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弟矢 ―四神剣伝説―

第三十三話 小さな亀裂

 一矢の言葉に、周囲に激震が走る。
「嘘です! 乙矢殿はそんな方ではない!」
「無論、奴は悪人ではない。だが……心が弱い。戦いからも神剣の宿命からも奴はずっと逃げたがっていた。無論、父や母の死までも願っていたわけではないだろう。だが……奴の愚かさが爾志の一門を破滅に導いた。私は奴を赦したが……また臆病者の本性が顔を現したかも知れぬ」
 その姿は、どう見ても弟に愚行に心を痛める兄の表情であった。
「そんな……そんなことは信じられません。私は」
「乙矢が認めたのだ。私に縋り、泣いて詫びた。だから、里を出るように言った。爾志家の領地に戻るよう……全てが終わるまで、身を隠すように言ったのだ。すまない。まさか、こんな真似をするとは思わなかった……」
 弓月の顔から色が無くなり、今にも崩れ落ちそうだ。

「では……乙矢は『青龍』一対を手に、蚩尤軍に走ったというのか?」
 長瀬は誰に問うでもなく、呆然と独り言のように呟いた。
「だから、奴を信用してはならぬと言ったのだ! 奴は元々、蚩尤軍に通じていたに決まってる。だからこそ、高円の里が襲われ村人が捕らわれた! ここも直に奴らに伝わる。一刻も早く出立せねば!」
 新蔵の中の、乙矢を認め始めていた心は、まるで暗幕に覆われたように見えなくなった。逆に、新蔵の胸には、弓月の心を奪った乙矢憎しの感情がこみ上げて来る。それは、正三に刃を向けた自責の念から、生み出された感情でもあった。
「すまぬ。全ては私の責任。乙矢の考えを見抜けなかった……私の罪だ」
 里人の、乙矢に対する赦し難い思いが、見る見るうちに膨らんでくる。もし、ここに乙矢が舞い戻れば……袋叩きにでも遭いそうな様相である。とくに新蔵の言葉――高円の里が襲われたのは、乙矢が里の場所を漏らしたからだ。その疑惑は何の証拠もなしに、里人の心に浸透しつつあった。
 
「確かに乙矢殿は、勇者の血にも神剣の力にも何の意義も持ってはおられなかった。命懸けで守る意味などない、と……欲しい奴にくれてやれとも、言ってましたね」
 突如、皆の後方から、声が上がる。
 声の主は正三であった。彼はあの日以来、部屋に籠もりきりで全く姿を現さずにいた。乙矢に自害を阻まれ、考え直した結果、弓月に、鬼となり同胞に斬りかかったのは事実であるから、どんな処分も受ける、と伝えたのだった。
 弓月は久しぶりに人前に出た正三にホッとしつつ……それでいて、皆と正三の間に生まれた、微妙な亀裂を感じ取っていた。彼らは、鬼となり斬りかかった正三の姿を忘れられずにいるのだ。神剣の勇者に対する憧憬とともに、鬼に対する恐怖が彼らの潜在意識の中に刷り込まれていたせいでもあった。

「織田……正三郎だったな。おぬしは部屋から出ぬように言ってあったはずだが」
 弓月の目に、一矢はまるで正三のことを警戒しているように映った。凪の見解では、神剣を手に一度は鬼に心を囚われたことを案じているのだろう、と言っていたが……。
「織田さん。奴はやっぱり裏切り者だったんです。『白虎』を盗んだのも奴だったんですよ。今も、蚩尤軍に通じているに決まってる。『青龍』を手に、奴は連中の元に逃げ込んだんだ!」
「覚えているか? 『刀を取って戦わないと生きる価値もないのか?』――初めて会った夜に奴はそう言った。弱い人間は、刃向かっても腹を見せても、どのみち殺される、と。彼は自分の弱さを知っていて、敢えて、腹を見せることを選んだ。その乙矢殿が、震える手で剣を握り、襲い掛かる敵に、頼むから逃げてくれと言いながら斬った。――お伺いしますが、長瀬殿。あなたは、敵を斬ることに躊躇いはありますか?」
「いや、そのようなものはない!……それが、我らの役目だ」
 当然のように長瀬は答える。
「そうです。一人で五人斬り、十人の敵を殺せば、それは我らにとって名誉なこと。――だが、乙矢殿は違う。震えるほどの恐怖を抱え、それでも尚、丸腰で鬼と化した私の前に立ちました。それも、私を倒すためではなく、救うために。私は乙矢殿ほど強い精神力の持ち主は知らぬ。彼の心は計り知れぬほど器が広く、底知れぬ優しさを秘めています」
 そんな正三の言葉に、胸の底から熱いものが込み上げて来る。弓月は、即座に同意したかった。しかし、そんな彼女を阻むように、辺りに嘲笑が響く。それは、一矢であった。
「なるほど……我が命を救ってくれた恩人、というわけか。――たわけ者がっ! 一度は鬼に身を堕とし、宗主の姫君に斬りかかった貴様の言葉に耳を貸せるか!」
「お待ちください。正三は我らを救うため、青龍を抜いたのです。それを」
 正三を擁護する弓月の言葉を、一矢は簡単に制した。
「結果、鬼になったのでは意味がなかろう? 私は、努力や経過など認めない。戦いは、勝つか、負けるか、だ」
 一矢はそう言い放った。
 
「しかし、鬼と化す危険を恐れず、神剣を抜く者にのみ、勇者となる資格が与えられるのではありますまいか?」
 それまで無言で立っていた凪が、静かに答える。
 一矢はそんな凪にも理路整然と言い返した。
「よかろう。では、乙矢が里を出た夜に、武器庫が襲われ、見張りが殺された。そして、神剣も奪われてしまったのだ。あの少女は私の顔を指差した。考えたくはないが、それが事実ではないのか?」
 
 その時、弓月は嫌なことを思い出していた。高円の里に向かう途中で、弓月が父の最期を話した時、乙矢は――「こんな剣なくなったほうが良いとは思わないか?」と、尋ねた。それは、まさか……。
 絶対に乙矢ではない、と思う反面、弓月を思ってのことではないか? とも考えてしまう。
 まるで、里人の不安や焦燥感が、徐々に弓月まで伝染してしまったかのようだ。
「数日中に、双頭の龍を携えた鬼が我らを襲うことになるやも知れぬ。私は、それが乙矢でないことを心の底から願っている」
 そんな一言を残し、一矢は身を翻したのだった。


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