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弟矢 ―四神剣伝説―

第三十九話 新蔵に憑いた鬼

 新蔵は、崖から落ちる、という初めての体験に、必死で右手を伸ばした。その手は、斜面に生えた低木の枝葉を掴む。細身の枝は限界までしなり、彼の期待に応えようとしたが……。新蔵は、右腕に掛かる負担に堪え切れず、慌てて左手も追加した。――その時、一矢から渡された脇差は渓谷を目指し、悲鳴にも似た反響音を残して消えて行く。
 軽く舌打ちするが――この状況なら、そう遠くない未来に再び会えるだろう。枝ではなく、せめて幹に掴まろうと伸ばした左手は、敢え無く空を切る。同時に、右の手の平から、救いの枝もするりと抜け、
(――駄目か)
 新蔵が覚悟を決めた瞬間、ガクン、と急制動が掛かった。
 脇差を捨て、差し出した手が掴んだものは、乙矢の手であった。

「は、はやく……上がれ」
 乙矢は咄嗟に新蔵目掛けて飛びついた。ぎりぎりまで崖から身を乗り出し、寸での所で奴の左腕を掴む。
「馬鹿野郎、誰が貴様に助けてくれと……」
「馬鹿はどっちだ! 落ちたら死ぬぞっ! どうせ死ぬなら弓月殿のために死ねよっ!」
「……くっ」
 新蔵はあまりの悔しさに口唇を歪めた。
「く……そぅ。早く、上がってくれ……肩が持たねぇ」
 急なことで差し出したのは傷を負った左手だった。痛みが増し、肩が痺れる。だが、乙矢は渾身の力で新蔵を引き上げ、二人は崖の上に転がり込んだ。
 乙矢は左腕を擦りながら、肩で息を吐く。

 カチャ……
 ハッとして振り返ると切っ先が乙矢の喉元に突きつけられた。
 新蔵が、長刀を抜いたのだ。
 乙矢は、いい加減逃げる気にもならず、天を仰いだ。
「好きにしろよ。でも、これだけは言っとくぜ。俺がこの手で殺めたのは、弓月殿を狙った蚩尤軍の兵士だけだ」
「嘘を吐くな! お前でなければ誰だと言うんだ? お前が姿を消した夜に二人は斬られ『青龍』が奪われたんだぞ!」

 乙矢はハッとした。
 落ちる前と後で、なぜか新蔵の言葉に温度差があった。そのまま、わざとらしく、喧嘩腰で挑発してみる。
「じゃあ、その『青龍』は何処にあるんだ? ふんどしの中まで調べてみるか!?」
「それは……もう、連中に渡したに決まっている」
「だったら奴らの目につかないように、山道、しかも獣道なんか通るかよっ!」
「それは……」
「それに、その二人は斬られたと言ったな。――丸腰の俺にどうやったら人が斬れるんだ? 教えてくれよ」
「そ、れは……そうだ、『青龍』だ。お前『青龍』を使ってただろう。きっと持ち出した神剣で見張りを……あれ?」
「それって順番逆じゃねえか?」
「……」
 新蔵は、自分で自分の言ってることの矛盾に気付き、言葉に詰まった。
 乙矢はそのまま、地面の上にどっかと腰を下ろし、胡坐を掻いて座り込む。どうやら、いつも通りの猪野郎に戻りつつあるようだ。崖っぷちの朝もやが晴れると同時に、新蔵の胸を覆った煙幕も消えつつあった。
 
「なあ、ちっとは落ち着けよ。武器庫を見張ってた里人が二人殺されたんだな? それで『青龍』一対が盗まれた。盗まれたのはそれだけか?」
「あ、ああ……高円の武器庫は派手に吹き飛ばしたからな。あんな鄙びた里に、ろくな武器があるわけないだろ」
「新蔵、もし俺が、『青龍』を抜いて里人を斬ったんなら、俺は今頃、鬼になって暴れてないか? それに……なんで俺が爾志の領地に戻ろうとしてるって判ったんだ?」
「そ、それは、一矢様が……」
 口に出した瞬間、ハッとした顔で新蔵は乙矢を見た。一矢の言葉が脳裏を過ぎり、そのまま慌てて視線を逸らす、が……後の祭りだ。
「一矢が……教えたんだな? まさか、一矢に言われてお前は……俺を斬りに来たのか?」
 乙矢の中に沸き起こる「まさか」という気持ちの奥から、「やはり」という声が聞こえた。
 自分は、それほどまでに、一矢に疎まれているのか? 八年前のあの夜から、笑顔の裏に見え隠れする狂気に、乙矢は目を瞑り続けてきた。どうやら、そのツケを支払う時が来てしまったのかも知れない。
 だが、一矢が勇者でいてくれるなら、弓月殿を守り、一門の復興を叶えてくれるなら、代償に自分の命を差し出すくらい訳はない。元々その為に、醜態を晒してまで永らえた命だ。
 
「いや、あの……俺は……俺は、なんでここにいるんだ?」
 そんな乙矢の深刻さとは逆に、曇りの晴れた新蔵の心には疑問ばかりが浮かび上がってきた。
「お前なぁ――聞いてることに答えろよ。一矢が俺を殺せって言ったのか?」
 新蔵には、あの一矢の囁きが、夢かうつつか、判らなくなって来ていた。あの時の一矢の言葉は、全て自分が予てより聞きたかったものだ。その為には、乙矢を殺して当然と思っていたのは……何故だろう。そして、何より弓月様を守らねばならない自分が、お傍を離れてまで乙矢を殺しに来たのは……。
 ――ガチャン。
 新蔵は、手にした刀を地面に落とすと、乙矢同様、その場にヘタリ込んだ。
 何をしていたのか、何がしたかったのか……自らに問い掛けるが何も答えが見つからない。
「お前は……裏切り者で……敵だって言われた気がする。よく判らん。俺は何をしてるんだ」

 一瞬、乙矢の背に、ゾワゾワした得体の知れぬ感覚が甦った。背中を毛虫が這い回るかのような感覚に不快感を拭えない。神剣を手にした正三が口の中で唱え続けていた――『斬れ……敵だ。斬らねばならない』あの言葉を聞いた時と同じものを乙矢は感じる。

「なあ、落ちかけて頭でも打ったか? それとも……お前、あの脇」
 新蔵はハッとして、乙矢の質問を遮った。
「乙矢……お前、なぜ俺を助けた?」
「へ?」
「俺はお前を殺そうとしたんだぞ。それを……」
「さぁ……よく判んねぇけど。目の前で人が落ちかけたら、手ぇ出すだろ? お前がどう思ってるかはともかく、俺は別にお前に恨みはないし……。それに、お前が死んだら弓月殿が泣くだろ?」
 弓月の名をボソッと言われ、新蔵は様々なことを思い出し始める。
「あっ!」
「今度はなんだっ!?」
「俺は、弓月様を怒らせて……破門になったんだ」
「はぁ? 何で?」
「お前と弓月様が、その……深い仲だろう、というようなことを言ってだな」
「ふっ、深いって! 深いも浅いも、そんな……」
「なんで弓月様に向かってあんなことを言ったんだ! 俺は……なんで、あんな」
 顔面蒼白になり、突如アタフタし始める。
「なんか知らんが……憑き物が落ちたって感じだな。で、俺のことはもう殺さないのか?」
「殺すも殺さんも……刀を持たぬお前に里人は斬れんし、第一『青龍』はどこにもない。きっと何かの間違いなんだ。あの少女が見間違ったんだろう……それを一矢様が、身内で始末をつけようと、あんな馬鹿げた命令を……。ああっ! 一矢様から渡された刀を崖下に落としてしまった。どうすれば」
 新蔵は立て続けに、乙矢が気になる言葉を口にした。慌てて、確認しようとするが……。
「な、なあ……誰が何を見間違ったって言うんだ? それに、あの脇差……あれは一矢がお前に託したのか? それって」

 その時、背後の森から聞こえていた規則正しい四十雀しじゅうからの鳴き声がピタッと止んだ。清々しい朝の空気には不釣合いな複数の殺気に、乙矢と新蔵は瞬時に身を起こす。片膝を立てた状態で、慎重に辺りの気配を窺った。
「乙矢」
「判ってる」
 短く言葉を交わした時、青葉を揺さぶり森を離れようとする野鳥の羽ばたきが聞こえた。まるで、船倉から逃げ出す鼠のようだ。直後、二人の眼前に蚩尤軍の兵士二十名ほどが姿を現したのだった。


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