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弟矢 ―四神剣伝説―

第五十九話 嘘と真実

 細い月が雲に隠れた直後――塀の向こう側に蠢く影を見つけた。
 弓月の脳裏に先刻の夢が思い出される。
(ひょっとすれば乙矢たちが追いついたのかも知れない。あれは正夢だったのだ)
 淡い期待に弓月の心は急かされ、なんと裸足のまま庭を横切る。

 塀の外は急斜面の土手になっており、宿のすぐ横を川が流れていた。黒い人影はすぐ近くに見えたが、どうやら川の向こう岸らしい。川は夏で水が干上がっているのか、三尺あまりの幅しかなかった。その気になれば、女の弓月にも難なく飛び越えられる。土手の草むらのほうが広いくらいであった。
 その時、雲が切れ、隙間から射し込む月光にその横顔が浮かんだ。…… 一矢であった。
 落胆は隠せない。だが、こんな夜更けに何事であろう……そう思うと、自然に身体が動く。だが、そっと寝間を抜け出してきた手前、脇差すら持ってはいない。弓月は危険を承知で、そのまま一矢の後をつけたのだった。

 弓月が対岸に渡った時、すでに一矢の姿は見えなくなっていた。しかし、そのまま川上に向かったはずだ。気配を殺しながら川沿いを歩く。直に、弓月は森の入り口に辿り着いた。この辺り、と見当をつけて静かに木立を分け入り……。

「……うか。遂に……が神剣を抜いたか……」
 不意に聞こえた一矢の声に耳をすまそうとした時、弓月は後ろから羽交い絞めにされた。
 咄嗟に振り返り、相手の急所を狙おうとしたが、
「しっ! お静かに」
「……長瀬、どうして……」
「無茶が過ぎます。凪先生が知らせて下さった」
「すまぬ。だが……」

 風下に身を潜める二人の声は、一矢らには届いていないようだ。だが、一矢の向こうに見えた人影に、二人は息を呑んだ。それは紛れもなく蚩尤軍兵士の出で立ちに違いない。顔はうっすらとしか見えないが、どことなく一矢に似ている。
 やはり敵に通じていた。
 そう確信しつつも、逸る心を抑える。だが、次に聞こえた言葉に二人は凍りついた。
「では、間違いなく――織田正三郎は死んだのだな」
 弓月はあまりの衝撃に身体が揺れる。その瞬間、パキンと足元で小枝が折れた。

「誰だ!」
 誰何すいかしつつ振り返った時、一矢が掴んだのはやはり脇差の柄であった。
「おやおや……夜這いならこのような場所ではなく、部屋に来てくだされば良いものを。それとも、師範の一人と宿の外で密会ですかな」
 別段、慌てた様子もなく……むしろ、小馬鹿にしたような口ぶりだ。だが、弓月は一矢から視線を逸らさずに訊ねた。
「一矢殿。今の言葉、説明いただきたい」
「……夜這いの件なら閨でゆっくり」
「正三がどうした、と仰った?」

 既に両手を上げて刀から手を放した一矢とは対照的に、素早く、弓月は長瀬から脇差を借りた。柄に手を掛け、いつでも抜けるように握り締める。
 長瀬も同様だ。だが、彼の右腕――高円の里で正三に斬られた傷――はまだ完全に癒えてはいなかった。いや、ともすれば元通りにならぬ可能性もある、と凪に言われている。無論、弓月はそのことを聞かされてはいない。
「拙者にも聞かせて貰おう。正三のことだけでなく、新蔵に乙矢殿を追わせた訳も。そして……屋外で尚、刀ではなく脇差を抜こうとした理由も、でござる」

 何かの間違いに決まっている。
 だが、もし事実なら……相反する思いが弓月の心に渦巻く。このままでは、張り詰めた感情に翻弄され、擦り切れた糸のように千切れてしまいかねない。
 月の光も星の影も、弓月の瞳には映らなくなっていた。それは、空を覆う雲や、葉の生い茂った木々のせいだけではないだろう。
 硫黄の匂いを含む白い煙が、風に乗って森の中を揺蕩たゆたう。それはゆっくりと、弓月と一矢の間に流れ込んだ。

 わずかに風が揺れた。一矢が動いたからだ。腕を組み木にもたれ……余裕の表情である。
「何……私もたった今、知ったのだ。鬼になり損なった男が鬼に殺された、とな」
「なっ!」
 弓月は絶句した。

「嘘を吐け! 正三は、そう簡単にやられたりせぬ! 奴は遊馬師範の中で最強の剣士でござる!」
「いかにも、そうであろうな。織田を殺したのは……『青龍』を手に里に戻った乙矢だと言ったら?」
 これには長瀬も言葉が出ない。
 
 正三は、明らかに乙矢を買っていた。借りがある、と思っていたせいかも知れない。もし、それを利用されたら? 相手が乙矢なら、正三は黙って斬られる可能性もある。
 そこまで考えた時、弓月は頭を振った。
「馬鹿を言うなっ! 乙矢殿は鬼になどならない! 乙矢殿が正三を殺したりは――絶対にしない!」
 
 悲鳴にも似た魂の叫びが、深淵に沈み掛けた森を引き裂いた。それは、儚げな白煙など、一瞬でかき消してしまうかのように。

「織田正三郎を殺した鬼は、その場で首を刎ねられ、息絶えたそうだ。首を刎ねたのは……そなたが破門した桐原新蔵だ」
「うそ、だ……そんな」
 それ以上、弓月も長瀬も言葉が出ない。
 一矢は畳み掛けるように、
「桐原の生死は判らぬが、乙矢は総勢百は下らぬ兵士を里に呼び込んだようだ。いずれ、無事ではおるまい」
 
 静寂が周囲を包み込んだ。
 弓月より早く立ち直った長瀬が、別の方向から一矢を問い詰める。
「おぬしの後ろに立つのは蚩尤軍の兵士ではあるまいか? なぜ、そのような報告がおぬしにくるのだ」
「この男は、私が奴らの動向を知る為に送り込んだ間者だ。備前の代官所に報告に行くと抜け出し、知らせてくれた」
 スッと手を払うと兵士は闇に消えた。他に軍勢を引き連れている気配もない。何を信じれば良いのか……長瀬にも判らなくなる。だが、事実が何であれ弓月を守ることだけは、彼の中の真実なのだ。
 万に一つも、一矢の言う通りだとすれば……。正三と乙矢が死に、新蔵も生死不明なら、弓月を守れるのは自分と凪の二人のみということになる。

「それから……脇差を抜こうとしたのは、低木の近くで大刀を振り回すのは適さぬと思っただけだ。美作の関所と事情はなんら変わりない。弓月殿、これで判ったであろう? 乙矢は所詮、私のまがい物に過ぎぬ、と。これ以上、裏切り者に心を乱すのは止められることだ。――先に戻らせて頂く」
 何も言い返せぬ……茫然自失の弓月を残し、一矢は立ち去った。奴を警戒し、身構えていた長瀬は拍子抜けだ。


 弓月の心は混迷の只中にあった。
 乙矢が鬼となり正三を殺した? その乙矢の首を新蔵が刎ねた? 嘘だ、と思う反面、それは乙矢の意思ではなく、奴らによって鬼にされてしまったのかも知れない。里を出なければよかった。正三を置いて来なければよかった。新蔵を破門しなければ……何もかも、決断の全てが悔やまれる。
 もし、乙矢に二度と会えないのなら……。あの一矢や仮面の男を倒し、神剣を取り戻したとて、その先の人生に何の意味があるのだろう?
 皆で一緒に東国の領地に戻り、遊馬家を再興する。そして……弓月は乙矢に寄り添い、彼の子供を産んで、お互いが失った家族を手に入れるのだ。
 そんな僅かな未来への希望を失い……弓月はふらついた。踏み締めた足の下で、再び枝が折れる音が聞こえ――

「いやあぁぁぁっ!」
 
 ――その音と共に、弓月の心は、儚くも折れてしまったのだった。



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