高村 光太郎(明治16年〜昭和31年)

(1) 誕生から留学まで


 詩人・彫刻家。幼少時代、家庭では「光(みつ)」「光(みつ)太郎」と呼ばれており、その後本人自らが、今我々が用いている「光(こう)太郎」を名乗った。
 短歌など発表するさいの初期雅号は高村(篁)砕雨など。
 父幸吉(のち光雲)は下町の木彫師で、のち東京美術学校(現東京芸術大学)教授。上野公園の『西郷さん』が有名。妻とよとの間に五男四女をもうけた。光太郎はその長男。この中に、大切な関わりを持つ三人がいる。
 姉「咲」(さく、さき、咲子など)は日本画を学び、狩野派の名と号を得たが十六歳のとき肺炎で没する。このとき光太郎は十歳。優しく妹や弟たちの面倒をみてくれた「咲」姉さんへの敬愛と感謝は終生のものとなる。咲の芸術的素地は確実に光太郎へも流れている。
 次に対照的な立場の次男「道利」。東京外語に通い、のち父に内緒でパスポートをとり「言語学の習得」を名目に渡欧したが、長期滞在ののち病院(フランスの?)から日本へ送還された。帰国後も独身を通し、しかも働く意欲がなく三男豊周(とよちか)宅に居候して、昭和20年に没した。
 三男豊周は鋳金家。父の命ずる、望んだ伝統的な芸術観を成熟させ、長男光太郎に代わって両親の面倒をみた。「高村家」の家督を継ぎ光太郎と智恵子の生き方に何ら反発するどころか、黙って一切を引き受けた。このことに光太郎は感謝とともに、長男として「負い目」を感じていたと考えられる。兄没後、その業績をまとめることに尽力した。
 ところでもう一人、光太郎の父方の祖父にあたる中島謙吉(通称兼松)も幼少期における大切な人物だ。父光雲は決して裕福ではなく自らの木彫りの技術で名を上げ、伝統を守り、大家族を養うことが最優先であるから、多数の子供をかまうことにそう時間は割けなかったであろう。そんな中で少年期の光太郎に江戸時代の息吹を、下町の香具師の気風、気質を教えてくれた人物は、光太郎16歳のとき82歳で没した。

 光太郎は7歳頃から木彫用の小刀を手にし、父の働く仏師としての環境には充分慣れ親しんでいた。明治29年下谷小学校卒業、翌年東京美術学校入学、ここで森鴎外に「美学」を学んでいる。明治32年、木彫りと塑造で(生徒成績品展覧会)一等、二等に各2作選ばれている。
 明治33年(1900年)17歳の光太郎に文学上の転機がくる。まず『読売新聞』の「俳句はがき便」に応募して入選、また与謝野鉄幹の『新詩社』に入り『明星』に短歌を、以後7年間に戯曲、翻訳、感想も発表した。当初の添削は鉄幹調に直され、原型をとどめないほど赤が入っていたという。この年末、『新詩社』に入ってきた早稲田の学生、水野葉舟を知り、以後半世紀に及ぶ交流を持つ。二人の友情は弊社刊行の『光太郎と葉舟』に詳しい。しかし葉舟は鳳晶子(のちに与謝野)が上京し、鉄幹のもとにくるようになって以来『新詩社』を離れた。

 明治35年に彫刻科(木彫り)を卒業。その後研究科に進んだが、一説には徴兵を先延ばしするための「在籍」という。明治38年に洋画科に転じた。この時の同級生に藤田嗣治がいる。
 ところで「新詩社」以降、光太郎にある決意をさせたのは彫刻家ロダンとの出会いだった。


   追加執筆は2011年1月末予定