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おん祭と春日信仰の美術
奈良国立博物館 平成22年11月22日


歳末の奈良を彩る風物詩・春日若宮おん祭は、平安時代の保延二年(1136)9月17日にはじまったとされています。その後祭日は、室町時代から11月27日、明治十一年(1878)からは現行の12月17日と変わりましたが、その間絶えることなく続いたとされ、今年で875回を数えます。

この展覧会は、おん祭の行われる季節に合わせ、主祭神である若宮神やおん祭に関わる品々を集め、展示を通じておん祭の一端を紹介する企画です。今回は奈良に都が置かれた時代にその祖型が伝わり、後に日本を代表する芸能へと育っていった能楽(猿楽)に注目し、面や装束、楽器など関連資料を展示します。また、春日社を氏社とする藤原氏の祖霊神として尊崇された春日三宮に注目し、その本地仏と目された地蔵菩薩への信仰を中心に取り上げます。加えて、春日講に関係する資料を通じて春日信仰の広がりと多様性を感じていただければ幸いです。


大統領の弁解英語
伊藤サム英語の世界


モニカに学ぶ現代英語

・・・・・・・・・・・・・・これ以後、記者団は大統領にしつこくモニカさんのことを質問するようになりました。1月26日には児童福祉政策の発表会見の場で質問を受け、大統領はモニカさんに明らかな敵意を示しました。これもジャパンタイムズは一面に大きく掲載しました。これはAP通信の配信記事で、その後有名になった部分は、"I did not have sexual relations with that woman, Miss Lewinsky. I never told anybody to lie. Not a single time. Never." (あの女、ルインスキー嬢と性的関係を持ったことはない。誰にも嘘をつけと言ったこともない。一度もないんだ。決してない)

 ここでthat woman(あの女)は、that man(あの男、あの野郎)同様、相手とは仲が良くないことを示唆する表現です。 さらに、米国はファースト・ネームで呼び合う社会なのに、ここでは「モニカ」と呼ばず、よそよそしく「ルインスキー嬢」としています。どちらも関係否定の効果を狙った言い方です。

 モニカさんの場合、大統領との関係を誇張して吹聴している感じがして、世論は半信半疑でした。ところが3月15日になって、いかにも正直者そうで被害者タイプの元大統領スタッフ、キャサリーン・ウィリー(Kathleen Willey)さんが発言、大統領は「宣誓証言で過去にウソをついている」としました。これもジャパンタイムズは一面扱いにしました。

 その後、4月になり大統領を以前からセクハラで訴えていたポーラ・ジョーンズ(Paula Jones)さんの訴訟が却下され、女性疑惑は小康状態となりました。しかし夏にはモニカさんがすべてを告白、急展開となりました。

 8月17日に大統領が大陪審に対して証言を行い、直後に全米向けテレビ演説、ついに不倫関係を認めました。このときは、私が第一面のデザインを担当していましたが、興奮してしまい、大統領の写真をたて15センチ、ヨコ19センチという特大サイズで掲載しました。

 刷り上がりの早版を見て写真が大きすぎるという声が社内から出たため、遅版で縮小しました。ちなみに、あとでニューヨークタイムズを見たら、私が選択したのと同じ写真がほぼ同じ大きさで掲載されていました。


研究者は、「クローン羊ドリーは奇跡ではないかもしれない。」と述べた。
サンデー・テレグラフ 1998年2月22日

DNAを使ってクローンの羊を作った研究者が、「クローン羊は科学的な奇跡ではないかもしれない。」と述べた。

世界初の哺乳類の体細胞クローンである雌羊、ドリーの誕生を発表したイアン・ウィルマット博士は、「研究の中に誤りがあるのではないか。」という噂があることを認めた。

結局、ドリーには父親がいた可能性は残る。ウィルマット博士は、先週ケンタッキー州ルイビル大学の遺伝子学会の会議で、「ドリーの誕生が体細胞ではなく胎児細胞だった可能性は、万が一ではあるが、あり得る。 ・・・・・・・・・。」と述べた。
Scientist admits that Dolly may not be `wonder clone'
Article from:The Sunday Telegraph London Article date:February 22, 1998


THE SCIENTIST who claimed to have cloned Dolly the sheep using DNA from an adult animal, has admitted for the first time that Dolly may not be a scientific wonder.

Dr Ian Wilmut, leader of the Scottish research team that announced it had produced an exact replica of an adult mammal, has confirmed rumours that have been circulating that there might have been a mistake.

Dolly might have had a father after all. "There is a remote possibility that the cell used to produce Dolly came from a foetus rather than from the adult," he told a conference of geneticists gathered at the University of Louisville, Kentucky, last week. "Foetal cells can be present in the circulatory system of …


「ロシアが攻めてきた!」 ウソ報道にグルジアが大パニック
AFP BB ニュース 2010年03月14日


グルジアで13日、ロシア軍の侵攻を伝えるウソの報道番組が放映され、同国は一時パニック状態となった。

 グルジア民間テレビ局Imediは、2008年のロシア軍によるグルジア侵攻の映像を放映し、ロシア軍の戦車部隊が首都トビリシ(Tbilisi)に向けて進攻中と伝え、さらに空港や港がロシア軍に空爆されたと報じた。

 ニュース放送後にテレビ局は、この報道がウソの報道であり、将来に起きる可能性のある出来事についての「シミュレーション」だったと解説した。

 しかし地元メディアによれば、この報道を受け、危険を知らせる声がいっせいに飛び交い、救急サービスは記録的な件数の電話を受信した。

 インタープレス(Interpress)通信によれば、この報道が引き金となった心臓発作や気絶が複数事例報告された。また、08年の南オセチア紛争で最大の被災地となったゴリ(Gori)では、住民数百人が地元商店に緊急物資を買いに殺到したという。

 携帯電話通信網も一時過負担で通話不能となった。

 ミハイル・サーカシビリ(Mikheil Saakashvili)同国大統領の報道官は、映像はウソであることを明確に示すべきだったと述べ、報道の基準を満たしていないと批判した。


アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議案
衆議院 (第一六九回国会)  決議第一号 2008年6月6日

 昨年九月、国連において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、我が国も賛成する中で採択された。これはアイヌ民族の長年の悲願を映したものであり、同時に、その趣旨を体して具体的な行動をとることが、国連人権条約監視機関から我が国に求められている。

 我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。

 全ての先住民族が、名誉と尊厳を保持し、その文化と誇りを次世代に継承していくことは、国際社会の潮流であり、また、こうした国際的な価値観を共有することは、我が国が二十一世紀の国際社会をリードしていくためにも不可欠である。

 特に、本年七月に、環境サミットとも言われるG8サミットが、自然との共生を根幹とするアイヌ民族先住の地、北海道で開催されることは、誠に意義深い。

 政府は、これを機に次の施策を早急に講じるべきである。一 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認めること。二 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことを機に、同宣言における関連条項を参照しつつ、高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組むこと。

 右決議する。


熊本県宇土市院長夫人殺人事件 ウィキペディア
毎日新聞 捜査が続く重要未解決事件

 04年3月13日午後3時半ごろ、熊本県宇土市走潟町「走潟町医院」院長、中津卓郎さん(当時54歳)方玄関で、妻で病院手伝いの千鶴子さん(同49歳)が頭部を中心に計約100カ所を鈍器のようなもので殴られ、殺害された。死亡推定時刻は午後2時~3時半ごろ。ゴルフ練習場に出かけた中津さんが帰宅して発見するまでの約1時間半の犯行だった。遺体近くに血の付いた台所の包丁があったが、致命傷を与えたとみられる鈍器は見つかっていない。居間のタンスなど室内の数カ所で物色の跡があったが、現金や金庫は盗まれておらず、金銭目的か怨恨かは不明。室内にスニーカーに付いた血による足跡があり、後に米国ブランド「ナイキ・エアモック」の26センチと分かった。


ザ・ショックス 世界の目撃者
MovieWalker


世界83カ国で起きた事件、災害、スポーツや冒険家たちのアクシデントなどの決定的瞬間を捉えたドキュメンタリー。シアトル公演中に墜落死した山海塾の演技者、戦場のジャーナリスト、ニール・デービスの最期、ベルギーとのサッカーの試合中に観客が暴走、大火災が発生したイギリスのサッカー場、世界一過激な祭典、スペイン・パンプローナの牛追い祭り、ナイジェリア公開銃殺刑、J・F・ケネディ大統領暗殺事件の決定的瞬間、ネバダ砂漠で行なわれた航空機墜落実験などが描かれる。監督は内田建太郎が担当。



カラカス

カラカスは現在ベネズエラの首都だが、ウィキペディアには次のように説明されている。
建設 1567年7月25日
スペイン人の到達以前のこの地はカリブ系のカラカス族の土地であり、都市は存在しなかった。スペイン人の征服者がこの地を訪れると先住民は頑強に抵抗し、特にテケス族の指導者の指導者グアイカイプーロに率いられた軍団は頑強に抵抗を続けたが、1567年にスペイン人の征服者ディエゴ・デ・ロサーダが、先住民との戦争の最中にサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカス (Santiago de León de Caracas) という名でこの街を建設した。カラカスの名は、この地に住んでいたカリブ人の一部族、カラカス人からとられた。
しかし、その建設の日付は徳川家康を強烈に示唆する。

1563年7月25日 ★徳川家康。今川氏と絶縁して松平元康から松平家康に改名。
1567年2月8日 ★徳川家康。徳川家康。松平家康から徳川家康に改姓する。
1567年7月25日 ★カラカス(現ベネズエラの首都)をスペイン人の征服者
ディエゴ・デ・ロサーダが建設。

からかす」という言葉は、は名古屋弁または美濃弁で、「しきりに~する。」という意味。古い言葉ではあるが、今日でも使われている(参照)。

さらに、ウィキペディアのスペイン語では次のように説明されている(翻訳は、ネット上で依頼したものです)。
ディエゴ・デ・ロサはスペインの征服者。リオネグロ・デ・プエンテ(サモーラ)生まれ。誕生日不明。
カタリーナ・デ・オロスコを母としアルバロ・ペレス・デ・ロサーダ(リオネグロ領主)を父とする。
若くして新大陸に渡り、職業軍人、探検家、傭兵、管理人などの仕事に従事。
1567年7月25日(推定)サンチアーゴ・デ・レオン・デ・カラカス(現ベネズエラ国の首都カラカス)を建設したことにより歴史の舞台に登場。
下って同年9月8日ヌエストラ・セニョーラ・デ・カルバジェーダ(現カルバジェーダ)港を建設。
1569年末死去。遺体はクビーロ(ラーラ県)に埋葬され同地は観光の呼び物になっている。


エジプトを支配する日本人

日本のエジプト支配を示唆する歴史上の出来事やマスコミ報道は多い。だが、つかみどころがないのが実態だ。

日付の検証で、日本のエジプト支配を示唆する事例には次のものがある。だが、それらも氷山の一角だろう。

1935年10月31日 ★(誕生)ムハンマド・フセイン・タンターウィ、エジプト国防・
軍需生産相。
1973年10月6日
旧暦9月11日
★第四次中東戦争勃発。
エジプト空軍参謀長のホスニー・ムバーラクが国民的英雄となる。


英国アカデミー賞2006
British Academy of Film and Television Arts
イギリス情報サイトUKinfo 20 Jan 2006


英国アカデミー賞のNomineesが2006年1月19日発表された。英国アカデミー賞(通称BAFTA= British Academy of Film and Television Arts)は、1947年4月16日に設立。Hyde Park Hotelに著名な映画関係者が集まり、英国映画産業で最も創造的な作品を作り映画界発展に貢献した人に栄誉を与える目的で作られた。現在は、映画のほかにTV、ビデオゲームなどの発展に貢献した人に送られる賞もある。


World Heritage 29 COM
World Heritage Convention
29th session of the Committee Durban, South Africa 10 July - 17 July 2005


※ 第29回ユネスコ世界遺産委員会ダーバン会議(南アフリカ、2005年7月10日から7月17日

SUMMARY RECORD

EIGHTH DAY
THIRTEENTH MEETING
Sunday 17 july 2005
03.30 p.m. - 07.55 p.m.
Chairperson: Mr Wakashe

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ITEM 23: CLOSURE OF THE SESSION

The Chairperson invited the Director of the World Heritage Centre to take the floor.

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The outgoing Chairperson shared with the World Heritage Committee extracts from a poem written for the Committee by His Excellency, Ambassador Jallali of Iran, who had had to leave the Committee session earlier.
Handing over the Chair to the newly elected Chairperson, he said that she could count on his full support over the coming years. Turning to the delegates and observers, he said that they would be returning to their homes ever more convinced that World Heritage protection was a noble and worthy cause, and he wished them all a safe journey.
He declared the 29th session of the World Heritage Committee closed. The meeting rose at 7.55 p.m.
※ 司会者は第29回ユネスコ世界遺産委員会ダーバン会議の閉会を宣言、会議は午後7時55分閉会した。


全エネルギーにおける新エネルギーの位置付け及び新エネルギーの開発・導入の必要性とその対策
NEDO 海外レポート





しかし、2005年1月8日~9日に南スウェーデンを襲った「グドルン」と名づけられた大嵐のために南部スウェーデンの森林が壊滅的な打撃を受けたこと(4 年分の伐採量に相当する木々が倒壊。現在政府は倒壊木々の貯蔵や輸出に関する各種規制を臨時に緩和している)の影響で、・・・・・




ニューオーリンズ:「残されているのは、病人、老人、貧困層、子どもたち」
CAFE PACIS 2005-09-01 ニュース@海外


Democracy Now! 2005年8月31日




タイムス・ピキューン紙によると、すでに破滅的被害をもたらしている洪水は、ハリケーンによる降水が上流からポンチャトレーン湖に流入することで、今後数日さらに悪化すると予想されている。堤防が崩壊しているため、市全体への灌水は、湖およびミシシッピ川と同じ高さになるまで続くことになる。

 ブッシュ大統領は、夏休みを2日切り上げで今日ワシントンに戻ると発表。大統領は火曜サンディエゴで「今、優先事項は命を守ることであるが、まだ探索・救助作業の真っ最中である」と発言した。

 サンディエゴ訪問中、大統領はカントリー歌手のマーク・ウィリスと会い短時間ギターを弾く時間を割いた。大統領は金曜にルイジアナ州へ飛び、ハリケーン被害地区を回ると見られている。

 ニューオーリンズ市は現在戒厳令が敷かれている。市では、食糧・飲料水を求めた大勢の人が店に侵入するなど略奪が報告されている。そのほか電化製品・酒・銃も略奪されている。タイムス・ピキューンによると、略奪は、警察も参加するまで広範囲に及んでいる。警察服を着た警官が、ウォールマートの外で一人がDVD6つ、もうひとりが27インチテレビを抱えて歩く姿が撮影されている。

 「カトリーナ」の被害規模は、210億ドルの損害を出した「アンドルー」をしのぎ、最大になることが予想されている。


阪和銀行・副頭取射殺事件
事件史探求


-経緯-

平成5年8月5日午前7時50分頃、和歌山県を本拠地とする地方銀行の阪和銀行副頭取・小山友三郎さんが自宅に迎えにきたハイヤーに乗り込んだところ、突然白ヘルメットでサングラスの中年男が近づき、不思議なことに「部長!」と叫んでピストルを3発発射。小山副頭取は30分後に死亡した。

名門地方銀行の副頭取が白昼堂々と射殺されたことに大きな衝撃が走った。特に、バブル崩壊後の債権回収や融資打ち切りなどトラブルが続出している銀行業界では恐怖のどん底に陥った。が、結局この事件は警察の懸命な捜査にもかかわらず迷宮入りとなった。

同行では以前から闇社会とのトラブルがあり様々な憶測が続いた。特に事件から4年後の平成9年11月、和歌山県警が特別背任容疑で同行の橋本元頭取等が逮捕され、複数の暴力団・右翼団体に食い物にされ「ヤクザの貯金箱」とまで呼ばれるようになっていた実態が明らかになった。同行は前年の平成8年11月に業務停止命令をうけ事実上倒産した。この時に当局が入手した資料に「特殊案件貸し出しリスト」があり、廃業直前まで暴力団関係、右翼団体関係などに総額14億5000万円の不正融資をしていたことが発覚した。

-蟻地獄-

同行が廃業まで転落するきっかけは平成3年9月に月刊誌「SEIKAI」で同行経営陣への批判記事からだった。同行は当初無視していたが、福田秀男頭取(当時、以下同)の長男である福田文七郎常務の私生活を暴露されるなど多大な影響を及ぼした。そこで、発行元の政界出版社を相手取り損害賠償を求める民事訴訟をおこした。これに対し同誌はインサイダー取引疑惑など同行への攻撃を益々強めていった。

この頃、同行では橋本副頭取と福田常務、小山専務の3人の経営陣抗争が激化していた。そのため橋本副頭取は小山専務が自分の失脚を目的に出版社へ記事内容をリークしていると憶測し、知人の紹介で和興開発の前田喬社長へ出版社との仲介役を依頼した。だが、この時の話し合いで同行は仲介を断った(恐らく、同行にとって不利な条件が多々あったと思われる)。

だが、前田喬社長は「SEIKAI」の記事中止をさせれば阪和銀行からの融資を得ることができると考え、今度は小山専務へアプローチを始めた。そこで自分の長男・前田雅生が社長を務める不動産会社で三共土地開発に融資依頼することを思いついた。ここに和興開発と暴力団組長らが共同で三共土地開発に阪和銀行から融資させる構図が出来上がった(この会社は設立当時、広域暴力団組長や右翼団体幹部が役員を勤めていた)。

平成4年5月、阪和銀行の小山専務、暴力団組長、前田喬社長、政界出版社の社長が一同に集まり「福田常務による政界出版社への損害賠償請求訴訟の取り下げ」を条件に同誌の連載記事中止が決定した。ところが、福田常務は訴訟取り消しを拒否した。

この頃、株主総会で福田秀男頭取の引退、福田文七郎常務の解任が決定し小山専務が副頭取に、橋本副頭取が頭取に昇格した。が、その裏では福田元常務の政界出版社への訴訟取り下げの約束が実行できず、小山副頭取は苦しい立場に追い込まれていた。この結果、約束違反だとして暴力団組長や前田喬社長らは同行からの融資話をエスカレート。小山副頭取は行内の反対を押し切って、不正融資を重ねていった。

平成9年11月、特別背任に連座したとして、橋本元頭取ら旧経営陣と融資先である三共土地開発の前田雅生社長、実父・和興開発の前田喬社長、暴力団組長等を逮捕した。しかし、結局は橋本元頭取だけが起訴され平成11年3月、一審で懲役2年、執行猶予3年を言い渡された。


砂川基地拡張で衝突
毎日新聞 昭和のニュース 1955年09月13日


米軍立川基地拡張のために政府は強制測量を開始。農民、支援労組、学生らの反対派約1200人と、測量隊を護衛する警官隊約2000人が衝突し、双方に合わせて約100人の負傷者を出し、ピケ隊3人が検挙された。翌14日、警官隊は「妨害者は断固検挙」の強硬態度に出て、反対同盟闘争副委員長の砂川町議会副議長ら26人を検挙。このため反対派はピケを解き、9本目の杭が打たれて外郭測量は終わった。



「コブラ」作戦
討死館 ノルマンディ上陸作戦概説:その計画と経過

英文ウィキペディア

ドイツの内部事情とは関係なく、アメリカ軍の攻勢は予定より少し遅れて7月25日に開始された。作戦名は「コブラ Cobra」。サン・ローの戦いのあと、前線部隊は休息をとり、消耗した弾薬を補給し、万全の体制で攻勢に臨んだ。戦線突破のためには、カーン方面ではいまいちパッとしなかった重爆がここでも用意された。爆撃目標は装甲教導師団の展開地域。まず機動戦力を叩いておいて、敵に対応の術と暇を与えず突破しようというのである。果たして三度目の正直で、重爆の攻撃はうまくいくだろうか?

 杞憂だった。1500機の重爆が投じた3300トンの爆弾は、今度こそ主要目標たる装甲教導師団の陣地に命中した。1000名以上の兵員とほとんどの車両、ついでに100名あまりのアメリカ兵が吹き飛んだ。装甲教導師団は一時的に全く士気を喪失し、部隊相互の連絡が全く取れない麻痺状態に陥った。

 呆然とするドイツ軍部隊の間を、アメリカ軍は突進した。第一目標はクタンス Coutance。サン・ローでアメリカ軍が突出したことから逆に北に突出した形のドイツ軍の戦線を切り離し、ドイツ軍左翼を包囲殲滅しようというのである。自失から立ち直ったドイツ軍拠点が時折頑強に抵抗したが、全体としてドイツ軍の防戦は効果がなく、28日にはクタンスはアメリカ軍の手に落ちた。孤立したドイツ軍左翼は、やむなく南東に突破退却し、友軍と合流した。結果として、海岸沿いの道路はほとんど無防備となり、アメリカ軍は自由に南下できるようになった。

 この状況を最大限に利用できるのは、どのような司令官だろうか? 勇猛果敢で、危険を恐れない司令官。戦車戦術を体で知り抜いた司令官。側面の不安から突進をためらう部下を、怒鳴り散らして再び走らせることのできる司令官。――突破部隊の指揮を命じられたジョージ・S・パットン中将は、まさにそういう司令官であった。



自民の首相経験者に頼めず…ポーランド国葬に江田議長
朝日新聞 2010年4月16日


政府は16日、政府専用機の墜落事故で亡くなったポーランドのカチンスキ大統領の国葬に、江田五月参院議長を代表として送ることを決めた。外国首脳の葬儀には、首相経験者らを送るのが通例だが、「自民党の人に頼むわけにもいかない」(首相周辺)。政権交代の余波に悩んだ末の前例のない人選となった。

 カチンスキ大統領夫妻の国葬は18日午後(日本時間同日夜)にポーランドで開かれ、オバマ米大統領も出席を表明している。日本も「首相級」(政府高官)を念頭に人選を進めたが、鳩山由紀夫首相、副総理の菅直人財務相ら主要現職大臣は国会出席などで時間をとれず、首相経験者はほとんどが自民党系。そこで「三権の長」である議長に目を転じ、足を痛めている横路孝弘衆院議長でなく、江田氏に白羽の矢を立てた。衆参両院の広報課によると、議長が外国首脳の葬儀に参列した例はないという。


「浜寺俘虜収容所のロシア兵」
かささぎの旗 2010年7月21日


開戦間もない1904年3月18日、まず松山俘虜収容所が開設されました。気候が温暖で風光明媚で温泉があるなどの条件が整っており、当初から開設が準備されていた施設です。船着き場には歓迎のアーチが立てられ、町の人々は紋付き羽織で捕虜たちを出迎えました。

捕虜の圧倒的多数は下士兵卒ですが、松山俘虜収容所は、すべてにおいて後続の収容所の手本となりました。道後公園では捕虜と市民の自転車競走が催されました。集団で伊予鉄道に乗って砥部焼の見学にも行きました。捕虜が自発的に道路の清掃をしたり、市民の靴を作ったりと市民との交流も盛んでした。 捕虜のミハイル・サポーシニコフは母国で昆虫学の研究をしていましたが、松山でも、山野での昆虫採集が許され、夜はその整理に費やしました。

捕虜の中には位の高い将校もいますが、将校の捕虜は主として松山へ送られました。妻子を呼び寄せ、家族水入らずの生活を享受した将校もいました。更に位が高い将官は名古屋収容所へ送られました。

八、

捕虜たちは「俘虜自由散歩規則」により、脱走しないことを「宣誓の上之を許す」(第1条)という条件下で自由な散策が許されていました。しかし、捕虜の中には「身の分際も打ち忘れて市中を闊歩し、さらでも人もなげなる日ごろの振舞いはますます放埓の度を高めて、料理店さては妓楼に押し登り、中には芸妓を落籍さんなどの取り沙汰さえあり」と報じられる者もいました。

 松山では道後温泉の遊郭に登楼する捕虜もおり、「祖国の為に奮闘し、刀折れ矢尽きて降参せし者、精々武士道の慰籍を与へよとの仁愛なる聖旨なれば、優遇は大いに可なり、自由観劇も可なり、自由飲酒も可なれども、相愛しての真正の恋なれば兎に角、売春は不可なり、公許は絶対不可なり」、という苦情も寄せられています。

海軍軍人の水野廣徳は捕虜厚遇の行き過ぎを批判しています。

「露国俘虜に至りては、我が待遇の寛なるに依るか、将俘虜の鉄面皮なるに依るか、将校の如きは青衣紅帽、美服を纏うて、傲然狭き大道を闊歩し、或は白昼妓楼に登つて豪遊を極め、或は妾を囲うて自由居住を為し、或は妻子を招いて同棲し、人をして俘虜か、外賓かを疑はしむるばかりであつた。」

「抑々俘虜の待遇法に関しては、国際法上一定の規約ありて、猥に虐待、凌辱を許さない。併し決して国民性を害して迄も、之を優遇せよとは要求して居ないのである」


全国初・俘虜収容所
MONDO EHIME


明治以後、松山に全国で最初の俘虜収容所が開設されました。日清戦争では清国の捕虜が92人、日露戦争では 多い時には4000人、延べ6019人が収容されていました。
 明治37年(1904)ロシア軍捕虜として22名の傷病水兵が松山捕虜収容所へ送られてきました。出迎えには地元の名士や関係者が多数出迎え、坊っちゃん列車の一等車に捕虜、市長以下は三等車だったといいます。ロシア軍捕虜は雲祥寺や来迎寺、大林寺、正宗寺、松山公会堂、城北練兵場などに収容されていました。
 待遇は松山公会堂から半径一里以内は自由行動。将校は市内居住まで許され、梅津寺の海水浴や芝居見物、道後温泉への入浴等が認められています。バーグ条約による博愛処遇で将校の妻子呼び寄せも16組もあったといいます。ロシア軍兵士が投降する時「マツヤマ」と叫んだといわれるのはこのようなあたたかい処遇が原因だったのかも知れません。
 送り込まれてきた捕虜兵は豊かな軍資金を持っており、「捕虜景気」と呼ばれるほど市内は繁昌したのです。以後、約6000人が松山捕虜収容所に送られましたが、ワシリ-ボイスマン海軍大佐をはじめとする98人のロシア兵士が松山で亡くなっています。この人たちの御霊は御幸町の来迎寺の境内に墓地があり、ロシアの方向、北向きに建てられています。
 この俘虜収容所を調べ、博愛の精神を全国に知らしめたのが才神時雄の「松山収容所」(中公新書)です。ぜひ一度ご一読のほど。


原田 敬一 『日清・日露戦争』 岩波新書
書評日記  パペッティア通信


なにより、外交が面白かった。 条約改正では、イギリス側は、日本が親英政策をとるという期待で改正に応じたという。 また、巷間でいわれてきたような、日英同盟派と日露協商派の対立は存在しない。 政府は、日英・日露協商交渉を並行しておこない、韓国の確保を確実にしようとしていたらしい。 しかも、1904年2月2日のロシア回答は、満韓交換論にもとづいたもので、これが日本軍の電信爆破活動で、駐日ロシア大使館に届かなかったという。なんと、日本は、戦わなくてもいい日露戦争を行ったらしいのだ!!!!  いったい、何のために彼らは死んでいったのだろう。  三国干渉では、陸奥外相の楽観論が破綻、急遽イギリスに味方してもらおうとしたもののもらえず、全面降伏に追い込まれたという。 安倍首相の「慰安婦は強制ではなかった発言」みたいでたいへん笑えてしまう(笑)。


日本の開戦理由と宣戦布告前の攻撃
平間洋一 歴史・戦略・安全保障研究室


次に、これまでの戦史で余り触れられなかった事項について紹介しよう。日露戦争についてロシアが強く非難しているのが、宣戦布告以前に行われた旅順港外の旅順艦隊への奇襲である。1904年1月31日にラムズドルフ外相を訪問した栗野慎一郎公使は、事態の「急速解決ノ為、其ノ全力ヲ尽クス」ことを約束した。公使は「露国ガ遂ニ一層譲歩ノ途ニ出タルヲ公然知悉シ」、2月3日には日本案への回答がアレクセーエフ総督に送信されたことを知りながら、日本はその3時間前には開戦を決しており、「露国ノ平和的口調ハ斯ノ如クシテ好結果ヲ奏セサリシナリ」と書いている。さらに、栗野公使が最後通諜をラムスドルフ外相に提出したとき、「国交断絶ヲ招キタルニモ拘ラス、戦争ハ依然避ケ得ヘキ希望ヲ有ス」と述べたこと、ローゼン公使が小村寿太郎外相に国交断絶とは何を意味するのか、戦争を意味するのかと問い合わせたところ、「日本外務大臣ハ微笑ヲ漂エ『未ダ戦争ニハアラズ』」と応えたのに、その時には日本海軍が日本海や朝鮮の港湾でロシアの商船を拿捕していたと非難している。

また、ニコライ皇帝も宣戦布告文で、日本政府は「外交関係ノ断絶カ軍事行動ノ開始ヲ意味スルコトヲ予告セスシテ、其ノ水雷艇ニ旅順要塞ノ外泊地ニ在ル朕ノ艦隊ヲ突然襲撃スヘキノ命令ヲ下シタリ。朕ハ極東太守ヨリ此ノ報告ニ接シ、直ニ兵カヲ以テ日本ノ挑戦ニ応スヘキコトヲ命シタリ」と、日本の宣戦布告前の攻撃を非難している。しかし、当時は宣戦布告を必要とするという規定が国際法にはなく、外交関係の断絶をもって宣戦布告とすることが国際的慣行で、宣戦布告の必要性が決められたのは、日露戦争2年後の1907年のハーグの国際会議からであった。このため米英独の新聞は「宣戦布告なしの開戦は、米西戦争や米墨戦争など多くの前例がある。1877年の露土戦争ではロシア自身が宣戦布告をせずにトルコに攻め入っているではないかと日本を支持し、ロシアに好意的なドイツの新聞でさえ「ロシアが日本の攻撃を非難しているが、1700年から1870年に起こった120の戦争のうち、110が開戦前に宣戦布告をしていない」と日本を支持していた。

 日本がロシアの回答を待つことなく開戦を決断した理由について、本書では次のように記している。イギリスのランズダウン外相は駐英林董公使に対し、「露国ハ日本ノ最後提案ニ於テ最早是ヨリ以上為シ能ハザル譲歩ヲ為シタルヲ以テ、若、日本ニシテ依然之ニ満足スル能ハズンバ、何ノ列強モ日本ヲ扶翼スルヲ至当ナラズ」と通告したが、日本は「断固開戦ト決定」した。それは対露戦争のために、すでに「数百万円ヲ投ジ」ていたからである。そして日本は、「ロシア艦隊が2月3日に旅順を出港した。行き先および目的は不明である」との芝罘からの新聞報道を口実に、戦争に踏み切ったとしている。また、ロシアの回答が開戦前に到着しなかったことについては、2月4日に発信され5日に東京に転電されたが、日本の電信局が配信しなかったため、外務省に到着したのは2月7日の国交断絶後であったとも記している。

 しかし、ランズダウン外相と会談した林公使の報告とは、かなりニュアンスが違っている。ロシア公使が韓国に関する日本の「要求一切ヲ受諾シ」、満州については清国の領土保全を尊重するとの「宣言ヲ関係列国ニ発スルヲ快諾スヘキ旨言明シタ」と述べた。そこでランズダウン外相は、日本は「此事ヲ以テ満足セサルコトハ前以テ世上ニ知ラレタルコトナリ」、ロシア政府は當初から「右ノ問題ヲ討議スルコトヲ執拗ニ拒否シナガラ、今日之ニ関シ」、このような「宣言ヲ襲セシコトヲ申出ルハ何故ナルヤト尋ネタルニ、露国大使ハ此質問ニ対シ」「稍ヤ當惑ノ体ヲ顕ハシタリ」。そこで「本大臣ハ兎ニ角保障又ハ宣言ハ日本ノ意ニ副ハサルヘシ」と応えたと林公使に伝えた。そして、このようにロシア公使との会見の内容を知らせるのは、「敢テ日本ニ対シ勧告若クハ圧迫ヲ爲スノ意ニ非ス」。それは「知リ得タル所ノモノヲ以テ、本官ニ知ラシムルヲ義務ト信スルカ故ノミ」であると語っていた。


ユーロトンネル内でトラック火災
日本の鉄道貨物輸送


1996年11月18日の夜、英仏海峡トンネル内の貨物シャトル列車上のトラックに載っていた可燃物から出荷し、8人が負傷、トラック15台が焼け、車運車5両が損傷した。

また事故のあった南側のトンネルの1/3が使用不能となった。これは、車運車がオープンタイプであったためトラックから出た炎が車両の外に燃え広がり、トンネル天井からコンクリートが剥げ落ち線路をふさぎ、き電線を溶断したことなどが原因。

火元のトラックはカレー基地から列車がトンネルに入る際にすでに出火していた。規定では、海峡トンネル内で列車火災があった場合、そのまま走り続け反対側の基地の非常用側線に入ることになっている。そのため列車はそのまま走りつづけたが、機関車の電気系統が故障し重大車両事故発生の警報が出たため、17km入ったところで停止した。

トンネルは11月19日も全面閉鎖となったが、12月初めには被害のなかった北側トンネルを用いて、イギリスと大陸間の直行貨物列車を走らせている。トンネル内には分岐点が2個所あり、またトンネル内の線路は双方向に運転可能であるため、このようなことができた。

なお12月4日にはユーロスターの運転も再開し、通常の90%の輸送力を確保し、運転再開以来の10日間で約6万人を輸送した。また旅客シャトル列車は12月10日に運転を再開し、一日平均約3000台のバス・乗用車を輸送しているが、通常の1時間当たり4本の運転が2時間当たり3本の運転になっている。運転再開後の輸送量は前年同期を上回っている。

被害を拡大した要因が貨物用車運車の構造(側面が格子状になっていること)にあることから、この問題が解決するまで英仏両国政府委員会は貨物シャトル列車運転再開の承認をユーロトンネル社に与えないことになっている。

このようなサービス低下で、通常ならば月平均4500万ポンド(約75億円)の営業収入は約半分にとどまっている。損害は当初 約20億フランと推定されていたが、火災による同社の直接被害と収入減は保険金5億5000万ポンド(約908億円)でカバーされ、直接の負担は700万ポンドにとどまる。火災を起こしたトラックの所有者への求償も保険でカバーされることになっている。またイギリス・フランス・ベルギーの3鉄道はユーロトンネル社に対して補償を求める動きがある。

全面復旧は1997年5月15日(重量貨物列車はのぞく)。復旧経費3億5000万フランは全額保険でまかなわれた。夏休みのピークまでに全面復旧する予定。


鹿鳴館開設
93才のホームページ


明治16年1883年7月7日、鹿鳴館開設、東京の麹町区山下町(現=東京都千代田区内幸町1丁目)の薩摩藩跡地に鹿鳴館が落成。

煉瓦造り二階建て、二階には大広間とバルコニーがあり舞踏会などが開かれた。

11月28日に名士1200余名が参加して盛大な披露パーティーが行われた。1945年の空襲で焼失。

鹿鳴館

官営の国際社交場として1883年(明治16)完成した洋館。東京府麹町区(現東京都千代田区)に、イギリス人コンドルの設計で総工費18万円をかけてつくられた。安政五カ国条約(1858)で欧米諸国から不平等条約をおしつけられた日本は、条約改正の必要にせまられていた。改正交渉にあたった外務卿井上馨は、日本の開化を諸外国にみとめさせるには欧化政策が適当と考え、伊藤博文首相らとともに上流社会の欧化をすすめた。その舞台とされたのが鹿鳴館である。園遊会・仮装舞踏会・バザーが頻繁にひらかれ、鹿鳴館時代とよばれる上流社会の流行を生むが、こうした欧化政策はいかにも表面的なものとして世間から批判された。また、井上の改正案は不平等条約の撤廃とはいいがたい内容だったため、けっきょく条約改正は失敗し、1887年の井上の辞任で鹿鳴館時代もおわった。建物は90年から華族会館として使用され、のち1941年(昭和16)にとりこわされた。

鹿鳴館の復元模型

 鹿鳴館は、明治期の欧化主義を象徴する建物である。当初の計画では、

 外国人接待所とされ、あわせて上流社会の欧化がすすめられた。

 お雇い外国人コンドルの設計で、1883年(明治16)に完成。

 工費は当時のお金で約18万余円だったという。


新幹線イベント中止 JRなど 地震被害「適切でない」
西日本新聞 2011年3月12日


東北・関東大地震が起きた11日、九州新幹線鹿児島ルートの全線開通を翌日に控えたJR九州や沿線自治体は、震災被害に配慮し祝賀行事の中止を相次いで決めた。九州にとって記念すべき一番列車は12日早朝、出発式もないホームを静かに発進する。

 JR九州は11日午後、唐池恒二社長が「地震の被害状況が分からない中での式典開催は適切でない」と判断。博多駅での出発式を含め、沿線各駅での行事をすべて取りやめた。唐池社長と福岡、佐賀、熊本県知事の共同記者会見も中止した。

 鹿児島中央駅前では、青森と鹿児島が新幹線でつながることを祝って、「知覧ねぷた祭」が開かれるはずだった。担当の中木原重見さん(65)は「青森のねぷたの踊り手と連絡が付かない」と心配そう。鹿児島市を訪れていた青森市の鹿内博市長は、震災の知らせを受け地元に急ぎ向かった。

 11日で定期運行を終了する日豊線の特急車両「485系」のお別れイベントや、12日から指宿枕崎線を走る観光特急「指宿のたまて箱」の出発式も中止に。鹿児島中央駅の前園景久副駅長は「天災なので仕方ないと納得してほしい」。

 博多駅上空で予定していた航空自衛隊の飛行隊「ブルーインパルス」の記念飛行や、北九州市の小倉競馬場で開催するはずだった新幹線全通記念レースもなくなった。熊本県の阿蘇地域では大火文字焼きを中止。

 ただ、同県は「新幹線で訪れた人には精いっぱいのお出迎えを」と、蒲島郁夫知事やタレントのスザンヌさんらが新大阪発「一番列車」などを熊本駅で出迎える。博多駅周辺での音楽祭などのイベントも一部内容を変更して実施する。


新幹線開業式典、大地震で全て中止=運行は予定通り-JR九州
時事通信 2011年3月11日


JR九州は11日、九州新幹線鹿児島ルート全線開業に伴い12日に予定していた出発式など全てのイベントを中止すると発表した。運行自体は開始し、鹿児島ルートは全線開業させる。


安楽死国際会議 1976年開催
おいおいー2 2005/08/23


1976年昭和51年の8月23日、東京で開催された。米、英、和蘭、墺太利、フィリッピンの代表が参加した。翌日「人間は品位ある死の権利を保有する。」という安楽死に関する東京宣言を発表した。延命をめざす医療と人工的な延命拒否との矛盾をめぐる議論を各国で起こした。安楽死とか尊厳死の定義ずけも議論をよぶところとなった。


東京宣言
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点


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第一回国際安楽死会議 1976年 東京

近年、品位ある死を選ぶ権利、もしくは安楽死に対する個人の関心が高まりつつ あるのが看取される。われわれは、すべての人びとが、権利と自由を持つことを信 ずる。このことは、われわれに、品位ある死を選ぶ権利、すなわち、やすらかに苦 しまないで死ぬ権利を確認するに至った。
  死は避けられない。しかしわれわれは、人がいかなる死に方を選ぶかは、この個 人の決定にゆだねられるべきことを信ずるが、この要求は、死に伴う悲しみのほか には、社会に害を及ぼすものであってはならない。
  個人の願望の宣言書または、″生者の意志″は、人間固有の権利として、すべて の関係者に尊重されるべきである。したがって、すくなくとも現在においては、こ の宣言書または″生者の意志″が法的に効力を持つことを要求し、この線にそって 立法化への努力がなされるべきである。
  安楽死、または、品位ある死にかんする東京国際会議を通じて、各国の国民運動 は国際的協力とともに国際的連帯をかちとることができた。情報交換のための連絡 センターの設置と、定期的に開催される国際会議の招集によって、上述の目的達成 のため、お互い努力しよう。
                 一九七六年八月二四日 東京安楽死国際会議


サムの息子 SON OF SAM (アメリカ)
マジソンズ博覧会


デビッド・バーコウィッツ (ウィキペディア)

それは1976年7月29日に始まった。ニューヨーク市北ブロンクスでの出来事である。夜中の午前1時頃、二人の女性が停車中の車の中でおしゃべりをしていた。薬剤師のドナ・ローリア(18)と準看護婦のジョディ・バレンティ(19)である。ボーイフレンドの話をしていたらしい。熱心なあまりに男が近づいて来たことに気づかなかった。
 やがてドナはおやすみを告げ、ドアを開けて車から出ようとした。その時に初めて数メートル先の男がこちらを凝視していることに気づいた。茶色い紙袋の中に手を入れて何かを取り出そうとしている。
「あの人、何してるのかしら?」  男が取り出したのは銃だった。次の瞬間、ドナは首を撃たれていた。傷口に手をやると肘を撃たれた。ドナはその場に崩れ落ちた。
 キャーッ。
 叫び声をあげたジョディは太腿を撃たれた。ハンドルの上に倒れ込むと、クラクションがけたたましく鳴り響いた。これに動揺した犯人はそのまま逃走。おかげでジョディは九死に一生を得たが、ドナは助からなかった。
 ジョディによれば、男はくせ毛で30歳くらい、その顔に見覚えはなかった。ドナのボーイフレンドでもない。怨恨でなければ物盗りでもない。通り魔殺人の可能性が濃厚だが、捜査は一向に進展しなかった。

 3ケ月後の10月23日、クイーンズのフラッシング地区で再び事件は起きた。学生のローズマリー・キーナン(18)は、バーで出会ったばかりのカール・デナーロ(20)を連れて自慢のフォルクスワーゲンに乗り込んだ。どこかムードのある場所に移動するところだった。その時に銃声が鳴り響いた。5発の銃弾が撃ち込まれ、1発はカールの後頭部に命中した。一命は取り留めたものの、予定されていた空軍への入隊は御破算となった。
 警察はこの時点ではまだ二つの事件を関連づけてはいなかった。ブロンクスとクイーンズでは治安が違う。住人の階層も違う。だから、二つの地域での事件は分けて扱うのが通例になっていたのだ。

 1ケ月後の11月27日、クイーンズのフローラル・パーク地区で、ジョアン・ロミーノ(18)とドナ・デマッシ(16)は夜遅くまで玄関前に腰を降ろしておしゃべりしていた。もう遅いのでおやすみなさいとジョアンが立ち上がり、鞄の中から家の鍵を取り出そうとした時、一人の男が近づいて来た。男は彼女たちに気づくと、急に向きを変えたのでぎょっとしたという。男はどんどん近づいて来る。そして、
「ちょっと道を教えてもらいたいんだけど」
 こう云い終えるや否や、銃を取り出し発砲した。1発はドナの首に、1発はジョアンの背骨に命中した。二人は幸いにも一命を取り留めたが、ジョアンは下半身不随になってしまった。

 2ケ月後の77年1月30日、やはりクイーンズのリッジウッド地区でジョン・ディール(30)とクリスティン・フロイント(26)は『ロッキー』を観た後、夕食を楽しみ、午前0時頃に車に乗った。ニューヨークの冬は寒い。その日も氷点下だったために窓ガラスはたちまち曇ってしまった。ジョンはクリスティンに接吻すると、車のエンジンをかけようとした。その時、薮から棒に銃声が鳴り響き、助手席の窓ガラスが粉々に砕け散った。クリスティンは血まみれでジョンの腕の中に崩れ落ちた。頭を撃たれている。数時間後に彼女は息を引き取った。
 警察はここでようやく一連の事件が同一犯であることに気づいた。弾はいずれも同じ44口径から発射されていたのだ。無差別の銃撃犯がニューヨークにいることに市民は怯えた。マスコミは彼を「44キラー」と命名した。

 3月8日午後7時30分頃、先の事件とほど近い場所をヴァージニア・ボスケリキアン(19)は一人で歩いていた。マンハッタンのコロンビア大学からの帰宅の途中だった。自宅まであと200メートルのところで見知らぬ 男が彼女の前に立ちはだかった。男は銃を取り出した。咄嗟に彼女は手にしていた本で身を守った。しかし、銃弾は本を貫通し、前歯をへし折り、頭蓋骨でようやく止まった。即死だった。

 4月17日午前3時頃、最初の事件とほど近い場所でアレグザンダー・イーソウ(20)とヴァレンティナ・スリアーニ(18)が車内で抱擁していた。そこに「44キラー」が現れた。頭を2発撃たれたヴァレンティナは即死、同様に頭を2発撃たれたアレグザンダーも2時間後に病院で死亡した。
 この時、犯人はメッセージを残していた。車から数メートル離れた道路の中央に白い封筒が置かれていたのだ。宛先はジョセフ・ボレリ警部。彼は「犯人は精神異常者で、女性を憎悪している」との推論を披露したばかりだった。


「俺が警察を強くしてやる」と民間会社を辞め警察庁へ
亀井静香公式Webサイト


東京大学の経済学部を卒業した亀井静香氏は、大阪に本社を置く別府化学工業(現・住友精化)に入社した。当時、安保騒動のまっただなかで、デモ隊の国会乱入など世相は騒然としていた。
 「私は兵庫県の西宮の独身寮でテレビを見ていたんですが、憤慨しましたよ。デモ隊のやりかたにではなく、対デモ隊との攻防で警察があまりにも弱く好き放題にされていたからです。自分は単純な性格なもんで、“オレが警察に入って強くしてやろう”と思って会社に辞表を出してしまいました」
 別府化学に入社して、ちょうど一年目の昭和三十六年三月のことである。会社を辞めてしまったので金はない。就職の意思がないというので失業保険も一か月でストップされてしまった。そこで、古巣の東大合気道部の道場に布団とミカン箱を持ち込み、アルバイトをしながら猛勉強を開始した。
 この年の七月、警察上級職試験の小手試しのつもりで、まず国家公務員試験を受けてみた。生まれて初めて憲法、行政法、刑法などの法律書を買いこんでのにわか勉強だったが、なんと三番の成績で合格した。当然あらゆる役所から声がかかった。中でも通産省が熱心だったが、当初の目標であった警察上級職試験に挑戦。こちらも七番の成績でパスし、翌年四月、念願の警察庁入りを果たした。
 亀井氏は公安第一課での見習い期間を終え、鹿児島県警本部監察室長、鳥取県警本部警務部長、埼玉県警本部捜査二課長などを歴任したが、豪放磊落らいらくな性格とキャリア組にありがちなエリート臭さがいっさいないため、行く先々で部下の信望を集めた。


■赤十字の誕生
宇城市社会福祉協議会


■赤十字の誕生

赤十字は、1863年にスイスのジュネーブで誕生しました。これを最初に唱えたのは、スイスのアンリー・デュナンというひとです。1859年6月24日、北イタリアのソルフェリーノの丘を中心にイタリアの統一をめぐって激しい戦いが繰り広げられていました。この時、一旅行者として戦場の近くを通りかかったのがアンリー・デュナンだったのです。
彼は、うめき苦しんでいる負傷者を目のあたりにして黙って見ていることができず、かけよって敵味方の別なく手当てをしました。 戦いが終りジュネーブに帰ったアンリー・デュナンは「ソルフェリーノの思い出」という一冊の本を書き、戦争の悲惨なありさまを伝えるとともに、本の中で「戦争のときに負傷者を救護する団体を、平和で穏やかな時代に組織しておくことはできないであろうか。」
「また、これらの教護にあたる人たちに便利を与えるよう、国際的に神聖な協定を結ぶことは望めないであろうか。」という二つのことを主張しました。
アンリー・デュナンの主張は、多くの人々の心を揺れ動かし共感者を得ました。この問題を最初にとりあげたのは、スイスにあるジュネーブ公益協会でした。ジュネーブ公益協会は、アンリー・デュナンの提案を研究するため、アンリー・デュナンを含む法律家・医学者・軍人の5人の委員を選びました。
5人の委員は、1863年2月17日にジュネーブにおいて最初の会合を開き、ここに「五人委員会」が誕生しました。これが後の「赤十字国際委員会」なのです。
すべての準備を終えた五人委員会は、1863年10月26日から29日まで、ヨーロッパ16ヵ国の代表をジュネーブに迎えて最初の国際会議を開き、「赤十字規約」を採択して各国に救護団体をつくることを申し合わせました。そして、その団体のしるしとして、発祥地であるスイスの国旗の色を逆にして「白地の赤十字」とすることが決められました。
その翌年、1864年8月8日から22日まで、ヨーロッパ16ヵ国の代表がジュネーブに集まり、12ヵ国の代表によって「赤十字規約」が調印されました。これが後の「ジュネーブ条約」です。
こうして、アンリー・デュナンの理想であった教護団体は「赤十字」として、国際的な協約は「ジュネーブ条約」として実を結んだのです。

■日本赤十字社の誕生

日本赤十字社は、明治10年(1877年)5月1日に創立されました。これを提唱したのが佐野常民です。
明治10年2月15日、西郷隆盛が鹿児島に兵を挙げて熊本に進み、ここに「西南の役」が起こりました。この時、佐野常民は元老院議官でしたが同じ元老院議官の大給恒と語り合い、ヨーロッパ各国にある赤十字と同じような組織をつくり、敵味方の別なく負傷者を救護しようと考え、博愛社と名づけて政府に創設の請願書を提出しました。しかし、政府からは「敵味方の別なく負傷者を教護する」ということについて受け入れられず、請願書は却下されました。
そこで、佐野常民は、請願書を持って熊本へ赴き、ときの征討総督有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社の設立許可を願いました。明治10年5月1日のことです。有栖川宮熾仁親王は英断をもって博愛社の創設をお認めになりました。
これが後の日本赤十字社です。日本赤十字社では佐野常民が請願書を提出した5月1日を「創設記念日」と定めています。
西南の役の後、佐野常民らは、わが国も世界の赤十字の仲間入りをすることを希望し、江戸時代の蘭学者シーボルト男爵の援助を得て、政府にジュネーブ条約への加盟を働きかけました。こうして、日本政府は明治19年(1886年)6月5日、ジュネーブ条約に加盟し 11月15日をもってジュネーブ条約の加盟を公布しました
そこで、博愛社も明治20年(1887年)5月20日、社名を日本赤十字社と改め、赤十字国際委員会に申請して、9月2日に国際赤十字の一員として加盟することが公認されました。


NY円一時76円台 16年ぶり最高値更新
日テレNEWS24 2011年3月17日


16日のアメリカ・ニューヨーク外国為替市場で円相場が急騰し、一時、1ドル=76円台前半まで円が買われて95年4月19日以来、約16年ぶりに史上最高値を更新した。

 市場関係者は「企業や投資家が日本国内で資金が必要になり、海外に蓄えているドルを円に戻す動きが見込まれることから、円が買われている」と指摘している。

 一方で、今後、国内生産や輸出が落ち込めば、将来的には円安に動くとの見方も出ている。


中国、日本抜き世界2位の経済大国確実に 10年のGDP10・3%成長
産経ニュース 2011.1.20


中国国家統計局が20日発表した同国の2010年国内総生産(GDP、速報値)成長率は、物価変動の影響を除く実質で前年比10・3%増と、07年以来、3年ぶりに2ケタ成長を記録した。第4四半期(10~12月期)の実質GDP成長率は前年同期比で9・8%だった。

 日本の10年1~9月のドル建て名目GDPは中国をわずかに上回ったが、10~12月期は中国が大きく日本を上回ったもようで、中国が通年でも初めて日本を抜いて、世界第2位の経済大国に浮上したことが確実視されている。中国の10年の名目GDPは39兆7983億元(約5兆8813億ドル)。


シーア派聖地で爆弾テロ、45人死亡 イラク・カルバラ
朝日新聞 2011年1月20日


ロイター通信などによると、イスラム教シーア派の聖地として知られるイラクのカルバラで20日、巡礼者らをねらった連続爆弾テロが起き、地元当局は計45人の死亡を確認。150人以上が負傷した。カルバラの近郊2カ所で、シーア派最大級の宗教行事アルバインの巡礼に向かう車列そばの車が爆発したという。

イラクでは18日に中部ティクリートで警官の募集中に爆弾テロが起き、65人が死亡したほか、19日にも警察施設や巡礼者を狙った爆弾テロで多数の死傷者が出たばかり。犯行声明は出ていないが、国際テロ組織アルカイダ系組織の犯行とみられている。


映画みたい “FBI史上最大級” 5大マフィア一斉摘発
スポニチ 2011年1月21日


米連邦捜査局(FBI)は20日、ニューヨーク・マフィアと呼ばれる犯罪組織を一斉摘発し、幹部ら100人以上を逮捕、訴追した。捜査は「ガンビーノ・ファミリー」「コロンボ・ファミリー」など5大マフィア全てに及び、捜査当局は「FBI史上最大級の摘発」としている。

 この日ニューヨークで記者会見したホルダー司法長官によると、容疑罪名は殺人、薬物取引、恐喝、賭博、違法な高利金融など。対抗組織への襲撃、強盗を企てた際の巻き添え殺人、バーでのいさかいに端を発した撃ち合いなど多岐にわたる。

 訴追されたのはガンビーノ・ファミリー幹部ジョセフ・コロッツォ容疑者(69)やコロンボ・ファミリー幹部アンドルー・ルッソ容疑者(76)ら。

 捜査は裁判所の令状に基づく盗聴や、マフィアの元メンバーによる情報提供によって進められた。容疑者のうち1人はイタリアで逮捕された。


サウジでデモ呼び掛け 3月11日を「怒りの日」に
産経ニュース 2011.2.26


サウジアラビアで、3月11日を「怒りの日」とし民主化などを求めるデモを行うことが26日までに、インターネットの交流サイト「フェイスブック」で呼び掛けられた。

 同日夕までに約9600人が賛意を表明。チュニジアやエジプトなど中東各地での反政府デモに触発された動きとみられ、実際に行われるかどうかが注目される。

 呼び掛けは、国政の助言機関、諮問評議会への選挙導入、政治犯の釈放、言論の自由拡大などを求めている。

 サウジでは東部で、一部のイスラム教シーア派住民が政治犯釈放を求める小規模なデモを実施しているが、王制を揺るがすような大きな広がりにはなっていない。


不発に終わった3月11日「怒りの日」(サウジアラビア、中東、北アフリカ)
ジェトロ 通商弘報 2011年03月16日


<杞憂に終わった警戒>

 米国など各国大使館の多くは自国民が混乱に巻き込まれるのを避けるため、3月11日の外出を禁止または控えるよう通知していた。一部の日本企業の中には同日の外出を禁止した企業もあったが、結果として杞憂(きゆう)に終わった。

 筆者は礼拝後の15時半から18時にかけて、事前にデモ開催がうわさされていたモスクやオフィス、商業施設が集積するリヤド市内の中心部と官庁街に出掛けてみた。外出している人の姿は通常の金曜日よりも少なく、通常なら16時以降開店する商店も閉じているなど非常に静かだった。多くの人がこの日は外出を控えたようだ。

 ただし治安当局は、定期的にヘリコプターで市内を巡回したほか、中心部の目抜き通り(キング・ファハド通り、オライヤ通りなど)では、約20メートル間隔で警官(通常の交通警察)を配置し、空き地には治安部隊を集結させるなど、厳戒態勢で不測の事態に備えていた。この様子から、当局もデモを相当に警戒していた様子がうかがえる。

 ロイターはシーア派が多く住む東部州ホフーフ市で200人規模のデモがあったと報道(3月11日)したが、その真偽は確認されていない。また、実際に何も起こらなかったため、フェースブックであおっているのは国外の勢力だという見方もある。


最近の中東・エネルギー情勢から
中東・エネルギー・フォーラム (2010年2月19日掲載)


新設原子力発電所向けの政府保証(約80億ドル)の供与を発表したオバマ米大統領

 オバマ米大統領は2010年2月16日、ジョージア州に新設予定の原子力発電所向けに約80億ドルの政府保証を供与することを発表した。対象となるのはサザン・カンパニーがジョージア州で計画しているボーグル原子力発電所の2基である。米政府が原子力発電所に政府保証を供与するのは、1979年にスリーマイル島の原子力発電所で事故が発生して以来のこととなる。

 オバマ米大統領は同日、次のように語り、新設原発への政府保証の有用性を説明した。

★ 2基の発電所は『安全且つクリーン』であり、米国の将来のエネルギー需要を充足するうえで必要なものである。
★ 米国は過去30年間、新規の原子力発電所を建設してこなかった。
★ この事業は今後8年間で3000人分もの建設雇用を生み出すと同時に、施設の操業段階では数百人分の常用雇用が確保される。
★ 今回は安全でクリーンでエネルギー効率の良い新世代の原子力発電所を開発しようとの努力の始まりに過ぎない。
★ 米国の経済・社会、そして地球の将来に影響する問題で、我々は右か左か、環境主義者か企業家かという古びた議論に囚われていてはならない。
★ 伸び行く米国のエネルギー・ニーズを充足し気候変動の最悪の影響を回避するために、我々は原子力発電を増やして行かねばならない。

 オバマ米大統領は、2010年1月27日の一般教書演説で、既に「米国内の安全且つクリーンな原子力発電所を建設する」と表明しているほか、具体的支援策として原子力発電所の建設向けの政府保証枠を、現在の185億ドルの3倍の540億ドルに拡大するとの方針も打ち出している。

 サザン・カンパニーのデビッド・ラトクリフ最高経営責任者(CEO)は今般のオバマ大統領の発表について、「これは米国のエネルギー・ミックスでの多角化で原子力発電所が果たす役割を裏書する重要な発表であり、温室効果ガスの排出の抑制を支援することになる」(http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/8518670.stm)と述べ、大統領の発表を称えた。

 米国では現在31州で104基の原子力発電所が稼動し、2006年時点で同国の発電量の19.1%を賄い石炭(49.8%)、天然ガス(19.6%)に次ぐ熱源となっている。また現在世界では56基の原子力発電所が建設中である。


カーター大統領の原子力政策に関する声明
ワシントン外交文書 1977年4月7日


東京大学東洋文化研究所 

今日において,原子力利用に係わるジレンマほど解決の困難なものはない。多くの国は,原子力を,少くとも,今世紀中は,自国の経済発展の輸入石油への依存度を減少させるための唯一の現実的手段だと考えている。(石油は供給に不安があり,価格の上昇及び枯涸の恐れがあるエネルギー源だからである。)米国は,これらの国々と異なり,国内に大量のエネルギー源-石炭-を有している。しかしながら,石炭の利用には問題がないわけではなく,米国政府の計画もエネルギー生産の一部を原子力利用により賄うことを予定している。

 原子力の利益は,このように非常に現実的であり,実際的なものである。しかし,原子力が広く世界的に利用される場合には非常な危険が伴う-即ち,原子力利用過程のある部分が核兵器製造に転用される危険があるからである。

 米国は,核不拡散条約を通じて,核兵器所有の拡大の危険を減少させるために重要な一歩を進めた。同条約により,100カ国以上の国が核爆発装置を開発しないことに同意している。しかし,米国は更にこれを押し進めなければならない。米国は,核兵器又は核爆発能力の一層の拡散が全ての国にもたらす結果につき深刻な懸念を有している。米国は,プルトニウム,高濃縮ウラン又はその他の兵器転用可能物質への直接の接近を可能とするセンシチブな技術の一層の拡散により,この危険が大いに増大するものと信ずる。私が大統領就任以来検討して来た問題は,いかにして,このことを原子力の具体的な利用を放棄することなく達成できるかという問題である。

 我々は今や,原子力の利用に係わる全ての問題について徹底的な再検討を完了しつつある。我々は,拡散のもたらす深刻な結果及び平和と安全保障への直接的影響にかんがみ,また,科学的,経済的理由からも,次のことをしなければならないとの結論に達した。

 -米国内の原子力政策と計画の大幅な変更。

 -原子力の利用増大に伴なう問題点と危険に対するより良い解答を見出すべく各国との協調努力。

 本日,私は,上記の検討結果より次の決定を発表する。

第1 米国政府は,米国の原子力計画において生産されたプルトニウムの商業的再処理及びリサイクリング(再利用)を無期限(indefinitely)に延期する。

  米国政府は,独自の経験により,原子力計画がかかる再処理及びリサイクリングを行わなくとも,十分経済的に成り立ち得るとの結論を引き出した。

  我々は,サウス・カロライナ州のバーンウェル工場に対し,再処理施設としてその完成のため連邦政府の奨励も,また資金の援助も行わない。

第2 米国の現行増殖炉計画を変更し,別の形の増殖炉の設計を優先させ,増殖炉が商業化される時期を延期する。

第3 核兵器に使用可能な物質に直接結びつかない核燃料サイクルの代替案の研究を促進するため,米国の原子力研究開発計画に関する予算の再編成を行う。

第4 国内及び海外の需要に対して,十分且つタイムリーに核燃料を供給するため,米国の濃縮ウラン生産能力を増大させる。

第5 他国に対し核燃料供給契約を提示し,且つかかる核燃料の引渡しを保証し得るため,必要な立法措置を提案する。

第6 ウラン濃縮及び化学的再処理に関する設備又は技術の輸出を引き続き禁止する。

第7 核爆発能力の拡散を減少させながら,すべての国のエネルギーに関する目的を達成し得る広範な国際的アプローチと枠組につき,供給国と輸入国と一様に協議する。

  その他,米国政府は,代替核燃料サイクル開発を目的とする国際核燃料サイクル評価計画,並びに不拡散という共通の目的を分かち合う諸国のため,核燃料供給と使用済燃料貯蔵へのアクセスを保証する国際的及び国内的措置の確立を探求する。

 米国政府は,核エネルギーが平和的,経済的目的のために実用化されることを保証するために,最も望ましい多数国間及び二国間取極に関して,各国政府と極めて緊密に引き続き協議を行う。

 米国政府の真意は,この死活的に重要な問題に関して,組織的且つ徹底的国際的協議を通じて広範な国際協力を進めることである。


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