白き仮面の悪魔

第2話

「レディ・グレースに間違いないんだな。確か……一緒に連れ去られたメイドも、亜麻色の髪をして同じ歳頃だったと思うが」
 検死報告書を手に取りつつ、ジョエルは呟いた。
 そこには――顔は潰されており判別不明。推定年齢十代後半から二十代前半の女性。身長約五フィート三インチ。亜麻色の髪。全裸の体を包んだ外套に“G.E.R”の刺繍――などといった文章が並んでいる。
「サラ・ファーカーだな。実は、遺体の確認は彼女の婚約者にして貰った。行方不明のサラを探す為に、ちょうどロンドンに出てきていたんだ」
 クインシーはそう言うと、サラ・ファーカーの身上書をジョエルに手渡す。
 年齢は二十歳。家族はなし、但し、フィリップ・シーウェルと婚約中。背中まである亜麻色の髪。ヴァイオレットの瞳。身長五フィート三インチ。
「……すみれ色の瞳ヴァイオレット、か……」
「どうした?」
「いや、レディ・グレースの瞳は何色だったかな、と思ってね」
 クインシーは机の周囲を探すがすぐに書類が見つからなかったらしい。
「確か……同じヴァイオレットじゃなかったかな。婚約者曰く、サラの右の腰には一ペニー銀貨大の痣があったそうだ。遺体は長時間流されたらしく、かなり傷んではいたが……幸か不幸か、婚約者は医者でね。彼自身の目で確認し、遺体はサラではない、と言い切った」
「……そうか」
 ジョエルは複雑な思いでその報告を聞いていたのだった。

 入り口の扉がノックされ、クインシーの若い従僕が入ってきた。海軍の頃からクインシーの従卒を務めてきた男だという。お茶をテーブルに置き、静かに下がっていく。
「家政婦くらい雇ったらどうだ? もうこの屋敷に住み始めて四ヶ月だろう」
 ジョエルの忠告にクインシーはため息をつく。
「時間がない。それに、重要書類もあれば、極秘の会話もする。適当な人間は雇えないし、若いメイドなど論外だ。君と違ってね」
「一言余計だ」
 若いメイドに手を付けた覚えはない、と言ってやろうかと考え、口を閉じる。
 クインシーは革張りの椅子に深く腰掛け、ジョエルよりよほど貴族然とした上品な顔を歪めて何事か悩んでいる。ジョエルはその心当たりに対して、慰めの言葉を口にした。
「レディ・グレースはお気の毒だった。だが、君のせいじゃない。警戒を緩めたのは、治安判事の決定だったんだ」
 一般市民はこの厳重警戒に不満を漏らしていた。それもそのはず、彼らから被害者は出ていないし、出るとも思われていなかったからだ。だが万一にも遭遇すれば、一般市民と言えどもただでは済まない。ジョエルはそう言って、夜間外出禁止の命令を出して貰った。
 一方、貴族たちもそろそろ始まる社交シーズンに向けて、娘たちをロンドンに呼び寄せる必要を感じていた。一ヶ月も犠牲者は出ていない。『白き仮面の悪魔』もロンドンから逃げたに違いないと言い、警戒を解くよう治安判事に働きかけた。
 そして自警団の数が元に戻され、午前十二時を回っての警戒区域が縮小された二日後――ロッドフォード伯爵令嬢が襲われたのである。
「あの夜は私も警戒に出ていた。後一時間遅れて、あの辺りを回っていれば……」
 そう言った直後、ジョエルはハッとして口を閉じた。
「それは初耳だな」
 ジョエルが警戒に回る義務はない。だが、少しでも力になれば、と彼も協力を申し出ていた。しかし、あの夜のことはクインシーに黙っていたのだ。
「私にも……外聞を憚ることの一つや二つはあるさ……」
「ほう、それは知らなかった。クラン男爵が夜遊び好きとは」
 身分を持ち出せばクインシーを黙らせることは出来る。だが、ジョエルはそれをしなかった。
 クインシーもそれを察し、
「勘違いしないでくれ、ジョエル。君はもっと遊ぶべきだよ。私はこの事件が片付くまで禁欲を誓っているが、君が付き合う必要はない」
 検死報告書や身上書をジョエルからスッと取り上げ、机の抽斗ひきだしに仕舞った。

 クインシーはこの事件の解決に賭けている。
 摂政皇太子に比べ、クレランス公は庶民の人気が高い。それには身分の差で結婚出来ないものの、たった一人の女性と長く付き合っているせいであった。彼女との間に十人の庶子を儲け、その全員に自分の名から取った苗字を与えている。皇太子妃を虐待し、次々に愛妾を取り替え、散財を繰り返す皇太子に人心が集まるはずがない。皇太子に万が一のことがあれば、一人娘のシャーロット王女よりクレランス公のほうが王位に相応しい、という声すら上がっていた。
 そのクレランス公の期待に応え、彼がナイト以上の称号を狙っているのは明らかだ。
「付き合う気はないよ。私にとっては意味のない称号だが、君の役に立てるなら幾らでも使うさ。クラン男爵の名前が必要になったら呼んでくれ」
 ロッドフォード伯爵は皇太子派の有力貴族だ。クレランス公の息の掛かったサー・クインシーでは門前払いだろう。事実この十日間、伯爵はジョエルが同行しない時は一度もクインシーに会おうとしなかった。
 案の定「明朝、ロッドフォード伯爵に面会を求めているので君も同行して欲しい」とクインシーはジョエルに頼んだ。
 

    ☆     ☆


 クインシーの部下はイーストエンド側にはあまり行きたがらない。
 昨今のロンドンは工業化による労働者人口が増加し、アイルランド人をはじめ素性の判らない人間が流れ込んでいる。その多くが、手軽な集合住宅が建ち並んだイーストエンド側に住みつき、一帯の治安は悪化の一途を辿っていた。喧嘩や強盗も増えており、自警団であっても少数で動くと標的にされる可能性もある。
 さらには、夜になると娼婦が川沿いで客を引く姿が目に映り……。

 ジョエルはテムズ河沿いを南に向かって馬を走らせながら、対岸のイーストエンドにちらりと目をやる。
 あれは月のない夜だった。夜空にいるはずの女神が、突如、彼の前に現れたのだ。そんな十日前の夜を思い出していた――。

 

 ――不意に馬車のスピードが落ち、ジョエルの体に緊張が走った。
「ポール、どうした何か見えたか?」
 今夜は御者としてポールを連れて来ている。十六歳と若いが馬の扱いは慣れていた。
「あの……川岸に人影が見えます。女のようですけど……」
 遠慮がちなポールに、「どうせ娼婦だ。いちいち馬車を止めるんじゃない」きつい声で返事をしたのはジョエルの従者ヴァレットアシュリー・ワイアットだった。ジョエルより六歳年上で、父親が回した使用人だ。ジョエルの屋敷の執事バトラーも兼ねている。警戒に回るというジョエルを引きとめようとしたが……諦めて付いてきたのだった。
「いや、気になるな。降りてみよう」
「旦那様! このような場所で……危険です」
「なら、お前は馬車の中で待っていればいい」
 ジョエルは外套の下に帯びた細身の剣を手で押さえ、馬車から降りる。銃も使えるが、彼にはこちらのほうが手に馴染んでいた。一味も剣を使っていると聞き、銃は持って来なかった。
 ジョエルの後から不満顔のアシュリーも出て来た。アシュリーは手提げ式のランタンを持ち、ジョエルの前を照らす。ジョエルはいつでも抜けるよう剣を掴んだまま、人影に向かって歩いた。
「そこに居るのは誰だ?」
 ジョエルはわざと低い声で訊ねる。威嚇のつもりだ。アシュリーは腰が引けるのか中々前に出ず、人影のほうまでランタンの光が届かない。「――貸せ」ジョエルが短く言い、ランタンを取り上げ前に突き出した。すると、そこには額から血を流した女性がずぶ濡れで立っていたのだ。
「どうやら娼婦のようですね。何かの揉め事に巻き込まれたらしい。このまま放って行きましょう」
 アシュリーは一刻も早く立ち去りたいらしい。
 しかしジョエルは目を離すことも出来ないほど、その女性の姿に魅入られていた。

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