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弟矢 ―四神剣伝説―

第五十八話 正三の約束

 厚い雲が空を覆い、足元を照らす一筋の灯りすら見つからない。そんな、長く忘れられたような山道を、弓月らは北上していた。
 そして、夜半を過ぎた頃、小さな集落に辿り着く。そこは、山間やまあいの僻地に作られた湯治場で、数軒ばかりの寂れた湯治宿があった。凪はその一軒を、一夜の宿に選んだのだった。
 
 道中、凪の表情から緊張の色が消えることはなかった。一矢に対して、あからさまな警戒を見せる。宿の部屋も弓月と同じにするくらいだ。叔父と姪とはいえ、望めば婚姻も認められる時代である。許婚のいる弓月が一矢を差し置き、凪と同室とは考えられない事態だ。さすがに、誤解を生まぬように、と、弥太吉も同じ部屋ではあるが……。それに、弥太吉が不満を唱えぬはずがない。

「変ですよ、凪先生。先生は宗主にはなられないと仰ったはずなのに……。許婚の一矢さまがおいでなのに、姫さまと相部屋なんて」
「弥太、許婚と夫は同じではないのだ。祝言も挙げずに、相部屋は認められない。私とは血縁もあるし、誤解を生まぬためにお前も一緒ではないか。――それとも、一矢どのに何か言われたのかい?」
 凪は静かな口調で……且つ探るように、弥太吉に問い掛ける。
「いえ、別に……ただ、おいらには、伝説の勇者さまに逆らう先生のお気持ちが判りません。全部お任せして、本当は先生も、織田さんと一緒に里に残られたほうが良かったんじゃないかと思っただけです」

 これまで、凪の言葉に逆らったことなどなかった弥太吉である。それが、最近では弓月のことすら軽んじるようになってしまった。里を出て、長瀬はだいぶ以前に戻りつつある。だが、この弥太吉の様子には変化がない。信頼や尊敬を餌に少年の心を虜にしたのか、それとも『神剣の鬼』は伝説では計り知れない、不思議な力を秘めているのか……。
 里を発つとき、正三にくどい程、一矢と弓月を二人きりにはしないで欲しい、と頼まれた。正三の心配は痛いほど判る。だが、今の事態は凪にとっても、不測の事態であった。
 本心を言えば、勇者である一矢との再会が果たせしだい……弓月が望めば、だが……すぐにも仮祝言を挙げて、夫婦の契りを交わしたほうが良い、とすら考えていた。
 しかし、あの一矢に弓月は託せない。
 正気に戻った新蔵が乙矢と共に、里に残った正三と合流し、一刻も早く追いついてくれること。それだけが、凪の願いであった。


 そこは八畳ほどの部屋であった。真ん中に衝立を置き、弓月は与えられた寝間に横になる。
(……疲れた)
 休まねば、と思うほどに目が冴え、弓月の神経を苛立たせた。目を瞑り、強引に意識を夜の闇に誘うのだが……小さな咳払い、寝返りの音、果ては羽虫の音すら気になり、結局、わずかな眠りすら弓月には訪れなかった。
 
 一矢と旅して二日目。気の休まる暇がない。
 凪には凪の思惑があり、こうして従っているのだろうが……。この湯治場に宿を取ろうと言い出し、道に迷ったと告げて、宿の者に頼み込んだのも凪であった。
「休める時に休む必要があります。この先は、仮寝の宿となるでしょう。南国での隠れ里など、誰も判らぬのですから。違いますか、一矢どの?」
 凪の言葉に、一矢も異を唱えなかった。
 無論、弓月にも凪の思惑くらいは読める。いずれ時間稼ぎであろう、と。だが、ならば一矢に追従するよりさっさと決別して引き返せば良い、と思う。
(こんな所で、呑気に寝ている場合ではないのに……)
 ――焦燥感が彼女の身体を駆け巡っていた。
 
 弓月は強引に目を瞑った。思い浮かぶのは乙矢のことばかりだ。
 乙矢は誠実で優しく、弓月の話を良く聞いてくれた。口は悪いが、決して本気で怒ることはなく……一途に兄を信じ続けていた。その兄が勇者でないと知ればどうだろうか?
 美作の関所で、弓月も一矢が勇者ではないと薄々感づいていた。だが、凪と違うのは、彼女は、一矢に長刀は抜けないのだ、と思った。それが『青龍』でないことは判る。なら、他のどれであっても、抜けば『神剣の鬼』となる。
 だから――抜けない。
 確かに、神剣を持つ一矢の本性が気にならないと言えば嘘だ。しかし、それ以前に、乙矢の無実の罪を晴らすほうが先決であろう。 
 乙矢は傷つき、倒れてばかりいたが、今は無事だろうか? 新蔵は、乙矢とぶつからずに連れ帰ってくれるだろうか? 何処にいても弓月に危機が迫れば助けに来る、と乙矢は言った。今の弓月にとって、その言葉は最後の拠り所……心の糧、となっていたのだった。
 加えて、凪と違い、弓月には里に残してきた正三の身も気になった。だが、まさか一矢の目的が、最初から正三とおきみの命であることなど、知ろうはずもなかったのである。
 

〜*〜*〜*〜*〜


「弓月どの。綺麗にお仕度が出来ましたよ」
 不意に、義姉上あねうえの声が耳に響いた。
 確か、一年と少し前……そう、結納の日の華やいだ声だ。義姉は母のいない弓月の母代わりとなり、悪阻つわりを堪えて、仕度に奔走してくれた。
「ほう、馬子にも衣装とはよく言ったものだ」
 いつも兄の満はそう言って弓月をからかう。父上などは「満と弓月の性格が逆であれば」などと、こぼす事もあったが。さりとて、遊馬の後継者として、満は過不足のない人物であった。
「おお、重畳ちょうじょう、重畳。文句なく、勇者殿に相応しい花嫁じゃ」
 続けて父上の嬉しそうな声も聞こえる。

(花嫁? 今日は結納の日であるのに……)

 疑問を口にする暇もなく、義姉に手を取られ弓月は立ち上がった。
 すると、なんと裾を引くような、紅裏白綸子もみうらしろりんずの打ち掛けを着ているではないか。慌てて、義姉の持つ手鏡に我が身を映せば……そこには白練しろねりの俗に言う綿帽子を被った弓月がいた。
 これは、結納ではない。まさしく婚礼衣装だ。
「さあ、弓月どの、お婿さまがお待ちですよ」
 これ以上なく幸福そうに微笑む義姉上に、何かの間違いだ、とは言えず……。
 弓月は長い廊下を歩かされた。はたして、屋敷内にこれほど長い廊下があっただろうか? 東国に領地はあるものの、所詮旗本。大名のように城住まいと言うわけではない。無論、家格は神剣を守護する四天王家として別格の扱いではあったが、生活は質素で庶民となんら変わりないものだった。

(一体、どうなってるのだろう? 私は夢を見ているのだろうか?)

 弓月がそう思い始めた時、目の前に現れた大きな襖がいきなり開いた。その正面に、正装のかみしもを着た若侍が立っている。花婿に違いないだろう。弓月は、その男を一矢だと思い、なぜ祝言になったのか聞こうとした。だが、振り返った姿は――
「弓月殿。お待たせ致しました」
 柔らかな声も、温かな笑顔も、弓月が間違えるわけがない……乙矢だ。
 
 弓月の瞳は一瞬で熱くなる。そのまま、乙矢の元に駆け寄ろうとした時、後ろから弓月を呼ぶ声が聞こえた。
「弓月殿……」
 襖の向こう、廊下の中央に立っていたのは正三だ。
「弓月殿……」
 もう一度呼んだ。正三に名前で呼ばれたのは何年ぶりであろう。子供の頃は名前で呼んでいたはずなのに、気がつけば「姫様」と呼ぶようになっていた。元々、細かい所に気の回る弓月ではない。正三の気に入るように呼べば良いと思っていたが……。ひょっとすれば、意味のあることだったのかも知れない。
「弓月殿……確かに、乙矢殿をお連れ致しました」
 正三はそう言うと静かに微笑み――


〜*〜*〜*〜*〜


「正三?」
 どうやら、浅い眠りについていたらしい。耳に正三の声が残っている。
 弓月はそっと起き上がり、凪らを起こさぬように廊下に出た。――細く、頼りない月の光が宿の中庭に差し込んでいた。雲が風で流れたらしい。夏の夜風に運ばれた湯治場独特の硫黄の匂いが、寝起きの鼻孔をくすぐった。
 低い塀の向こうを見つめ、弓月はもう一度その名を呼んだ。
「正三……」

 ――それは、二度とは戻らぬ、問い掛けであるとは知らずに。


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