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弟矢 ―四神剣伝説―

第三十六話 疑惑の勇者

 一矢の指が首に回った瞬間、その手は弓月の身体から引き剥がされた。反動で、弓月は前のめりに倒れ込み、地面に両手を突く。
「姫様っ! 大丈夫でございますか!?」
 その声は正三だった。
「しょう……ざ。あ……ああ、大丈夫だ」
 声が震えて膝に力が入らない。弓月は両手で胸元を隠すようにして、座り込んだまま震えていた。

「一矢殿……これは一体、何の真似でしょう? 我らの姫様に何をなさったのか、あなたは、判っておられるのか?」
 正三は弓月を庇うように前に立った。本来の彼が持つ、激情を押し殺した声で一矢を責め……真正面から睨み合う形になった。
「聞かずとも判ろうものだ。夫婦同然の男女の睦み合いだ。邪魔を致すな」
「姫様は許婚であって、おぬしの妻ではない! 祝言も待たず、日の高いうちから、しかも、このような場所で……女子の身体に触れるなど、勇者にあるまじき行いではないかっ!」
 しかし、一矢は、そんな正三を鼻で笑うと、彼がぶつけた怒りを軽く受け流した。
「妻となる女の身体を検分したまでだ。すでに……男を知った可能性もあるのでな」
 弓月は悔しさに顔を真っ赤にした。しかし、身体が震えて言葉が出ない。怯えた弓月の姿に、正三は今にも爆発しそうな怒りを、渾身の力で抑える。
「姫様は、私が連れて参ります」
 そう告げると、返事を待たず弓月を抱き上げた。だが、そんな正三の背に、
「待て。それは刀に賭けても、か?」
 一矢の冷ややかな問いに、正三は小揺るぎもせず答える。
「はい」
 周囲の空気が流れを止め、膠着したまま時間が止まった。それは里だけでなく、まるで、山全体が呼吸すら忘れたかのようだ。息苦しさの中、口を開いたのは正三だった。
「一矢殿にお聞きする。今しがた、姫様の首に手を掛けておられなんだか? お答えいただこう」
「気の、せいであろう」
「……そうですか。では」
 正三は弓月を抱えたまま、軽く一礼し、立ち去ったのだった。


「姫様……大丈夫でございますか?」
「ああ、すまない。このような時に……情けない」
 まずは凪の元に、と考えたが、弓月がそれを嫌がった。
 そして、弓月の希望で、二人は里の端に流れる小川のほとりまで来ていた。水辺に屈み、手ぬぐいを浸して、弓月は丁寧に身体を拭って行く。一矢の指の感触を、一刻も早く消し去りたかったのだ。本音を言えば、すぐにも川に飛び込み、全てを洗い流したかったほどである。その、乙女らしい潔癖さを、正三は理解して優先させたのだった。
 他の者が来ないように、と正三は土手の上に、弓月に背中を向けて立っている。
「もう、大丈夫だ。正三。すまなかった」
 着衣を整え、何もなかったかのように振舞う弓月が痛々しい。
「大事がなくて何よりでした。……しかし、何ゆえあのような男が神剣の持ち主なのか。私には納得が行きませぬ!」
 珍しく、正三の声は怒気を含んでいた。当然だろう。あれが一矢でなければ、足腰が立たぬようになるまで、数十発は殴りつけていたはずだ。
「正三……一矢殿の言うことは嘘です。乙矢殿は……私の手が触れることさえ、拒まれておいででした。人の道に外れるような行いはなさってはおりません。あんな……あのような真似は」
「判っております。奴は、頼りなげに見えて、女子の扱いは心得ておりました。その辺り、よほど新蔵などより、自制心をお持ちの方です」
「なぜ……なぜなのです? 何ゆえ、あの乙矢殿が、裏切り者、愚か者と呼ばれるのか? そして、一矢殿が勇者として神剣に選ばれるのか? 私には判りません。――四神剣の伝説を、信じられなくなりそうです」
 弓月は、一矢に簡単に組み伏せられてしまった己の力のなさを嘆いた。それと同時に、長く心酔してきた伝説に、疑いすら持ち始めていたのだった。


〜*〜*〜*〜*〜


 里で起こった事件も、弓月の身に危険が迫っていることも知らず。乙矢は、来た道ではなく、高円の里を東に折れ、そのまま爾志家の領地に戻ろうとしていた。
 そこで、一矢が決着をつけるまで身を潜める……全てが終われば、そのまま領地も出奔し、爾志の名も捨てよう。そうなれば、もう追われることもない。蚩尤軍が付けた偽りの罪状も撤回されるだろう。
 しかし、何度振り払っても、弓月の姿が脳裏に焼きついて離れない。
 所詮、兄嫁と決まった女性だ。天道に背くわけにも、神剣に選ばれた勇者を敵に回すわけにもいかない。そう自らに言い聞かす。物心ついたときから、まず、諦めることが乙矢の人生だった。今更、一つや二つ忘れることが増えても大したことではない。

 だが、そう考えるたび、弓月の姿が浮かび上がり……乙矢の胸の内は、堂々巡りを繰り返すのであった。


〜*〜*〜*〜*〜


 その夜、里の中心に置かれた寺の本堂に、里人を始め全員が集められた。今度は満座の席で、弓月は一矢と対面していた。
 前夜まで、自然と一矢の隣に用意されていた席が……今夜は、一矢の正面に凪が、弓月はその隣に座っていた。

「正三を置いて行く、とは――何ゆえです!」
「我らは蚩尤軍の気を引き、里人の安全を図らねばならない。乙矢……いや、『青龍』を強奪した下手人があれを抱え込む訳はない。剣は既に、蚩尤軍に渡ったと考えたほうがいいであろう。奴らの手元には『青龍』が二本ともあるのだ。一度でも鬼と化した者を連れて行くわけにはいかぬ。それとも……弓月殿は鬼となっても自分を守れと師範らに命じられますか?」
「そうではありません。しかし……新蔵が乙矢殿を追い、正三まで置いていくとなると……」
「心配せずとも、そなたの身は許婚たる私が守ろう」
「……」
 咄嗟に、昼間のことを思い出す。弓月の首筋に、一矢に押し付けられた唇の気色悪さが甦った。女は、一度嫌悪を感じてしまうと、最早、その男の全てが不快なものでしかない。弓月は身を竦ませ、白くなるほど指を握り締めた。


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