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歴史 第一部 ラッセルとエホバの証人の起源
エホバの証人情報センター


2)ラッセルの独立とものみの塔宗教の芽生え

しかしこのラッセルとバーバーの二人の連携も長続きはしなかった。キリストの贖罪に関する教義の違いからこの二人は袖を分かつことになる。ラッセルはバーバーの発行していた「朝の先ぶれ」(Herald of the Morning) を全面的に資金援助していたが、1879年、ラッセルは新たに自分の主宰する雑誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」(Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence) を創刊した。これこそが現在まで続く「ものみの塔」誌の始まりなのである。この二人はその後お互いの読者を自分の雑誌に引き込むため、昔の友は今日の敵よろしくお互いの非難をくりひろげることになる。

興味深いことは、このものみの塔宗教の揺籃期に、その創始者のラッセルは自分の宗教が将来において大きく拡大した組織になって続いていくことを考えていなかったことが、彼の書いたものに示されていることである。当時のラッセルの関心は身近に迫ったこの世の終わりと、自分たちを含む14万4千人(黙示録7章、14章)が霊的な存在として神に取り上げられる(テサロニケ第一4:17)ことにあり、その先のことまで計画していた様子はうかがえない。

しかしこのことが起こると予想された1881年が何事もなく過ぎ去る頃から、ラッセルの態度は徐々に変化していく。1882年、彼は三位一体を否定する教義を前面に打ち出し、再臨派を含む既存のキリスト教教派から完全に訣別する。1880年代は彼の宗教の成長期であった。おびただしい数の本、雑誌が出版され、伝道活動は広範に広がっていった。ラッセルはラッセル牧師と呼ばれ、彼の主著である6冊の「聖書研究」は1886年から1904年までに次々と出版された。そして1884年、現在の「ものみの塔聖書冊子協会」の前身である「ペンシルバニアものみの塔聖書冊子協会」が法人組織として確立され、ここに組織化された宗教としてのものみの塔宗教の基礎が確立されたのである。精力的なラッセルの伝道活動は実を結び信者の数は着実に増え続けた。


ジェフ・ゴールドブラム「死んでない!」との声明を発表
海外ドラマ情報・ニュース サイト TVグルーヴ・ドット・コム 2009/06/26


映画「ザ・フライ」「ジュラシック・パーク」など、ビッグ・スクリーンで活躍しているほか、数多くの人気Tドラマに出演し、現在「Law & Order:Criminal Intent」にレギュラー出演している、ジェフ・ゴールドブラムが、アメリカ現地時間6月25日に死亡したとのニュースがネットで流れましたが、誤報であることが明らかになりました。

25日は、「チャーリーズ・エンジェル」のファラ・フォーセットと、マイケル・ジャクソンの2大スターが他界しており、マイケル急死のニュースが流れた直後に「ジェフ・ゴールドブラムも滞在先のニュージーランドで死亡した」とリポートされたのですが・・・・・・

ジェフの広報は「全くの誤報で驚いている。ジェフはロサンゼルスにいるし、元気だ」との声明を発表。

あれっ?と思った方も多いと思いますが、「ジェフがニュージーランドで亡くなった」説は1999年にも流れています。誰が、何のために流しているのか謎ですが、本人は気分わるいでしょうね。

有名になると、突然死亡説が流れたりするもので、ここ1年で女優のウィノナ・ライダー、歌手で女優のコートニー・ラブ、喜劇俳優のウィル・フェレルらが「亡くなった」との噂を流されています。

それにしてもマイケル・ジャクソンはまだ50歳。7月にはロンドンでラスト・コンサートを行う予定で、会見では「I see you in July」「I love you. I really do.」と語り、ファンを大喜びさせていたというのに、本当に残念です・・・・・・


足利尊氏 誕生から鎌倉幕府滅亡まで
ウィキペディア


正慶2年/元弘3年(1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。


足利義詮
よろパラ ~文学歴史の10~


父:足利尊氏、母:赤橋登子。

<元徳2(1330)年>
 6月18日、誕生。幼名・千寿丸。

<元弘3(1333)年>
 4月、北条高時から後醍醐天皇らの反・鎌倉幕府勢力の討伐を命じられた尊氏は
     義詮を鎌倉に人質として置き出陣。
 4月29日、尊氏は打倒・鎌倉幕府を宣言。
 5月2日、義詮は家臣らの手で鎌倉を脱出
 5月8日、新田義貞、挙兵。
       義詮は200騎を率いて参加。
 5月22日、鎌倉幕府滅亡。

 鎌倉で関東を統括する。
 (補佐役に細川和氏・頼春・師氏の三兄弟が当たった)

<建武元(1334)年>
 11月、護良親王、鎌倉配流。

<建武2(1335)年>
 4月、従五位。

 7月22日、北条時行(高時の子)が挙兵。
        義詮は鎌倉から逃亡。
 8月19日、尊氏・直義兄弟鎌倉入り。
 11月、新田義貞、尊氏追討のため京より鎌倉へ下向。

<建武4(=延元2 1337)年>
 正月、義貞を破った尊氏は京へ入る。
 8月、鎮守府将軍北畠顕家が関東へ進軍開始。
 12月、義詮を中心とする鎌倉方も武蔵国で迎撃するが敗北。
 12月23日、顕家軍が鎌倉に攻め寄せたため義詮は鎌倉から撤退。

<建武5(=延元3 1338)年>
 正月2日、北畠顕家は京へ出陣。
        (顕家は5月和泉で高師直に破れ戦死)
 7月、義詮、鎌倉復帰を果たす。
 8月11日、尊氏、征夷大将軍就任。

<暦応2(=延元4 1339)年>
 8月16日、後醍醐天皇、崩御。

竹若(たけわか)  足利尊氏の長男。元弘合戦の犠牲となる。
史跡草子


『太平記』巻第十に、元弘3年5月2日に千寿王(義詮)が鎌倉大蔵谷の足利氏邸から行方不明になったことを記し、続いて、

 「爰に高氏の長男竹若殿は、伊豆の御山に御座けるが、伯父の宰相法印良遍、児同宿十三人山伏の姿に成て、潜に上洛し給けるが、浮嶋が原にて、彼両使にぞ行合給ける。諏訪、長崎生取奉んと思処に、宰相法印是非無く、馬上にて腹切て、道の傍にぞ臥給ける。長崎去ばこそ内に野心のある人は、外に遁るる辞無しとて、竹若殿を潜に指殺し奉り、同宿十三人をば頭を刎て、浮嶋が原に懸てぞ通りける」

と、伊豆山にいた高氏の長男竹若が、伯父の宰相印良遍等13人とともに山伏姿となって上洛中に、駿河国浮島が原にて殺されたと記されている。  『太平記』では「良遍」と記されているが、これは伊豆走湯山密厳院別当である足利一族加古(加子)氏出身の「覚遍」の誤記であろう。

 密厳院は鎌倉中期に足利泰氏の子覚玄が別当になって以降、泰氏子覚海など足利氏出身東密僧が別当を勤め、覚遍の後は山門僧の渋川義春息顕潤が別当となっている。


寄合衆内談の事
ウィキペディア


寄合衆内談の事よりあいしゅうないだんのこと)/rp>とは延元3年(1338年)に肥後の豪族菊池武重が制定した文書である。

当時は南北朝時代の騒乱時で、菊池氏は南朝であったが、徐々に形勢が北朝方有利に傾きつつあった。他氏でも、一族が敵味方に分かれている例が多数あり、状況の不利を悟って北朝方に降りる例も見られた。これらの事態に、自分の死後も菊池一族の結束を守るために制定したものである。

一族の方針は寄合衆と呼ばれる有力庶子家と合議して決め、その決定には惣領と言えども従わなければならないとされ、一族が血判をして同意している。

他国との関係を左右する大事な事は当主が決定するが、国内(菊池氏が治める領地)の事は合議によるものとし、当主と意見が対立した場合は当主が折れるとしている。一族の結束のための菊池氏家憲であり、武重の血判も押されてある。

血判文書としては最古のもので、菊池千本槍と共に現在も熊本県の菊池神社に保存されている。
南朝一辺倒
ウィキペディア 熊本県の歴史


その行動において「南朝一辺倒」とも評される肥後武士ではあったが、実態は必ずしも一枚岩ではなかった。この時期は、所領を嫡男に一括相続させる慣習が広まり、一見遺産の分散を防ぐこの方法は反面一族内の争いを強めてしまった。阿蘇氏は一族が南北朝に割れたが、惟直の死後大宮司に復帰していた阿蘇惟時は中立の態度を貫くことで一族の分裂を防いだ。

菊池氏も同じ問題を抱えていたが、菊池武重は氏族を纏める理念を外部に求め、曹洞宗の僧・大智を聖護寺に招いて「菊池家憲」を創った。延元3年(1338年)7月25日の日付が記されたこの家訓には血判が押され、日本最初の血判起請文とされる。これによると、重要な政治的決断は惣領が下すが、政道は寄合衆(内談衆)とよばれる一族の集団が決定するとある。しかし、翌年武重は亡くなり、後を継いだ弟の菊池武士は任に耐えられず程無く引退。さらには本拠を北朝方の合志幸隆に占領されてしまった。これは阿蘇惟澄の協力を得た庶子の菊池武光が奪還したが、菊池氏の勢力は衰退を見せていた。


米大統領、首席補佐官にデイリー元商務長官を任命
[ワシントン ロイター] 2011年 01月 7日


オバマ米大統領は、元商務長官でJPモルガン・チェース幹部のウィリアム・デイリー氏(62歳)を首席補佐官に起用した。  大統領は任命を発表した記者会見で「デイリー氏は雇用創出と景気拡大の術を知っている」と述べ、2012年の再選に向けた雇用の回復に期待を示した。

 デイリー氏は、クリントン政権下で商務長官を務め、2000年の大統領選ではゴア副大統領(当時)の選挙対策責任者を務めた。その後、SBCコミュニケーションズの社長、最近ではJPモルガン(JPM.N: 株価, 企業情報, レポート)で中西部業務担当幹部を務めていた。

 ラウズ現首席補佐官は、上級顧問職に就く。

 米国商業会議所のドノヒュー会長は「強力な人選だ。デイリー氏は政府、経済界、通商交渉や国際関係でも卓越した経験があり、傑出した人物だ」と歓迎の意向を示した。
英語で投資ことわざ by William Daley
英語で投資ことわざ 2011年01月07日


本日の英語で投資ことわざは、6日にオバマ大統領が新大統領首席補佐官への起用を発表した元商務長官でJPモルガン・チェースの取締役のウィリアム・デイリー(William Daley)氏の過去の言葉を紹介させていただきます。

“There is no question of the benefits
that opening a market of a billion people
will bring to American businesses.
But as I said last year, this will test China
and the world trade system. ”

10億人規模の市場を解放することが米企業に利益をもたらすことは疑いもない。昨年話したように、これは中国と世界のトレード・システムのテストとなるだろう。

ウィリアム・デイリー(1948年8月9日~)は、1997年~2000年にクリントン政権下に商務長官を務め、現在は、JPモルガン・チェースの取締役を務めています。

本日の記事でも書かせていただきましたが、19日に中国の胡国家主席が訪米する前に、6日、中国政府は、JPモルガン・スタンレーとモルガン・スタンレーに中国企業とのジョイント・ベンチャーを創設し、中国での証券引受業務を行うことを容認しました。

このこととは、米中関係に関して必要以上に悪い思惑が出にくい状態にする効果があることが見込まれます。

ところで、デイリー氏は、2010年10月にラーム・エマニュエル氏がシカゴ市長選への出馬に伴い辞任するのを受けて、後任を務めていた日系人のピート・ローズの後を引き継ぐ形となります。

デイリーは、21年間(1955年~1976年)にシカゴ市長を務めたリチャード J. デイリー(1902-1976年)の7人の子供の7番目の子供として生まれました。

リチャード J.デイリーは、誰もが認めるシカゴの民主党のボスであり、最後のbig city bossと言われる人物で、1960年にケネディ大統領、1968年にヒューバート・ハンフリー大統領を支持することでイリノイ州での勝利に導くなど、歴史的にも民主党において大きな役割を担ってきました。

また、リチャード J. デイリーの息子であるリチャード M. デイリーは、1989年にシカゴ市長に当選して以来市長を務め、街全体を公演のように美しく整備し、また、教育制度における改革も評価され、99年にクリントン大統領が公共教育の改善をモデル・ケースとして称賛するという功績を持ちますが、シカゴ市長として過去2番目に長い任期を記録しています。

ただ、来年2月のシカゴ市長選への出馬は断念する意向を表明しています。

更に、イリノイ州の元州議員のジョン P. デイリーも、ウィリアム・デイリーの兄です。

ウィリアム・デイリーは、シカゴのロヨラ大学を卒業し、ジョン・マーシャル法律学校で法学士の学位を取得しました。

政治面でのキャリアは、1993年にクリントン政権時代に、NAFTA(北米自由貿易協定)を通過させるために必要な問題を協議する大統領の特別委員会に参加しました。

前述のように1997年~2000年にクリントン政権下で商務長官を務める一方、2000年の大統領選では、ゴア副大統領(当時)の選挙対策責任者を務めるために辞任しました。

2008年の大統領選挙のための民主党の予備選では、オバマ大統領の主要な支持者となりました。

2008年11月5日、デイリーは、オバマ-バイデントランジション・プロジェクトの諮問委員に任命されました。

1977年~1980年に経済機会諮問評議会(NACEO)の委員になった期間を除いては、基本的に法律事務所“Daley and George”で弁護士をしていました。

1989年~1990年、デイリーは、Amalgamated Bank of Chicagoの初代副会長、社長、そして、1990~1993年はCEOを務めました。

1993年~1997年は、世界有数の弁護士事務所である“Mayer Brown”で共同経営者を務めます。

1997年~2000年、クリントン政権下で商務長官を務めます。

2001年12月、SBCコミュニケーションズの社長を務め、会社のイメージ改善に貢献しました。

2004年5月、JPモルガン・チェースとバンク・ワンの合併後の事業展開を中西部部門の会長として監視しました。

現在は、ボーイング、メルク、ボストン・プロパティーズ、ロヨラ大学の役員も務め、ノーザンウェスタン大学の理事であり、外交問題評議会(CFR)のメンバーでもあります。


吾妻鏡 1189年 (文治5年) 12月9日
鎌倉・北道倶楽部


・・・・今日永福寺の事始めなり。奥州に於いて泰衡管領の精舎を覧せしめ、当寺華構の懇府を企てらる。且つは数万の怨霊を宥め、且つは三有の苦果を救わんが為なり。抑も彼の梵閣等宇を並べるの中、二階大堂(大長寿院と号す)有り。専らこれを模せらるるに依って、別して二階堂と号すか。


永福寺(ようふくじ)
銭形平次・源義経・内田康夫・岩手の名所・古代史・紫波町


1189年(文治五年)
12月9日 甲午  永福寺造営の事始
 今日永福寺の事始めなり。奥州において、泰衡管領の精舎を覧(み)しめ、當寺花構の懇府を企てらる。かつは数萬の怨霊を宥(なだ)め、かつは三有の苦果を救はんがためなり。そもそもかの梵閣等、宇を並ぶるの中に、二階大堂(大長寿院と号す)あり。専(もつぱ)らこれを模せらるるによつて、別して二階堂と号するか。梢雲挿天の碧落を極むること、中丹の謝より起り揚金荊玉の紺殿を餝(かざ)ること、あまりさへ後素の図を加ふ。その濫觴(らんしやう)をいはば由緒無きにあらずと云々。

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1189年(文治五年)からおよそ60年後の宝治二年二月五日の「吾妻鏡」。
1248年 (宝治2年 戊申)
2月5日 癸未

 永福寺の三堂修理の事、去る寛元二年七月にその沙汰に及ぶと雖も、日来頗る懈緩な り。而るに左親衛明年は二十七歳の御慎みなり。当寺を興行せらるべきの由、霊夢の告げ有るに依って、殊に思し食し立つ。
当寺は、右大将軍文治五年に伊豫守義顕を 討ち取り、また奥州に入り藤原泰衡を征伐して、鎌倉に帰らしめ給うの後、陸奥出羽の両国知行せしむるの由勅裁を蒙らる。これ泰衡が管領の跡たるに依ってなり。而 して関東長久の遠慮を廻さしめ給うの余り、怨霊を宥めんと欲す。義顕と云い泰衡と 云い、指せる朝敵に非ず。ただ私の宿意(長い間の恨み)を以て誅亡するが故なり。よってその年内に 営作を始めらる。随って壇場の荘厳、偏に清衡、基衡、秀衡(以上泰衡が父祖)等の 建立する平泉の精舎を模されをはんぬ。その後六十年の雨露月殿を侵す。明年は、義顕並びに泰衡が一族滅亡の年の支干に相当たる所なり。


子ども手当法が成立 今年6月から支給へ
日テレNEWS24 2010年3月26日


民主党のマニフェストの目玉「子ども手当」を来年度に支給する法律が26日の参議院本会議で可決、成立した。

 参議院本会議で、自民党は「子ども手当は選挙目当てのばらまきだ」などと反対したが、与党に加え公明党、共産党などの賛成多数で子ども手当法は可決、成立した。

 子ども手当法は来年度、中学生までの子供一人当たりに月額1万3000円を支給するもので、政府は今年6月から支給を開始する方針。


韓国軍艦「天安」沈没の深層
田中宇の国際ニュース解説 2010年5月7日


韓国民の多くはすでに、天安艦事件に関する政府の発表を信用できなくなり、何か裏があると感じている。米国では911事件の深層がなかなか事実としてみなされないが、韓国では、ペンニョン島の第3ブイの下に米潜水艦が沈んでいることが、今後いずれかの時点で「陰謀論」から「事実」に変わるかもしれない。韓国が対米従属を国策とする限り、第3ブイの秘密は隠蔽されねばならないが、国是が多極化対応(中国重視、南北共存)の方向に変われば、隠蔽が解かれるだろう。


北朝鮮で地方選挙を実施、投票率約100%、当選率100%
AFPBB NEWS 2007年07月31日


北朝鮮で29日、道・直轄市・市・区域・郡の地方人民会議代議員選挙が行われた。その結果、投票率は99.8%、当選率が100%であったと、国営朝鮮中央通信社(Korean Central News Agency、KCNA)が30日、中央選挙管理委員会の発表として報じた。当選したのは公務員、労働者、農業従事者や知識人など2万7390人。

 KCNAは今回の選挙について、「金正日(Kim Jong-Il)総書記率いる北朝鮮政府の岩のように硬い団結力を示す重要な機会となった」と述べ、また「有権者は革命的情熱を持ち、朝鮮労働党の『先軍政治』の下で強化された人民政府の力を今一度示した」と評した。

 「先軍政治」では、一般市民よりも、110万人規模の軍の需要が優先される。北朝鮮の実質的権力は金総書記と朝鮮労働党が握っており、4年ごとに改選される最高人民会議(議会)では、事実上、党の決定を承認するだけとなっている。


炭鉱でガス爆発 死者25人、行方不明141人
「人民網日本語版」2004年11月29日


陝西省銅川市で28日午前7時ごろ、同市鉱務局の陳家山炭鉱で大規模なガス爆発が起きた。現在までに炭鉱作業員のうち127人が救出され、25人の遺体が確認された。行方不明者は141人に上る。

救出された炭鉱作業員のうち43人は病院で手当てを受けており、うち11人は重傷。

今回の事故は、過去10年に起きたガス爆発事故の中でも最大規模だ。同炭鉱の作業員の出身地は主に、同川市のほか、陝西省南部や河南省、安徽省 江蘇省など。

同炭鉱では2001年春にもガス爆発事故があり、38人が死亡した。


小串鉱山跡 犠牲者245人を追悼 群馬県の上毛新聞の記事
ミチコの部屋 2006年7月23日


群馬・長野県境の嬬恋村「小串鉱山跡」で7月23日、 土砂崩れ事故犠牲者の七十回忌法要と閉山35周年記念の集会が開かれ、 事故の遺族ら約150人が犠牲者の霊を慰め、旧交をあたためた。

1937(昭和12)年11月、硫黄を採掘していた同鉱山を土砂崩れが襲い、245人が犠牲になった。 事故現場近くに地蔵堂を建立し慰霊してきた小串御地蔵堂慰霊の会(阿部松雄会長)は 事故から七十回忌の節目になることから、全国の遺族や旧社員に呼びかけ、法要を行うことになった。

法要では、僧侶の読経の流れる中で黙とう、焼香が行われた。 松本先嬬恋村長は 「ここから見る嬬恋村が一番雄大な眺め。 キャベツで有名になる前の寒村にとって鉱山は村の最大産業だったことを村民は忘れていない」 と追悼の言葉を贈った。

遺族代表の井川ミエさん(78)=北海道苫小牧市=が 「亡夫が小学一年の時、父親の勝太郎さん(当時34歳)が、北海道から単身赴任していて犠牲になった。 その後、夫の願いで終しゅうえん焉の地を訪ねたいと探したが、その思いはかなわず他界した。 夫に代わってやっと手を合わすことができた」と謝辞を述べると、涙ぐむ遺族の姿も見られた。

昼からの「閉山35周年の集い」では、旧社員らが 「しばらくでした」「元気でお変わりなく」など声を掛け合いながら閉山後の生活ぶりなどを語り合っていた。


西洋キリスト教史3
京都大学歴史研究会 1997年12月12日


<はじめに>
 最近マニアックなレジュメが多いなか、唯一分かりやすいテーマを取り上げて大好評を得ているこのシリーズも第三回を迎えました。前回の終りで四回完結のシリーズにすると発表しましたが、 氏のわがままによりアイルランドヘのキリスト教の伝播を扱ってしまったため、予定がずれてしまいました。したがってシリーズ完結迄には5,6回かかりそうです。苦情は 氏の方にお伝え下さい。それでは十字軍の遠征を中心に中世キリスト教の世界を見ていくことにしましょう。

<叙任権闘争の決着>
 ウルバヌス二世の後、1099年にパスカリス二世が教皇位を継いだ。その頃ドイツではハインリヒ四世親子の対立が深まって、叙任権どころではなかったが、1105年ハインリヒ四世が譲位を強制され、ハインリヒ五世が位につくと、叙任権問題が再燃した。ハインリヒ五世は陰謀によって教皇を捕らえ、都合のよい協約を押しつけたが、これには各所から多くの非難が上がり、協約は破棄された。その後も皇帝と教皇の対立は続いたが、ハインリヒ五世は前の教皇に対する仕打ちがドイツ国内でも不評を買っていて、また、グレゴリウス改革の精神が次第に国内にも浸透しつつあることをさとり、教皇との和解を考え姶めた。そして、1119年のランスでの会議では交渉が決裂したものの、1122年のウォルムスでの会議で合意に達し、「ウォルムス政教協約」が成立した。協約の内容はシャルトル学派の解決法に基づいており、俗人による叙任を絶対に拒絶するという初期の理念からは後退した妥協案であるが、ここで叙任権闘争はようやく終結したのであった。

<十字軍遠征前夜>
 七世紀以降、イェルサレムは異教徒に支配されていたが、キリスト教徒の聖地巡礼は絶えるどころか盛んであった。そのためイェルサレムには巡礼のための宿泊所、救護所のようなものが存在していた。こうした施設は徐々に増え、修道院や病院なども建てられ、また、自衛的な武力も持つようになった。(これらは1113年にヨハネ騎士団となり、巡礼者の護身をすることになる)しかし、十一世紀末にイェルサレム支配がセルジューク・トルコに移ると、巡礼の受け入れが厳しくなり、キリスト教徒の不満が現れてくる。こうしたとき、セルジューク・トルコの脅威を強く感じていたビザンツ皇帝アレクシウス一世が教皇ウルバヌス二世に援助を要請したのである。ウルバヌス二世はこの援助要請を重大に受け止め、十字軍編成のため1095年クレルモン公会議を召集した。会議では、叙任権のことや聖職者の堕落についてなど様々なことが話され、最後に「教会のために異教徒と戦うものが、その行動中にこの世の生命を終えたときは、罪の赦しを得ることができる」と言うことが決議された。会議終了後、ウルバヌス二世は外に待ち構えていた民衆に対して、十字軍に関する演説をしたが、その演説を聞いた民衆の多くは遠征に参加することを懇願した。しかし、民衆はこの演説だけによって立ち上がったわけではない。十字軍への熱意が燃え上がった背景には、当時の社会状況や巡礼熱の高まりなどがあった。ウルバヌス二世は聖地回復に熱意を燃やし、西・中部フランスを廻り各地で演説を行っている。こうして集まった軍団は五つの部隊に別れていて、その数、騎兵四、五千、歩兵約三万であり、その中には半武装の兵士や老人・女子供も含まれていたものと見られている。

<第一次十字軍>
 ル・ピュイの主教アデマールを総指揮官とする第一次十字軍は、1096年から徐々にイェルサレムヘ向けて出発した。コンスタンティノープルを経由して一行はニケーアとその周辺都市を攻略、1098年にはアンティオキアを陥落させた。ここでは虐殺と略奪が行われたが、その後は逆に占領軍のほうに疫病が蔓延し多数の死者が出た。(アデマールはこの疫病で死亡)1099年、十字軍はイェルサレム攻略を開始し、イスラム側の守備軍を打ち破ってイェルサレムを陥落させた。この時にイェルサレムのなかにあった巡礼者のための病院施設の関係者が、十字軍と連絡を取り都市攻略に一役買った。攻略の後にはアンティオキアと同じく殺戮と略奪が行われた。こうしてイェルサレムはキリスト教国のものになり、総主教の任命と君主の推挙が行われて、バイエルン主教アルヌルフが総主教に、第二軍団長ゴドフロアが君主になった。イェルサレム王国の誕生である。(イェルサレム総主教は本来、東方教会の管轄下であったが、この時西方教会が独断で総主教の任命を行ったため、ビザンツ帝国と西方教会との間にみぞができる事になった)その後ゴドフロアが一年で病死したため、弟のボードワンが後を継いだ。イェルサレム王国は成立したものの、難問も多く抱えていた。第一は占領人口の不足である。諸侯や騎士の多くは帰国し、原住民も占領地外に逃亡を続け、一般住民も各都市を満たすには到底足りなかった。この解決策としてまず大植民計画が実行された。しかし、僅かの戦闘員に守られ二十万ともいわれる人々がイェルサレムヘ向かったが、小アジアの山中でセルジューク・トルコのゲリラ部隊に襲撃され、ほぼ全滅、イェルサレムにたどり着いたのは僅かであった。したがってそれに代わるものとして、原住民との通婚の奨励、東方の単性論派キリスト教徒の入国招来、イスラム教徒に対する宗教的寛容政策による現地人の国外逃亡阻止などの政策がとられた。これらの政策はその後二、三十年間にある程度の成果を上げることができた。他の問題として、ヨーロッパとの交通貿易路の確立や、軍事力の増強などがあったが、前者は海路の発達によって解決され、後者は現地人傭兵の雇用によってなんとか危機を脱した。軍事力は宗教騎士団の誕生までは、傭兵に頼らざるを得なかった。

<第二次・第三次十字軍>
 イェルサレム王国が基盤を固めている間、セルジューク・トルコは領土奪回に乗り出しイェルサレム王国軍と戦闘を繰り返していたが、徐々に領土を回復し、1144年ついにエデッサを奪い返した。この時イェルサレム王国滅亡の危機が訪れたが、トルコ国内で内乱が起き軍が撤退したのでイェルサレムは滅亡をまぬがれた。このエデッサ陥落の報がシトー修道会のベルナルドゥスに届いたのは1145年のことであった。ベルナルドゥスは考えた末、新しい十字軍の必要を痛感、各地で演説をしたり、教皇を説得するなどして二度目の十字軍を編成した。第二次十字軍にはドイツの皇帝コンラート三世に率いられた軍団と、フランス王ルイ七世に率いられた軍団があったが、双方ともイェルサレムに着くまでにトルコ軍の攻撃を受けて多くの兵を失い、イェルサレムにたどり着いた兵は非常に少なかった。イェルサレムに着いた後、ドイツ・フランス両国王は領土的野心からダマスカスヘ向かうが、トルコ軍に大敗、ここにおいて第二次十字軍は失敗に終わった。その後、エジプトとシリアの支配権を握ったサラディンのアイユーブ朝が台頭、1187年のハッチンの戦いにおいてイェルサレム軍は大敗し、同じ年の十月にイェルサレムは陥落した。
 ハッチンでの敗戦とそれに続くイェルサレム陥落の報は西ヨーロッパに大きな衝撃を与え、ただちに第三次十字軍が編成された。これには英・独・仏三国の君主が参加し、さらに民衆兵と武士階層の騎兵が加わり、あわせて十数万の軍勢となって、1190年に出陣した。ドイツ軍は小アジア・ルートを進んだが、サラディンはこれを途中で阻止しようと様々なことを画策、ビザンツ帝国にもドイツ軍に援助・交易をしないよう要請し、ビザンツ帝国はこれを受け入れた。(この事がビザンツ帝国と西欧諸国との対立を深める原因となる)さらに皇帝フリードリヒ一世が小アジアのセレウキアで過って水死し、ドイツ軍の士気は低下、戦闘で破れたり兵士が船で帰国するなどして、兵力は半減してしまう。英・仏軍は海路によって目的地へ到着し、ドイツ軍も加わってアッコンヘの攻撃を開始した。アッコンは1191年に陥れるが、背後を包囲するイスラム軍とは停戦し、英王リチャード一世とその軍勢を残して大部分は帰国してしまう。リチャード一世はその後もイェルサレムを望んで攻撃を加えるが成らず、1192年九月、イェルサレムヘの巡礼の自由を条件にサラディンと三年間の休戦協定を結び、代理首都をアッコンに定めて帰国したのだった。

<第四次・第五次十字軍>
 西ヨーロッパではインノケンティウス三世が登位して(1198年)、教皇権の最盛期を迎えたが、彼は聖地回復にも意欲を燃やし十字軍を召集した。編成された第四次十字軍はヴェネツィアから艦隊を借りていたため、ヴェネツィアの希望に従いまずツァラを攻略した。この時コンスタンチィノープルでは権力闘争が起きており、十字軍は援助を求められて闘争に介入、コンスタンティノープルを陥れて皇帝を復位させた。しかしこの後、市民が反乱を起こしコンスタンティノープルは混乱、それに乗じて十字軍はコンスタンティノープルを攻略し、略奪・破壊・暴虐の限りを尽くした。十字軍はフランドル伯をボドゥアン一世として帝位につけ、国号をラテン帝国と称した。(1204年)教皇は十字軍の暴挙を嘆き、西ヨーロッパ人も十字軍の堕落を嘆いた。ここにおいて初期のイェルサレム奪回という十字軍の精神は失われ、十字軍運動は斜陽期に入っていくのである。(ラテン帝国は1261年、ミカエル八世にコンスタンティノープルを落とされて滅亡。ビザンツ帝国が復活する)  第四次十字軍の方向転換があったものの、西ヨーロッパでは、レコンキスタの進展やアルビジョワ十字軍の成功などで、異端・異教徒の制圧への意識は衰えを見せず、第五次十字軍の編成が成された。また、時を同じくしてイェルサレム王国では、テンプル・ヨハネ・ドイツ騎士団の整備・統制が行われ、軍備が充実、イェルサレム奪回のためにまずエジプトを陥れようという計画がなされた。イェルサレム国王ジャンは精鋭を率いてナイル川の河口に上陸、河口から四キロほどの都市ダミエッタを攻略した。エジプトの政朝はあきらめて、イェルサレムをキリスト教国に明け渡して講和しようとしたが、そのとき十字軍が到着、総司令官ペラギウスは講和に反対し、カイロを陥れてからエジプトもろともイェルサレムを奪回すべしとした。しかしそれが失敗だった。1219年に総攻撃が開始されたが、戦線は膠着状態に陥り、士気は低下、帰国するものや略奪するものが続出した。さらに夏のナイル川の氾濫に因り作戦は頓挫し、逆にエジプト軍の反抗は勢力を増して、ダミエッタも陥落、1221年にペラギウス以下兵士ほとんどが捕虜になって、エジプト遠征の幕は閉じられたのであった。

<その後の十字軍>
 アイユーブ朝では1227年、内乱勃発の危機を迎え、カイロの統治者アル・カミールはイェルサレムと海岸都市幾つかを譲渡する約束で神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世に援助を求めてきた。フリードリヒ二世は条約を締結し十字軍遠征を遅らせて様子を見ていたが、相手方の急死で内乱は勃発せず条約の履行は怪しくなってきた。したがってフリードリヒ二世は十字軍を率いてアッコンに上陸、軍隊で脅しつつ条約の履行を迫って、ついにイェルサレムの返還をかち取った。ナザレ、ベツレヘムも同時に返されて、イスラムの聖所はイスラム教徒の居住区と共に治外法権地域として残し、安全通行権が相互に保証された。(ヤッファ協定)こうして1229年にイェルサレムは再びキリスト教国の手に戻ったのである。この後の第七次十字軍はまたしてもイスラム側の内紛にかかわって、元のイェルサレム王国の領土を回復した。しかし、イェルサレム王国は元の領土を取り戻したといってもそれをまとめ上げる人物に欠き、内部対立が続いて解体し始めていた。そんな時、エジプトの傭兵部隊のホラズム族がイェルサレムを攻撃し、イェルサレムは陥落、永遠にキリスト教徒の手から失われてしまう事になってしまう。(1244年)
 イェルサレム陥落の悲報を受け、第八次十字軍が計画され、フランス王ルイ九世が軍隊を率いて出発した。軍は1249年ナイルの河口に上陸し、ダミエッタをすぐさま陥れる。しかしこの後、第五次十字軍の時と同じようにエジプトからの講和を断りカイロヘと進撃、エジプトの反撃と軍の中に流行った病気にやられて軍はほとんど全滅してしまった。1270年には最後の十字軍が編成され、チュニスヘ向かったが、エジプトの講和戦術と軍の内部分裂によって何の成果もないまま軍隊は帰国した。こうして約二百年に渡る十字軍遠征は終りを告げるのである。  1244年にイェルサレムが陥落した後もアッコンを中心としてイスラム教国に対抗してきたイェルサレム王国であったが、1270年以降はエジプトのマムルーク朝に領土を侵食されていき、1291年ついにアッコンを落とされてしまう。これにより残った他の諸都市の住民も危険を感じてキプロス島に難を逃れるのである。十字軍遠征によって中東に生まれたキリスト教国もここにおいてすべて消滅してしまうのであった。

<教皇権の隆盛>
 ウォルムス協約によって叙任権闘争は決着を見たが、この後も教皇と皇帝の小競り合いは続き、その権力は互いに均衡していた。そんな時代が約八十年続き、インノケンティウス三世が教皇の位に立つのである。インノケンティウス三世は三十八歳という若さで教皇に就任したが、それは彼の有能さをよく表している。インノケンティウスは教皇の権力を皇帝の上に置こうとする以前の教皇の念願を実行しようとし、教皇権の優位を強く主張した。そのために教会内の綱紀の粛正や諸都市の服従に乗り出し、さらに神聖ローマ帝国の皇帝の選定に干渉して皇帝を自分の権力下に置こうとした。この皇帝選定の騒動の後、1215年に皇帝になったフリードリヒ二世はインノケンティウスに支持されて皇帝になったので、インノケンティウスには頭が上がらなかった。(そうはいってもインノケンティウスは1216年に死去している)この後1215年十一月に第四ラテラノ公会議が開かれた。この会議にはフリードリヒ二世や西欧諸国の国王の全権使節、イタリア諸都市の代表者や教会の聖職者など、総勢千五百人を越える人々が参加し、中世最大の公会議となった。(しかし東方教会からの出席者はなかった)会議では、聖職者の規律や組織に関することや、異端の禁圧を厳しくすること、主教選挙への俗権の排除、十字軍に関することなどが決められた。十一世紀前半のレオ九世から、教会の改革が始められ、教皇は教皇権の伸長に努めてきたが、こうした教皇権の高まりは周辺諸国の君主をして進んで教皇に土地を献じて、改めてそれを封土として受け取るものの出現をもたらした。こうしたことは十一世紀の中頃から行われていたが、インノケンティウス三世の時代になって益々増大した。教皇の封土はローマの周辺だけでなく、東欧の幾つかの国からスペインのキリスト教国にまで広がり、イギリスについてもジョン王を臣従させ、その土地を封土として王に与えた。インノケンティウスはフランスに対してもフィリップ二世の離婚問題に介入して復縁を追り、それを実現させ、権力の強大さを見せている。この様にインノケンティウス三世の時代に教皇権は最盛期を迎えたが、1216年にインノケンティウス三世が死ぬと、最盛期は長く続かず教皇権は揺らぎ始めるのである。

<教皇権の動揺>
 インノケンティウス三世が死ぬと、それまで影に隠れていたフリードリヒ二世が本性をあらわし、教皇に対して強気な態度を示し始める。彼は教皇の十字軍要請を受けたにもかかわらず出発を延ばし続け、また、シチリア王国の統合と北イタリアの併合を進めるのであった。こうした態度に業を煮やし教皇グレゴリウス九世はフリードリヒ二世を破門するが、皇帝はこれを気にせず破門されたままパレスティナヘ出発、イェルサレムを回復しイェルサレム王国の国王にもなった。これに対してグレゴリウス九世は皇帝の破門を解いてしまう。この後もフリードリヒ二世に対して、教皇側は破門や廃位の宣言などで対抗するが、皇帝の帝位は揺るがず、結局この闘争が解決したのはフリードリヒ二世の死(1250年)によってであった。フリードリヒ二世の後、神聖ローマ帝国では反乱が起きるなど国内は不安定であり、シチリア支配も揺らいで、フランスにその支配が移っていく。また、教会内でも教皇派と皇帝派の対立を避けて、イェルサレム総主教であったフランス人のウルバヌス四世が1261年、教皇となり、以後フランス人が相次いで教皇位に就くのであった。この後教皇庁では親フランス的態度が取られていく。こうした中、ドイツは大空位時代を迎え国力は衰え、その後の領邦君主時代に突入していくのであるが、そこヘヨーロッパの大国としてのし上がってくるのがイギリスとフランスであった。そして教皇権に関していえば、フランスが新たな抗争の相手になっていくのである。

―おわりに―
 前回の反省にもかかわらず、また短期間で仕上げたレジュメになってしまった。調べが足りない部分もあるかと思うが許していただきたい。しかし、今回は予定していた範囲まで進むことができたので満足している。これからはアイルランドなどには一切触れず、レジュメを作っていきたいと思っている。

~参考文献~ 『西洋教会史』  小嶋 潤  刀水書房
『キリスト教史3』  M.D.ノウルズ  平凡社ライブラリー
『キリスト教史4』  M.D.ノウルズ  平凡社ライブラリー
『キリスト教~その思想と歴史~』  久米 博  新曜社
『キリスト教史Ⅰ』  半田 元夫・今野 國雄  山川出版社
『アラブから見た十字軍』  アミン・マアルーフ  リブロポート


第5回十字軍遠征の失敗
週刊アラブマガジン 2007.05.30


読者の皆様、第5回十字軍遠征は、ローマ教皇オノリウス3世の呼びかけによるもので、ムスリム国家を攻撃しなかった第4回十字軍遠征に代えるためのものでした。

この遠征を指揮したエルサレム王、ジャン・ド・ブリエンヌ(ハンナー・ド・ブリエンヌ)は、遠征軍を率いてシャムへ行き、アッカ(アッコン)をめざし、そこから更にドムヤート(ダミエッタ:当時のエジプト・デルタ地方の首府)へ向かいました。そして、ヒジュラ暦615年ラビーウ=ル=アッワル月4日―西暦1218年5月―、十字軍の陸軍と海軍はドムヤートに侵攻しました。

そこで、父アル=マリク・アル=アーデル(アイユーブ朝のスルタン)のエジプト副王だったアル=カーミルは、十字軍と対戦すべく出陣しました。アル=マリク・アル=アーデルはシャムで病の床にあったのですが、やがて亡くなり、アル=カーミルが統治権を継ぎました。そして彼は十字軍と戦い、ドムヤート(ダミエッタ)を解放しました。それから、ナイル川西岸で彼らを攻撃し、のちに「アル=マンスーラ(勝利の町)」として知られるようになった場所で、ムスリム軍は大勝したのでした。

アル=カーミルはナイル川の堰を切り、水で溢れるすべての水路を開くよう命じました。そのため、氾濫する川の水があらゆる方向から十字軍を囲み、彼らの動きを妨げました。そのため、十字軍はドムヤートから撤退することを条件に休戦を求めました。ヒジュラ暦618年―西暦1221年9月7日―、アル=カーミルはその求めを歓迎し、十字軍は船でヨーロッパへの帰途につきました。そして、ジャン・ド・ブリエンヌは敗北者としてシャム(シリア地方)へ帰ったのでした。

こうして、第5回十字軍遠征は失敗に終わりました。そのため、ローマ教皇は、ドイツ皇帝フリードリヒ2世に対し、前回の失敗を償う新たな十字軍遠征を行うよう、強く圧力をかけました。

残念なことに、その頃、統治権をめぐって、アル=マリク・アル=アーデルの王子たちの間に争いが起こり、アル=カーミルはフリードリヒ2世に対して、エルサレムを譲渡するという条件で、兄アル=ムウザム・イーサーとの政争における支援を求めました。フリードリヒはその申し出を歓迎し、小隊を率いて、第6回十字軍遠征でシャムへと進軍しました。

しかし、皇帝がアッカ(アッコン)に到着してみると、シャムの政情は変わってしまっていました。アル=ムウザム・イーサーは既に亡くなり、アル=カーミルは、もはやフリードリヒの助けを必要としてはいなかったのです。そこで、両者間で取引が行われ、最終的に、西暦1229年2月、ヤーファ(ヤッファ)協定が結ばれました。その協定の条項には、10年間の休戦と、エルサレムの十字軍への返還が含まれていたのでした

それでは、次回は、第7回十字軍遠征についてお話しましょう、インシャーアッラー。


ダライ・ラマ14世、政治的引退-憲章の改正で
世界の最新ビジネスニュース 2011年5月30日


インド北部ダラムサラにあるチベット亡命議会は28日、同政府の憲法に当たる「亡命チベット人憲章」を改正し、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の政治的引退を承認した。29日にダライ・ラマ14世による批准を受け、憲章の改正が成立した

これで、ダライ・ラマ14世が持っていた政治的権限は、亡命政府の首相らに移譲されることとなった。

ダライ・ラマ14世は3月10日、自らの政治的権限を「チベット人が選挙で選ぶ人物」に移譲するよう提案していた。ダライ・ラマ14世は現在75歳で、CNNによると「適切な時期の引退」をかねてから表明していたという。

チベット亡命政府では3月、新首相の選出が行われ、4月27日に米ハーバード大学の研究員、ロブサン・センゲ氏が亡命政府の新首相に選ばれたと発表されていた。チベット亡命政府の選挙管理委員会によると、センゲ氏は同選挙でおよそ55%の票を獲得したという。


終戦記念日 多くの人が靖国神社を参拝
AFPBB NEWS 2007年08月15日


62回目の終戦記念日を迎えた15日、多くの人が靖国神社を参拝した。

小泉前首相は早朝、参拝客から励ましを受けながら、静かに参拝を行った。前年の終戦記念日には現職の首相として21年ぶりに参拝を行い、中国や韓国から反発を招いた。靖国神社は戦没者と戦犯者を一緒にまつってあるため、常に論争の的となっている。

一方、安倍晋三(Shinzo Abe)首相および現内閣は、2006年9月の小泉前首相の辞任以来、中国、韓国両政府との関係修復に取り組んできており、今年は参拝しないと意向を表明していた。ただし、安倍首相は、都内の日本武道館で正午からとり行われる全国戦没者追悼式に出席する。

62年前のこの日の正午、昭和天皇は「堪ヘ難キヲ堪ヘ」と述べ、日本の降伏を発表するラジオの玉音放送を行った。それまで天皇は神としてあがめられ、公に語ったことは無かった。

昭和天皇は日本が荒廃し、広島と長崎に米軍によって原爆が投下されたのを受け、降伏を決断。これにより史上最悪とされる第2次世界大戦が終結した。

■消えない反日感情

第2次世界大戦に関する反日感情は東アジアではいまだに強く、多くの中国人や韓国人は両国での日本の残虐行為ついて憤りを感じている。韓国では同日、日本の植民地支配からの「解放記念日」である光復節を迎える。

また、安倍首相の歴史に対する保守的見解は良く知られており、過去には何度も靖国神社を参拝している。ただし、安倍首相は、約1年にわたる在職期間中の自身の主要な功績として、中国および韓国との関係改善を挙げている。

一方、元兵士や国家主義者の活動家らは、毎年8月15日に靖国神社に集合する。

この日、靖国神社を参拝した元海軍兵士の男性(87)は、安倍首相にも参拝して欲しかったとしつつも、「海外からの反発に遭うことも理解している。安倍首相は心の中では参拝したかったと確信しており、それだけでわたしには十分だ」と語った。


南米チリのプジェウエ火山、中程度の噴火続く
AFPBB NEWS 2011年06月06日


半世紀ぶりに噴火した南米チリのプジェウエ(Puyehue)火山(標高2240メートル)の噴煙は5日、北西の風に乗って方向を変え、チリ国内ラゴ・ランコ(Lago Ranco)地方に火山灰を降らせている。

チリ緊急災害対策庁(ONEMI)によると、5日現在のプジェウエ山の火山活動は比較的落ち着いているが、中程度の噴火は続いているという。プジェウエ火山は4日、1960年以来となる噴火を起こし、火山灰が隣国アルゼンチンまで広がっていた。


メシアの出現
日本アハマディア.ムスリム協会

1985年
ハズラト・ミルザ・グラーム師2月13日(金)カディヤーンで生まれる。彼の父の名前はミルザ・グラーム卯・ムルタザーで母の名前はチャラー久・ビビでした。
少年時代
初期の教育は3人の家庭教師によって習得しました。最初の結婚は彼が、15歳か16歳のときでした。
1864年
アハマド師は、シャールコートの裁判所で働いた。
1865年
神の最初の啓示が、アハマド師にあった。
1868年
父の言いつけに従って裁判所の職をやめ、故郷カーディヤンに帰り父の元に戻った。
1869年
アハマド師に啓示があった。「あなたの神はあなたの行いを嘉しそして、神はあなたにより大きな祝福を与えるでしょう。皇帝があなたの服の房縁から祝福を探し求めるでしょう。」
1872年
アハマド師の最初の論文がバンガロール(インディヤ)の10日に1度の新聞「マンシューレムハンマディ」の中に8月25日出版された。
1876年
アハマド師の父が死す。このとき、彼に啓示があった。「ライサッラーフビカーフィンアブドフ」(神はその下僕にとって十分ではないか。)この文句をアハマド師は指輪の貴石の中に彫らせました。
1880年
バラヒーネアフマディーヤ(アハマディアの論証)という本の第1部が出版。
1884年
アハマド師の2回目の結婚、デリーの名門の家柄のハズラト・サイヤダ・ヌスラト・ジャハーン・ベーガムとした。
1885年
アハマド師は時代の任命者で時のモジャッディド(改革者)であると4月に発表した。
1886年2月20日
アハマド師は自分の有名な予言「ムスレマウード」を出版した。
1889年1月12日
に予言に従ってアハマド師の息子マフムード・アハマドが誕生。3月23日、アハマド師は40人の信者から最初のベイアト(啓示)を受け取った。アハマディア協会の始まり。
1891年12月27日
インドのカーディヤンで第1回年次総会が開催される。
1892年1月31日
ラホールの大集会で、アハマド師が講演する。そして、2月、シアールコートを旅行する。そこで、アハマド師は熱烈に歓迎される。12月、アハマド師は、反対者達に「うそをついたものは、神が彼を失敗させ失望させるでしょう」と祈りの呼びかけをし、公言する。
1893年
約束のメシア(アハマド師)は、ヘンリ・マーティン・クラークのバンガローでイスラムとキリスト教の主題について、アブドッラーアータム師と論争する。それは聖なる戦いの名で出版される。
1896年12月26日~28日の3日間
ラホールで世界宗教会議が開催される。その中で、約束のメシアの講演文章はもっとも人気をはくす。それは、「神の啓示」で、「マズムーンバラーラハー」(文章が名誉を与えられるでしょう)が成就する。この文章は、イスラムの教えの哲学の名で出版される。
1897年
キリスト教とイスラムの宗教家達が一緒になって約束のメシアを殺害するため偽りの訴訟を起こす。神の特別な支持によってアハマド師は、この訴訟から無罪放免であると断定される。アハマド師は、「キターブルベリヤ」という本の名で、この訴訟の状態とその期間の出来事で明らかにされた神の支持を説明した。 10月8日、新聞「アルハカム」の最初の新聞記事が発行される。
1898年
約束のメシアは1月3日、「マドラサターリームルイスラム」(イスラムの教育専門学校)の開校式を行う。
1899年
アハマド師は、「マシーホヒンドスターンメン」〔インドの中のキリスト〕の本を書いて出版した。
1900年4月11日
アハマド師はイードルアズハー〔犠牲祭〕において、アラビア語で説教をされる。それは、「フトバイルハーミーヤ」(啓示の説教)の名で出版される。11月4日、公開でアハマド師は自分の協会の名前をジャマート・アフマディーヤ(アハマディア協会)と名づける。
1901年
雑誌「ザ・レヴューオブレリジョンズ」(宗教評論)が発刊される。約束のメシアを信奉するモロビ・アブドルラフマーン氏が、アフガニスタンで信条の違いのために殺害される。11月15日、フォトグラフの中に約束のメシアの詩の一節がマウラナ・アブドルカリーム氏の声で録音される。
1902年3月5日
協会の財政制度が開始される。 10月、アハマド師の本「カシュティヌー」(ノアの方舟)が出版される。その中の啓示、「インニウハーヒズクッラマンフィダール」(私はあなたの家の者を保護するでしょう)の神の約束を与えて言われました。「私は、私を信ずるもの私のイスラムの教えを守るものをペストから保護するでしょう」またこの様に言われた。「覚えおきなさい数年来にインドの中でペストによって数十万の人々が滅ぶでしょう。しかし、アフマディ信徒は守られるでしょう。」 10月31日、新聞「アルバドル」が発行される。
1903年7月14日
アフガニスタンで、ハズラト・アブドルラティーフが、アフガニスタン政府によって信条の違いのため殉教する。このことで、約束のメシアは、「タズキラシャハーダタイン」(2人の殉教者の物語)と言う本を書く。その本の中で、「嗚呼カブールの大地は神の目から辱められた。」としるす。だから、今日までアフガニスタンに平和はありません。
1904年
約束のメシアに、「ある東洋の諸力とコーリヤ(朝鮮)の警戒を要する状態」
1908年
約束されたメシア、5月26日午前10時にラホールにて崩御。同日彼の遺体はカーディヤンに運ばれ、翌日壮美な墓地バハシュティ・マクブラに埋葬される。埋葬の前にハズラト・モルビ・ヌールッディーン氏が第一代カリフ(後継者)に選ばれる。


仏大統領を暗殺未遂 極右の青年を逮捕
47NEWS 2002/07/14


パリのシャンゼリゼ通りでフランス革命記念日の軍事パレードが行われた14日、パレードの起点で凱旋(がいせん)門のあるエトワール広場の群衆の中に紛れ込んでいた男が、シラク大統領が乗った車にライフル銃を発砲した。大統領や市民にけがはなかった。  男は近くの市民に取り押さえられ、パリ警視庁に引き渡された。調べによると、男はパリ郊外エッソンヌ県に住む学生(25)。極右政治団体の青年組織に所属し、ネオナチ運動のデモに参加したことがある。  事件はドゴール元大統領の暗殺未遂事件を題材にした小説「ジャッカルの日」を思わせるとして、市民の衝撃を呼んだ。  男は歩道の最前列でギターケースの中に隠して持ち込んだ銃を取り出し、1発を発射したが、約150メートル離れた大統領の車まで届かなかったとみられる。


天皇陛下 カルザイ氏と会見
NHK NEWS 2010年6月17日


天皇陛下は、17日、日本を訪れているアフガニスタンのカルザイ大統領と会見されました。民族衣装をまとったカルザイ大統領は、17日午前11時すぎに皇居・宮殿に到着し、天皇陛下と笑顔で握手を交わしました。
会見は、宮殿の「竹の間」で20分余りにわたって行われました。
宮内庁によりますと、この席で天皇陛下が「国造りにいろいろとご苦労があってたいへんではないですか」と尋ねられると、カルザイ大統領は「日本の援助がアフガニスタンの国民にとって目に見える支援になっていて、政府も国民も非常に感謝しています」と答えたということです。
これに対して天皇陛下は「日本の支援がアフガニスタンにとって意義深いものになっていると聞いてうれしく思います。
国づくりが順調に進むよう願っています」と述べられたということです。会見のあと見送りに出た天皇陛下に、カルザイ大統領が「アフガニスタンに平和が戻れば訪問していただきたいと思います」と話しかけると、天皇陛下は「ありがとう」と笑顔で答えられていました。


【今日は何の日?】1902年:京師大学堂が再開
サーチナ  2006/12/17


 1902年12月17日、京師大学堂の再開式典が行われた。

  京師大学堂は1898年に設立された中国最初の国立大学で、現在の北京大学の前身。

  1894-1985年の日清戦争に敗れた清では、改革を求める声が強まり、1898年に光緒帝が康有為らを登用して「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」を始め、国政改革に着手した。

  これにより隋・唐の時代から1300年も続いた官吏登用試験の科挙制度も廃止され、新たに京師大学堂が設立された。

  しかし、1900年に「義和団の乱」によって外国干渉排斥運動が急拡大したことを背景に、清朝政府は列強に宣戦布告。これに対し日・独・英など8カ国の連合軍が8月に北京を占領したため、京師大学堂は機能を停止していた。

  京師大学堂は中華民国の成立に伴い、1912年に「北京大学」と改称された。


今夏の需給見通しと対策について(第2報)
東京電力 プレスリリース 2011年 平成23年4月15日


1.需給状況と見通し

当社は、東北地方太平洋沖地震により原子力発電所、火力発電所の多くが停止したため、今夏の供給力が、最大電力(発電端1日最大)5,500万kW(注)を大幅に下回る4,650万kW程度になるものとお知らせしておりました(3月25日)。気温が著しく高かった昨年夏の最大電力は、5,999万kWを記録(7月23日)

その後、火力発電所を中心とした震災による停止からの復旧、長期計画停止火力の運転再開および定期点検からの復帰など、供給力確保の対策に全力で取り組んでまいりましたが、新たにガスタービンの設置などにより、さらなる供給力の増加に見通しがついたことから、現時点での今夏の供給力を、5,070万kW~5,200万kW程度へと上方修正いたします。

しかしながら、依然として今夏の供給力は最大電力を下回る見通しであることから、今後も、計画停電の「原則不実施」を継続するため、供給力の一層の積み増しに最大限努力いたします。お客さまにおかれましては、夏期における節電対策へのご協力をよろしくお願いいたします。


東京で39・5度 7月の最高気温を更新
Dairy news 2004年07月20日


日本列島は20日、高気圧に覆われて関東甲信地方を中心に気温が上昇し、記録的な猛暑となった。東京・大手町では午後1時前に39・5度となり、東京の7月の最高気温記録38・1度(2001年7月24日)を上回った。
地域気象観測システム(アメダス)のデータでは千葉県市原市牛久で39・6度となった。
正午現在の気温は、甲府38・3度、熊谷(埼玉県)38・0度、千葉35・3度、横浜34・5度など。
気象庁は「関東甲信地方は海風が入りにくく、内陸部から熱を含んだ北風が入り込んで気温が上昇している」と説明。20日の最高気温は熊谷で39度、千葉で38度、横浜は36度と予想している。(共同通信)


田園都市線田奈変電所落雷事故、事故原因および対応策について
東京急行電鉄株式会社 2001年12月19日


東京急行電鉄(本社:東京都渋谷区、社長:上條清文)では、2001年7月25日に発生した田園都市線田奈変電所での落雷事故につき、第三者機関である(財)鉄道総合技術研究所に原因究明と対応策についての提言を依頼しておりました。今般、同研究所から報告書の提出を受け、それを基にした具体的な対応策を検討し、取りまとめましたので、運用面における問題点についての社内調査の結果および対応策と併せて、下記のようにご報告いたします。



1. 事故の状況

2001年7月25日(水)14時56分、田園都市線田奈変電所付近に落雷があり、市が尾変電所~中央林間駅間の電車線への送電が停止した。その後、列車運転確保を目的に電車線への送電を開始したが、同変電所が落雷により損傷を受けており、その部分に電圧が加わったことにより火災が発生した。

これにより同変電所の制御関係機器、送電用機器が焼損したことから送電が不可能となり、7月26日(木)から8月3日(金)までの平日7日間の朝の上りラッシュ時において、鷺沼駅~長津田駅間における運転本数を通常ダイヤの70%(全列車各駅停車)で運転せざるを得なくなり、お客様にご不便をおかけすることになった。


100年を迎えるシベリア鉄道
ウラジオ短信 2001/07/16


7月9日、シベリア鉄道全線開通100周年を記念する特別列車が、モスクワ・ヤロスラブリ駅を出発した。元鉄道職員、記者、作家、そして、鉄道ファンらを乗せた特別列車は、ロシア各地の停車駅で熱烈な歓迎を受けながら、終点ウラジオストクを目指している。

1901年の帝政ロシア最後の皇帝ニコライ二世の開通宣言以降、シベリア鉄道は文字通りロシアの大動脈として機能してきた。開通当時、航路で50日も要していた日本と欧州との所要時間が、シベリア鉄道を使えば10~15日と飛躍的に短縮され、多くの志高き若者が欧州に向けウラジオを旅立った。便利になった今でも何かしら特別な感情を抱くのか、飛行機ではなく、シベリア鉄道を選ぶ日本人は少なくない。ましてや、ロシア人にとって、シベリア鉄道は、東西を結ぶ単なる鉄道でないことは、特別列車への各地の歓迎ぶりを見れば容易に想像できる。

過酷な自然条件のもと、このような大プロジェクトが、20世紀初頭という比較的早い時期に実現した背景には、当時海上交通を支配していた大英帝国に陸路で対抗するというロシアの政治的・軍事的見地があったという。100周年を迎えた今年、京義線とシベリア鉄道の連結、また、サハリンと大陸をトンネルまたは橋で結び、北海道へと続く鉄道を建設するという壮大な構想が具体化しようとしている。いずれも、アジア・欧州間の海上輸送貨物の獲得がねらいである。シベリア鉄道がかつての存在感を取り戻せば、ロシアの経済発展を支える存在に返り咲くことも可能であるように思われる。


シベリア鉄道
百年の鉄道旅行


1885年11月、カナダ太平洋鉄道が全通し、大西洋と太平洋そして北米大陸が大英帝国経営の船舶鉄道によって結ばれた。これに刺激をうけたロシアは1857年以来提案却下が繰り返されていたシベリア横断鉄道の建設を本格的に開始することを決めた。当時のロシア皇帝アレキサンドル2世は皇太子ニコライを東の起点ウラジオストックに送って1891年5月31日、起工式が行われた。ニコライはその後日本を訪れ大津事件に巻き込まれている。既にペテルブルグからの鉄道が開通していたチェリビアンスクから東へ向けて鉄道建設が始まったのが1892年7月19日、ノボシビルスクまでの西シベリア鉄道は1895年、更にイルクーツクまでの中部シベリア鉄道は1898年、1900年にはスレチェンスクまでのザバイカル鉄道が開通している。東からはウラジオストック-ハバロフスク間のウスリー鉄道が1897年に開通している。ところがアムール鉄道については凍土や疫病などに阻まれ工事が難航していた。折りしも日清戦争で負けた清国の日本への賠償の遼東半島問題に干渉して、清国に恩を売ったロシアはその同じ土地の租借権と満州地方への鉄道敷設権を得て、シベリア横断鉄道の一区間となる満州内の東清鉄道を建設するに至った。満州里から哈爾賓(ハルビン)、ウラジオストク、旅順までの全線が開通して、1901年11月3日シベリア横断鉄道の全通の日となった。途中バイカル湖付近では夏の連絡船、冬の氷上線路での連絡であったが、日露戦争の勃発により、突貫工事でこの区間の周バイカル鉄道が開通し、1904年9月25日、本当に鉄道による全線開通となった。 日露戦争の敗北で満州での権益を大幅に失ったロシアは、当初の計画通りにアムール川に沿ったロシア国内に鉄道を完成させる必要に迫られ、1916年にスレチェンスク-ハバロフスク間のアムール鉄道が開通して、現在のシベリア鉄道の形となった。

1910年にはシベリア経由日本欧州間の直通きっぷが発売され、万国寝台車会社(ワゴンリ)の車輌も連結され欧亜の鉄道連絡が完成されたが、1917年にはロシア革命の勃発、1922年のシベリア撤兵以来欧亜の連絡は再びスエズ運河経由の船旅中心となった。日ソ通商条約の締結により、1927年にはシベリア鉄道経由での欧亜連絡が再開されたが、1941年には第二次世界大戦のためにシベリア横断急行の運転中止、戦後も外国人の乗車が許可されたのは1966年になってからであった。


金正日 ロシアのイタル・タス通信社の質問に対する回答
-2001年7月24日- 朝鮮中央通信
小林よしおの研究室


 イタル・タス通信社からのインタビューの要請に謝意を表します。あなた方の質問に答えることにします。まず、朝ロ両国間の関係とその発展について述べましょう。

 朝鮮とロシアは国境を接した隣邦であり、両国の関係は長い歴史をもつ伝統的な友好関係です。朝ロ友好関係を発展させることは、両国人民の利益に全的に合致し、アジアと世界の平和と安全を保障するうえで重要な意義をもちます。我々は、朝ロ友好を重視し、両国の関係を発展させることに深い関心を払っています。

 昨年7月の両国指導者の平壌での対面は、朝ロ友好関係を新たな高い段階に発展させるうえで画期的な出来事でした。

 ウラジーミル・ウラジーミロビッチ・プーチン大統領がロシア国家元首としてはじめて訪朝したことは、両国の関係発展への大きな寄与となり、我々はこれを高く評価しています。私は、ウラジーミル・プーチン大統領との対面で、両国の友好・協力関係を新たに発展させようという共通の意志と立場で虚心坦懐に話し合い、相互の理解と信頼を深めました。

 我々は、会談や談話をつうじて2国間の関係や相互の関心事となる国際問題について忌憚なく意見を交わし、会談の結果に基づき朝ロ友好・協力関係を新たな高い段階に発展させるべく両国政府および人民の共通の意志と志向を内外に宣し、重要な国際問題についての我々の一致した見解と立場を明らかにする朝ロ共同宣言を採択し、発表しました。

 朝ロ共同宣言と昨年2月に締結された朝ロ友好善隣協力に関する条約は、朝ロ友好関係の発展を保証する歴史的な文書です。宣言と条約には、朝ロ友好・協力関係の原則と発展方向が明白に規定されており、政治と対外関係、国防と安全、2国間の経済協力と貿易など両国の関係発展に関する諸問題が包括的に明記されています。朝ロ共同宣言と朝ロ友好善隣協力に関する条約により、両国間の友好・協力関係は完全な平等と互恵、相互信頼と内政不干渉の原則で、各分野にわたって強化され、発展するようになりました。

 朝ロ友好関係の発展展望は極めて良好です。平壌での対面以後、両国の広範な社会各界と人民の間では、朝ロ友好関係を発展させようという熱意がかつてなく高まっています。共同宣言と条約の精神にのっとって、現在、両国間で経済と軍事、科学技術、教育、文化の各分野において協力に関する実践的措置が講じられています。朝鮮とロシア双方の友好・協力関係を発展させる意志は確たるものであり、それを保証する共同宣言と条約があり、数十年にわたって緊密に協力し合った伝統があるので、積極的な行動措置を取れば両国間の関係は全面的に拡大、発展することになるでしょう。私は、両国政府と人民の共同の努力によって、朝ロ友好・協力関係が新しい世紀、21世紀に立派に発展するものと信じます。

 国家指導者間の対話は、国家間の関係発展において重要な役割を果たします。指導者間の関係が深ければ、国家間、人民間の友好関係が好ましく発展するものです。

 プーチン大統領の招請により、私は近々ロシアを訪問することになります。ロシアを訪問し、モスクワでプーチン大統領と再会するのは喜ばしいことであり、友好的なロシア人民と会えば、私の大きな感慨を呼び起こすことになるでしょう。


第6章 ロシア
防衛省防衛研究所


8月4日、金・プーチン会談が行われ、両首脳はモスクワ宣言に調印した。同宣言では、北朝鮮のミサイル計画が平和的性格のものであり、北朝鮮の主権(自主権) を尊重するいかなる国にも脅威にならないことが明記された。また、ABM条約の重要性が指摘されているが、2000年7月のロ朝共同宣言にみられたようなABM条約の強化や米国のMD計画に反対といった米国に対する批判的表現はみられなかった。


シベリア鉄道
株式会社ユーラシア旅行社


シベリア鉄道、Транссибирская магистраль直訳すると「シベリア横断鉄道」。一般的にはウラジオストク~モスクワを指すが、戸籍上の区間はチェリャビンスク~ウラジオストクの7416km。ちなみに現在はチェリャビンスクはオムスクから分岐する支線の駅になってしまい、極東・アジア方面からのいわゆるシベリア鉄道の長距離優等列車は停車・通過しない。 広い意味での「シベリア鉄道」はモスクワから極東方面へ行く路線を指し、北京、ウランバートル、平壌、ナホトカ、そして第二シベリア鉄道(バイカル=アムール鉄道)に広がる鉄道路線を指す。

シベリア鉄道は1891年に建設を開始し、フランスからの資金援助を受けながら工事を進めた。建設はアメリカ横断鉄道同様、路線の両端から開始された。1891年5月31日ウラジオストクにて皇太子ニコライ(後のニコライ二世)臨席のもと起工式が行われた。ちなみにこの起工式に行く途中に日本に寄って琵琶湖観光をしていた最中に警官に斬りかかられ負傷したのが「大津事件」

1898年に路線はモスクワからバイカル湖畔イルクーツク迄伸びた。バイカル湖は船で渡り、チタ手前までの路線が1900年に開通した。一方ウラジオストク側の工事は難航しハバロフスクからはなかなか延びず、ロシア政府は中国東北部を通過する路線を敷くことにした。ウラジオストクからウスリースクで分岐しハルピン、チチハル、満州里を通ってチタへ向う路線、「東清鉄道」を敷設した。

1904年にはバイカル湖を迂回するルートが開通し(それまでは冬は凍った湖の上に線路を通していた)、1916年にハバロフスク経由の路線が完成、1939年に全線複線化となった。

冬が長いロシアでは鉄道は今でも重要な交通手段であり、現に、シベリア鉄道に乗車すると、走っている列車の数に驚く。

様々な近代化にともなって、多くの国で列車から旅情がうしなわれつつあるなか、このシベリア鉄道は長大編成の客車をを力強い機関車が牽引し、シベリアの大地を何日もかけて走る。食堂車ではコックが腕を奮い、車窓を眺めながら食事をする。

かつては飛行機に乗れない若者の貧乏旅行の代名詞だったシベリア鉄道も、そんな「旅」の姿を求めて観光シーズンともなると、世界中から観光客が殺到する鉄道になってしまいました。


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