーロッパ文化と日本文化』を著しました。そのなかで、「われわれの間では人を殺すことは怖ろしいことであるが、牛や牝鶏または犬を殺すことは怖ろしいことではない。日本人は動物を殺すのをみると仰天するが、人殺しは普通のことである。」と、日本とヨーロッパの文化の違いを克明に指摘しているように、多神教、仏教思想や農耕生活の影響から、日本では独特の動物観が形成されてきました。

愛玩動物の飼育

愛玩動物の飼育とは、先進国の人々の生活が豊かになることによってもたらされた新しい現象ではなく、貧富の差、年齢、性別、人種や社会の発展とは関係なく、あらゆる人間に人気のある広範囲にみられる、人間社会に深く根ざした現象といえるでしょう。しかし、珍しい愛玩動物に費用をかけるというのは、基本的には一部の富裕層にすぎませんでした。人と動物の関係は、時代により違いはありましたが、日本では欧米文化が入ってきた明治時代以降、一般の人々が飼育するというスタイルが生まれたといえます。
動物と暮らす長い歴史を持ってきたことは、そこに生活の必要と価値を見出してきたからであるといえます。現代の日本における動物の飼養は、食用などのための畜産動物として、伴侶動物として、使役動物として、ステイタスシンボルとして、投機的財産として、医学等の研究のため、観光、興行等のため、社会福祉などのため、とさまざまな目的があります。
動物を飼育するという動機は、以前は明らかに、人間に実益をもらたすことであったのが、現在では精神面からの欲求からという場合が増えており、いろいろな理由から動物と暮らすことが生活の中に非常に求められる時代となってきています。


ヴェネツィアのサンマルコの鐘楼
ヴェネツィアの獅子たち 2007.02.14


ヴェネツィアをはじめて訪れる多くの人は、まず大運河を船で通ってサンマルコ広場を目指します。 そこには、この街で欠かすことのできない見どころ-サンマルコ寺院、総督宮殿、そしてこのサンマルコの鐘楼があるからです。 高さ98.6m、緑色の角錐の尖塔を持つこの鐘楼は、今も昔もこの街のシンボルで、エレベーターで上まで登りつめると、ヴェネツィアの街が360度のパノラマで一望できます。

この塔はもともと航海用の見張り台として、888年に着工され、1510年に尖塔部分、1517年には、てっぺんに木製の金箔でおおわれた天使像が取り付けられたということです。 その間も地震、とりわけ雷による火災や部分的な崩壊のため、再建や改築工事が何度も行われてきました。

中には5つの鐘がつるされていて、それぞれに名前もあります。共和国時代には、仕事時間を告げる鐘、議員の招集の合図のための鐘、死刑執行を知らせる鐘などと、役割も分かれていました。

1902年7月14日午前9時50分サンマルコの鐘楼は、立ち続けるのに疲れたとでもいうように、突然崩れ落ちてしまい、5つの鐘のうち「マランゴーナ」という名前の、仕事時間の開始と終了を告げる鐘だけが生き延びました。幸い犠牲者もなく、すぐに再建が始められ、10年後の1912年4月25日のサンマルコの祝日にその完成を祝いました。

ガリレオも、当時のDOGE(ドージェ=総督)に望遠鏡を披露するため、この塔に登ったといいます。 現在は、鐘楼のエレベーターの前にはたいてい行列ができていますが、少し辛抱して上がってみてください。ヴェネツィアがラグーナに浮かぶ島々だ、ということをきっと実感できると思います。


時事斜断 「サンブラスの輝かしい夜明け」
日系ジャーナル 2008-02-15


2月3日はパラグアイの鎮守神サンブラス(San Blas)の聖日である。その前の2日はカンデラリアの聖燭節(Candelaria/聖母マリアが受胎告知を受けた2月2日)で、カトリック教会は恒例の各礼拝ミサを行うのが習わしである。

然し、パラグアイ近代史に刻まれた1989年の2月2日の夕刻から 翌3日の早暁にかけては、当時パラグアイで何人すら思いもよらぬ大事件が起きたのである。つまり、約35年間も非道な原始的圧制政治の下に、国民を長らく悩ませた思想的にも時代遅れのストロエスネル政権が、お互いの息子・娘夫婦の親同士(Consuegros)の関係だったアンドレス・ロドリゲス騎兵中将の率いる反乱軍の決起に依って意外に脆くも崩壊したのであった。

絶対権力を一身に集めたアルフレド・ストロエスネル大統領にしては実にアッケない結末では あったが、この蜂起が長期の内乱にまで発展しなかったのは幸いであった。それと言うのも、クーデターの舞台となった大統領親衛連隊の兵隊達の多くが、恰(あたか)も前述の宗教祭の休みに非番で外出していた処を狙ってチャコ(セリート基地)の騎兵機械化部隊が出動して襲った為であるが、それでも200人とも300人以上とも云われる将兵が(ついぞ公式な発表は無かったが)、激しい銃撃戦で死傷した。急を知って親衛連隊内の参謀本部に長男グスタボその他と共に避難したストロエスネル大統領は、そこで戦闘服に重武装した決死のリノ・オビエド大佐(当時)に降伏を求められ、最初は一度自宅へ戻り、後はその足で騎兵連隊へ行くことを望んだが、実際はアンドレス・ロドリゲス将軍が反乱軍の指揮を執る第一軍団司令部に保護され、そこで初めてストロエスネルは完全に実権を失った真相を思い知り、ロドリゲスの面前で大統領辞任状にサインした。

かくして、ロドリゲス将軍は2月3日早暁、決起軍が放送を許していた唯一の「ラジオ・プリメロ・デ・マルソ放送局」を介して、ストロエスネル打倒クーデターの目的を成功裡に成就した声明を内外に宣言したのであった。

こうして、重苦しくて息が詰まりそうに感じていた長期独裁政権の悪夢から醒めた多くの国民は、「サンブラスの輝かしい夜明け」を迎えて、正に何十年振りかで自由の空気を思う存分に胸一杯吸い込んだのであった。

パラグアイ国を我が封土の如く思うに任せ、強権を欲しい儘にして長期に亘り治めて来たストロエスネルにして見れば、“飼い犬に手を噛まれた”思いで甚だ無念の極みだったろうと察せられる。

第一軍団司令部で抑留中、最初ロドリゲスは近隣国では後々が面倒なので、第一案としてアメリカのマイアミを亡命先に充てる考えだったらしいが、ストロエスネルは“イングリッシュが出来ない余を英語圏に追いやって如何(どう)する積もりだ”と反対したので、結局は昔からストロエスネルと関係の深かったブラジルが選ばれ、クーデターの2日後の5日午後3時半には、旧パラグアイ航空LAPの特別機でブラジルへ追放された。

磐石の政権の座から滑り落ちた為政者の哀れな末路である。思うに功罪相半ばするストロエスネル政権ではあったが、一番の問題はその専横政治の“民衆暗愚化”の下で有意の後継人材が育たなかった、又は“出る杭は打たれた”事である。その余りにも長すぎた独裁政権が残した後遺症の影は、ストロエスネル失脚後のロドリゲス、ワスモシ、クバス、ゴンサレス・マキや現ニカノル・フルトスの各歴代政府の代になっても未だに完全には拭い切れず、惰性的に民主政体へ移行の“試行錯誤”を続けているのである。

かっては飛ぶ鳥も落とす勢いを誇ったストロエスネル政権が崩壊してから既に19年の歳月が流れた。伯国ブラジリア市で長男グスタボ元空軍大佐に付き添われ、寂しい亡命生活を送っていたストロエスネルは、夫人ドーニャ・エリヒアの葬儀の際にも帰国は許されず、一度もパラグアイの地を再び踏む事はなく、ついに2006年8月16日に老衰で94歳の生涯を終えた。

革命政府の初代大統領を務めたアンドレス・ロドリゲス将軍(大将に昇進)も、アメリカで1997年に結腸癌の手術の経過が悪くて死亡した。享年74歳だった。(一説には、CIAやFBIからパラグアイ麻薬カルテルや密輸団の首領と睨まれていた為に体よく始末されたものとも云われている)。

今年は閏年(うるうどし)で、パラグアイ新時代の「輝かしい幕明け」より19年目に当たる。物識りに依ると過去毎閏年には珍しい事が多く起こっていると云う。干支では子年で中国の人達は縁起が良いと云う。となれば来る4月20日の全国総選挙戦では新進の最も信望に値する次期大統領が選ばれ、8月15日に予定の政権交代では、これ迄にポスト・ストロエスネルの歴代政府が完遂出来なかった懸案の政体改革を、今度こそは成し遂げ得る新民主政権の誕生を是非とも望みたいものである。


鹿児島市で住宅およそ50平方メートルが全焼する火事 けが人なし
FNNニュース 2011年8月16日


鹿児島市で15日、住宅1棟を焼く火事があった。この火事によるけが人はいなかった。
15日午後3時すぎ、鹿児島市○○の○○さん宅から「煙が出ている」と、隣に住む人から119番通報があった。
火はおよそ1時間後に消し止められたが、木造平屋建て住宅およそ50平方メートルが全焼した。
○○さんは1人暮らしで、出火当時は外出していたということで、この火事によるけが人はいなかった。
警察と消防で、火事の原因をくわしく調べている。


日本人女性、ナイアガラの滝に過って転落
朝日新聞 2011年8月16日


世界三大滝の一つで米国とカナダの国境にあるナイアガラの滝で14日夜、トロントの語学学校に通っていた日本人留学生とみられる女性(19)が過ってカナダ側の滝に転落し、行方不明になった。地元警察が15日、明らかにした。

 在トロント日本総領事館は警察からの連絡を受け、日本の外務省を通じて、女性の家族と連絡を取ろうとしているという。

 地元メディアに寄せられた目撃情報などによると、女性は写真を撮ってもらおうとして、滝の展望台にあった鉄柵にのぼり、バランスを崩して滝の約25メートル手前の川に落下。そのまま滝にのまれたという。


文化財が亡くなった日室
ウオーキング、歴史


670年4月30日=法隆寺落雷で全焼       
855年5月23日=東大寺大仏殿の頭、地震で落ちる
1148年5月15日=橘寺の五重塔落雷で焼失
1161年12月17日=出雲大社倒れる
1257年3月15日=五条大宮殿炎上
1259年6月14日=閑院内裏が焼ける
1280年4月14日=大和長谷寺焼失
1296年3月8日=鶴岡八幡宮焼失
1297年5月10日=富小路内裏が焼失
1361年6月24日=地震で四天王寺金堂転倒
1421年11月12日=円覚寺焼失
1425年7月27日=南禅寺落雷で焼失
1436年7月27日=東寺に落雷
1445年7月6日=京都、奈良大風雨で薬師寺金堂崩壊
1502年6月11日=大和西大寺炎上
1508年3月24日=石清水八幡宮炎上
1508年4月18日=東大寺講堂焼失
1517年9月13日=知恩寺炎上
1521年3月20日=高野山、金剛峯寺炎上する
1579年2月25日=四天王寺の鳥居崩れる
1665年1月2日=大坂城天守閣落雷で全焼
1808年4月11日=等持院3回目の火災で焼失
1821年1月17日=鎌倉鶴岡八幡宮焼失
1861年12月7日=江戸三田の薩摩藩邸焼失
1862年2月7日=人吉藩領内で大火で相良頼基居城の人吉城焼失
1881年10月30日=岐阜県岩村藩主邸失火で焼失
1902年1月28日=愛知県の祐福寺の多宝塔焼失
1905年8月15日=現堺市の大鳥神社の本殿焼失
1911年1月12日=奈良県、現桜井市の長谷寺で講堂、奥之院、焼失
1916年5月10日=長野県上高井郡の清水寺の大日堂、三重塔焼失
1929年3月18日=京都、竜安寺の塔頭の西源院焼失
1934年9月21日=京都、下賀茂神社の国宝の桜門西回廊、室戸台風で倒壊、本殿は軽い損傷
1943年1月16日=大阪の通天閣炎上(閣下の映画館大橋座の火災で類焼で)2月13日に解体された。
1944年7月21日=奈良県斑鳩の法輪寺の三重塔落雷で焼失
1945年3月14日=浅草寺戦災で焼失
1945年5月14日=愛知県名古屋市の国宝名古屋城天守閣、本丸戦災で焼失
1945年7月9日=和歌山県和歌山市の国宝和歌山城天守閣、本丸戦災で焼失
1945年7月10日=宮城県仙台市の国宝伊達政宗の霊廟の瑞鳳殿戦災で焼失
1945年7月29日=岐阜県の国宝大垣城が戦災で焼失
1945年8月6日=広島県広島市の国宝広島城原爆投下で焼失
1448年8月18日=大風雨で瀬田橋落ちる
1949年2月27日=愛媛県松山市の松山城で火災、国宝の筒井門と東西続櫓焼失
1949年3月26日=滋賀県大津市の延暦寺五智院が火災、国宝の本殿、釣鐘堂焼失
1949年6月5日=北海道松前町の国宝の松前城天守閣、本丸御門東掘焼失
1957年7月6日=東京谷中の五重搭焼失
1976年1月6日=京都、平安神宮放火され本殿焼失
1976年1月30日=神戸市天上寺焼失
2003年3月8日=京都府亀岡市の千手寺の裏山が崩れて千手観音の腕右手十数本折れる
2008年5月23日=大阪府吹田市岸部、吉志部神社、本殿を放火で焼失
2008年10月29日=18時55分、福島県今津高田町、伊佐須美神社放火で焼失


いよっ 日本一!
NHKアーカイブス 2006年8月16日


日本全国津々浦々、様々な日本一がある。少子化の今、全国で唯一、出生率が上がった県には働く女性が子育てしやすい環境があった。出生率アップ日本一の地域の魅力を発見。
全国津々浦々にある、さまざまな日本一。その地域の魅力をひもとく番組が「いよっ日本一!」。現在、日本の出生率は1.25。少子化で出生率が下がるが、唯一、増加した県には子どもの医療費の軽減やおばあちゃんによる育児相談など、子育てを町ぐるみで支える姿があった。働く女性に子育てできる環境をつくってきたことが出生率アップの理由か。関連するさまざまなデータをもとに出生率アップ日本一のふるさとの魅力に迫る。


米東海岸でM5.8の地震 原発停止、首都も騒然
CNN. co.jp 2011.08.24


米東海岸で現地時間の23日午後1時50分ごろ、首都ワシントンに近いバージニア州を震源とするマグニチュード(M)5.8の地震が発生した。この影響で同州の原子力発電所が運転を停止したほか、ワシントンやニューヨークでは建物から人々が避難したり観光地への立ち入りが一時禁止されたりするなどの影響が出た。死者や重傷者、建物の大きな損壊などは確認されていない。

震源地は首都ワシントンから約141キロ南西のバージニア州ミネラル付近で、震源の深さは約5.9キロ。米地質調査所(USGS)によると、東海岸で起きた地震としては1944年のM5.8の地震24 件、1897年のM5.9の地震24 件と並び過去最大級だという。続いてマグニチュード2.8と2.2の余震も発生した。

地震24 件の影響でワシントンでは政府機関などの建物から職員らが一時避難し、歴史的建造物も一時的に立ち入りが禁止された。国立公園局は中心部にあるワシントン記念塔をヘリコプターで点検し、構造に異常がないことを確認した。携帯電話は通話が殺到してつながりにくくなった。

バージニア州では学校の建物に被害が出たり屋根の煙突が倒れたりするなど一部損壊の通報が相次ぎ、軽傷者も出ている。震源に近いノースアナ原子力発電所は、地震で電力の供給が止まり運転を停止したが、放射性物質の流出はなかったとしている。現在は電力の復旧作業を進め、原子力規制委員会(NRC)が状況を監視している。

ニューヨーク州からノースカロライナ州にかけての一帯でも人々が建物から避難し、主要空港は一時的に運航を停止。ニューヨークのケネディ国際空港などでは管制官が避難したが、その後通常通りの運航を再開した。東海岸では地震に慣れていない人が多く、地震の揺れをトラックやヘリコプター、爆発物などによる振動と思った人も多かった。


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