白き仮面の悪魔

プロローグ

 一八一四年二月ロンドン市内――

 真っ暗な空には月も星もなく、ガス灯に煙る夜の街をただ懸命に走っていた。
 初めて足を踏み入れたロンドンで、こんなことになるとは夢にも思わず。でも今は、そんなことを考えている場合じゃない。逃げなければ……何としても、奴らから逃げて誰かを呼んで来なくては。田舎と違い、ロンドンにはちゃんと治安を守るための自警団があると聞いている。一刻も早く助けを呼ばなくては、全てが手遅れになってしまう。
 薄茶色の外套マントが体に纏わりつき、おもりのように感じる。気取って皮のブーツなど履いてくるのではなかった。石畳の道は馬車で走るにはちょうど良いのかも知れない。でも硬い地面に足を取られ、私は何度も転びそうになった。
「見つけたぞーっ! 逃がすなーーっ!」
 気持ちばかりが焦る私の背後で男の声が上がった。
 奴らに追いつかれた。ということは、皆はどうなってしまったの? 私は考えるのが恐ろしく、ひたすら足を動かす。
 しかし石造りの橋に差し掛かった瞬間、「きゃあっ!」私は外套の裾を踏み、派手に転んでしまったのだ。
「へっ、手間を掛けさせやがって」
 重そうな革靴と、男の体をすっぽり包み込む黒い外套が目に入った。見上げると、白い奇妙な仮面を被った男が三人、私の周囲を取り囲んでいる。
 私は橋の欄干を背にゆっくりと立ち上がった。もう、逃げられない。全身に震えが走った時、男が手にした剥きだしの剣が、ガス灯の弱い光に照らされたのだ。それは真紅に染まっていた。同時に、彼らの白く無表情に見えた仮面にも赤い絵の具を散らしたような汚れがあり……。
 どうして、どうしてこんなことが出来るのだろう? 私たちは彼らに何もしていないのに。悔しさと悲しさで胸が熱い。呼吸すら燃えるようだ。
「この女は俺が貰うぞ。その約束だからな」
 一人の男が外套をひるがえし、私の手を掴んで引っ張る。
「いやです! 放してっ」
 連れて行かれるくらいなら、ここで殺されたほうがましだった。なぜなら、私には婚約者が決まっているのだから。こんな男たちの好きにされるなんて……こんな人殺したちの……。
 思い切り振り回した手が、男の仮面を叩く。その拍子に仮面が外れ、男の素顔が現れたのだ。
「あ……そんな……まさか」
 それは、思いもよらない人の顔だった。
 “彼”は顔を隠そうと咄嗟に私を突き放す。その反動でよろけながら、私は数歩後ろに下がった。
「どうして……どうして、わたしを……」
「クソッ!」
 汚い言葉を吐き捨てながら、“彼”は剣を振り上げ、私に向かって真っ直ぐに下ろした。
 刹那――目の前が真っ赤になり、頭が二つに切り裂かれた痛みを覚える。
「よせ、斬るな! 使い道は幾らでもあるんだぞ!」
 奴らの一人が“彼”に飛び掛った。その男は押し殺した声で“彼”を止めようとする。赤く染まる視界の端に、男の右手の甲に爛れた火傷の跡が映った。
「顔を見られたんだ! どっちみち生かしておくわけにはいかない!」
 仲間ともみ合いながら、私を見る“彼”の目が鈍く光る。
 逃げなくては。諦めては駄目よ。助けを呼ぶために私は逃げてきたのだから。
 半ば意識を失いつつ、懸命に欄干を掴み体を支えようとした。その時、血に濡れた手が滑り、私の体は欄干を乗り越えてしまう。
 ふわりと宙に浮いたのは一瞬、二月の冷たい風が頬を切り裂く。誰か、助けて……ああ、神様!
 祈りは届かず、私の体は吸い込まれるように、川面に向かって落ちて行った。

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