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弟矢 ―四神剣伝説―

第二話 乙矢―おとや―

 不意に、海に叩き込まれたかのような錯覚に、乙矢は目を開けた。
 
「いいかげんに目を開けやがれ、この、クソガキ!」
 その台詞と同時に、桶が飛んできた。乙矢はそれを頬で受け、皮膚が裂ける。俯く顎の先から水滴に混じって、血が滴り落ちた。後ろ手に縛られているので、ほとんど身動きが取れないのだ。
 どうやら、そこは海ではなかった。頭から水を掛けられたらしい。彼はようやく、自分の置かれてる状況を思い出した。
 
 ここは西国の、街道沿いにある宿場町だ。女郎宿が並ぶ路地裏で、乙矢は数人の男たちに袋叩きに遭っていた。その衝撃で、一瞬意識が飛んだらしい。
 ――夢を見ていた。妙になつかしい、息苦しい記憶が、昨日のことのように甦り、乙矢は顔をしかめる。

「いいかぁ、坊主。今度、ピンハネしやがったら、こんなもんじゃすまねえぞ。いいなっ!」
 そう言いながらも、男たちは、乙矢を代わる代わる蹴りつけた。着物は泥と血で汚れ、ぼろぼろだ。散々甚振り抜いて、やっと乙矢を開放してくれた。
 男たちが立ち去った後、乙矢の元に女が駆け寄る。

「ごめんよ乙矢さん。あたしのせいで……」
 薄い襦袢一枚の姿は、どこから見ても女郎だ。
 乙矢は宿場女郎の最下層、舟女郎の面倒を任されていた。女郎から上がりの半分を巻き上げる。それを宿場の元締めである、地回りの連中に渡すのだが……。

「あんたがハネたんじゃない。あたしが嘘をついたんだって、言っても良かったんだ。それなのに……」
「もう、いいよ。別に、どうってことねえし」
「だけど……」
「礼なら、体で返してくれたらいいから、さ。また、やろうぜ」
 乙矢は彼女の手を借りて立ち上がりながら、その尻を撫で上げた。
「やだ、もう……こんだけ殴られても、ホント、元気だよねぇ」
 女郎も、思わせぶりな微笑で返したのだった。


 乙矢の寝床は、川岸に打ち上げられた屋形船の残骸だ。かろうじて屋根はある。雨露さえ凌げれば、贅沢を言っている場合ではない。
 川の水で泥をサッと洗い流すと、次は手ぬぐいを濡らし傷を拭っていった。その体躯は少年のものではないが、大人の男とも言い難い。泥に汚れていても、若竹のような瑞々しさを持っている。無造作に伸びた髪が肩に掛かり……昼間は邪魔にならない程度に括っているが、今は乱れたままであった。

 季節はもうすぐ夏に向かう。乙矢はほんの数週間前、十八になった。一人で迎えた初めての誕生日だ。

「痛っつ……くそったれ」
 悪態を吐く乙矢の後ろから、一人の老婆が近づき、声を掛ける。

「なんだい、舟女郎の客数をごまかしてたのがばれたのかい?」
「……っるせえ」
「ドンくさい坊やだねぇ。ああ……そうだ、あんた『かずや』って兄貴はいるかい?」
 一瞬で乙矢の顔色が変わった!

「なんか妙な男どもがあんたのこと聞きに来てたよ。知らないって言っといたけどね」
「あ、ああ……そう、か。悪いな……お六ばあさん、世話になったが、俺、宿場を出るわ」
「出たって同じことじゃないのかい? お前さん、一生逃げ続ける気かい?」
 お六の質問に、乙矢は苦々しげに顔を歪めた。

「あいにくと、それほど長い一生にはなんねえよ。棺桶に、片足突っ込んでるようなもんだからな」
「おゆきちゃんが泣くよ」
「そんな湿っぽい仲じゃねえさ」
 乙矢が庇った女郎の名だ。三ヶ月前、この宿場に流れ着いた時、乙矢を拾って食わせてくれた女だ。二十歳を過ぎた辺りだろうか、物心ついた時から、春を売って生計を立てているという。
 お六は誤解している……乙矢がおゆきを庇ったことに、好いた惚れたの感情はない。ただ、ぶちのめされて、いっそスッパリ殺されたら楽になれるんじゃねえか、などと考えただけだった。

「乙矢、あんたが何処の何もんで、何をやらかして追われてるのか知らないけど……地回りのやくざ連中に、足蹴にされる男には見えないんだけどねぇ」
 乙矢は軽く首を振った。

「俺は何もしてねえよ。だから、生かされてる。別に、奴らから逃げてるわけじゃねえ。俺が生きてる限り、どっかで無事だと判るんだ。みんな死んじまったら、俺も殺されるはずだからな。俺の罪は、何もしなかったことだよ」
 お六はポカンと口を開けたままだ。

「なんだか禅問答みたいで、良く判らないねぇ」
 背を向けた乙矢に耳に、お六がブツブツ言ってるのが聞こえた。

 些細な怪我にふらついてる場合じゃない。もし、あの連中なら……見つかれば厄介なことになる。川面を吹き抜ける風は生暖かく、過分な湿気を含んでいた。妙な気配は感じるが、それは一年前のあの日からずっとだ。だが、今夜の視線は少し違う気もする。

「……血生臭いのは勘弁してくれよ」
 纏めるような荷物はないが、逃げるにも多少の路銀はいる。乙矢は、ねぐらにしている屋形船に立ち寄った。大急ぎで痕跡を消し、風呂敷包みを一つ掴んで外に出た瞬間――乙矢の目の前に、刀の切っ先が突きつけられたのだった!


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